島風の唄   作:月日星夜(木端妖精)

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第六話 決めろ必殺、シマカゼキック!

 傷を治している最中の彼女の苦しみようは凄まじいものがあった。

 顔を強張らせ、身を捩り、力いっぱい布を握り締めて呻く姿に、何度も顔を逸らしてしまいそうになった。

 途中で彼女が水を吐き出して咳き込んだので、それに手間取りつつ対応し、彼女の寝床を移した。さすがに吐いた水が染みた布の上では寝させられない。

 

 痛々しさが心を委縮させる。治療の手を止めようとする。

 スライムをそのまま使っているからこんなにも苦しむかと思ったけど、そうではなかった。

 スライムを溶かした青色の水を使っても、彼女は同じように苦しんだ。

 どうせ同じなら、効果の強いものを使ってさっさと終わらせてあげた方が良い。

 妖精さん達が彼女へ呼びかける、そういった意思を視界の端に、横腹についた痣などにスライムを擦り込んで、治していった。

 それが終わったのは、およそ一時間ほど経った頃だった。

 

「……いちおう、傷はなくなったけど」

 

 上げていた腰を戻し、誰にともなく呟けば、『感謝します』と妖精さん。なんとなく手の平に目を落とす。手袋をはめたまま長時間スライムに触れていたせいか、湿っていた。

 

「…………」

 

 彼女達の意思に答えないまま、乾いた布を取りに行く。

 雑多な物の中に潜む布を引っ張り出せば、ずるずると重い鋼材モドキが転がり落ちた。

 布切れは、これが最後の一枚。

 こんなに使うなんて予想していなかったから、時折見つけても、これ以上は要らないと拾ってなかった。

 ……もっとたくさん拾っておけばよかったな。剥き出しの地面を見ながらそう思った。

 

「ぅ、ふっ……! ぅ……!」

 

 僅かに口を開けて呼吸している朝潮の横に座り、前と同じように体を拭いた。擦り込んだスライムと汗を除くためだ。

 

「うっ!?」

 

 無心で手を動かしていれば、がしりと腕を握られた。ぎりぎりと万力のような力で締め上げてくるのに思わず顔を歪めてしまう。

 千切れる千切れる、と痛みに悶えはするものの、無意識にそうしているであろう彼女の腕を無理矢理引き剥がすのには抵抗があって、結局彼女が落ち着き、ぽとりと手が落ちるまで動けなかった。

 

「いっ……たー……。絶対あざできてるよ、これ」

 

 掴まれていた部分を擦りながら零す。と、心配そうに俺を見上げてくる妖精さんが目に入った。

 ……あ、今の言葉、ひょっとして当てつけがましかっただろうか。彼女を悪く言った訳ではないよ、と言ってやれば、妖精さん達は申し訳なさそうにしながらも朝潮に向き直って彼女を眺め、それから、鍋の方に走ってきた。

 額に乗せる布の管理は任せろ、とのこと。

 妖精さん達も彼女のために何かをしたがっているようだから、ここは任せた方が良いだろう。

 彼女の額から布を取り上げれば、熱を含んでいるのがすぐわかった。それでも彼女の体はまだ高熱に侵されている。妖精さん達に布を渡す。二人がかりで布を持ち上げ、鍋に投げ入れ、そのまま自分達も鍋の中に入って布をもみくちゃにして……。だ、ダイナミックだ。彼女達の大きさでどうするのだろうかと見ていたけれど、そっか。やるとしたら、体全部を使わなきゃ駄目なんだ。

 しかし、自分の身長ほどもある鍋の中に飛び込めるほどの跳躍力を発揮するとは、妖精さん達も人外のパワーを持っているのかな。……存在からして人外だけど、ええと、なんか違う。

 もやもやを晴らさないまま朝潮の体を拭くのに戻り、それが終われば、鉄板を持ってきて彼女を煽ぎ始めた。

 風を送って、少しでも涼しくなってもらえれば、と思っての事だったが、あんまり効果が無さそうなうえに、『危ない』と妖精さんに怒られてしまった。……仕方ないので、鉄板を戻してきた後は、彼女の傍らに座り込み、手を握っている事にした。

 それぐらいしか、やれる事を思いつかなかったのだ。

 ……昔から、病床に()した俺に姉さんがやってくれていた事。手を、握る事。

 とくに風邪をひいた時なんかは、人恋しくなるから、姉さんの手の温もりは何より嬉しかった。

 彼女のこの症状は風邪や何かではないだろうけど、でもきっと何かの効果を及ぼすと信じて、ただ手を包み込んで、じっとしていた。

 彼女の意識が戻ったのは、それからまた一時間ほどした後の事だった。

 

 

「お水、飲める?」

「…………」

 

 熱も汗も引いてきて、だいぶ顔色が良くなってきた彼女が、唐突にむくりと体を起こした時は心臓が飛び出るんじゃないかってくらいびっくりした。

 ただ、まだ会話ができるような状態でなく、彼女はぼうっとスカート越しの太もも辺りに目をやっていて……それだけだった。

 声をかけても反応がないのは相変わらず。妖精さん達が意思を飛ばしても応答はないらしい。……何かの後遺症だろうか。そんなものが残るだなんて微塵も考えてなかった。

 答えないから水は要らないのだろう……なんて思わない。あれほど体が熱くなって、あんなに汗を掻いたのだから、艦娘といえど水分補給は必須だろう。

 水の入った瓶の細長い飲み口を握り、妖精さん達に視線を向ければ、飲ませてあげて欲しい、と瓶を指差されたので、頷いて返す。

 妖精さんがいてくれて助かった。俺一人だったら、何も答えない彼女に臆して、この手で水を飲ませようなんてできなかったかもしれない。だが明確な後押しがあるならば、多少の心理的抵抗はあってないようなものだ。

 彼女の口元へ瓶を近付け、そこで一度手を止める。

 俯く彼女に瓶だけを突き付けるのは、乱暴すぎる。そう思ってすぐ、彼女の顎をくいと持ち上げた。

 そうすれば、目元から影が引いて、彼女の目を見る事ができた。ずっとつぶっていたから、開いているのを見るのはなんだか新鮮だ。ゲームではずっと開いているけど、現実で見るのとは違う。

 しかし、常ならば空と同じ綺麗な蒼に澄んでいるだろう瞳は、今は暗く、曇っている。顔の前で瓶を揺らしても、それを追って目が動く事はない。意識が戻っているはずなのに、反射の動きすらないなんて、やっぱりどこかおかしくなってしまっているんじゃないのかと不安になってしまう。本当に彼女の体調は回復しているのだろうか。体のダメージは全て消したはずだけど……。スライムを過信しすぎていたか? でも、俺の体はあれで治るのに。

 ぐるぐると渦巻く思考をそのままに、朝潮の柔らかな口に瓶口を当て、そっと唇を割って差し込む。このまま傾けても、口の端から零れていくビジョンしか見えないが……。ええい、ままよ。

 あごを押し上げ、やや上を向かせてから、少しずつ瓶を傾ける。斜めに揺れる水の動きを注視しつつ、彼女が咳き込んでしまわないように、慎重に流し込んでいく。

 ……反応のない人の体を動かすというのはなんだか妙な気分だが、この際仕方ないのだ。俺がやらなきゃ誰がやる。……妖精さんがやってくれそうだ。

 こく、と彼女の喉が動いた。成人した男の喉仏のようにわかりやすいでっぱりはないが、喉元で何かが上下するのはなんとなくわかる。こくり、こくりと喉を鳴らすたびに、彼女の頭や体が僅かに揺れ動いて、それに気をとられて目を向ければ、ちょうど彼女がまばたきをするところだった。

 長いまつげが合わさり、開かれていく。一瞬だったのに、同時に凄く長い間その動作を見ていたような気がした。

 そろそろと伸びてきた手が、飲み口を握る俺の手に添えられる。……! 自分で動いた!

 握る力は弱々しいが、たしかに彼女自身の力で瓶を持とうとして、俺の手ごと傾けている。どうしてかそこに赤ん坊のような印象を受けたが、一つの物事に集中している彼女を見てそう感じたのかは定かではなかった。

 

「はっ……ふ……」

 

 瓶口に吸いついていたのか、彼女が口から瓶を離す際に、ポン、と小気味良い音がした。よほど喉が渇いていたのだろう、ようやく息継ぎをする彼女の口の端に光るものを見つけて、反射的に拭く物を探した。『こっちだ』、と意思。見れば、青髪妖精さんが布を投げ渡してきたので、慌ててキャッチした。ちゃぽ、と瓶が揺れる。彼女が俺の手を離さないから、瓶の位置を動かさないようにしていたのに、今ので、彼女の手から離れてしまった。

 まあ、いいか。零したり、ぶつけたりしないように支えていたようなものだし。

 知性のない目を俺に向けている朝潮に、まだ飲む? と聞いてみても、やっぱり反応はなかった。……妖精さんより意思の疎通が上手くいかない。そういえば、艦娘同士で通信なんかはできないんだろうか。それができるなら、彼女に直接呼びかける事も……って、それはさっき妖精さん達がやってたのか。妖精さんのこれが通信なら、だけど。

 

「んー……だめかぁ」

 

 反応があるかないかをテストするための再三の呼びかけにも応答はなく、目の前で手をひらひらさせても同じ。肩を揺すっても駄目。はっきり名前で呼んでも駄目。提督だぞーとふざけた事を言っても反応なし。

 いよいよもって、これはやばい状態なのではないかという結論を出さざるを得なくなってきた。

 あごに手を当てて、どうすればいいのかを考える。

 といっても、医療知識のない俺にはなんにも思いつかないんだけど……。

 それでも、何も考えないで白旗を揚げるのは嫌だったので、必死に記憶を探っていたのだけど……くい、とスカートを引く存在に思考を中断し、顔を向けた。当然そこにいるのは妖精さんだ。制服の子の方だった。

 

『彼女の症状は、艦娘にとっておかしい事ではない』

「……それは、本当?」

 

 ジェスチャー交じりの、言葉にできない何かを脳内翻訳すればそう言っている気がしたので、聞き返してみれば、うん、と頷かれた。

 おかしい事じゃない、って……しかも、艦娘にとって?

 では今の朝潮の状態は、艦娘であるならば誰にでも起こり得る症状だというのだろうか。

 詳しく知りたくて妖精さんに話を聞けば、脳内翻訳をするのが難しいあやふやな意思をぶつけられた。

 何を言っているのかわからない。まるで専門用語のオンパレードを聞かされているような感じだ。

 首を傾げれば、俺に伝わっていないのを察したのか、妖精さんも困ったように眉を八の字にした。うーん、理解力が足りない。

 

「……とりあえず、この子が水飲めるってわかったし……ええと、次はご飯かな」

 

 気を取り直すように喋り始めて、とりあえず、と口にした時点で自分が島風……もとい、シマカゼなのを思い出し、口調と声音に修正をかけた。妖精さんからのつっこみは特にない。変じゃないかちょっと不安だったんだけど……反応がないとわからない。

 自分で言った通り、ご飯を用意するために外へ出る。長い間彼女の看病をしていたつもりだったけれど、日差しはまだまだ強く、降り注ぐ光が髪を照らして、頬にかかる髪を指で梳いた。

 光が当たるとよくわかるけど、この髪の色って、金髪なのだろうか。それにしてはちょっと色が抑えめだ。でも、金髪って言えない事もないし……色の区分なんて普段意識しないから、よくわからない。

 小屋の入り口の前に立って見て、その左側。壁に雑に突き立った枝から垂れる魚の干物を回収する。うん、ちゃんと乾燥してる。身が分厚いから、もっと時間がかかるかもと心配してたけど、そうでもなかった。

 日光から逃れて部屋に入り込む。屋根の隙間から差し込む光と影が相まって、人工的な明かりがなくても明るい。朝潮はまだ体を起こしてぼうっとしていた。

 

「ご飯持ってきたよ。一緒に食べよ」

「…………」

 

 やっぱり返事はなし。

 上がっていた顔もまた膝に向いてしまっていたので、手袋を脱ぎつつ近寄って、しゃがみ込んで顔を覗き込んでみた。

 彼女の瞳に俺の顔が映る。我ながら眠そうな目つきだ。ぱちぱちとまばたきすると、偶然か、彼女も一瞬まぶたを閉じた。

 

「はい」

 

 干物を手で千切り、切れ端を口元に寄せる。……これにも反応なし。食欲が刺激されたりしないのだろうか。結構おいしいんだけどな、これ。

 無理矢理口に詰め込めば咀嚼してくれるだろうか。

 先程水を飲ませた時の反応を思い出しつつ、しかし、無理に飲み込ませて喉に詰まったらを考えると、無理に食べさせる気にはならなかった。今度は妖精さんの後押しもないし。

 自分の口にいれて、もぐもぐやりつつ、今度はさっきのよりも小さく千切る。それを妖精さん達に差し出して「食べる?」と聞けば、頂戴いたす、と受け取ってくれた。……あ、食べるんだ、ご飯。

 ぬいぐるみみたいな見た目だし、なんにも食べないのかと思っていたが、そうでもないみたいだ。俺が渡した干物の切れ端を更に半分にして、二人で分け合っている。

 それを見ていると、お腹も満たされてしまって、残りは全て彼女達にあげる事にした。

 食べきれないなら置いといていいよ、と言えば、食べきります、と返答。……まじで?

 その小さな体に入り切るのだろうか。自分から全部食べていいよなんて言っておいてあれだけど、結構大きいぞ、この魚。

 まあ、食べきれるというならそうなのだろう。妖精さんが嘘を吐くとは思えないし。

 そうそう、彼女の食事を用意しなくちゃ。どうやら干物は無理みたいだ。当然か、病み上がりなんだ、もっと食べやすいものを用意しなくては。

 お米があればおかゆでも作るんだけど……無い物ねだりをしてもしょうがない。

 部屋の隅へ向かって、影の中に置いてある果物を取って来る。

 リンゴに似た果実。甘さはさほどないが、植物の苦味がかなり薄く、食べやすいものだ。

 熱湯消毒済みの割れた瓶の欠片で皮を剥き、生ごみはつま先で蹴ってあけた地面に埋めて、果実を手の上で分割してから種を抉り出す。……ちょっとボリュームがないけど、考えてみれば、今の彼女にそんなに量は必要ない。

 一切れを更に薄く切って、彼女に差し出す。口元へ運んで、唇をつついてみる。……食べない? ……食べないか。

 じゃあ俺が食べちゃうぞー、と自分の口元に運んで口を開け、はむ、と口を閉じるふり。もちろん、本当に食べる訳じゃない。彼女の反応が見たいだけだ。

 

「…………」

「…………おぅ」

 

 ……虚しい。反応がないのはわかっているのに、何をやっているんだろう、俺は。

 ふぅ、と息を吐きつつ、左手に乗せている残りの果実を見る。お腹いっぱいだって言ったばかりだけど、しかたない、自分で食べるか。

 

「――……」

「ん?」

 

 何かが動く気配に朝潮の顔を見れば、彼女は今さら小さく口を開けていた。

 ……俺の言葉や動きがわかっているのだろうか? それとも、ただの偶然か。

 前者だと思いたくて、そっと口に当ててやれば、シャリ、と噛んでくれた。

 おおっ、なんか感動……。

 

「っ! げほっ、っん、ん……!」

「あっ」

 

 と思ったら、彼女はすぐに咳き込んで、果実を吐き出してしまった。慌てて手を出してキャッチしようとしたけど、掴み損ねて、掛布団代わりの布の上を転がってしまう。

 あー……もう代えが無いのに、汚れてしまった……。でも、そんな大きな汚れではないし、我慢してもらうしかないか。……毛布とか、後で洗濯しとこう。

 果物の欠片を排除し、けほ、と咳き込む彼女を気遣いながら、どうしようか考える。固形物はまだ食べられないようだ。かといって水だけという訳にもいかないだろう。艦娘が水だけで生きていけるというなら話は別だが、少なくともここ数日、俺は普通に空腹を感じていたし、食欲もあった。

 だから彼女も同じだろう、と短絡的に考えるのは自分でもどうかと思うが……妖精さんだってご飯を食べるんだ、艦娘だって同じだと考えてもおかしくはないだろう。

 

 さて、固形物が駄目なら、流動食というか……そんな感じの物を作ればいいだけだね。

 でも、それには布が必要だ。……布、ないんだよな。調理に使うとすればなおさら相応しい布はない。

 ないとわかっていても部屋の中を見回してしまうのは未練がましいと言えばいいのだろうか、しかし、それで俺は使えそうな布を発見する事ができた。俺の手袋だ。

 白くて薄くて清潔そうで、うん、たぶん申し分ない。

 重ねて置いてある、地面についてしまっていない方の手袋を持ち上げ、その中に果物を入れる。正気の沙汰ではない。……おっと、自分に突っ込んでしまった。サバイバルなんて事をしている以上、使えるものを使わないと、待っているのは死だけだというのに、まだ夢気分が抜けていないのだろうか。今は虚空を眺めている彼女のおかげでちゃんと現実なんだって認識を得られたはずなのに……。

 いや、日常の中で軽い現実逃避をするのは、誰にでもある事か。

 鍋の中身を外に捨てに行き、戻ってきたら、石を片手に座り込む。広げた足の真ん中に鍋を置いて挟んで固定し、果実入りの手袋を鍋の中へ。

 後は叩いてぐりぐりしてすり潰し、果汁を得るだけの簡単なお仕事だ。手袋が切れてしまったり穴開きになってしまったりしないよう力加減に注意する以外には、そう苦労もなかった。

 鍋の中に少量できた、濁りのある果汁100%ジュースを空いている瓶に移せば、完成だ。擦り潰した果実の方も食用にできるが、彼女には食べさせられないと判断して、妖精さんのデザートにした。……いつの間に魚は骨しか残ってない。ほんとに干物全部食べたんだ。大食いだ。

 そんな大食いチャンピオン二名にデザートを献上すれば、よいぞよいぞと大喝采。甘いものに目がないというよりは、デザート自体を喜んでいるみたいだった。

 そんな風に体全体で喜びを表現されると、こっちまで嬉しくなってきてしまう。

 この気持ちのまま、朝潮に食事をとってもらう事にしよう。

 

「はい、どうぞ」

「…………」

 

 水をあげた時と同じように、あごに手を添えて持ち上げ、瓶を口につけてやれば、今度もそろりと手を伸ばして、自分で瓶を支えて飲み始めた。

 量が少ないから、すぐに飲み終わり、その手は落ちてしまってけど、彼女が動く姿に安心して、瓶を抜き取った。

 

「…………」

「おー?」

 

 すると、彼女は瓶の行方を追って目を動かした。今までにはなかった反応だ。そのまま俺の顔まで視線が上がってくるかと身構えたけど、残念ながら彼女の目は瓶に釘付けで、俺の存在は認識されていないようだった。

 

「……もうちょっと、いる?」

「…………」

 

 返事はない。だが、目は口ほどに物を言う。彼女が果汁ジュースを求めていないなどと思うほど俺は鈍くない。

 でも、もう果物がないんだよな。

 ……ないなら採ってくれば良いだけの話。

 という訳で、朝潮の事は妖精さんに任せて、俺は果物の採取へ出かける事にした。

 ついでに布や毛布を持って行き、温泉の傍で洗濯してしまう。彼女の衣服と入れ替わりで干して、畳んだ衣服を抱え、その後に果実探しのお時間だ。

 

 森の中を駆け、前に果実がなっていた木を中心に探して、見つければ木を登ってもぎ取る。繰り返して、数度。時間の感覚がないからわからないが、太陽の位置からしてとっくに昼は過ぎているだろう。両腕に抱えるほどの名もなき果実に、バケツとか持ってきておけばよかった、と自分の至らなさに息を吐いた。

 あー……彼女の衣服もあるのだし、もう少し考えて行動しなくては……。

 考えれば考えるほど俺の行動には穴がある。いつもの事だけど、これで俺、この世界でやっていけるのだろうか。

 近い将来、自分の身に降りかかるだろう試練に不安を抱きつつ家に戻り、比較的冷える位置に果物を置いて、まずはお着替えタイムとしゃれこむ。彼女に彼女の衣服を着させるのだ。いつまでも裸では、やってられないだろう。……誰が、かは知らないけど。

 特に着替えについて特筆すべき事もなく、彼女はこの島に流れ着いていた時と同じ格好になった。破けた服から覗く肌は傷一つなく綺麗なもの、という違いこそあるけど。

 

 ボロボロだけど、やっぱり服を着ているだけで違うな、なんて率直な感想を抱きつつ、果物の調理に取り掛かる。

 三つほどの皮を剥いて先程と同じように擦り潰す。うむ、今度は結構量ができた。コップ一杯分とまではいかないけど。

 

 例の如く、すり身の方は妖精さんのお腹に収まる。まだ食べれるのか。宇宙的胃袋? ひょっとしたら、食べた物全てを即座にエネルギーに変換しているのかもしれない。……艦娘もそうっぽいけど。

 いや、ちょっと違うかな。でも限りなく近い?

 そういうものと割り切ってたけど、よく考えなくともここ数日()しかしてないってのもおかしな話だし。

 なんて下世話な事を考えつつ朝潮にジュースを飲ませていれば、もうからっぽになってしまった。

 満足かな、と瓶を離せば、視線が追ってくる。一瞬俺の顔まで上った目線は、すぐに瓶に落ちた。

 もうちょいご所望なのね、と追加で果物をすり潰してジュースを作り、与えて……まだ欲しがっているようなので、すり潰して与えて。ああ、集めた果物、全部なくなってしまった。

 朝潮からの催促ビームに最速で応えるため、再び果実探しの旅に出る。今度はバケツを持って、だ。

 

「…………」

「ん?」

 

 小屋から飛び出そうとして、ふと彼女が何かを言ったような気がして振り返る。彼女は、特に何かを口にした様子もなく、ただ俺を見ていた。

 ……気のせいだったかな。

 わからないというもやもやに後ろ髪を引かれつつ、バケツを抱えて走り出す。何事も素早く、だ。最高速度は防護フィールドを纏った状態でしか出せないけど、今回は纏っていない。あんまり防護フィールドを乱用できないのだ。

 それも、燃料の心配があるからで、食物を摂取する事で得られる燃料の供給を上回らない範囲でなら使用しても問題はないだろう。けど、いつかはこの島を出るかもしれないのだから、無駄遣いは厳禁だ。

 食べれば食べた分だけ燃料が蓄えられるとかだったら、使い放題だったろうな。でも、そんなうまい話はない。たくさん食べれば満腹になるように、燃料も蓄えるのには限界がある。限界以上を得ようとしたらどうなる事やら。試す気には到底なれない。

 考え事をしつつバケツ一杯になるまで果実を集める。っと、これは違う。リンゴモドキに形も色も似てるけど、食べると舌が麻痺(まひ)するおいしくないやつだ。リンゴモドキモドキだね。

 もぎ取る前に気づけて良かった。間違えて採ってしまうと食べられずに捨てる事になるからかわいそうだ。こないだは悪い事した。

 木の幹を蹴りつけて地面に降りると、着地の衝撃でバケツの中身が跳ねた。こぼさないようにバランスを取り、よし、と呟く。

 これくらい集めれば、さすがに彼女も満足してくれるだろう。

 家まで競争、と空気に向かって呼びかけて、足を回して走る。車や自転車に乗っている訳でもないのに、凄いスピードで景色が流れていくのには不思議な爽快感がある。俺は、このスピードに少しずつ惹かれているみたいだった。

 

 開けた場所に出れば、我が家は目の前だ。速度を緩め、ぽっかり空いた入り口から中に飛び込んで、ただいまを言う。

 ……返事はなかった。

 

「……あれ?」

 

 いない。

 朝潮が、いない。

 めくれた布はそのままで、そこに座っていたはずの朝潮が消えている。……艤装もだ!

 妖精さんごと彼女の装備が三つともなくなっていた。

 

「……あいつ」

 

 まさか、海へ?

 体を治したとはいえ、あんなにぼうっとしていたのに……俺が出ていた間にいったい何があったのだろう。

 バケツを置き、部屋の中を見回す。何を探しているか自分でもわからないまま何かないかと見てみたけれど、当然見つかるはずもなく、眉を寄せる。

 出て行ってしまったのだろうか。妖精さんは止めなかったのか? 彼女の意識がはっきりした状態ではなかったから、意思の疎通が図れなかったとかか?

 疑問が渦巻く。最初を除いて、どれも答えの出ないものだ。

 地面に片膝をつき、土に刻まれた足跡を見る。……おそらく彼女の物だ。わりと人の足の形をしている足跡。俺ではこうはならない。

 艤装を身につけて行ったなら、その分の重みもプラスされているだろうから、こうしてはっきりと足跡が残っているのだろう。

 危険だ。

 一も二もなく、危機感が脳内を駆け巡った。

 だって、あんな状態で……装備だってボロボロなのに。

 ……ただこの島内を探索したくなっただとか、俺を不審に思って身を守るためにこの場を後にし、新たな拠点を探しに行った……とかなら、まあいい。でも、海に出るのは駄目だ。危険すぎる。

 

「止めなきゃ」

 

 止められるか?

 自分の呟きに疑問を投げかける。

 彼女がいつ起きだして出て行ってしまったかはわからないが、俺はそれほど長く外に出ていなかったはずだ。

 ……止める権利は?

 

「ある」

 

 断言して、足跡を辿って走り出す。彼女の命を預かった。勝手な事でも、まだ手放してないなら、彼女の行動決定権は俺にある。

 家を出てすぐ、足跡は裏側に回り込んでいる。知性のある動き? 俺を欺こうとしている? どういうつもりなのかわからない。偶然こうなっているだけかもしれない。

 いずれにせよ、追いつくしかない。

 防護フィールドを纏い、最大速力で追跡を開始する。髪がなびく。風に引っ張られる感覚。防護フィールドを纏っていない時と比べると、その感覚は弱い。

 腰ほどの高さまである茂みも、大きな木の根も気にしていないかのように、足跡は途中から一直線になっていた。こっちは、たぶん……ああ、やっぱり!

 森を抜ける。その先には、眩しい砂浜と青く煌めく海が広がっていた。彼女の足跡は点々と浜に残され、押し寄せる波の中に消えている。

 遮蔽物の無い海上のどこにも、人の姿は見当たらない。どうやら俺は遅すぎたようだ。

 波の前まで歩を進めて、水平線を眺める。

 まだ、追うか。それとも諦めるか。

 艦娘の戦闘力の詳しいところを、俺は知らない。

 だからもしかしたら、たとえ艤装が壊れていようと、彼女はこの海でやっていけるのかもしれない。

 この体になって日の浅い俺には判断できないが……その可能性はある。

 でも……もしそうでなかったら。

 

「――……」

 

 曇った空色の瞳が、すぐ近くに見えた気がした。

 ここで諦めるか諦めないか。言い換えてしまえば、彼女を見殺しにするかしないか。

 どっちがいいかなんて、決まっている。

 でも、だけど……。

 海に出るのは怖い。心の準備もできていない内に海に出て、外敵に遭遇するかもしれないのが怖い。

 指針も何もなく、広大な海で彷徨ってしまうかもしれないのが怖い。

 恐怖心ばかりがわき上がってくる。彼女のための勇気だとか、大人の意地だとかはちっとも顔を出さない。

 

「――っ!」

 

 ドオン、と腹の底に響く音が彼方から聞こえてきた。同時に、向こうの方で水柱が上がるのが見えた。

 なに、と疑問に思う暇もなく、再びの重い音と、同じ方向に立ち上がる水柱。

 砲撃だ。攻撃されている。誰が、なんて、言うまでもないだろう。

 ここからでも見えるほどの高さの水柱が上がる攻撃に、身が竦む。あれこそ現実だった。そこへ飛び込んで行く勇気など、俺には持てなくて。

 …………俺には、ない。

 でも、島風には……シマカゼになら、ある!

 作り上げたプライドが、怯む事も逃げる事も許さない。

 右足を振り上げ、伸びてきた波に叩きつけた。

 水飛沫が散る。足にかかるものは防護フィールドに弾かれ、足を濡らすには至らない。

 右足を前に滑らせながら、左足も波の上へ。

 

「シマカゼ、出撃しまぁす!」

 

 自分を鼓舞する気合いの声は、きっと誰にも届いてない。

 いや、俺には届いてるはずだ。シマカゼという艦娘である、俺になら。

 

「くっ……!」

 

 波のせいで不安定な足場に踏ん張る。川の上や温泉の上とは違う。でも、乗りこなせない訳がない。横にした右足で海面を擦りつけ、重心を前に。腕を構えて、水を蹴って走り出す!

 あっという間に最高速だ。前へ前へ前へ、膝同士が擦り合いぶつかり合ってしまいそうなほどに足を回転させて駆ける。

 地上を走るより速く、ぐんぐんと先へ。

 

「……いたっ!」

 

 思っていたほど遠くにいなかったのか、それとも俺の移動速度が速すぎたのか、すぐに彼女とその敵を補足する事ができた。

 立ち止まって砲を構えている朝潮と、巨大な深海棲艦……イ級? イ級なのか? あの大きさで?

 水上に出ている部分だけ見てもその巨大さはわかってしまう。きっとあれはアニメ基準だ。駆逐艦・吹雪よりも大きく、子供を丸呑みできそうなくらい大きな口を持つ異形の者。青い光の灯る双眸は人だまのように揺らめいていて、不気味だった。elite(上級)flagShip(最上級)ではないなんて、なんの慰めにもなりそうになかった。

 ざあっと足下で水が弾ける。減速……気圧されてる? ううん、ブレーキを踏んだ覚えはない。このまま突っ込む!

 策も考えもなく水上を走り、そのさなかに両足を揃え、スキーのように滑り出す。水の飛沫は白煙となって後方へ流れていく。お腹より下を包む冷気が、上半身との感覚の齟齬を生もうとしていた。

 

「やっ!」

 

 両手を前に。水を蹴り上げて飛び出すのは、朝潮の前。

 彼女が息を呑む音がした。同時に、視界の先で大口を開けているイ級の口内から突き出た砲身が、眩く光った。

 細い光線が腹に突き刺さる。瞬間、小さいとは言えない爆発が腹の肉を抉り、衝撃に吹き飛ばされた。

 白んだ視界ががつんと揺れる。擦れた背が熱を持ち、ぶつけた腕が痛みを訴え――ザ、ザ、ザと海面を跳ねさせられているのに気付いて、無我夢中で腕を振るった。

 水を叩く高い音。海面を叩いて跳ね起き、身を捻って足を海へと向け、着水の瞬間に踏ん張って勢いを殺す。地面とほとんど同じ固さの海面は、しかし中々勢いを削いではくれず、彼女の立つ位置から十数メートルも離れた位置でようやく止まった。

 

「ぎ、ぐ……!」

 

 ゆらりと背を伸ばそうとして、お腹に走る鈍い痛みに咄嗟に右腕で腹を庇っていた。焼けつくような痛みと、内臓を直に叩かれたみたいなショックが同時に襲ってくるのに、顔が歪んでしまう。

 こんな痛み……経験した事なんてなくても、耐えられないほどじゃないはずだ……!

 

 

 空気を穿つ音がして、朝潮の体がぐらついた。直撃……!

 

『―――――ッ!!』

 

 朝潮の放った砲弾をくらったイ級が、凄まじい不快音を放った。皿と皿を強く擦り合わせたような、甲高い悲鳴。暴れるように身悶えて波を起こす敵の姿に、ひょっとして、わざわざ彼女を庇う必要はなかったのかな、と思った。

 だが、奴が苦し紛れに放った砲弾が朝潮を掠めると、彼女は大きく体勢を崩して、すぐ傍で吹き上がった水柱に飲まれた。

 

「あっ、のやろっ!」

 

 痛みを堪えている場合ではない。押さえていた腕を離すと、千切れたパンツの紐が垂れるのがわかった。……中破以上になってる。これじゃ攻撃力も……いや、もとより武器などないんだ。体一つでやってやろう!

 そう意気込み、滑り出した瞬間だった。

 小規模な雨と霧のように降り注ぐ水の中で、爆発が起こったのは。

 

「――――ぁ」

「!」

 

 巻き上がった炎は、彼女の姿を照らし出した。砲身が半ばから折れてなくなり、穴開きになった艤装が黒煙を上げている。……壊れた砲を使ったから、無理が出たのだろう。

 爆発は一度に止まらず、左腕の魚雷が誘爆して、いっそう大きな爆発が起こった。赤と黒の光に呑み込まれる彼女に声を出そうとして、そのずっと向こうで、イ級が冷徹に砲身を向けてきているのが見えた。

 彼女を抱き留めようと広げていた腕を体の前で交差させ、再び彼女の前に滑り込む。チカッと光が瞬けば、腕がもげそうな衝撃がきた。かち上げられた両腕に引っ張られ、右足が上がる。水と煙が視界を覆う。

 衝撃に逆らわず、そのまま後ろへ跳んで両手を伸ばし、海面に手の平を押し付けて支点とする。ぐるんと足を振り回してバク転。体と手を起こせば、隙を晒す事無く体勢を整える事ができた。

 追撃はない。どうやら奴は、二度連続で砲撃は行えないようだ。

 その隙に、肩越しに背後を見る。彼女の安否を確認しようとして……浜辺の方まで、誰の姿もないのに戦慄した。

 それも一瞬の事。俺の体から登る煙に紛れて、海面からも吹き上がる煙があるのに気付いて、彼女がどうなったかを理解した。

 沈んだのだ。この海に。

 

「まだだ!」

 

 まだ終わってない。

 沈んでから間もないはずだ。今潜れば、彼女を引き上げる事は難しくないはずだ。

 防護フィールドを解除して、海へと飛び込もうとして――真横を突き抜ける光線に、断念を余儀なくされた。

 忌々しい深海棲艦が……彼女を沈ませる訳にはいかないのに!

 

「だったら、まずあいつから倒す!」

 

 できるできないを考える必要はない。やる。やらなきゃならないから、やる。じゃなきゃ彼女が死ぬ。

 大丈夫、できる。ここはまだ浅いし、俺は艦娘だ。あんな雑魚に負けてたまるかっ!

 

『―――――ッ!!』

「うるさいよ!」

 

 威嚇か何かか、咆哮をあげる深海棲艦から目を逸らさないまま、横へ滑り出す。面舵(おもかじ)。右へ。

 艤装の無い俺が奴を倒すには、常々考えていた『この体の最大速度でぶつかっていく』という戦法をとるしかない。でも、最高速を出すには距離が必要だ。そのための移動をしようとすれば、敵もこちらに向かってくる。そう簡単に距離はとらせてくれないって? でも残念。彼奴(きゃつ)との差がどんどん開いていく。

 当たり前だ。超高速を誇る島風に――シマカゼに追いつける訳がない。加えて、今の俺はなんの装備も持っておらず、身軽なのだ。

 徐々に徐々に反転していく。勢いを殺さないよう、細かい軌道修正を繰り返す。砂浜が目前に迫る頃には、完全に反転を完了していた。反抗戦に入る形。……すれ違う気はないけどね。

 まっすぐ向かっていく俺に対して、イ級は大口を開け、されど砲身は覗かせずに突き進んでくる。そのまま噛みつこうって魂胆? 大きな歯並びが不気味で、寒気が身を包む。

 

「決めるよ!」

 

 弱気を全て吹き飛ばすために大声を出す。ブーツが海を裂く激しい音と、はためくスカートとカチューシャのリボン。些細な感覚の一つ一つが強く感じられる。足に流れる力も、海面を叩き付ける衝撃も、全てが余すことなく伝わってくる。

 空中へ跳び上がり、勢いあまって前転。そんな予定ではなかったけど、勢いを削がれさせないためにさっと膝を抱えてぐるんと回り、元の体勢に戻れば、腕を広げ、右足をずっと伸ばして、急降下キックの形に移行する。

 

『―――――ッ!!』

「とりゃーーっ!!」

 

 スピードによって得られた勢いは、荒ぶってしまいそうな程強く大きいのに、驚くほど素直に行きたい方へ体を運んでくれる。斜め下。俺を食い破ろうと限界まで口を開いて跳び上がる、駆逐イ級の顔面へと、必殺キックを叩き込む。

 ヒールが奴の口の端に突き刺さり、前へ進む力によって削り、斬り裂いていく。頬を、体を、尾までもを、ガリガリと鉄と赤黒い液体を吹き散らせながら突き抜けて――ザァアアッと海面を擦って行く。右足は横に、左足で体を支え、しゃがむような体勢で踏ん張れば、がくんと体が揺れて体が止まる。

 

『――――……』

 

 直後に、背後で熱が膨らんだ。

 轟く爆発音。背中全体に叩きつけてくる衝撃波に髪が前へ流れ、体も持って行かれそうになるのを堪える。煽られた波が幾つも足下を通過していき、やがて静まっていく。

 

「……っ、は、は、ふ」

 

 倒した。

 そう実感すると同時、忘れていた呼吸を再開する。立ち上がりながら短く浅い呼吸を繰り返し、額を拭う。べったりと汗が腕についた。

 決まった。

 胸中で歓喜に濡れた言葉が浮かんで、しかしすぐ焦りに塗り潰される。

 あんなのを倒した程度で喜んでいる場合ではない。彼女を助けなきゃ!

 重ねた両手を前に、海面を蹴る。今度こそ防護フィールドを解いて海中へ潜って行く。

 ぼこぼこと上る水泡の群れ。不幸中の幸いか、ここら辺は海底までさほど距離がなく、太陽光が届いていた。

 少し遠い位置に、海底に横たわる彼女の姿を見つけ、水を掻いて泳いでいく。

 ばらけて広がり、揺蕩う黒髪。僅かに浮いた上半身。海面へと伸ばされた腕。

 その姿全てに言い知れぬ恐怖と、絶対的な「救わなければ」という気持ちを抱く。矛盾しているような、されど同時に存在する奇妙な心。本能と理性。

 彼女の体を抱き上げ、しっかりと胸に抱いて、足をばたつかせて海面へ急ぐ。光が近付いてきた――。

 

「ぷはっ!」

 

 息を吐き出す音は、一人分しかなかった。




ハイスピードロップ
(キック技)
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