私はミーティア・“N”・リュティ。
二十二歳です。
三ヶ月前の天罰を生き残り、二級市民になりました。
ですが、私自身は大したものではありません。
二級市民になれたのは、咎人だった叔父と、叔父の仲間の皆さんのおかげであり、先代のアクセサリとエイノさんのおかげであり、何より運が良かったからでしょう。
振り返ってみれば、私の人生は、土壇場の運の良さがあってこそのものなのです。
一番古い記憶は、両親と手を繋いでいたこと。
そして次の記憶は、両親と繋いでいた手がいつの間にか離れていて、見知らぬ場所で一人になっていたことでしょうか。
後で叔父に聞いた話では、両親は戦火から逃れるため住んでいたPTから脱出したものの、その大混乱のさなかに私とはぐれてしまったのではないかと言っていました。
そんな私が流れ着いたのは、全く見知らぬモザイク街の果ての果て。
法も秩序もなければ、衛生も治安も何もかもが最悪なアンダーストリート、貧民街と呼ばれる場所でした。
当然そんな場所で、子供一人でどうにかできるわけがありません。
しかしここで、私の持つ強運が発動します。
飢え死にしそうになっていたところで、小さなストリートギャングに助けられたこと。
そこで生活を共にできるようになったこと。
仲間のみんなが比較的良い人達だったこと。
危険で汚い仕事を、五体満足でこなし続けられたこと。
叔父に助けられたこと。
咎人になって、戦場で生き残ることができたこと。
叔父が死に、私のアクセサリが大破した三○四のボランティアで、エイノさんと合流できたこと。
そして、ライズさんと知り合い、三ヶ月前の天罰で生き残れたこと。
そのどれもが、私の力だけでは切り抜けられるものではなく、周囲の手助けと運の良さがあってこそのものです。
特に、叔父の手によって貧民街から出ることができたのは、私の人生の中で一番の幸運だと思います。
そんな叔父のことに触れようと思います。
叔父の名前は、クリストフ・“Z”・リュティ。
私にとっては父方の叔父にあたります。
十八年前、二級市民として私の父や仲間と戦っていた叔父でしたが、大規模な敵性PTの侵攻によりに、衣食住はもちろん、家族も仲間も全て失ったそうです。
自暴自棄になった叔父は、併合された先のPTで飲んだくれの咎人に転落してしまいます。
そんな折、私たち家族が生きているという噂を聞いた叔父は、一目会いたいと再起。
その時、アクセサリの姿も今の姿に変え、『エイノ』という名前も付けたそうです。
そうして情報位階権限を再び上げながら、恩赦ポイント貯め続け、百万年の刑期をゼロにしました。
その期間は何と三ヶ月程度だったそうで、何年もかけてここまで来た私からすれば、凄い上にちょっと怖いです。
二級市民になれるはずの叔父は、それを拒否して小さな犯罪を繰り返し、咎人にとどまりながら私たち家族探しを開始します。
貯めた資源や恩赦ポイントは、PTの転属のために使いました。
PTに所属するヒトやモノは、同盟PTへの行き来は制限付きで可能です。
しかし、それ以外のPTへの行き来はPT法で禁止され、その取り締まりもかなり厳しいと聞いています。
そんなPTにも合法的に行くことができる方法が、PTの転属なのです。
とは言え、転属には途方もない資源と恩赦ポイントが必要になり、相応の腕前が無くては実現は不可能です。
ならば、PTから出て行けばいい。
確かに、モザイク街の住人──PTでは非実在市民と呼ばれています。好きではない言葉です──になれば、幾らでも自由に行動はできるようになりますが、今度は生活費や捜索費用の問題が浮上します。
突出した技能や人脈がない限り、無視することはできない極めて切実な問題です。
そして二級市民になった場合、処遇が決まるまでボランティアへの参加が自由にできなくなります。
PTの傘の下、咎人としてボランティアに勤しみながら転属するのが、叔父にとっては一番効率的で確実な方法だったのです。
叔父は、軽犯罪を犯しつつ、莫大な恩赦ポイントと資源を納品してPTの転属を繰り返し、その間に父と母の死を知ってもなお、諦めることなく私を探し続けてくれました。
そして、捜索を開始してから八年目にして、奇跡的に私を見つけ出すことができたのです。
この話は叔父から聞いたものです。
エイノさんも、叔父の話はほぼ正確だと言っていました。
どん底から私を見つけて救い上げてくれただけでなく、男手ひとつで育ててくれた叔父のことを、私は心から尊敬し信頼していました。
とても強いのに、優しくて、涙もろくて、出来損ないのケモノのような私を辛抱強く見守り、支えてくれた叔父。
私にとって叔父は、かけがえのない、本当に大切な存在だったのです。
◆
「──そいつの事情なんて俺らの知ったこっちゃないっしょ。いつもどおりのテンプレ対応でお引取りいただくっすよ」
目が覚めました。
ていうか、珍しく寝ちゃっていたんですね。
声のしたほうを見れば、『仕事』のお相手をしていた人が、一脚しかない椅子に腰をおろし、片手ほどの大きさの端末を操作しつつ、通信でやり取りをしているようでした。
既に派手なシャツとダボダボなズボンを着ていることから、眠ってからそこそこに時間が経っているようです。
変なメットを取った素顔は、砂嵐のような肌と、空高く上がった月のような薄い黄色の髪と目。
しかし何より目を引くのは、顔の左半分から首筋を伝い、今はシャツで隠れていますが、肩から左腕と背中に広がる火傷痕です。
彼の名前、ハルカもここから来ています。
寄って来た連中がこれを見て、一様にドン引く様を見るのが面白くてならないと話していました。
性格悪すぎです。
「……一々そんなん気にしてたら、どこぞの元大幹部みたくハゲるっすよ。それに、一番悪いのはそいつっしょ。……嫌ッすねぇ、そういう女々しいの。さっさと物言わぬ資源になれよ、楽になるぞって言ってやりゃいいっす。何なら、俺が言ってやってもいいっすよ」
とりあえず起きましょう。
お部屋は窓によって外光が入って来ているものの、林立するビルに陽光が遮られ、薄暗くい上に狭いです。
窓のおかげで息苦しさはないですが、それでも誤魔化しようのないほどに狭いです。
おまけに、使用用途の決まった部屋ですから、必要最低限のものしかない上に殺風景です。
ベッドのすぐ側の床に、『仕事』前に使った洗面器と、ポットが二つ置かれていました。
赤い蓋のポットから、まだ湯気がもうもうと立つお湯を洗面器へ注ぎ、サイドテーブルに置かれていた布を二枚浸します。
「熱っ」
お湯の飛沫を受けて思わず声を上げると、彼の視線がこちらに向けられるのを感じましたが、仕事の手を止めることはありませんでした。
青い蓋のポットからお水を少し注ぎ、お湯を少し冷まします。
それでもまだ熱々の布をどうにか絞り、まずは頭に巻きつけます。
もう一枚の布も絞って、まずは顔を拭き、その後全身を拭きます。
これが古代でいう『オフロ』になります。
水は極めて貴重な資源であり、その利用には咎人、市民、上級市民で大きな差があります。
シャワーだのオフロだのというものは、上級市民ぐらいしか利用できません。
モザイク街でも当然貴重品であり、飲み屋に行けば粗悪な合成酒よりも高い場合がほとんどです。
そのため、限られた水をいかに無駄なく効率的に利用するか、モザイク街の住人なら誰でも身につける知恵でもあります。
全身を拭き終わったら体が温まっている内に、サイドテーブルに無造作に置かれていた下着をすぐに身につけます。
「あの横暴なおっぱいに目を付けられたくなかったら、死に物狂いで今日中に納品するんすよ。……うん、俺はお前と違って女に怒鳴られて喜ぶ趣味ないんすわー。……全然残念じゃないっすよー、お前と一緒にすんなっす。……あーハイハイ、また後でー」
彼はそう言うと、耳につけていた通信機を取り外しました。
軽薄な雰囲気が瞬く間に消え、私にとっては馴染み深い雰囲気に置き換わります。
声をかけることにします。
「終わりましたか」
「ああ」
彼は端末をサイドテーブルに無造作に置き、続けてグローブと指輪を外してその上に放り投げます。
そしてマグカップを手にとって私に差し出しました。
マグカップの中はもちろん飲料水です。
お礼を言って受け取ると、彼は私の隣に座り、二人並んで貴重なお水を飲みます。
このお店、水とお湯の提供があるのが売りだったりします。
しかもトイレも完備されていて、PTの第一階層くらいの清潔さはあります。
モザイク街の下層の区域にしては、中々サービスの良いお店なのです。
その分お値段はお高めですが、サービスを考えれば致し方のないところでしょう。
「いつもの形見分けの件ですか」
「まあな。頭出せ」
「え。あの、自分で」
「出せ」
遠慮がちに頭を差し出しました。
この人、怒らせると洒落にならないくらい怖いので、下手な抵抗はしません。
持っていたマグカップを私に渡すと、頭に巻いていたタオルを取り外し、地肌を拭っていきます。
自分の立場を忘れたわけではありませんが、ちょっと気持ちがいい。
「いつ見ても傷んでいるな」
「えっと、ごめんなさい」
「女だろ。もう少し身なりに気ぃ使えよ」
「これでも大分マシになったと思うんですけど」
「そうね。清潔なだけで、とても二級市民様とは思えないみすぼらしさだけどな」
「そういえばさっき、ずいぶん失礼なことを言ってましたよね」
「なんか言ったか?」
さすがにちょっとムッとします。
「私のこと、地味でモブな二級市民Aって」
「ああ、あれか。でも事実だろ」
否定できません。
実際、私は極めて地味で、存在感がないとよく言われますから。
私は口をつぐみ、彼に髪の手入れを任せました。
彼は気が向くと、こうして私の髪の毛の洗って手入れをしてくれます。
実際、上手です。
叔父はヒトとして生きる術や、戦闘技術は教えてくれましたが、女性の身なりについては専門外でした。
知っていたら逆に怖いです。
当然エイノさんもそんな知識はなく、私自身も、身なりに頓着が無いのが拍車をかけていると思います。
咎人や二級市民の女性の中には、手入れをされた女性らしい身なりをしている方を見かけます。
艶々でサラサラの長い髪、長いまつげ、目の周囲と頬、そして唇を華やかに彩る術を、みんなはどこで手にしているのでしょう。
特定の仲間がいない私には、知りようの無い知識です。
「さっきの話ですけど」
「ん?」
「形見分け、やっぱりしないんですね」
すると、彼は呆れたような溜め息をつきました。
「何度も言ってるが、アクセサリは貴重な資源の塊だ。個人の事情でおいそれくれてやるほど安かねえよ」
髪の毛を拭い始めた彼は、つまらなそうに答えます。
フラタニティのお仕事の一つに、大破したアクセサリの回収作業があります。
それだけだったら別にどうと言うことはないのですが、アクセサリに思い入れのある人の中には、形見として、そのアクセサリのパーツの一部を欲しがり、フラタニティの詰め所に押しかける人がいるそうです。
特に人気なのが記憶媒体やウィルオーエンジンだそうですが、普通にスルーされるのが常です。
「でも、俺らも血の通った人間だ。その形見分けのパーツと同等か、それ以上の価値のある資源と交換できるなら考えるさね。お前みたいにな」
口調は全く変わりはありませんでしたが、普段はおくびに出さないそれがドロリと蠢いたような気がして、思わず身を強張らせます。
「叔父貴殿の形見のために難儀なこった。周囲も己も顧みずに、一人で悲劇のヒロインするのは気持ちよかったか?」
淡々とした口調ながら、心がズキズキと激しい痛みを訴えます。
「……ごめんなさい」
「これも再三言ってきたが、運良く俺が関わったからこそ、この程度の扱いで済んでるんだ。この手は二度と通用しないし、下手したら、もっと悲惨な目に合う事を覚えておけ」
「はい」
羞恥と心の痛み、そして彼自身に恐怖を感じ、体を小さくして返事をします。
「俺も説教できる立場じゃないけどな。期間限定とはいえ、お使い頼んで楽させてもらった上に、自分専用の排泄処ができて楽しませてもらったし。街娼どもに説教たれつつ、やるこたやってる市民や咎人連中の気持ちがわかったような気がするよ。いやはや、いい経験させてもらいましたわ」
俯き、歯を食いしばって心を苛むものに耐えます。
酷い言われようですが、私がこの三ヵ月近くにわたってやってきたことは、そういうことです。
私の育った貧民街で当たり前のように行われていた糧を得る手段。
ヒトとしての最低、最悪、最後の手段です。
二級市民になったくせに、こんな手段を使う自分自身が本当に恥ずかしいです。
「ま、今日でこの『仕事』も終わりだ。残り一日半か? お前が必死で守ろうとした資源(モノ)と悔いなく過ごしてくれ」
言って、彼は自分のマグカップを私から取り上げました。
髪の手入れが終わったようですが、聞き捨てならない言葉に思わず声を上げます。
「あの」
「何」
「今日で終わりって、エイノさんの回収は明後日の午前中です。だから明日までじゃ」
しどろもどろに言う私を、彼は怪訝な表情をしました。
「言ってなかったか? 俺、明日から出向で、しばらくこのPTを離れるんだよ」
「え?」
視線を逸らし、必死でこの数ヶ月のことを思い返します。
しばらく記憶を掘り起こしましたが、一向に見つかりません。
私は顔を上げました。
「聞いてないです」
「ああそう。この出向も、お前に関係があるといえばあるんだけどな」
言葉もなく凍りつく私に、彼はつまらなそうな表情で言います。
「パーツ探し。出向先のPTに大分世話になってな。向こうは気にすんなって言ってくれたけど、そういう訳にもいかないでしょ。そこに出向先からヘルプ要請あって、礼も兼ねて仕事の手伝いに行くことになったの」
「すみません」
「ホントお前、運だけは良いよ。誇ってもいい。それ以外は本当に、本っ当に残念だけどな」
ぐうの音も出ません。
実際、この案件に対して、私の力だけでどうにかできたのは、彼の温情によるところが極めて大きいのです。
改めてそれを知ることになり、暗澹とした気持ちになりました。
本当に最悪です。
私たちの間に、居心地の悪い沈黙が降り立ちました。
百パーセント私のせいですけど、でも耐え切れずに、心が萎れたまま尋ねます。
「どこのPTへ出向するんですか?」
「んー。規模もでかいしGDPPもかなりある優秀なPTだけど、特徴がないのが特徴なPTでな。古代では『サイノクニ』って名乗っていたそうだ」
「サイ?」
「俺も知らん。上司殿も説明に困っていた。ああ、昔は『ソーカセンベー』とかいう食い物が有名だったとか言ってたな」
「はあ」
想像もつきません。
「どれくらいの期間行くんですか?」
「さてね。向こうの仕事が終われば帰れるかもしれないし、しばらく留まることになるかもしれんし、下っ端の俺には与り知らぬところだ」
話が続きません。
そもそも彼自身、私との会話を望んでいないような気もします。
「良いPTだといいですね」
「PTに良いも悪いもねえよ。どこも等しくクソったれだ」
やっぱりつまらなそうに彼は言って、マグカップをあおりました。
そんな彼に私は何も言えず、俯きます。
またしても気まずい沈黙。
さすがに今度は口を開く元気もありません。
彼、ハルカさんは、私の古い馴染みです。
ハルカという名前は偽名で、ちゃんと本名はあります。
私が十年前まで生活していた、ストリートギャングの仲間でした。
つまり彼は、私の過去を叔父よりも正確に把握している存在です。
年は確か、六つほど上だったと思います。
正確な年齢はわからず、そして性格は、さらによくわかりません。
フラタニティとして振舞っている時の軽薄で胡散臭い言動も、こうして私と一緒にいる時の無愛想で無関心そうな言動も、紛れもない彼の本当の姿だと思いますが、全部嘘のような気もします。
ただ、彼の中に稀に見えるものがあります。
真っ黒くて熱くて獰猛で、でも普段は静かに穏やかに渦を巻いているそれ。
そんな得体の知れないものが、昔から彼の中にはあって、私はそれをとても怖いと思っていました。
今でもそう思っています。
でも、彼もまた、あのストリートギャングに拾われて、拾ってくれた仲間を彼なりにとても大切にしていました。
その中に私も含まれていて。
だから、三ヶ月前に十年ぶりに偶然再会した時、私のお願いに破格の条件で手を打ってくれたのです。
「それで、お前の心の整理はできたわけ?」
感心のなさそうな声音。
本当に感心がないのかはわかりません。
「えっと」
「お前がこんなことになってんのも、その為の時間稼ぎじゃなかったの?」
「そうなんですけど」
私は迷い、正直に話すことにしました。
「実感が全然無いんです。明日で最後で、明後日にはいなくなっちゃうっていう感じが全然なくて。この先もずっとこのまま、エイノさんがいるような気がしちゃって」
「叔父貴殿の存命の頃も含めれば十八年だっけ?」
「はい。エイノさんが私のアクセサリになったのは五年前ですけど」
「長いな。探してくれた連中も話聞いて驚いてたくらいだし」
「メンテを担当した市民さんも驚いていました」
「だろうな」
咎人に支給されるアクセサリは、そもそも高性能なものではありません。
しかも、非常にシビアな働きを要求される戦場へほぼ毎日出かけるわけですから、その消耗度合いは人間の比ではないのです。
日常点検と定期メンテナンスを行わなければ、ヒトよりも長く残るように見えて、実は儚いものであるとも聞きました。
「いなくなって、日が経ってから実感することになるんだろうなって」
叔父の時と同じように。
「そうだな。そういうもんだよな」
私の言葉に同意する彼。
ちょっと意外です。
と、不意に電子音が鳴り響きました。
サイドテーブルに置かれた端末からです。
彼は端末を取り上げると、パネルを操作します。
「出るぞ」
部屋の中は大分暗くなっていました。
もうしばらくすれば、陽は完全に落ちきるでしょう。
いつもならこのあたりで、回収して欲しい資源と期日を伝えてくるのですが、もうそれはないのです。
上着を身につけている間に、彼は私が使った洗面器のお湯をトイレにあるバケツへと移します。
トイレの洗浄用として、後から利用するためです。
身支度を整えてヘッドフォンを被ろうとして、薄闇の中でスーツを今まさに着た彼と目が合いました。
薄闇の中から彼の左手が伸びて、私の髪に触れます。
髪を探って耳に触れると、感触を確かめるように指が蠢きました。
「一人で頑張る心意気は立派だが、無理だと思ったらすぐに周囲を利用しろ。一人で抱え込んだところで抱え込める量は大したもんじゃないし、潰れたところで誰も何もしちゃくれない。ウィルオーを生み出すだけの資源、肥やしになるだけだ」
低く暗く静かな声。
私は、口を開こうとしました。
彼に、この仕事の最後の日に、ちゃんと言おうと思っていたことがありました。
本当は明日、言おうと思っていたのですが、それが今日になるとは思わなかったので、上手く言えるかわかりませんけど、でも言わないといけません。
ですが、彼は私から手を離してヘルメットを被ると部屋から出て行きました。
あ!
私も慌てて部屋を出ます。
代金は前払いなので、彼はグローブを着けながら、さっさと出入り口へと向かっていきます。
私も続いて出入り口を抜けると、コンクリがむき出しになっている天井と床、そのコンクリが崩れて鉄筋が見えている支柱だけの、外壁の全くないフロアに出ました。
ウィルオーの青白い電灯が、心細げにチカチカと明滅を繰り返しながら灯っています。
彼の後を追って階段を登り、このビルの最上階に到着しました。
天井が崩れ落ちて広がる空は、太陽が残した光が地平線の向こうを染めていました。
逆光でほぼ黒く塗りつぶされたようなパノプティコンは、ものすごい重厚感で私を圧倒します。
しかし、浮かび上がってきている星の鋭く冷たい光が、負けじと存在を主張していました。
「急がないと、難易度が跳ね上がるっすね」
すっかりハルカさんモードになった彼は周囲を見渡し、一人呟きます。
建物を照らすウィルオー灯と、チェックポイントのように置かれているドラム缶の炎が街を照らしていますが、細かい建物状況や建物や路上に置かれたあらゆるモノは、夜の闇で塗り潰されつつありました。
焦りました。
今すぐにでも彼が瓦礫を蹴って、夜の街へと消えていきそうな気がします。
呼び止めなければ。
「あの、トト」
私に背を向ける彼に、彼の本当の名前で呼びました。
十年前までは、当たり前のように呼んでいた名前です。
彼は振り向きました。
ヘルメットを被っているので、当然その表情はわかりません。
本当は、ヘルメットを被っていない時に言いたかったけど、でも今の私には、彼の表情が見えないのは逆にありがたいかもです。
今日で最後なんだから、ちゃんと伝えないと。
彼のヘルメットのに亀裂のように走る青い光を見つめ──実際にそこは目はないんですけど──必死で言葉を紡ぎます。
「本当は出会った日にちゃんと言いたかったんだけど、こんなことになっちゃって。でも、また会えて本当に嬉しかったです。……元気そうで良かった」
この三ヵ月近くのことを思い出し、自分のやってきたことがあまりにも酷くて、ちゃんと自分の言葉で気持ちを伝えているはずなのに陳腐に響きます。
でも、最後まで伝えないと。
「今日までどうもありがとう。それと、……迷惑かけて、ごめんなさい」
彼は最後まで黙ったままでした。
でも、ちゃんと言うことができました。
よし! 私は恥知らずなバカだけど、最低限の礼儀は守れたと思います。
「それじゃあ、失礼します」
いつもの締めの挨拶を言って頭を下げました。
頭を上げると、今一度闇夜に溶け込んでいるような彼の姿を見つめ、そして身を翻します。
そのまま助走をつけて瓦礫を蹴ると、一気に虚空へと飛び出しました。
着地点である隣のビルの屋上は、若干の落差はあるものの余裕で届く距離です。
飛び込み前転で着地の衝撃を逃し、そのままの勢いで体を起こすと再び走り出します。
そうやっていくつもの建物やモノを飛んだり、登ったり、降りたりしながら、道なき道を止まることなく走り続けます。
私が十年前にいた世界で身につけることができた、人に胸を張って言える技術です。
この時間のモザイク街は、夕食時ということもあって商店の立ち並ぶ道やビルの通路は、人が多いので移動に時間がかかります。
そして人が多ければ、トラブルに巻き込まれる可能性も当然高くなります。
ならば、人のいない道を通っていくのが安全確実、そして早い。
私とトトが、階段を降りずにあのビルの最上階へやって来たのは、こういう理由があったからです。
それに、この移動方法が好きでした。
自由になれたから。
ウィルオーの力に頼らず、自分の体とその力が許す限り、どこまでも自由に道を選び、走り続けることができたから。
そして走り続けている間は、難しいことを考える必要はなかったから。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
誤字脱字、その他修正がありましたら、随時対応をします。
今回の話で、主人公の経歴の一端が語られました。
今後も主人公の過去を織り交ぜながら、薄暗く話は続きます。
設定等で不備や齟齬などありましても、しょせんは初心者素人の書く物書きもどきと、生暖かく見守っていただければと思います。
長編、難しいですね。
精進します。
前回から登場しているフラタニティのハルカ。
この男を描く際に、手の動きと体の動きを意識して書きました。
表情のないアクセサリとは違い、メットをかぶっているせいで
喜怒哀楽があっても、それを顔の表情で表すことができないので、
セリフもそうですが、手の動きや体の動きで表す必要があったからです。
それが結構新鮮でして。
人間って、無意識のうちにあらゆる手段を使って、相手に気持ちを伝えようとしているのですね。
そして、それを教え学べる環境があるって大切なんだなと思った次第です。
至極ありふれた、当たり前のことなんですけど。
また、活動報告にて補足を書かせていただきました。
お時間と興味がありましたら、覗きに来て下さいませ。
それではまた。