聴いてしまった。大切なこと。大事なこと。何よりも優先しなきゃいけないこと。
棚からぼた餅。下らない部活をサボってふらりとしていたら予期せぬ情報を手に入れた。
すぐさま行動を起こすのが吉。タイミングは逃しちゃいけない。逃せば二度と戻らないから。
廊下を走る。階段は二段飛ばしで上へ上へと階段をかけ上がる。
ああ、ずっと近くにいたんだね。既に諦めてしまっていたから気がつくことができなかったよ。
もっと早く気がついていればよかったのに。ボクの馬鹿。馬鹿馬鹿馬鹿。
でも、たまたまとは言っても見つけられた。だからそれでいい。それ以上の望みはない。ボクの何よりの願いは他の何を犠牲にしたって構わないよ。友達、先生、家族。全部あげる。だから、代わりに一番大切なものだけはボクがもらうんだ。
シルヴィアにだって渡したくはない。
だって、戦花はボクの……ボクのお母さんだもん。絶対に渡したくはない。
あの布仏本音がグレイト・リッチ・ラジオだとして、何かを企んでいたとしても、お母さんはボクのだもん。
優しくて強くてカッコイイお母さんはボクだけを愛してくれる。ボクも愛しているのはお母さんだけ。
速く速く駆け上がる。行き着く先に幸せが待っているから。この不幸せな人生のトンネルから抜け出せるから。
最後の一段を昇りきれば屋上の扉が見える。開ければ夕暮れの空。かつての世界では見ることができなかったオレンジ色の空が当たり前に見られる。
オレンジ色の風景の中に、ひっそりと佇んでいるのはセシリア・オルコットという少女だ。そして、その少女はボクの探し求めていた人。戦花お母さんだ。
会いたかった。会いたかったんだ。
近寄れば、お母さんはゆっくりとボクに顔を向けてくれる。
なんて言ったらいい。考えてみれば、お母さんに話しかけるなんて初めてのことだ。どんなことを言えばいいんだろう。
困っていると、お母さんがゆらりと身体を揺らしながら歩き出す。
どうしようと考えていればお母さんはボクの脇を抜けて屋上の出口へと向かってしまう。このままじゃ何も伝えられずにいなくなってしまう。
手を伸ばすけど、離れていて届かない。あと少しでお母さんは屋上からいなくなっちゃう。
「お……お母さん」
やっと出せた声。それでも呟くくらいに小さかった。
でも、お母さんはぴたりと止まった。ゆっくりと振り返ってボクを見てくれる。その顔はとっても驚いているみたいだった。
お母さんは昔から凄い勘を持っていた。ボクが喋れなくてもボクの考えていることとかをすぐに当ててくれた。だからたった一言でも分かってくれたんだ。ボクが万花だってことを。
すぐに駆け寄って、同じくらいまでに大きくなった身体で抱きつく。
良い匂い。姿形は変わっても安心することができる。やっぱりお母さんなんだ。
ぎゅーっ、とお母さんの身体を抱きしめていると、お母さんも恐る恐るだけど抱きしめ返してくれた。
「ば……万花なのか?」
耳元に当たる吐息が心地良い。
「うん。ずっと探してた。諦めそうになったけど、それでもずっと探してた」
涙が出てきた。視界が潤んでお母さんの顔がよく見えなくなる。
「私は諦めかけてた。自分だけがこんな世界に来たんじゃないかって。万花やシルヴィアには二度と会えないんじゃないかって。でも、違ってた。会うことができた。抱きしめることができた。これからだって抱きしめることができる!」
お母さんも泣いてる。泣きながらもボクの頬っぺたにキスしてくれた。
お母さんを放したくない。もうお別れなんてしたくないから。ずっと一緒にいてほしいから。
でも、お母さんは腕を優しく退けると、ボクの肩に手を置いて顔を覗き込んできた。
嬉しそうな顔に楽しそうな顔。
そして、ゾッとするような顔が紛れ込んでいる。
掴まれた肩から冷水を垂らされるような感覚に、とっても嫌な予感がしてきた。また、お母さんと離れ離れになるような。
「万花、安心しろ。私がお前を傷つけた奴をぶち殺してやるから。二度と傷つけさせはしないから。お母さんが葬り去ってあげるから。だから、少しだけ待っていてくれ。公開処刑にして辱しめてやるからな」
お母さんはニッコリと笑うと、楽しそうに、嬉しそうに、憎しみを吐き出した。
全てが悪いところに進んでいる。
それに気がついた時には、お母さんはいなくなっていた。
おおむね学園内は平和だった。学園の性質上、小さな小競り合いは起こる。しかし、火消しをするまでもなく自然に消滅してしまうものだから、鎮圧に向かうほどのことじゃない。特に織斑一夏くんの周りは余計な首を突っ込むと、馬に蹴られて地獄に墜ちそうだから、ひとまず介入はしない。放課後のバトルフィールドで勝手にイチャイチャしてればいいんじゃない。
私にとって今一番大切なことは、目に入れても痛くない可愛い妹のことだ。
更識簪。私の一番愛する妹。昔からお姉ちゃんお姉ちゃんとチョコチョコついて回ってきた愛しい存在。
でも、それはもう過去のこと。今は同じ学園にいるのに接点すらないほどに疎遠になっている。
原因は私。子供ながらに更識家の次期当主に相応しい才能を見せすぎた。妹に慕われていることに気を良くして、アレコレとできることを増やし過ぎたんだ。
妹の向けてくる目の変わり様に気がついた時には嫌われていた。私に対する嫉妬。姉妹であるがゆえに親族から比べられ、姉に劣ると何度も陰口を叩かれた挙句に当主にはふさわしくないと見捨てられてしまった。
全ては私のせいだ。私が調子に乗り過ぎたのが原因で、簪は殻に閉じ籠ってしまったんだ。
だけど、これでよかったと思う自分もいる。
なぜなら、当主の座は決して光り輝くものではないと知ってしまったから。押しかかる重圧と期待が弱いを心を即座に押しつぶしてしまう。きっと簪じゃ耐えられない。たとえ、耐えられたとしても真っ当な人生は送れなくなる。
人の裏を常に読もうとしている私みたいになる。親友を作ることさえも難しい。好意に対しても何か狙いがあるのでは、と勘繰ってしまう面倒な生き物に変化してしまうのだ。
簪に背負わせることはできない。
だからせめて、従者の一人である布仏本音に簪のことを頼もうと思ったのだが、本音は何を感じ取ったのか簪を早々に切り捨てて、今はセシリア・オルコットにお熱みたいだ。憧れていいると言えばいいのか、それとも熱狂的なファンと言えばいいのか。とにかく瞳に宿る感情は人並み外れた熱意があった。
私にもあれほどの熱意が残っていればいいというのに、その熱意は心の内のどこを探しても見当たらない。もう、簪に対して思うところがなくなってしまったのかもしれない。姉であることに嫌気でも差したか。
分からないことだらけだ。自分のことだというのに。
私に仕える従者の一人、布仏虚が紅茶を用意してくれる。可もなく不可もなくな大した評価はできないけれど、不味いというほどでもない紅茶はある意味では万人向けの味わいだ。
紅茶を一口。口の中に広がる妙な味わいのなさを堪能する。最近は美味しい紅茶に飽きてきた気がしないでもない。このしょうもない紅茶のせいだろうか。
紅茶を淹れた虚はそれ以上に何かをするわけでもなく部屋の隅に佇んで虚空を見つめていた。昔からどこか遠くを見つめているような子だった。この世界に向ける熱意を持ち合わせていないような、心だけを置き去りにしてきたような不思議さがあるのだ。
しかしながら、そんな彼女にも感情や熱意はあったようで、セシリア・オルコットが生徒会室にやってくると、どこか嬉しそうな顔をする。優しいお姉さんみたいにセシリアを甘やかしていた。
アレが何を意味するのかは分からない。理解できないことばかりだ。
従者二人の手綱も握れずに何が当主なんだか。
自分自身に呆れていると、生徒会室の扉が開く。
何事だろうかと警戒をする私に、警戒心の欠片もなく虚空を見つめている虚。従者らしくしてほしいんだけどな、と思いつつも来客を出迎えることにする。
扉を開いて現れたのは、私と同じクラスの黛薫子だった。やりたい放題にあれこれと活動している姉と違って、ひっそりと忍ぶように日々を生きている子だ。
正直、最低限の接点しかない相手の登場に、私としては本当に何事かと思ってしまう。それほどに日常的な絡みはない。
しかも、彼女は普段のひっそりと息を殺すような佇まいを、これでもかと乱してした。呼吸は荒れて額からは汗を浮かべている。本当に見たことがない。
薫子は挨拶もなく部屋に入ると、私の居る席までまっすぐやってきた。
「力を貸せ!」
机を叩いての要求。切羽詰まっているようで、礼儀の欠片も存在してはいなかった。
溜息が出る。急にやってきたかと思えば何を言うか。せめてもうちょっと情報を含ませての要求にしてほしいものだ。
「力を貸せ、と言っても事情が分からないわよ」
情報を開示しろ、と言葉を変えてぶつけてみたが、薫子は元来の口数の少なさを維持するばかりで、こちらにとっての判断材料は一切得られなかった。
これで力を貸せは常識的に考えて無理。気心の知れた親友相手ならともかく、薫子と私の勘系は見知った程度の仲でしかないわけだから、言葉一つで納得して行動するのは逆立ちしたところで無理な話だ。
薫子はそれをちゃんと理解できているのだろうか。いいや、何も言葉を発さないことから、黙っていればいずれ相手が折れてくれるであろうと、小さな子供みたいなことを考えているのだろう。そんなもの社会に出れば通じない幼稚な手段だ。もしかしたら手段と言うにもおこがましいかもしれない。
溜息の一つや二つ吐き出したくなる。いくら私でも黙り込んでいれば事態が動き出すと思っている相手に対するものはない。ただ、やんわりとお引き取り願う以外にやることはない。
頭の中を整理してからもう一度来てよ、と告げようとした時に、部屋の隅でわずかな動きを感じた。
振り返ってみると、今まで虚空を見つめていた虚がしっかりとした目で薫子を見つめていた。
彼女が隅から離れる。現実から少々乖離しているかのようなふわりとした足取りで音もなく薫子の目の前へと移動する。
虚の行動に、私はなんて言ったらいいのか分からなかった。セシリアの時とは違う反応だけど、他人に対して大きく反応したのはセシリアの時と同じだ。
虚は何かを話すこともなく薫子を見つめていた。何かを見定めるように、薫子の内側を覗き込むように。
妙に部屋の温度が上がっているような下がっているような。どちらともつかない不思議な温度感が肌を包み込んでいる。暑苦しいわけでも凍えるような寒さでもない。かといって適温と言うには心地よさが足りない。
「誰の為に力を貸さなきゃいけないの?」
温度を気にしていない虚が首を傾げる。幼子に問いかけるような感じだった。
薫子もまた虚のことを見つめていた。値踏みをしているのか、信頼に足るかを見極めているのか、とにかく不愉快とも取られかねない視線を向け、一言だけ口にした。
「セシリア・オルコットの為に」