監察艦矢矧、七丈島艦隊へ復帰。
矢矧の一件から数カ月の時間が経ち、あの騒動の余韻も薄れかかってきたというある日。
珍しく朝から私、大和を含めた七丈島艦隊の全員が食堂に集まっていた。
別に何か示し合わせて集まってきた訳でもなく、全員特にこれといった用事がないため、退屈を凌ぐための場所を求めて自然とここに集まってきたのだ。
ただ一人、私を除いては。
「……暇だなぁ、おい」
「暇なら手伝ってくださいよ」
「何で大和はボウルなんて持ってるんだ? 何か作るのか?」
私の手に抱えられたボウルを指さしながら、椅子をベッドにして寝ている磯風が尋ねた。
その質問に私は驚いて磯風と他の面々の顔を見回した。
「え……いや、だって今日は……」
「あん? 今日? 今日ってなんかあったっけか?」
「さぁ?」
「むぅ、心当たりがないな」
「私は、今日はお姉さまに一日中密着する日だったよ!」
「それいつも通りじゃねぇか」
「え? あの、皆さん、本当にわからないんですか?」
信じられない。そんな表情を隠せない私に天龍達はますます首を傾げている。
その様子を見かねてか、今まで静観を保って読書をしていた矢矧が口を開いた。
「今日は、2月14日。俗に言うバレンタインデーよ」
「そうですよ!」
私は机を叩いて訴えるように叫んだ。
「今日は、バレンタインデーですよ!」
「うるせぇな、わざわざ二回も繰り返さなくてもいいだろうが」
「サブタイにするための手ごろな台詞が必要なんですよ!」
「何の話だ!?」
聞けば、この鎮守府では基本的に毎年二月十四日は特に何もない平日扱いらしい。
「皆さん、チョコ作らないんですか?」
「作ったところで誰にやるんだよ?」
「いや、提督がいるじゃないですか……」
「あぁ、いたな、そんな奴」
「最早存在すら曖昧なんですか!?」
もう少し気にかけてあげて欲しい。
「皆さん、提督にはバレンタインデーにチョコあげましょうよ?」
「え、嫌だが?」
「そういうのは遠慮したいな」
「うーん、気が進みません」
「なんで私が提督にチョコあげなきゃならないのよ?」
「皆さん、もしかして提督のこと嫌いなんですか!?」
他の鎮守府ではおおよそあり得ないであろう冷たい空気が七丈島鎮守府には流れていた。
では、まさか提督はこの女所帯の鎮守府で、唯一の男性にも関わらず今までチョコを貰ったことがないというのだろうか。
「ちなみに私は一応毎年チョコ渡しているわよ。今日も朝に渡したし」
良かった、矢矧が最後の良心でいてくれた。
「なんだよ、矢矧。それ初耳だぜ?」
「……別に言う必要もないでしょう? 言ってもどうせあなた達作らないでしょうし」
「ま、それもそうだな」
「それもそうだなって……」
「というか、そもそもバレンタインってむしろ女がチョコ貰う日じゃないの?」
瑞鳳が何か訳のわからないことを言い始めた。
「だって、私は毎年この時期には男共から大量のチョコ届くわよ? まぁ、あんなに大量だと逆に迷惑なんだけど」
「私、瑞鳳はそろそろ一度痛い目を見ておいてもいいと思うんですよ」
「むしろ今俺達でシメルか」
「ちょ、暴力はよくないわよ! 暴力は! ちょっと! 痛い! これ地味に痛い!」
天龍が瑞鳳の頭を掴んで持ち上げているのを傍目に磯風は少し考えてから起き上がって言った。
「うーん、だが、確かに提督には日々世話にはなっているし、偶にはこういうのもいいかもしれないな。今年は大和もいるしな」
「磯風!」
「えー、男の人にチョコ作るのぉ?」
「まぁ、別に好きとか嫌いとかじゃなくて、日々の感謝の印としてだな。なんだったらプリンツは大和にもチョコを作ればいいんじゃないか? 最近は女の子同士でチョコをあげあうこともあるらしいぞ」
磯風の説得にプリンツも折れて賛成の意を示した。
「じゃあ、お姉さまに作るついでに提督のも作る! 楽しみにしててくださいね、お姉さま!」
「くれぐれも普通のチョコでお願いしますね」
「はい、ちゃんと媚薬入れておきますね!」
「話聞いてました?」
プリンツとは近いうちに常識について腹を据えて話さねばならない。
☆
「――という訳で、皆さんエプロンを着て、手もしっかり洗いましたか?」
「はーい!」
「バッチリだ」
「なんで私がチョコ作りなんて……」
「まぁ、いいじゃねぇか。どうせ暇だろうが」
プリンツ、磯風、天龍、瑞鳳と私はチョコづくりのためにキッチンに立っていた。
矢矧は秘書艦の仕事があると言って戻っていってしまった。
「今年は提督へバレンタインチョコを贈りましょう!」
「おー!」
「まぁ、それはいいけどよ。実際手作りチョコってどうやって作るんだ? 俺は料理なんてしたことねぇから難しいことはできねぇぞ?」
天龍の質問に私は余裕の笑みで答えた。
「大丈夫です! 手作りとはいっても、作り方は非常に単純。チョコを溶かして、型に流してまた冷やす、これだけです! 誰にでもできますよ!」
「おお! 本当か!」
「ごめんなさい、磯風はできるかわからないです」
「とことん信用がないな、私は」
簡単にやり方を口頭で説明してから各自、溶かす板チョコを手に手作りチョコを作り始める。
「まずは板チョコを湯煎して溶かしてくださいね。わかんないことがあったら聞いてください」
「おう!」
気合の入った返事と共に天龍は板チョコを手に鍋で湯を沸かし始める。
他の面々もそれぞれ湯煎に取り掛かっている。今のところ問題はなさそうだ。
「さて、私も自分の作業を進めておきましょうか」
天龍達には先ほど説明した通り、チョコを溶かして型に入れるだけの簡単なものを作ってもらうつもりだが、私は少し違う。
板チョコを包丁で細かく刻み、ボウルに入れて、チョコと混ぜる予定の生クリームを鍋に入れて中火にかける。
「お姉さま、できました!」
「こっちもできたわよ」
生クリームを火にかけている間にプリンツと瑞鳳がボウルに入った溶かしたチョコレートを見せにやってきた。
プリンツも瑞鳳も料理をやるイメージはないが中々どうして手際がいい。
「それで、この溶かしたチョコをどうするの?」
「まぁ、後は好きな型を持ってきてそこにチョコレートを流し込んで冷蔵庫で固めるというのが一番簡単ですね」
ハート型や星型の型を手に取ると、さらに加えて私は説明を続ける。
「でも、それだけだとあんまりにも味気ないですし、アラザンやカラーシュガーで見た目を華やかにしたり、チョコペンでメッセージを書いてみたり色々とアレンジしてみるといいと思います」
アラザンとは銀色の小さい粒状の装飾菓子。カラーシュガーは名のとおり色のついた砂糖のことでこれも装飾に使われる。
チョコペンはよく誕生日ケーキなどで目にするホワイトチョコレートで文字を書くあれだ。
形が変わっただけで茶色一色の味気ないチョコレートもこのような装飾菓子を利用したり、何か一つメッセージを添えることで簡単にそのランクを上げることができる。
かかる手間は僅かだが、受け取る側にとってはこれがあるのとないのでは大きな差がある。
「じゃあ、そうしてみます!」
それからしばらくして。
「できました!」
「私も完成ね」
また二人が私の元にチョコレートを持ってくる。プリンツのものは星型とハート形のチョコレートの二つ。どちらもアラザンで縁取りされ、ホワイトチョコペンで文字が書かれている。
瑞鳳のチョコは一体どうやってつくったのか、九九艦爆型のチョコレートだ。
「瑞鳳はこれ、どうやって作ったんですか……?」
「私は大きめの四角柱のチョコレートを作ってそこから削り出しただけよ?」
彫刻家か。
「瑞鳳凄ぉい!」
「ま、私にかかればこんなものよ」
瑞鳳が得意げに笑っている。プリンツは星型の方のチョコレートを調理台に置いてハート形のチョコレートの方を私に差し出す。
「はい、こっちがお姉さまのチョコレートです!」
「え、いいんですか? ありがとうございます!」
「私はそもそもこっちが目的ですから! 提督の分はついでです!」
複雑な気分だが、取り敢えず受け取っておこう。チョコレートには『Ich sehe nur dich』と筆記体で書かれている。
ドイツ語は全く分からないので意味は愚か、読み方さえもわからない。
すると、私の様子を察した瑞鳳が横から覗き込んで翻訳してくれた。
「『
「私の想いの丈が少しでも伝われば嬉しいです!」
「ええ、凄いドキドキしてます、いろんな意味で」
彼女の変態性を知っている私としてはこれが『いつもお前を見ているぞ』という脅迫文にしか見えない。
「提督の方のメッセージにはなんて書いてあるんですか?」
「こっちは『
これでもかというくらい他人行儀である。
だがしかし、バレンタインチョコとしては二人共申し分のない出来だ。これなら提督もきっと喜んでくれるに違いない。
「ん、大和は私達のとは違うのね?」
「あ、はい。私はトリュフを作ったんです」
「トリュフ!? 難しそう!」
「まぁ、手間は少しかかりますけどね」
トリュフを作る際は温めた生クリームとチョコレートを混ぜ合わせてガナッシュを作り、それを丸めて形を作って固め、最後に溶かしたチョコレートとココアパウダーでコーティングをするという数段階の作業が必要である。
それを聞くと瑞鳳がニヤニヤしながら肘で私をつつく。
「何よ、もしかして抜け駆け?」
「いえ、そんなんじゃないです。たくさん作ったので後で皆さんにもあげますね」
「真顔で即答とかつまんないわね」
「やったぁ! ありがとうございます、お姉さま!」
「ところで――――」
瑞鳳が思い出したように呟いた。
「天龍と磯風、遅くない?」
「確かに……」
私が湯煎の指示を出してからもう一時間以上経っているのに、未だ天龍達は何も言いに来ない。
私は心配になって天龍の調理台へ急ぐ。
「天龍、大丈夫ですか?」
「おう、大和! 丁度これからチョコの湯煎にはいるところだ!」
そう言って、天龍は私に板チョコを見せる。
チョコを溶かすまでに一時間以上も何をしていたのか疑問だが、取り敢えず問題を起こしている訳ではなさそうなので一安心して磯風の方に向かおうとしたその時、天龍の背後の鍋蓋を落とされている大鍋に気付いて足を止めた。
「……天龍、その火にかけてある大鍋、何ですか?」
「あん? そんなん決まってるだろうが」
天龍は鍋蓋を掴みあげる。瞬間、湯気と共に、覚えのある匂いがキッチン全体に広がる。
「カレーだ!」
「何で!?」
大鍋一杯にカレーが入っていた。天龍はその鍋にチョコを細かく砕きながら入れていく。
「よし大和、チョコ、湯煎できたぞ? 次はどうすればいい?」
「それ、湯煎って言いませんから!」
「え、だって湯煎でチョコ溶かすことだろ? だからこうしてカレーを」
「だから、何でカレー!?」
「カレーにチョコレート入れるだろうが!」
「いや、入れますけどね!? 隠し味に!」
「じゃあ、いいだろうが!」
「私達今カレーじゃなくてチョコ作ってるんですけど!?」
どうりで時間がかかるはずである。
「まぁ、いいんじゃねぇか? バレンタインチョコがカレーってのも斬新で」
「いや、それまずバレンタインチョコだと思われないですからね?」
「細けぇこと気にすんな。似てるだろうが、チョコとカレー」
「茶色以外全く似てませんよ!?」
「大丈夫だ、提督ならわかんねぇよ」
「提督舐めてんですか!?」
もうカレーをバレンタインチョコとして贈る気満々の天龍としばらく言い合いをしていると、誰かが私のスカートの裾を引っ張る。
見れば、青い顔をした磯風が居た。
「や、大和……」
「ん、どうしたんですか、磯風?」
「おう、お前も完成したか? こっちも丁度今完成した所だぜ」
「む? 何故カレー? いや、まぁそんなことはどうでもいい。大和、これを見てくれ……」
磯風が抱えたボウルを私に手渡す。流石に磯風は湯煎の意味は知っているのでしっかりチョコレートを湯煎していたようだが。
「…………何ですか、これ」
ボウルの中のそれは、おおよそチョコレートとは遠い緑色をしていた。
あと、少しねばねばしている。
「何度湯煎しても皆こうなってしまうんだ……」
「おいおい、これじゃバレンタインチョコにならねぇぞ」
「カレー作った天龍も大概ですけれどね」
しかし、これはまた予想外の事態である。まさかチョコを湯煎するだけで既にチョコをチョコならざる何かに変えてしまうとは。
というか、出会った当初からますます磯風の料理が悪化している気がするのは私の気のせいだろうか。
「お姉さまー、天龍達どぉですか? って何でカレー? あと何その緑色でネバネバの液体!?」
「チョコ溶かすだけでどうしてこんなことになるのかしらね? というか何でカレー?」
騒ぎを聞きつけたのかプリンツと瑞鳳もやってきた。
「どうすればいい?」
「とりあえず、そのままチョコっぽく仕上げて提督にあげてみましょう。食べるとどうなるか興味があるわ」
「テメェは悪魔か」
私は磯風の肩を叩いて諭すように言った。
「取り敢えず、チョコは私が作るので、磯風はトッピングだけしましょうか」
「うう、まぁ、それがいいな……」
磯風は不服そうであったが、こうしてなんとか全員提督へのバレンタインチョコを作り終えたのであった。
一人チョコじゃなくてカレーだが。
「――それにしても、皆なんやかんや言ってちゃんとチョコ作るんですね? 最初の様子見て適当にチョコ固めて完成にするつもりかと思ってました」
天龍の作ったカレーを皆で食べながら私は口を開く。
最初は全員乗り気という程でもなかったのに、終わってみれば皆結構、一生懸命にチョコ作りに励んでいたように見える。
「これでも俺達は提督にはかなり感謝してるんだぜ? 色々とぐだぐだ言ってたが本気で作りたくねぇと思ってた訳じゃねぇよ」
「じゃあ、なんで最初はあんなに消極的だったんですか?」
「感謝しているからこそ、だ」
私の疑問に磯風が答えた。
「感謝しているからこそ、生半可な物は提督には渡したくないんだ。チョコ作りなんて詳しい者もいなかったし、私なんて問題外だ。だから、下手な物を渡す位ならいっそ渡さない方がいい、というのが私達の結論だったんだ」
「で、いつの間にかバレンタインの存在自体忘れてたのよね」
「でも、今年は大和がいたからな! 料理できる奴がいるんならやってもいいって気になった訳だ」
私は彼女達の言葉を聞いて顔をしかめると、頭を掻きながら言った。
「あの、難しく考えすぎですよ」
「え?」
「こういう贈り物で一番大切なのは必ずしも物の質じゃありません。一番大切なのは、心をこめるっていうことです。皆さんの心がこもった贈り物なら、あの提督はなんでも喜んでくれると思いますよ?」
「んー、まぁ、そうなのか?」
「そうです」
私ははっきりと言い切った。
「だから、来年も皆でチョコ作りましょう! 今度は矢矧も一緒に!」
「おう、そうだな!」
「ま、付き合ってあげてもいいわよ」
「お姉さまと一緒なら喜んで!」
「来年までにはなんとか料理ができるようになってるといいな、切実に」
まぁ、色々あったが取り敢えず皆が提督のことを嫌いという訳ではないことが知れて良かった。
私はカレーを口に運ぶと、唐突に思い出して言った。
「あ、そういえば、矢矧は毎年提督にチョコ渡してたんですよね? なんで皆も誘わなかったんでしょう?」
その質問に瑞鳳がニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべながら答えた。
「ま、ライバルは少ない方がいいって思ったんじゃないの?」
「ん? どういう意味ですか?」
「さぁ、どういう意味かしらねぇ」
その後、私がどんなに問い詰めても瑞鳳はニヤニヤとしているだけでそれ以上のことを喋らなかった。
☆
その夜。
「矢矧! 見てください!」
「どうしたんですか、提督? 今日は随分と機嫌がいいですね?」
「これ! 皆さんからバレンタインチョコ貰ったんです!」
「ああ、そういえば大和達が今日作るって言ってたわね」
提督の机の上には皆から受け取ったであろうチョコが並べられている。
何故かカレーも混じっているが。
「……何でカレー?」
「わかりません。あと、この緑色の物体だけは本能が食べることを拒否しています」
「食べない方がいいと思うわ」
「じゃあ、記念としてどこかに飾りましょう!」
「腐るからやめてください。そんなに嬉しかったんですか?」
嬉々として執務室を歩く提督に矢矧は尋ねた。何故かその表情は固い。
しかし、浮かれ切った提督がそんな事に気付くはずもなく、満面の笑みで言葉を返した。
「ええ、勿論です! 今まで矢矧からしか貰ったことありませんでしたから!」
「ふぅん、それは良かったわね」
「…………何か矢矧怒ってます?」
「いえ、別に?」
若干、怒気の混じった声に提督は立ち止まって矢矧の方を見る。
それに対し、矢矧は笑顔を向ける。だが、その目は笑っていない。
「提督、そういえば島役所と大本営から至急、提出が必要な書類が送られてきたので今日中に全部終わらせてくださいね?」
「なん……だと……!?」
矢矧が提督の机に置いた紙の束は明らかに千枚を超えている。今から始めても終わる頃には日が昇り始めているだろう。
「あの、矢矧さん? 書類整理、少し手伝っては――――」
「じゃあ、頑張ってくださいね」
「矢矧! いつもは手伝ってくれるじゃないですか!? なんか今日は冷たくないですか!?」
「いいからさっさと仕事する!」
「はい、ごめんなさい!」
泣きつく提督を一喝して、矢矧は執務室の扉を開ける。
「……私がチョコあげてもあんなに喜ばなかったくせに」
「え? 何か言いましたか、矢矧?」
「五月蠅いわね! 口よりも手を動かしなさい!」
「はい、ごめんなさい!」
こうして、バレンタインデーは提督の悲鳴と共に終わりを迎えたのであった。
お久しぶりです皆さま。本当はバレンタインに上げたかったんですが二月はほとんどパソコンに触れられず、結局三月に入ってしまいました。
ちなみにイベントは延長が入ったおかげで一昨日から始めてギリギリで制覇できました。
今回は本当に久方ぶりのコメディ回でした。
シリアスも良いですが、やっぱり日常コメディは書いてて楽しい。