伊58、名前を覚えてもらえない。
「――朝、でちか」
部屋に差し込む日差しで伊58は目を覚ます。
昨夜はあの後、大和達に居住棟に案内され、余っている空き部屋を一室借り受けてそこで夜を明かしたのだ。
布団以外には何もない簡素な畳部屋だが一人にしてもらえたのは伊58にとっては非常に都合がよかった。
「今日は晴れでちね」
窓から見える燦々と輝く太陽と雲一つ見えない青空を見ながら枕の下に手を入れる。
枕の下から抜かれた伊58のその手には使い込まれたコンバットナイフが握られていた。
「
ナイフを手の中で回転させながら伊58は部屋の中で一人静かに笑った。
☆
「――うまいでち……!」
「あ、本当ですか? お口にあったようで良かったです」
食堂。布団を畳んでしばらくしてから大和達が朝食をご馳走すると訪ねてきたのでこれは好都合と私は現在食堂で七丈島艦隊の面々と共に朝食をとっていた。
何が好都合なのかと言えば、提督のことに関して探りを入れるためである。
暗殺に最低限必要な情報は提督がいつ、どこにいて、何をしているのか、だ。そして、それらをよく知っているのは他ならぬこの鎮守府の艦娘。
当初の予定では私の方から探りを入れる予定だったが、向こうから来てくれるならそれに越したことはない。
朝食を共にして親睦を深めつつ会話から情報を集めようという訳だ。
「…………!」
取りあえず、この朝食を食べ終わったら。
「伊58の奴、さっきから無心で食いまくってるな」
「お腹空いてたのかしら?」
天龍と瑞鳳が一心に朝食をかきこむ私を見てニヤニヤと腹の立つ笑みを浮かべているが、そんなことはどうでもいい。
そんなことで食事を中断することすら勿体ないくらい、目の前の朝食は美味だった。
大和が作ったという焼鮭と味噌汁、白米という極めて一般的な和風朝食だが私の鎮守府のそれとは比べものにならない。
こいつら出撃もしない癖にこんなに美味しいものを毎日食べているのかと思うとますます提督暗殺にやる気が湧いてくる。
「美味しかったんだねぇ、お姉さまの朝食だもんねぇ。私もこのお味噌汁の中に僅かに零れ落ちた視認できない微小な皮脂やお姉さまの吐息中の水分が混ざっているのかと思うと無限に食欲が湧いてくるよ」
「うん、今お前のせいで少し食欲がなくなったでち」
一旦箸を止めて私はそろそろ情報収集に移ろうかと息をつく。
その時、食堂の扉を開けて二人の少女が入ってきた。
「ふぁ……皆、おはよう」
「おはようございます!」
「うっ……」
磯風と美海の姿に私は思わず顔が引きつる。
何せ、現状あろうことか私が提督を暗殺するということを知っている二人なのだ。もし、彼女達が今ここで私の企み全てを話してしまえば、それだけで私は終わる。
「……大和、ごはん」
「まさか、大和さんが朝食を作ってくれるなんて、恐縮です!」
「はいはい、二人の分もちゃんと用意してありますよ」
磯風は私の姿を一瞥すると、何をするでもなく椅子に座り、眠たそうな声で大和に朝食を要求するだけだった。
美海も同様に何もアクションを起こす気配はない。
(本当に言わないつもりでちか? いや、もしかしたら既に全員には話している?)
様々な憶測が私の頭を駆け巡るが、結局私が依然として拘束されていないことを考えると磯風達が誰かに私の暗殺計画を話した可能性は低いという結論に至った。
全てを知ったうえで私を泳がせておいてもメリットがないからだ。暗殺をしようとしている艦娘がいるならば泳がせているより素直に拘束してしまった方が明らかに手っ取り早い。
だとすれば、磯風は昨日の宣言通り誰にも私のことを話していないのだろう。
『お前がどうして会ったばかりの提督を殺そうとしているのか知らないが、好きにすればいい。絶対にお前は提督を殺せない』
昨夜の磯風の言葉が脳内で再生される。
『殺せないよ。だが、それでも、万が一にでも、お前が提督を殺せたなら、その時は私がお前を殺す』
昨日は少し雰囲気にのまれてしまったが、よく考えてみれば何が「殺せない」だ。私はこのために提督から特別に『訓練』を積まされている。加えて、この艦娘の体。
人間相手に遅れをとるなんて万に一つもあり得ないのだ。
磯風はどうやら私の実力を測りかねているようだが、私を馬鹿にしたことを後悔するといい。
邪魔をしないならそれで結構、私は予定通り事前に考えておいた台詞を話し始める。
「そういえば、昨日、あの後提督はどうなったでち?」
「ああ、あの後少し落ち着きを取り戻した矢矧が提督を引っ張っていって執務室で夜遅くまで説教していましたよ」
「部屋に戻った気配もなかったし、ありゃ多分二人ともまだ執務室でくたびれて寝てるな」
「いえ、矢矧は一時間前位に朝食二人分持って執務室に戻りましたよ? 多分提督も叩き起こされていると思います」
「深夜まで説教の末に即仕事って鬼でちね……」
「はいはい、夫婦夫婦」
「イチャイチャしやがって」
「お前らなんでそんな妬ましそうな反応なんでちか!?」
とにかく、提督は今睡眠不足の上秘書艦にしごき倒されて疲労困憊状態の筈だ。
これは良い知らせと言える。
「矢矧凄い怒ってたからねぇ、これは今日一日執務室に軟禁状態かもねぇ」
「じゃあ、執務室に行けば提督に会えるでちね」
「どうしたんですか? 提督に何か用でも?」
大和が私の言葉に不思議そうに首をかしげる。
その反応も事前に予想済みだ。
「殴りに行くんだろ? 俺も付き合うぜ」
「何言ってんの、訴訟でしょ? 私も付き合うわよ」
「どっちも違うでちよ!? あと付いてくんなでち!」
天龍と瑞鳳の発言からはさっきから提督に対する尊敬や親愛の念を一切感じない。
いらないツッコミが入っておかげで調子が狂う。
「……一応、記憶喪失の私を置いてくれてるでちから、一言お礼をと思っただけでち」
「律儀ですねぇ。あの提督にそこまですることないと思いますけれど」
「お前ら提督のこと嫌いなんでちか!?」
「ゴキブリより全然好きよ」
「比較対象がおかしいでち!」
ここの提督が予想外に艦娘から嫌われているせいで思わず私の方が気遣ってしまう。
「いえいえ、冗談ですよ」
「ただの軽口だぜ」
「あの提督もきっと見えない所で頑張ってるでちよ、もう少し優しい言葉をかけてあげても――――」
いや、何故私は今から殺す相手を庇っているのだ。
言い過ぎた。そう思った時にはもう遅かった。
大和達が目を丸くして私を見つめている。
「伊58は本当にいい人ですねぇ」
「なんつーか、人間ができてるよな」
「そ、そんなことないでち!」
「いやいや、提督にあんな仕打ちを受けてそんな言葉が出るなんて……え、まさか惚れたの?」
「え、そうなんですか?」
「おいおいマジかよ」
「は!? そんな訳ないでち! おい、その顔やめろでち!」
大和、天龍、瑞鳳が一様にニヤニヤしているのが本当に腹立つ。
「ええ、提督よりお姉さまの方が数百倍はいいと思うけれどなぁ」
「お前はそもそも恋愛観がおかしいでち!」
「提督をか……道は険しいが頑張れ、伊58」
「ファイトだよ!」
「おまっ――――」
磯風と美海が私にサムズアップして笑いかける。
(お前らは違うってわかってんだろうがあああああ!)
私は口から出かけた言葉を怒りに震えながら飲み込んだ。
☆
「――ったく、なんなんでちかこの鎮守府の艦娘は! どいつもこいつも無駄にキャラ濃すぎなんでちよ! 」
これ以上茶化されるまいと早々に食堂から飛び出して、私は苛立ち気味に早足で執務室へと歩を進める。
「マジで調子狂うでち!」
ぶつぶつと文句を垂れながら、私は先刻の失敗を悔いていた。
やはり提督について語り過ぎた。
今の私は記憶喪失なのだ。あまり艦娘に関連したことは喋るべきではない。
しかも――――
『伊58は本当にいい人ですねぇ』
『なんつーか、人間ができてるよな』
これから自分達の提督が私に殺されるとも知らずに大和達は私を『いい人』と言った。私がいい人な筈ないというのに。
少し、心が痛む。
「……ああ、もう調子狂うでち!」
もういい。今は任務に集中するべき時だ。
私はセーラー服の内側に忍ばせたナイフの刃の側面を指でなぞる。
ナイフの冷ややかな感触が私の頭を冷静にし、思考を研ぎ澄まさせる。
「行くでち」
準備はできた。
私は執務室の扉をノックした。
「――あら、伊58じゃない、どうしたの?」
扉が開き、中から矢矧が出てくる。
奥には書類の山に埋もれた提督がせわしなく手を動かしている。
「提督に話があって来たでち」
「そう、どうぞ入って」
「失礼しますでち」
「あ、おはようございます、伊58さん。昨日はゆっくり眠れましたか?」
「はい、おかげさまで快眠でち」
執務室の中に通される。中は一面書類の山だった。提督の机は勿論、ソファ、テーブル、簡易ベッド、床に至るまで書類が積み重なって足場もほとんどない。
出撃も、建造も何もかもしていない筈なのに一体何の書類がこれだけ集まってくるのだろうか。
下手をしたら他の鎮守府よりも忙しいのではないか。
私はその執務室に有様を見て思わず小さくではあるが声を洩らしてしまった。
「すみません、いつもはこの10分の1くらいなんですけれど……」
「悪いわね、伊58。今ソファとテーブルの書類全部どかすから、座って頂戴」
「わ、わかったでち」
本来は来客用として使われているのであろう対面するように置かれた一際豪華な二つのソファとその間のテーブルに積まれた書類だけを矢矧が適当なところに動かしてスペースを作り、私に座るように促す。
私が恐る恐るソファに腰を下ろすと提督も書類の山で狭くなっている足場をよろめきながらも慎重に歩いてきて私の対面のソファに座った。
「それで、私に話があるんでしたよね?」
「はい。まずは記憶喪失の身であった私をこうして鎮守府に置いていただきありがとうございますでち」
「いえいえ、困った時はお互い様ですし、それに助けたのは大和達ですよ。私はお礼を言われる程のことはしていません」
「そうね、初対面で女の子のセーラー服脱がせる提督が感謝されるようなことは一つもないわね」
「う、ぐ……」
「そ、それはもう気にしてないでち!」
矢矧の言葉に刺々しいものを感じ、慌てて私はフォローに回ってしまう。
別に数分後には殺す相手を気遣う必要など一切ない筈なのだが。
まぁ、いい。さっさと本題に入ってしまおう。
「それで、実は今朝になって少し思い出したことがあるでち」
「本当ですか!」
「はいでち。あの、それで……そのプライベートなことなので……できればあまり多くの人には話したくないというか……」
言いにくそうに、申し訳なさそうに、上目遣いでゆっくり言葉を切りながら話す。
無論、こういう演技だ。
「ああ! そうですよね、すみません。そういうことなので、矢矧。少しの間外してくれませんか? 話が終わったら扉開けるので」
「……わかったわ。そういうことなら仕方ないわね」
矢矧はそう言って秘書艦用の執務机に置いてある書類の束を抱えると狭い足場を器用に歩いて執務室の扉を開ける。
「じゃあ、私は食堂で書類のチェックを進めておくので終わったら呼びに来てください。提督、くれぐれも手を出さないように」
「わかってますって! 十分に反省しました!」
「ならいいけれど」
そう言い残して矢矧は執務室から出て行った。
これで邪魔者はいない。後は殺すだけ。
心臓の鼓動が急に速くなり始める。
「これでよろしいですか?」
「はい、十分でち」
私は笑顔を装いつつセーラー服の後ろに手を回す。ナイフを隠し持っている場所だ。
ここから0.5秒でナイフを構え、同時に立ち上がって一気に斬りかかる。頭の中、訓練で何度もシミュレートした動きに淀みはない。
私が意を決して重心を前に倒し始めた瞬間だった。
「あ、そうだ!」
「うわぁ!?」
「え!? ど、どうしたんですか、急に大きな声出して」
「す、すみませんでち。びっくりしちゃって」
「それはこちらも申し訳ないことを。それはそれとして、美味しいお茶菓子があるので折角ですし一緒に食べましょう! 今は矢矧もいませんし!」
「え? は、はい……それじゃあ戴くでち」
提督。偶然とはいえ嫌なタイミングで大声を出すものだから完全に斬りかかるタイミングを逃してしまった。
提督はそそくさと書類の束を踏まないよう抜き足差し足で大きめの棚を開いてお茶菓子を探している。
仕方ない。提督が茶菓子を持って戻って来た時。腰を下ろすタイミングで殺そう。
私は息をついて再び棚を漁る提督の背中を見る。
「あ、あれー? 確かこの辺に置いたはずなんですけれど? もっと奥の方だったっけ? ぐあああ! 頭がはまった!」
(……今なら後ろからでも殺せないでちか?)
相当奥行きのある棚なのか提督の頭が棚の中にすっぽり収まっていた。
「あ、そうだ伊58さん。是非見ていただきたい書類があるので読んでみてください」
「え? は、はいでち」
棚に頭を突っ込んだまま提督は私に声をかける。
「伊58さんの後ろに置いてある書類の束の一枚目です」
「わかりましたでち」
私はソファから乗り出して後ろに置いてある書類の一番上の一枚に手を伸ばす。
それを見て私は首を傾げた。
「え、七丈島フェリー時刻表?」
一体なんだこれは。こんなものが執務と何の関係が。
そこで私はもう一つ気が付いた。
「あれ? 二枚目は白紙?」
書類の一番上の一枚を取り去ると二枚目は白紙。試しにもう数枚取ってみるとこれもまた白紙。
(なんでち? とんでもない量の書類が積まれていると思ったら一番上以外白紙? なんで?)
その時だった。
「どうしたんですか? 私を殺さなくていいのですか? 伊58さん?」
「――っ!?」
振り返ると先刻と変わらぬ穏やかな笑顔の提督がすぐ後ろで私を見下ろしていた。
その時やっと気が付いた。
私は、嵌められたのだと。
「気づいていたでちかッ!」
素早くセーラー服からナイフを取り出そうと手を突っ込むが、何故かそこにナイフの感触はない。
「これをお探しですか?」
「私のナイフ!」
いつの間にか提督は私のナイフを手の中で回転させたり放ったりして遊んでいた。
拙い。暗殺は失敗だ。
「ここは……一時退却でち!」
「おっと」
私は執務室を出るべく提督に蹴りで牽制を入れつつソファの背もたれに足をかけて出口の方へ飛び上がる。しかし、私の逃走はそこで終わった。
「しまっ――書類の山!」
床に無造作に置かれた書類の山が着地地点の足場を遮り、そのせいで私はバランスを崩して盛大に転んだ。
「白紙の書類の山の目的はこれでちか……!」
「その通りです」
転んだ私は立ち上がる暇も与えられずにあっという間に提督に組み伏せられる。
その表情は依然として穏やかな笑顔のままであった。
「これはあなたを逃がさないための仕掛け。御覧なさい、あなたと私の座っていたソファの周りを取り囲むように紙の束が置かれているでしょう?」
確かによく見れば最初と配置が僅かに変わっている。
最初に入った時は出入り口やソファの付近、私が着地した場所には書類の束はなかった。
それらの配置を思い出して逃走を試みたのだから間違いない。
『悪いわね、伊58。今ソファとテーブルの書類全部どかすから、座って頂戴』
「矢矧でちか……!」
「まぁ、矢矧にはあなたが私を殺しに来た刺客とまでは教えていませんがね。ただ、こういう風に置いて欲しいと頼んだだけです」
「お前……一体何者でちか!」
私が暗殺者だと知って、むしろ罠にかけたというのか。
普通じゃない。
普通の提督が、暗殺者が来ると知って逆に罠にかけようなどと思うものか。
何より、あまりに手際が良すぎる。
『絶対にお前は提督を殺せない』
磯風の言っていた意味がようやくわかった。
あまりにレベルが違いすぎる。私を組み伏せて笑うこの男は明らかに私よりも格上だ。
「さて、それでは――――」
「わ、私を殺すでちか?」
「いえ、お茶菓子を食べましょう」
「は?」
その言葉と同時に拘束が解かれる。
困惑気味に体を起こして提督の方を見れば、その手にはクッキーの入った高級そうな箱があった。
「とりあえず紅茶でも淹れましょうか。クッキーですしね」
「……は?」
「ほら、ソファ座って待っててください! はい、ナイフも! あ、もう襲ってこないでくださいね!」
「え、あ、はい…………え?」
「さて、お湯を沸かさないと……ティファールはどこにやりましたっけ? あと、茶葉は――――」
さっきとは打って変わってまるで足場の狭さなどないものかのように素早く執務室中を歩き回ってお茶を用意する提督を見て私は何もできず半ば放心状態でソファに座っていた。
「調子狂うでち……」
辛うじて絞り出せた言葉はそれだけだった。
主人公さんが最近空気ですが、ちゃんと活躍の場はあります。
あるはずです。