伊58、提督に返り討ちにされる。
「あれ? 矢矧、どうしたんですか?」
食堂に書類の束を持って現れた矢矧の姿に大和を始めとした七丈島艦隊の面々が声をかける。
矢矧は大きくため息をつくと、大和の隣の席に腰を下ろしてから書類を見て、また一つ大きなため息をついた。
「なんだ? 機嫌悪いな」
「馬鹿ね、天龍。女の子の日なのよ」
「違うわよ!」
機嫌が悪いとわかっていながら軽口を叩く瑞鳳を青筋を立てて怒鳴りつけながら矢矧は乱暴に手に持っていた書類を机に叩きつけた。
「本当にどうしたんですか、矢矧? また提督が何かやらかしたんですか?」
大和が氷の入った麦茶を持ってきながら、瑞鳳とは真逆に恐る恐るといった感じの口調で何かあったのかと尋ねてくる。
矢矧は冷たい麦茶を一気に飲み干して頭の熱を冷ましながら自分を落ち着かせるように数回深呼吸を繰り返すと、叩きつけた書類をもう一度手に取り、視線を戻しながら返答した。
「提督は今自称記憶喪失さんの事情聴取中よ」
「は? ええと? 伊58のことですか?」
「そう、それでプライベートな話だからって私は追い出されたのよ」
「何? それで拗ねてるの? かわいいわねー」
「瑞鳳、監察艦の立場を利用すれば私、あなたに死んだ方がマシと思わせるようなえげつない懲罰を与えることもできるのだけれど――――」
「私が悪かったです。本当に申し訳ございませんでした、監察艦様」
言葉を終える前に躊躇なく土下座で謝罪する瑞鳳に鼻を鳴らしながら矢矧は再び話を戻す。
「全く、なにも一対一でやらなくったって……伊58はナイフも隠し持ってたみたいだったし……」
「あー、セーラー服の後ろに隠してたやつか。そういや持ってたな」
「そうね、あの子が朝食がっついてる間にちょっとくすねて見せてもらったけれどよく手入れの行き届いた良いナイフだったわね。あ、勿論ちゃんと元の位置に戻しておいたわよ?」
「へー、あれ提督に使うために持ってたんだぁ」
天龍、瑞鳳、プリンツのそれぞれの返答に、思わず立ち上がった矢矧の額に再び青筋が浮き出てくる。
「あなた達、気付いてて見逃してたの……?」
「いや、俺他人の主義に口は出さねぇ主義なんだ」
「そうそう、それに他人の物盗んだら泥棒になっちゃうから」
「別にお姉さまに危害がなければどうでもいいもん!」
「わ、私は知りませんでしたよ! 本当ですからね!」
「…………はぁ、もういいわ」
怒りを通り越して呆れた様子で矢矧は椅子に座り直す。
伊58がナイフを隠し持っていたという理由だけでも十分に怪しいというのにあろうことかそれに気付きながら何もしなかったと悪びれることなく告げる彼女達――大和は知らなかったらしいが――を責めたい気持ちはあるが、同時に今更それを叱責したところでどうしようもないこともわかっていた。
矢矧のその様子に天龍は肩を叩きながら励ますように言う。
「ま、大丈夫だろ、提督なら」
「問題ないわ、提督なら」
「どうせ無事だよ、提督なら」
「あなた達ね……」
関心がないのか、それとも全幅の信頼の表れなのか。
矢矧も決して提督が伊58に襲われた所でむざむざと殺されるとは思っていない。そのための策も講じてきた。
ただ――――
「もう少し、私を頼りにしてくれても……」
矢矧がふてくされたようにそう呟く傍らで、その様子を少し離れていた所から見ていた者達がいた。
磯風と美海である。
「だ、大丈夫かな? もしも私達のせいで提督さんが怪我でもしたら……」
「安心しろ、昨日も言っただろう。提督はナイフで襲われた程度では死なない」
矢矧と大和達とのやり取りを聞いていて、伊58の暗殺計画を知っていながら見て見ぬふりをしていることに罪悪感が湧いてきたのか、美海が不安げに磯風の袖を引っ張る。
しかし、磯風は至って落ち着いた様子で机に上半身を倒しながら問題ないと手を左右に振る。
「それに、伊58に提督は殺せない」
「提督さんが強いから?」
「まぁ、それもあるが」
磯風は机の上にだらしなく預けていた上半身をゆっくりと起き上がらせて背筋を伸ばすと、どこか遠くを見つめるように虚空に視線を移しながら言った。
「あいつは、昔の私に似ているからな」
☆
「――どうです? 美味しいでしょう?」
「美味いでち!」
執務室。伊58は成り行きで提督とクッキーを食べながら紅茶を啜っていた。
本来の目的などもう彼女の頭の中からは消えていたし、それ以前にとっくに諦めていた。
なので、どうせ失敗するならいっそのこと開き直ってしまえと伊58は今半ばヤケクソになっているのであった。
「それで、息災ですか?
「……そこまでわかってるでちか」
『犬見』という名前が提督の口から発されると伊58はクッキーに伸ばした手を止めて観念したようにソファにもたれかかる。
「なんでわかったでちか? 鎮守府に関する情報は洩らしていなかった筈でち」
「……知っているかもしれませんが、艦娘とは形式上軍艦の一種として扱われています」
「知っているでち」
艦娘が人なのか、艦なのか。これは艦娘が台頭し始めてから現在に至るまで議論が続く議題である。
彼女達は人と呼ぶにはあまりにも強く、艦と呼ぶにはあまりにも人であった。
次世代の提督を育成する海軍士官学校でもこの手の議題は関心が高く、授業でも大きく取り上げられる他、卒業論文のテーマとして頻出する。
現段階では、大本営は艦娘を『対深海棲艦兵器』として扱うことを取り決めており、故に艦娘に関する手続きはそれに準じた形式をとることになっている。
「例えば、あなた達には一人一人違った個体識別番号が存在します。艦娘の新規獲得にあたっては、まず提督が15桁の識別番号を与え、それを大本営に申請することで正式に艦娘として運用が可能になります。そして、以降その艦娘に関する情報は全て識別番号で管理されるわけです」
所属、艦種、艦名を始めとして、出撃、遠征、演習の戦果、装備の使用履歴、練度、ケッコンカッコカリ、轟沈。その艦娘に関するありとあらゆる情報は全て個体識別番号で管理、統合され、大本営データベースに保存される。
こうして徹底した管理システムにより、各鎮守府、泊地の戦力や運営状況を大本営が正確に把握できる仕組みになっている。
国家規模の戦争において重要視される要素の一つは自軍戦力の透明化である。現在全体でどれだけの戦力があり、またそれがどのように分布しているのか。
国家規模での戦争では自軍の把握すら容易ではなく、またそれが不透明では戦略などたてようもない。
故に、こうした戦力把握に徹底したシステムは未知の敵である深海棲艦との戦争を始める上では必須だったのだ。
「それで、実はあなた達の識別番号は艤装本体に刻印する決まりになっています。伊58型艦娘の場合はセーラー服とスクール水着。その裏地にそれぞれタグが付けてあります」
「マジでちか!?」
伊58は慌ててセーラー服を折り返して裏地を見る。
その時、彼女は気が付いた。
「……昨日私がいきなりセーラー服脱がされたのって」
「はい、識別番号をこっそり確認するためです」
「明らかにこっそりではなかったでちが」
「識別番号さえわかれば後は大本営のデータベースで検索すれば所属している鎮守府や提督の名前などあっさり判明します」
「そいつは知らなかったでち……失敗したでちね。というか、大本営のデータベースってそんなに簡単にアクセスできるんでちか?」
「…………まぁ、はい。徹夜すれば、なんとか入り込むくらいは」
「あからさまに犯罪臭がするんでちが」
あからさまに目を逸らして言葉を濁す提督。
「まぁ! つまり! 昨日私は決して伊58さんに破廉恥な行為をしようとしていた訳ではなく! ただ伊58さんの調査のために、仕方なく! ああなってしまっただけなんです」
仕方なくの語調が不自然なくらいに強調されていた。
「つまり、私は決して変態ではないんです!」
「わかったでち、わかったでちから」
「本当に、違うんです!」
「そこまで必死だと逆に怪しいでちよ?」
その後も何度か同じようなやり取りが繰り返されたせいで、伊58が徐々に提督がもしかしたら本当は好きでやっていたのかもしれない、マジで変態かもしれない、と疑惑の念を強めたのは言うまでもない。
「でも、なんで私が提督を殺しに来たってわかったでちか? まさかそんなことまでデータベースに書いてあるでちか!?」
「いえいえ、そこは半分勘です」
「勘!?」
「でもあなたの提督が犬見中将とわかった時点でほとんど確信していました。彼は昔から悪い意味で大胆な人でしたから」
「……ウチの提督と知り合いなんでちか?」
「ええ、士官学校では同期でした。それに半年前の定例会でも話しましたよ」
海軍では鎮守府、泊地の提督が定期的に横須賀で情報交換をする定例会というものがある。参加、不参加は任意の上、そもそも出撃しないため交換すべき情報を持たない七丈島鎮守府にはそもそも定例会の連絡すら普段は回ってこない。
ただし、半年前の定例会は別だった。
提督はある要件で定例会に召集を受け、定例会への出席を強制されていた。
「以前、横須賀近海まで侵攻してきていた深海棲艦の一艦隊。それを横須賀艦隊と協力という形で撃沈しましたからね。七丈島鎮守府が支持を得たことで早急に私を潰しにかかったのでしょう?」
「大体そうでち……」
以前、横須賀艦隊――二隻だけの艦隊だったが――が七丈島鎮守府を訪れた際、侵攻中の深海棲艦の艦隊を横須賀艦隊と七丈島艦隊で撃沈している。
実際はほとんど横須賀艦隊の二隻が片づけてしまったのだが、一応旗艦の戦艦タ級一隻を沈めたことで神通と夕張が気を利かせて『協力して撃沈』という報告をしてくれたのだろう。
これにより、今までその存在の必要性を疑問視されていた七丈島鎮守府はようやくその目的である『臨時戦力の保存』の有用性を示すことに成功し、七丈島鎮守府についての見方は変わりつつあった。
半年前の定例会はその事後報告と改めて七丈島鎮守府の存在意義について議論し直すために提督から直接説明をするよう求めたものであった。
定例会ではその実績を高く評価され、議論ではそのほとんどが七丈島鎮守府の今後の展望や運営への援助など、存続を前提とした意見が多く挙げられ、七丈島鎮守府存続反対派は目に見えて弱体化していた。
七丈島鎮守府という存在はこの定例会をもって他の鎮守府、泊地の提督達から一定の支持を得たと言える。
「犬見中将は定例会でも終始反対意見を主張し続けていましたよ」
「提督の意見は間違ってないと思うでち。私もこの七丈島鎮守府は危険だと思ってるでち」
「まぁ、彼の意見を真っ向から否定することはできませんでした」
定例会の議論時、犬見中将の七丈島鎮守府存続についての反対意見の主柱は七丈島鎮守府に所属する罪艦達の危険性であった。
罪艦がもたらすであろう味方への被害とそれによる作戦成功率の低下、不安要素の混入による艦隊士気の低下などを挙げ、メリットに対してデメリットが大きすぎることを主張した。
そして何より、罪艦の信頼性の低さを強調した。
「一度仲間に手をかけた奴を戦力として信頼しろなんて言う方が無理な話でち」
「……確かに、罪を犯したのはどうしようもない事実。信頼できないというのもよくわかります。でも、だからこそ、これから彼女達がもう一度信頼を勝ち取るためにこの鎮守府が必要なんです」
「まるで平行線でちね。罪人は信頼できないと言えば、信頼はこれから勝ち取っていくだなんて」
伊58は呆れたように呟くと先刻返してもらったコンバットナイフを再び提督の方に向ける。
「悪いけれど、提督の命令通りお前はなんとしてでも殺すでち。七丈島鎮守府は存続させてはならないんでち」
「……三日ください」
「でち?」
「三日間、この鎮守府で過ごして、それでもまだここが危険だと言うのならば仕方ありません、大人しく殺されましょう。しかし、もし考えが変わったのならば、そのナイフを収めて犬見中将の元へ帰ってその旨を報告していただきたい」
「そんな提案に乗るとでも思ってるでちか?」
「この提案をのんでくれないのならば仕方ないので今からあなたをフルボッコにします」
「うぐ……」
既に伊58に選択の自由はなかった。
今、目の前にいる標的は実力的に格上。真正面から向かい合ってしかも周りを書類の山で囲まれ、動きも制限されるこの状況ではどう見積もっても拘束されておしまいだ。
今伊58が提督を暗殺するために必要な条件はまず、この部屋から出て仕切り直すことだ。ならば、伊58は提督の提案を承諾する以外に選択肢はなかった。
だが、選択肢はなくともやりようはある。伊58の中にこの提案を利用した妙案が浮かんでいた。
「三日間でちな?」
「ええ、三日間です。それで駄目なら私の命は差し上げます」
「そんな口約束は信用できないでちな」
「私は絶対に約束を違えません」
「じゃあ、これを飲むでち」
「これは?」
伊58が提督に渡した瓶にはコップ一杯分程度の無色透明な液体が入っていた。
「毒でち。摂取しても体に異常は起こらず、五日後に突然心臓麻痺を引き起こす新型の毒薬でち。そして、その解毒薬は私だけが持っているでち」
「成程、そういうことですか」
「三日後に私の考えが変われば解毒剤をやるでち。変わらなければお前はそのまま死ぬでち。約束を違える気がないのなら、勿論飲めるでちな?」
「ええ、当然です」
伊58の挑発的な笑みに、提督は穏やかに笑い返すと、何の躊躇もなく小瓶を開け、その中身を一気に飲み干した。
「これで、よろしいですか?」
「わからないでちな。なんで、そこまでする必要があるでち? 私なんてさっさと捕まえて沈めるなりなんなりすればいいでち」
「それじゃ、駄目なんです。また同じことの繰り返しになるだけで、永遠に分かり合うことなんてできない。だから、私達から歩み寄る必要があるんです。あなた達にもこの鎮守府を認めてもらうために。それは、私の命を賭ける価値のあることです」
「……馬鹿でちな、お前。まぁ、三日間で考えが変わるなんてありえないでちが、付き合ってやるでちよ」
そう言って伊58は執務室から出て行った。
「頼みましたよ、皆さん……!」
こうして大和達の知らぬ間に、提督の命は彼女達に託されたのであった。
定例会に呼ばれないのは出撃しないからではなくて変態だからなのでは、というツッコミは提督のメンタルが轟沈するのでNG
そして、もう五十話までに終わる気がしない、磯風編。