鏑木美鈴、登場。
叢雲、復活。
鉛色の雲が空を覆い、日の光を塞いでいた。
あと数十分もすれば雨でも降り始めるかもしれない。
「――敵艦、捕捉。戦艦1、軽空母1、駆逐艦3だよ、どうする?」
空母からの索敵報告が俺達に告げられる。
以前なら第二艦隊の旗艦である龍田から陣形の指示が即座にとんでくる。
だが、今は違う。
「そう、私が行くわぁ。皆はここで待機しててねぇ」
そう言い残し、龍田は俺達に目もくれず、艦隊を離れ、一人深海棲艦に突撃していった。
その龍田の行動に最早異を唱える者は俺を含めて誰もおらず、全員、指示通り足を止めた。
「……またか」
「ねぇ、天龍。やっぱりおかしいわよ、最近の龍田」
ため息をつく俺に暁が眉間に皺を寄せながら言う。
「あれじゃ、まるで――――」
「少し前の俺みてぇだって言いてぇのか?」
一人で敵陣に突っ込んでいっては敵を壊滅させて帰ってくる。
仲間との協力など頭の片隅にもない。自分勝手な暴れ馬。
天眼を通して見えた数キロ先の龍田の姿はまるで以前の俺、暴れ天龍そのものだった。
「いや、実際なんか知らないけれど滅茶苦茶強くなってるし、一人でも勝てるってのはわかんだけどね~」
「それでも、流石にああやって全部一人でやっちゃうのはさ」
「なんか暗に私達が足手まといって言われてるみたいで気分悪いよね」
艦娘達の陰口を聞こえないふりしながら天龍は唇を噛んだ。
拙い、龍田が艦隊の中で孤立し始めている。
「ただいま~、ごめんね待たせちゃって」
「お、おう……あのな、龍田――――」
「――二時方向に新たな敵影出現! 戦艦1、軽巡1、空母1、駆逐3!」
俺の言葉が、敵影の発見によってかき消される。
「またぁ~? しょうがないわねぇ、もう一回行って来るわぁ~」
「た、龍田!」
「ん? なぁに、天龍ちゃん?」
俺の声に足を止めていつものように笑ってこちらを向く龍田。
しかし、そこに以前の彼女の面影はない。
彼女の目に若干苛立ちの色が見えたのだ。深海棲艦を倒しに行こうという時に水を差すなとでも言いたげだ。
「つ、疲れてんじゃねぇか? 俺も、行くぜ?」
「……いえ、いいわ。天龍ちゃんはここを動かないで」
「い、いや、でもよ!」
「旗艦命令よ。艦隊において旗艦の指示は絶対。教えたわよね?」
「あ……」
そう取り付く島もなく、龍田はまた深海棲艦の艦影に向けて走っていった。
「天龍……」
「心配すんな、龍田は大丈夫だ! まぁ、確かに龍田ならあの程度俺がいなくても余裕だろうしな!」
暁が心配そうに俺を見つめる。それに空元気で応えつつも、笑顔が自分でも力のないものであるとわかる。
「うわ、天龍にまであの態度とか」
「なんか、龍田さん、嫌な感じだよね」
「それよか、最近深海棲艦の出没数多くない? 体感、普段の3割増しくらいなんだけど」
駄目だ。このままじゃ駄目だ。
わかっている。そんなことは痛いほどわかっているのに、何をどうすればいいのか、わからない。
☆
鎮守府に俺達が帰ってきた時には雨が降り始めていた。
「龍田、お前、大丈夫かよ?」
鎮守府に帰ってきてから、俺はすぐに龍田の肩を掴んで声をかけた。
少し気だるそうな表情ではあったが、それでも彼女は俺を見ると、すぐに笑顔をみせた。
「なぁに言ってるのよ。全然無傷よぉ~? 天龍ちゃんも見てたでしょ? 私の無双っぷり」
「ああ、鏑木美鈴、だっけか? そいつに施術とやらを受けてからはとんでもなく強くなったな」
「そうでしょう? 鏑木提督も予後は良好だから、このままちゃんと『これ』の使い方さえ守っていればなんの影響もないだろうって」
そう言って、龍田は既に空になったペン型注射器を見せて声を弾ませた。
この薬が龍田の戦闘力を何倍にも増幅させているらしい。
薬を打つだけでそんなに強くなれるものなのか疑問ではあったが、事実、龍田は薬を摂取してから数時間は以前の何倍にも強くなっている。
最早誰も勝てないんじゃないかと思うくらい、龍田は圧倒的な力を手にしていた。
だが、その薬を使い始めてから龍田は変わり始めた。
さっきの単騎突撃もそうだが、どこか自分の力に陶酔しているように思えるのだ。
「龍田、もうそれやめろ」
渾身の勇気を振り絞って、俺は言った。
案の定、龍田から笑顔が消え、表情が険しくなる。
「は? 何言ってるのよ、天龍ちゃん、冗談でも笑えないわよぉ?」
「冗談じゃねぇ」
以前のお前はそんな奴じゃなかった。
俺を救ってくれたお前は皆から慕われていて、努力家で、それでいて他人を尊重してやれる奴だった。
その実験が始まってからだ。何もかもおかしくなったのは。
しかし、俺の言葉に対して返ってきたのは、龍田の冷笑だった。
「なぁに、天龍ちゃん。いっちょまえに私に説教でもするつもりぃ?」
「そんなんじゃねぇよ! でも、今のお前は……」
「……まぁ、天龍ちゃんにはわからないでしょうねぇ。私の気持ちなんて」
「わかってる! 少なくとも以前のお前は! そんな怪しい実験だか薬だかで得た力を良しとするような奴じゃなかっただろ! もっと、鍛錬を重ねて――――」
「はぁ、やっぱり」
龍田は俺に対して呆れたように首を振ると、静かに、俺を睨みつけた。
「天龍ちゃんには私の気持ちなんてわかりっこないし、わかって欲しくもないわぁ」
「おい、待てよ、話はまだ――――」
「触らないで!」
踵を返す龍田の肩を反射的に掴んだ。
しかし、龍田はそれを片手で掴み、とんでもない力で真上へ振り上げる。
体がいとも容易く宙に浮き、視界が反転する。次いで床に叩きつけられた衝撃と共に景色が歪んだ。
「痛ってぇ……」
「ごめんなさい……でも、何と言われようと実験はやめるつもりないわぁ」
床に倒れたままの俺を置いて、龍田はその場から立ち去って行った。
「あはは、また喧嘩? 本当に仲が良いわね」
「……何しにきやがった、テメェ」
「そう怖い顔しないでよ。龍田の様子の定期報告よ。鏑木提督から命令受けてるの、聞いているでしょ?」
倒れている俺の顔を上から覗き込むのは、叢雲だ。
龍田が鏑木美鈴の実験に参加してから、その定期観察のため週に一度舞鶴鎮守府を訪ねてくる。
彼女の所業は舞鶴鎮守府の人間には知れ渡っている訳で、俺を含めたここの艦娘の彼女に対する態度は極めて冷淡だ。
しかし、そんな雰囲気を察して尚も彼女は意にも介さず、我がもの顔で鎮守府に出入りしている。周りからの敵意の視線を嘲笑し、楽しんでいるようにも見えた。
「そもそも、テメェがあの時ウチに来なけりゃ……!」
「まぁ、確かにキッカケとなったのは私かもしれないわね。でも、それはただのキッカケであって原因じゃないのよ。龍田は遅かれ早かれ、力を求めてああなっていたと思うけれどね」
「また適当ほざいて俺達を弄ぼうって腹か、テメェ」
「適当なことを言った覚えはないわ」
叢雲は目を細め、唇を尖らせた。
「以前も話したでしょう? 龍田はとっくにピークを過ぎてる艦娘だって」
「それがなんだよ」
「龍田は弱さが許せない」
叢雲は俺の反応を楽しむようにさらに続けて言った。
「何故なら、成長を止め老朽化していくだけの存在に価値はなく、己の弱さが仲間を殺すことを理解しているから」
「そんなこと……」
そんなことはない、と否定できなかった。
実際、龍田の鍛錬に対するストイックさは嫌という程味わってきたし、彼女が『強さ』に並々ならぬ執着を抱いていることは薄々気が付いていた。
「一方で、今メキメキと力を付けている才能に溢れた天龍。一年もかからず龍田が数年がかりで辿り着いた地点を容易く通り越すあなたを見て、龍田はどう思ったのかしら? 決して、あなたの成長を喜んでいただけではない筈よ」
かといって、龍田はその複雑な感情を周りに当たり散らす程程愚かではない。
むしろ、あいつはもっと性質が悪い。
龍田は、自分に対して怒るのだ。自分の弱さに対し、情けないと。傷だらけの身体と心にそれでも鞭を打つ。
彼女の怒りは、人知れず彼女自身を炙り殺していくのだ。
「そんな時、私達が来た」
鏑木美鈴、そして、急激に強くなっている叢雲。
この誘惑に、龍田が抗えただろうか。
力への渇望で満身創痍だった彼女に、鏑木美鈴の申し出はまさに釈迦の垂らした蜘蛛の糸に等しかっただろう。
「ねぇ、天龍? 強くなりたいって思うことの何がいけないことなのかしら?」
「…………」
「龍田は今、あんなに幸せそうじゃない? それを奪う権利があなたにあって?」
聞くな。こいつの言葉には毒がある。
聞けば聞く程、何が正しいのかわからなくなっていく。段々と思考が麻痺して、そして、気が付けばこいつの手中で身動きがとれなくなる。
こいつは毒蜘蛛だ。人を惑わし、絡めとる魔物だ。
「あなたの言葉じゃ龍田には響かない。恵まれたあなたじゃ、龍田には寄り添えない」
それでも、彼女の言葉は、俺の頭の中で反響して、目の前を真っ暗にしてしまった。
☆
「あんた、何かあったでしょ」
食堂で夕食をとっていた俺の目の前の席に、暁が腰を下ろした。
「……別に」
「その様子だと、龍田の説得に失敗したみたいね」
あからさまに大きなため息をつく暁に、俺は少し苛立ちを覚えた。
「仕方ねぇだろ。俺とあいつは違ぇんだからよ」
「は? 何それ、あんた本当にどうしちゃったわけ?」
暁も俺の返答に怒気の籠った口調で返す。
気が付けば、お互い、睨み合いを始めていた。
「俺にはどうせ龍田のことなんざわかんねぇし、もう知るか。あいつの好きにすりゃいいんじゃねぇの?」
「ちょっと、何その投げやりな態度。何無責任なこと言ってんのよ」
「もうどうでもいいんだよ、面倒くせぇ」
次の瞬間、俺の顔面に味噌汁がぶちまけられた。
暁が自分のお盆に乗っていた味噌汁の椀を俺に投げつけたのだ。
「馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけれど、よもやここまでとはね。見下げ果てたわよ、天龍」
「……へぇ、上等だよ、ちんちくりんがよぉ。そういや、久しく喧嘩はしてなかったっけなぁ!」
お互い、同時に立ち上がり、殴り合いが始まった。
その騒ぎに周りの艦娘達もすぐに止めに入ってくるが、俺も暁も意にも介さず制止する腕を強引に振り払う。
きっと互いに、相手の顔面に拳をめり込ませることしか考えてなかった。
「たった一回駄目だっただけですぐ諦めるとか! どんだけ豆腐メンタルよ、この意気地なしがぁ!」
「テメェにはわかんねぇだろうよ! 仕方ねぇだろうが! 俺とあいつは根本的に違ぇんだから! 俺が何言ったって届かねぇんだからよ!」
「そんな程度のことが諦める理由になるわけないでしょ、クソ馬鹿!」
「じゃあ、どうしろってんだよ! 人に説教する前にテメーでどうにかしてみやがれ!」
「それがわかったらとっくにやってんのよ、そんなこともわかんない訳!? 本当に馬鹿ね!」
「テメェも一緒じゃねぇか!」
「私はあんたみたいに諦めてふてくされてないわよ! 一緒にすんな!」
「何もできねぇ癖に言うことだけはご立派だなぁ、ちんちくりん!」
「本ッ当に粗暴で低俗で、救いようのない馬鹿! レディじゃないわ!」
俺も暁も、ガードも回避もしなかった。
互いに鼻血まみれになりながら殴られるまま殴られて、怒鳴りたいだけ怒鳴りあった。
「――おい、天龍、暁!? 何やってる!」
その後、騒ぎを聞きつけてきた提督と応援にかけつけた艦娘達によって俺達は拘束され、二人揃って営倉にぶちこまれた。
「…………」
「…………」
しばらくの間俺達の間に会話はなかった。
沈黙に空気の重みをひしひしと感じながら、俺がふと隣の暁を見ると、彼女は正座で床に座しながら、声もなく涙を流して泣いていた。
「な、何泣いてんだよ!?」
暁が泣いている所というものを今まで見たことがなかった。
こいつは、身体は小さいが見た目ほど子供ではない。弱音を吐きそうになっても、黙って前を向ける強い奴と内心では認めていた。
そんな彼女が嗚咽一つ洩らさず、涙を流す姿を見て、思わず声が出てしまった。
「だって、私、本当に、何もでき、ないから……!」
しゃくりあげそうになるのをこらえながら、暁は答える。
どうやらさっきの喧嘩中にぶつけた台詞が存外効いているらしい。胸中を罪悪感が埋め尽くした。
「………ったよ」
「え?」
俺が小声で呟いた言葉を、暁は聞き取れなかったらしく、こちらを向いて聞き返す。
それに対し、顔が紅潮するのを見られないようそっぽを向きながら、今度は大声で怒鳴る様に言った。
「だから、俺が悪かったって言ったんだよっ!」
「…………」
暁は涙も忘れてぽかんと口を開けてこちらを無言で見つめている。
「その、あれだ、ちょっと色々あって、むしゃくしゃしてたんだよ。つい八つ当たりしちまった。酷ぇこともたくさん言った。だから、すまん」
罪悪感と恥ずかしさから依然目は合わせられなかったが、俺は暁に向き直り、改めて頭を下げた。
瞬間、暁も床にぶつける勢いで頭を下げた。
「私もごめん! ついカッとなっちゃって……あんたに酷いこと言って、ごめん。私の方こそレディじゃなかったわ」
「…………」
「…………」
しばらく、二人とも同じ姿勢を維持していた。
不意にどちらからともなく、噴き出すような笑いがこぼれ、すぐに営倉内を笑い声が埋め尽くした。
☆
「――また、叢雲なのね。本当にあいつ、余計なことしかしないわね」
「いや、真に受けちまった俺のミスだ。あいつの言葉も間違っちゃいねぇと思っちまったんだ」
「確かにね。あんたと龍田は正反対だしね。天龍の言葉じゃ龍田に届かないってのも一理はあるかもしれないけどね」
「でも」と言って、暁は床を叩いた。
「それでも、龍田は諦めなかったわよ」
「――っ!」
そうだ。俺の言葉が龍田に届かないように、あいつの言葉もかつて俺には届かなかった。だからこそ、俺は一年前、叢雲にいいように利用されるハメになった。
それでも、今、俺がここにこうして生きているのは、龍田が俺を諦めないでいてくれたからだ。
馬鹿か、俺は。なら、俺が諦める道理なんてどこにもないじゃないか。
「……ありがとな、暁。たった今、完全に目が覚めたぜ」
「お礼なんていいわよ、仲間でしょ――――ってちょっと待って!? 今、あんた私のこと暁って呼んだ!?」
「もう、ちんちくりんとは馬鹿にできねぇからな。いっぱしのレディだよ、お前は」
俺の言葉に、みるみるうちに暁の顔が真っ赤になっていくのが薄暗い営倉でも見て取れた。
「な、何よ、急に……普通に嬉しいじゃない」
テレテレと恥ずかしさ半分、嬉しさ半分で頬を緩ませる暁を前に、俺はおもむろに立ち上がった。
そして、暁に、そして自分に言い聞かせるように、叫ぶ。
「誓う! 俺は、何があっても龍田の味方だ! 俺はあいつを絶対に諦めない!」
「勿論、私もよ! 何があろうと絶対に離れないわ!」
それを聞いて、暁もすぐに同じく立ち上がり、二人揃って、営倉で誓いの言葉を叫んだ。
少し、手間取ったが、もうぶれない。もう折れない。
揺るがぬ決心を刻み、ようやく雲間から光明が差してきたと思えた、その時だった。
「――っ! なんだ、爆発!?」
地面を揺らし、営倉内まで聞こえてくる轟音。
それが、後に『舞鶴の百隻斬り』と呼ばれる、俺の人生史上最低最悪の悪夢の始まりの合図だった。
過去編、最後の山場へ。