俺ガイル短編集   作:黒猫withかずさ派

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新作ではありません。編集作業のための投稿をお許しください。


その瞳に映る光景~雪乃の場合

 

 

                                  

 約束の時刻はとうにすぎているわね。11時にはデートに出かけられると言っていたのに、今はもう12時じゃない。

 いくら我慢強い私だって、今日だけはもう我慢できないでいた。いらだちを募らせて、おもわず爪を噛みそうになるのをぐっとこらえた。今日という日を一週間も前から指折り数えて、八幡に甘えるのを待ち望んでいたのだから。

 それは一週間前のこと。

 これはけっして八幡が悪いわけでも、由比ヶ浜さんが悪いわけでもないわ。私も八幡も、由比ヶ浜さんの勉強スケジュールを詰め過ぎていたからいけなかったのよ。

 だから由比ヶ浜さんが風邪で倒れて、グループ研究での由比ヶ浜さん担当箇所に出てしまった。その結果としては、八幡が由比ヶ浜さんの分までレポートをやることになっても、それは当然の流れよね。

 八幡が由比ヶ浜さんを見捨てるわけないし、私も八幡が由比ヶ浜さんを見捨てる事を許すわけがないもの。

 それに、由比ヶ浜さんは風邪で勉強が遅れてしまうのだから、なにもしないでいると由比ヶ浜さんの今後の負担ばかりが増えてしまう。今でも無理をして勉強を頑張っているのに、これ以上由比ヶ浜さんの負担を増やすわけにはいかないものね。

 だから、私が八幡に甘えるのを我慢して、八幡がレポートに集中できるように私がサポートするのが当然の流れだった。

 でも、それも今日の午前で終わる。朝食の時に八幡が遅くても11時には終わるって言っていた。しかもその後デートに出かけようとも。八幡の疲労を考えればそのまま寝かせてあげたい。

 でも、その時の私は自分の感情を最優先にしてしまった。約束してくれた時には、情けないけれど、泣きそうになってしまった。この男をこうまで好きになるだなんて、出会ったころには思いもしなかったわね。

 ふふん……、でも、悪くはない、かしらね。むしろ心地よい敗北感に満たされているわ。

 さてと、約束の時間から1時間も過ぎたのだがら、デートの約束をしている彼女としては、彼氏の様子をみるくらい問題なんてあるはずもないし、文句なんて言わせないわ。

 私はひんやりとするドアノブをゆっくりと音をたてないように回す。5センチほどドアを開けて、その隙間から聞こえる音に意識を集中させると、せわしなく鳴り響くパソコンのキータッチの音も、参考資料を漁る音も聞こえてはこなかった。。

 けたましい音で溢れていた部屋も、レポートにいそしむ熱気も既に冷やされ、部屋は緩やかな時間を取り戻しているようであった。ファーストステップでの成果は芳しくなかった私はドアの隙間から覗き込むが、八幡の後ろ姿しか見えない。

 ここからではよく見えないわね。動いている様子もないし、約束の時間も過ぎているのだから、部屋に入っても大丈夫よね?

 私はもう一度自分に言い訳をすると、意を決して部屋のドアを全て開けた。

 けれど、八幡は振り返りはしなかった。

 音をたてないようにあけたから気がつかなかったのかしら?

 何かおかしいと不審に思ったのだけれど、八幡に早く会いたいという誘惑には抵抗できなかった。

 

「八幡?」

 

 声を小さく声を震わせる。

 彼女だというのに、おどおどしすぎね。でも、八幡が悪いのよ。大切な彼女を一週間もほうっておいたのだから。

 

「八幡?」

 

 もう一度声をかけてみたのだけれど、八幡の声を聞くことができなかった。

 どうしたのかしら?

 私は八幡が座るローテーブルの隣まで歩み寄る。膝を折り、八幡の隣に座ってみたのだけれど、それでも反応がなかった。それもそのはず。なにせ八幡はテーブルに顔を突っ伏して寝ているのだもの。

 通りで部屋が静かなわけね。時間が過ぎても出てこれないわけだわ。私はうきうき気分で部屋のドアの前で朝から待機していたというのに、八幡はそんな彼女の気持ちも知らずに、よくもぐうすか寝られるわね。

 最近私の存在を軽くみているのかしら? それとも、今日のデートを楽しみにしていたのは、私だけだったのかしら?

 答えがない不安を募らせながら八幡の寝顔を見つめていると、その不安はいつしか不満へと

変化していく。

 どうして私ばかり我慢しなければいけないのかしら? 大学でだって学部が違うから、ずっと一緒にいられるわけでもないのよね。その点、由比ヶ浜さんはずるいわ。八幡の隣に常にいられて。

 ガタっ。

 突然発せられた物音に私は身を固くする。八幡を見つめながら、いつしか思考に没頭してしまったようだ。

 

「う、うぅん……」

 

 どうやら八幡が寝返りをうったらしい。今までは八幡の後頭部しか見えてはいなかったのだけれど、寝返りを打つことにより八幡の寝顔を私の目の前に放り出される。

 私は思わず目を見開いて凝視してしまった。八幡の寝顔なんて、毎日のように見ているはずなのに、今朝だって八幡への可愛い恨みを込めながら寝顔を堪能していたというのに、急に無防備な姿をさらけ出されては、きゅんって心が揺さぶられてしまう。

 ……そうだわ。この寝顔をいつでも見られるように写真を撮っておきましょう。どうして今まで気がつかなかったのかしら?

 もし毎日写真を撮っていたのならば、この一週間もう少し元気に過ごせていたかもしれないのに。けれど、無駄ね。私がそんな写真だけで満足するわけがないもの。

 写真を撮ることよりも、今目の前に八幡の寝顔を堪能し始めようとしたが、うずうずしだしてしまう。このままでは落ち着かない。

 私は声が出ないようにひっそりとため息をつくと、リビングに戻ることにした。

 

 

 

 1分後。

 私は再び音も立てずに八幡の隣へと戻ってきてしまった。

 いいえ。戻ってきてしまったのではなく、本当はリビングに携帯を取りに行っただけ。だって、この寝顔。携帯に保存しておけば、いつでも見られるじゃない。

 だから私は携帯のカメラ機能を起動すると、ゆっくりとレンズを八幡に近付けていく。ピントが合い、これでようやく八幡の寝顔を手に入れられる思いを胸にシャッターボタンを押す指に力を加えようとしたが、すんでのところで指が止まる。

 ……このままでは駄目だわ。このままシャッターを押してしまったら、シャッター音がしてしまうもの。

 耳もとでシャッター音がしてしまったら、いくら気持ちよく寝ている八幡でも起きてしまう。

 うかつだったわ。早く写真が欲しいからといって、安易に携帯電話を選択したのが間違いだったようね。これはいつもの私からすれば、あってはならないミス。危うく最高の機会を見逃すところだったわ。

 私はもう一度ため息をつくと、再びリビングに戻ることにした。

 

 

 

 40分後

 

「むふぅ~~っ」

 

 鼻息荒くミラーレス一眼カメラを手から離す頃には、幸せで満ち溢れていた。

 もうお腹いっぱいだわ。さすが私。カメラの才能もあってよかったわ。

 いいえ、才能なんて陳腐な言葉で片付けるなんて、私も撮影で疲れているのかしらね。

 魂を込めて八幡をカメラのレンズに収めてきた結果がここにあるのだわ。今までの撮影経験がなければ、きっと今日の収穫に満足できずに絶望を味わっていたはずよ。

 昔はカメラで撮られると魂がとられてしまうだなんて迷信があったけれど、あれは嘘ね。被写体の魂ではなくて、撮影者の魂が削れられているもの。

 さてと、そろそろ八幡を起こさないといけないわね。

 私が壁時計を見ると、時計の針はもうすぐ1時を示そうとしていた。

 私ったら、40分以上も撮影していたのね。もともと体力に自信がない私だけれど、日ごろの鍛錬のおかげで、多少は体力がついたのかしら?

 それに、八幡と毎日大学まで自転車で通っているのも、いい結果をうんでくれたみたいね。

 八幡を起こそうと肩に手を伸ばそうとしたが、私は途中で動きを止めた。

 もう少しだけ見ていても問題ないわよね? あと10分くらい遅くなったとしても、たいして変わり映えしないもの。

 それに、レンズ越しよりも生身の八幡をもっと見ておきたいわ。けれど、人の欲なんて際限ないのだから、ここは心を鬼にして起こすべきかしら。

 私は再び八幡を起こそうと、今度は耳元に顔を寄せていく。

 肩を揺さぶって起こすよりも、私の声の方が八幡の気持ちよく起きられるわよね? 私だったら八幡の声で目覚めたいもの。

 さらりと顔に垂れ下がってくる髪を耳の後ろへと撫で流して、八幡の耳元に顔を近づけていく。ゆっくりと、ゆっくりと近づけていったが、八幡まであと5センチと迫ってもその勢いを減速させる事はなかった。

 私の唇が、八幡の頬によって軽く押し返される。

 何度もキスを繰り返してきたというのに、味わったことがない高揚感が私を襲う。微笑ましい頬へのキスだというのに、情熱的なキスと同じくらい私を酔わせる。

 体中に熱い衝動が駆け巡り、体がピクリと反応してしまう。その衝撃が私の唇から八幡に伝わってしまうのではないかと思えて、おもわず八幡の頬から唇を離してしまった。

 キスを終えた私には、今までにない恍惚と背徳感が溢れていた。今までだって寝ているときにキスしたり、いたずらしたこともある。写真だって撮ったこともある。

 でも、今の気持ち……、一週間も我慢していたせいかしら?

 未知なる衝動に戸惑いを隠せない。

 いくら考えたとしても、答えなんて出ないのかもしれないわね。だったら、もう一度経験すれば済む事だわ。

 もう一度頬にキスしようと近づいていくと……。

 

「ん、……うぅん」

 

 八幡が寝返りをうち私を驚かす。この時ばかりは、背徳感というよりも罪悪感が優先されていた。

 猫のように物音を立てずに身を浮かせると、ふわりとその場を離れる。二メートルくらい八幡から距離をとると、まさしく猫のごとく警戒を始める。両手を前に伸ばして、しっかりと両手両足で床を掴む。

 身を低くして様子を伺っていると、どうやら今回も寝返りだけですんだみたいだった。

 警戒感が少しずつ解けていく私は、前方でしっかりと床を掴んでいる前足の方へと体重を移していく。

 そして私は前足後足を器用に使ってペタペタと再び八幡の元へと戻っていった。

 なんで私がこそこそとしないといけないのかしら? でもこのスリル、悪くはないわね。

 そう妖艶に頬笑みを浮かべると、もう一度キスをしようと顔を近づけようとする。

 今度は口にしようかしら? もう起こさないといけないのだし、キスで起こすのもいいわね。

 しかし、すぐさまその考えは断念しなければならなかった。

 この角度からでは唇にはキスができない。八幡が寝返りを打ったせいで、キスをすることができなかった。

 どうしようかしら?

 私はローテーブルに両腕をのせて顔をうずめると、じぃっと八幡を見つめながら考えを巡らせていく。

 ほんとうに気持ちよさそうに寝ているわね。効率が悪くなるからって徹夜はしないと言っていたのに、期日に間に合わせる為に相当無理をしていたわね。

 私は無意識のうちに手を伸ばして、八幡の髪を撫でていた。慣れ親しんだ柔らかい感触が手と溶け合ってゆく。指先と絡み合う髪の間をすり抜けていくのを、何度も何度も堪能する。

 私が隣にいるっていうのに、なんで寝ているのよ。

 いつしか私の瞼も重くなってゆく。

 きっと幸せそうに寝ている八幡を見ているせいね。でも、このまま寝てしまうと、ちょっと寒いかもしれないわね。

 私は八幡の体に身を寄せて暖をとると、睡魔に身を任せることにした。

 

 

 

 私が睡魔から解放されると、すっかりと日は暮れて西日が差しこんできていた。ぬくぬくと身をくるむ温かさが気持ちがいい。それもそのはず。八幡という暖房器具だけでなく、タオルケットまでかけられていた。

 八幡の肩を借りたまま寝てしまったのね。でも、タオルケット?

 私はタオルケットの真実を探ろうと目をしっかりと開くと、目の前には八幡の顔が迫って来ていた。閉じかけていた八幡の瞳が私の瞳と交わり、大きく目を見開いていく。

 けれど、八幡の反応はそれだけで、驚いたのは私だけであった。

 

「おはよう」

 

 八幡はさも当然という顔をして目覚めの挨拶をしてくる。

 私に勝手にキスをしようとした事を悪びれる様子もなく、いつもの心を落ち着かす声。

 私も勝手にキスをしたけれど、少しは慌ててくれてもいいじゃない。

 

「おはようのキスはしてくれないのかしら?」

 

 八幡はキスをしてはくれなかった。息遣いさえ聞こえる位置まで接近していた顔は、すでに十分距離をとっている。

 

「あぁ、それな。タイミングっていうか、なんというか……。一度タイミングを逃してしまうと気まずいんだよ」

 

「そうかしら? 私がしてもいいって言っているのだから、気まずいはずなんてないわ」

 

「どういう理論だよ。俺の気持ちの問題だぞ」

 

「それとも私におねだらりを要求するのかしら?」

 

「そういう趣味はねぇよ」

 

「そうかしら? ベッドの上では大胆なくせに……」

 

「ん? とりあえず聞こえなかった事にしていいか? えっと……、なんだって?」

 

「はぁ……、もういいわ」

 

 私が不満げな表情をいくら浮かべても、八幡はキスをするつもりはないようだった。

 もう少し女心というか、私の気持ちを理解してほしいわね。この際女心はいらないから、いえ、むしろ覚えさせるべきでなはないけれど、雪乃心だけはマスターさせるべきね。

 そう小さく盛大な決心を秘めると、今回のキスはなくなく諦めることにした。

 

「もう5時だな。どうする? 時間が時間だし、外に何か食べに行くか? 昼も食べていないから腹へってるんだよな」

 

「そうね。誰かさんが居眠りしているからいけないんだわ。レポートが大変だったのはよく知っているから、約束の時間に遅れた事はよしとしましょう。でも、寝てしまうのはよろしくないわね」

 

「雪乃も一緒に寝てたじゃないか? 起こしてくれてもよかったんだぞ」

 

「だって、八幡が気持ちよさそうに寝ているからわるいのよ。だから、私も睡魔に襲われて……。このタオルケットは八幡が?」

 

「あぁ、手に届く範囲に置いてあったからな」

 

「そう……、ありがとう」

 

 私がにっこりとほほ笑みかけると、八幡は照れくさそうに顔を背けた。

 相変わらず感謝の言葉に弱いのね。感謝の言葉に慣れていないのも、八幡の魅力かしら。なんでも当たり前の事にしないところが、いつまでも新鮮でいられる秘訣かもしれないわね。

 でも、いまだになんでも自分一人で背負いこもうとするところだけはなおしてほしいわ。私たちを守ろうとしているのはわかるのだけれど、それで心配する私の心情も考えて欲しいわね。

 ……それでも今は八幡も私が心配している事をわかっている、のよね。わかっていても一人でやる事を許してしまう私が悪いのかしら?

 そうね。八幡はずっとそうやって生きてきたのだもの。私の方から歩み寄って、抱きしめてあげないと駄目ね。

 

「ねえ、八幡」

 

「な……んでそうか?」

 

 やはり警戒してくるわね。ほんと、私の言葉の意図するところを読みとる力は相変わらず無駄に高性能なのよね。

 私が呼びかけた「八幡」という言葉一つからだけで、私が何が言いたいかをすばやく読みとってしまう。

 ある意味子供ね。子供が母親の顔色を伺うそれと同じかしら。そう考えると可愛いとも言えるのよね

 

「私、怒っているのよ」

 

「起こさなかった事か? 気持ちよさそうに眠っていたんで、つい見惚れてしまって」

 

「それは仕方ないわね。見惚れていたのでは致し方ないわね」

 

「だろ?」

 

「たしかにそうだけれど、私が怒っているのは別の事よ」

 

「約束の時間が過ぎているのに、俺が寝ていた事か? それは悪かったよ。レポートが終わった~ッと思ったら、つい気が緩んでな。10時には終わったんだけど、ほんの少しだけ仮眠をと思ったら、熟睡しちまった。ほんとっ、ごめん」

 

「私に一言声をかけてくれればよかったのに。そうすれば座ったままではなくて、ベッドでゆっくりと寝て、時間がきたら私が起こしたわ。そうね、八幡も疲れているのだから、終わったのが10時だとしたら、3時頃まで寝ていればよかったのではないかしら?」

 

「そうだな。徹夜続きでだいぶ判断力が鈍ってたようだ。だとするとレポートの方もなんだか不安だな。なんか適当な事を書いていそう……」

 

 レポートの束を気にするそぶりを見せるけれど、本当は自信があるくせに。あなたはいくら疲れていても、手を抜かない人よ。

 それは私が保証する。だって、ずっと見てきたのだもの。

 

「だったら、あとで私が目を通しておくわ。専門的な所はわからないけれど、レポートとしての体裁を見るくらいなら可能だと思うわ」

 

「それは助かるよ。でも、採点は甘くしてくれよ。雪乃のチェックはいつも厳しいからな」

 

「それだとチェックの意味がないわ。やるからには全力よ」

 

「お手柔らかに、お願い……します、ね?」

 

 私の口から自然と笑みが漏れる。

 八幡が私に脅えているところも可愛いらしく思えてしまう。

 でも、違うの。だって、八幡が「今、私を」頼ってくれるのですもの。本当はレポートをやっているときに頼って欲しかった。

 私も自分の課題やテスト対策に追われていて忙しかったのだけれど、八幡もそれは同じ。だから、いくら私が忙しいといっても、私を頼ってほしかった。

 いつか、必ず、八幡の隣に常にいられるようになっていたいから。

 

「それで、私が怒っている理由はわかったかしら?」

 

「俺が寝ていた事じゃないのか?」

 

「違うわ」

 

 八幡は私の言葉を噛み締めると、一呼吸おいてから声を絞り出した。

 

「じゃあ……、寝ているときにキスしようとした事か?」

 

 八幡が照れながら言うものだから、私もつられて照れてしまう。

 私は怒っているのだから、照れてはいけないわ。私の顔が赤くなっているとしても、それは照れているからではなく、怒っているせいよ。

 

「そ……そ、そ、そそそ、……はぁ。……それのことについては怒っていないわ。むしろキスで私を起こそうだなんて、八幡も存外ロマンチストね」

 

「それは、まあ、なんというか、な。それでなんで怒ってるんだよ。もうお手上げ。わかりません。教えてください」

 

 こんなこともわからないなんて。八幡も、雪乃心の勉強がまだまだ必要ね。

 

「キスよ」

 

「キス? 俺がキスしようとした事は怒ってないって言ったじゃないか」

 

「逆よ」

 

「はぁ?」

 

「だから、キスしようとして、……それを途中でやめたからよ」

 

 八幡は相変わらず理解できないとぼけぼけっとした情けない顔をしていたが、ゆっくりとだが私の意図をかみ砕いていった。

 そうよ。途中でやめるだなんて、意地悪すぎるわ。私は一週間も我慢していたのよ。

 それを目の前まで迫っていて、最高にドキドキしていてのに、それをお預けだなんてあまりにもむごい仕打ちよ。

 

「それを理解しろっていうのは、あまりにも難しいだろ。こっちは勝手にキスしようとして罪悪感があったんだぞ。それを逆に解釈しろだなんて無理すぎる」

 

「そうかしら?」

 

「そうだよ」

 

「だったら、今ならどうかしら? あの時は無理でも、今なら可能でしょ」

 

 今度は私の言葉をすんなりと理解した八幡は、そっと私の肩を引き寄せる。だから、私は瞳を閉じる。その瞬間を待ちうける為に。

 けれど、期待していた感触は頬に優しく触れただけであった。

 これはこれで嬉しいのだけれど、これでは満足できないわ。

 私はすうっと瞼を開けると、はにかみそうな笑顔をうち消して八幡を睨みつける。

 八幡もわかっているはずなの、どうしてよ?

 そう思うと、私は怒りよりも悲しみが満ち溢れていってしまった。

 

「ごめん。泣くとは思ってなかった」

 

 え? 泣いているの、私。

 涙の感触を確かめようと目元に指先をもっていこうとしたが、涙の感触を確かめる事はできなかった。

 なにせ、八幡が私の腕ごとぐずつく私を優しく包み込んでくれたのですもの。

 さすがの私も、健気にデートは待っていられても、目の前まで迫ったキスの「待て」だけは我慢できないみたいね。

 

「ほら、さ。雪乃はさっきフライングで俺の頬にキスしただろ? だから、そのお返しっていうか、なんていうか。まあ……、本番のキスは、デートに行ってからのほうがいいかなってさ」

 

 八幡の衝撃すぎる告白に、私の視界が歪んでいく。

 だってそれは、八幡は、12時に私がこの部屋に来た時起きていたって事よね。いつ起きたのかしら? そんなそぶりは見せなかったのに。

 だったら私が、じぃっと八幡の寝顔を見ていた事も、八幡の頬にキスした事も、口にキスしようとして失敗した事も、そしてそして、長々とその寝顔を写真に収めていた事も。

 もしかしたら、その全てがばれていたっていう事、かしら?

 ……恥ずかしすぎる。きっと、今日一番の顔の赤さを誇っているわね。

 尋常ではない熱をもった血液が私の中を駆け巡った。

 これでは八幡の胸にうずめている顔を上げることができないじゃない。どうしてくれるのよっ。

 ……責任転換をしているときではないわね。

 

「ねえ、八幡」

 

「ん?」

 

「目を閉じててくれないかしら」

 

「ああ、閉じたぞ」

 

「ほんとうに閉じたかしら?」

 

「信じろって」

 

「なら、いいわ。信じてあげる」

 

 八幡の胸元に潜っていた顔を恐る恐るあげると、宣言通り八幡は目を閉じていた。

 でも、さっきは寝ている振りをしていたのよね? 本当に目を閉じているのかしら?

 私は息を止めると、ゆっくりと八幡の顔に近寄っていく。八幡の吐息を感じこそばゆいが、そこはぐっと我慢する。

 どうやら今回は本当に目を閉じているようね。私が目の前まで迫っても平然としているられるのだから、これで目を開けているのなら、もはや判断する事はできないわね。

 

「まだ目を閉じていないといけないのか?」

 

「もう少しよ」

 

 私は意を決すると、再び八幡の顔に唇を寄せていく。

 今度は八幡の言い訳も、反論も、戸惑いも、全て許さないわ。

 だから私は、八幡の唇を私の唇で覆う。これ以上の言葉を紡がせない為に。

 それに、キスをしているのならば、顔が赤くても不思議ではないわ。だから、私の顔が真っ赤であっても、それは当然なのよ、八幡。

 

 

 

 

『その瞳に映る光景~雪乃の場合』 終劇

 

 

 

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