……さっちゃん、あの森、本物っぽく見えるんだけど。
見間違いかと儚い希望に賭けて目をこすってみる。もう一度見上げた先にはやはり、幻には思えない存在感の森があった。それもその辺の雑木林とはわけが違う。うわさに聞く屋久島の縄文杉のような、直径だけで何メートルもありそうな大木がインフレーションをおこしていて、それ以外の木も軒並み大きい。まるでどこかの秘境のようだ。
「じっちゃん、どう思う?」
後ろからついてきた稲元のじっちゃんに混乱した頭で問いかけるも、いつもなら打てば響くように帰ってくる返事がない。振り返れば佐々木さんと二人、田んぼの先を見て唖然としたまま固まっているじっちゃんがいた。ああ、そうこれが常識的な反応だな、とどこか安心する。つねづね思っていたけども、さっちゃんはやっぱり天然が入ってると思う。
「とりあえず、あのへん調べてくるけん」
少し冷静さをとりもどして、僕が最初にすべきだと思ったのは目の前の森の確認だった。とりあえずそんなに距離があるわけじゃない。田んぼの間のあぜ道を通って直接さわれる距離まで近づけば、幻かどうかもはっきりするだろう。
「ああ、うん、それが良か。俺も行くばい」
そういってじっちゃんが再起動した。結局みんなでぞろぞろと見に行くことにする。
淡い期待を嘲笑うように、近づくほど森は現実味を増していった。田んぼはなかばで切り取られたようになっていて、代わりに腐葉土の層が重なっている。それが幻でないのを証明するように、田んぼから森のほうに少しずつ水が染み出し、森の土と混ざりあっていた。さらに向こうを覗いてみれば、切れ目など期待できそうにないほど延々と大木が枝を繰り出し、奥へ奥へと深緑の世界が広がっている。木の匂い、コケの匂い、土の匂い、キノコの匂い……濃い森の匂いが風に乗って鼻の奥を刺激してくる。耳を澄ませば何かの鳴き声が重なり、枝から枝へ地味な色の小鳥が飛んでゆく。
これが夢ならば、なんという夢だろう。リアルで、無意味で、笑えない。それなのに、それなのに、どうしてこんなにも心が揺さぶられるんだろうか。知らず僕は息を止めていた。まるで時間が止まったような、森が迫ってくるような錯覚を覚え、頭がくらくらする。
どれほどそうして眺めていただろう。はっと意識が戻り、同時に大きく息を吸い込む。森の溶け込んだ空気が、酸素をほしがる肺の中を満たしていった。ずいぶんと長い間呆けていた気もするが、実際には一分も経っていなかったのかもしれない。
「しかし凄か……」
心配してくれるさっちゃんに大丈夫、と声を出し、改めて森を見やった。さっきのように飲まれはしないものの、その迫力はますます増しているような気さえする。神秘的という表現がぴったりだった。
「ばって、なしてこげんもんが?」
(だけど、どうしてこんなものが)
うーん、と四人で首をかしげる。幻でないことはわかっても、事態の根本的な解決は遠のくばかりだ。
「ん? これは、どげんしたもんかな」
(どうしたものか)
ふと、佐々木さんが厳しい声でそうつぶやいた。見れば僕たちとは反対のほう、公民館側を向いて眉をひそめている。その視線の先をたどっていって、僕は今日何度目かの血の気が引く音を聞いた。いや、考えてみれば可能性はあったのだ。突如現れた現実の森、それが一方向のみに固定されているなどと誰が決めたのか。
振り向いた僕の視界のなかで、公民館前を通る舗装道路の先が右に左にぷつりと途切れ、森の中に消えていた。
その後改めて確認してみると、公民館前の道路はどちらの端もナイフで切り裂いたように無くなっていて、その向こうには延々とあの森が続いているようだった。それだけじゃない、公民館前の道路から垂直に伸び、公民館横を通って裏山を抜ける小道を行っても、結果は同じ。田んぼの中のあぜ道も含め、どの道も同じくらいの距離をとってふいに森になってしまっている。僕の家も当然森の中だ。公民館備品の地図の上に線を引いてみると一目瞭然だった。まるで円を描くように一部の土地が 取り残されて、その周りが全部森になってしまっている。
その円の中心は、公民館だった。
第二話 はじまりの日・後編
とりあえず公民館周りの調査と分析が片付いたころ、太陽は大分西に傾いていた。
「十五少年漂流記みたかねえ」
(十五少年漂流記みたいだねえ)
公民館の広間でお茶を飲みながら、さっちゃんがニコニコと言う。暗くなっていた部屋の空気が少し和らいだ。
「歳を考ええ、歳を。だいたい久坊はようついてこんかろう」
「いや、知っとる知っとる。僕は結構好きばい、そういうの」
ちょっと無理をして笑顔を作る。気を遣ってもらったのがわかるから、それを無駄にしない。まだまだ大人にはなりきれないけども、もう甘えてばかりの子供でもないのだ。
ああそうそうと、さっちゃんが切り出した。
「今日久(ひさし)ちゃんが来るち聞いて、おこわ炊いてきたとよ」
言いながら立ち上がり、来がけにかかえていた風呂敷包みをもってくる。
「もう冷えとるばって、明日まではようもたんけ、ここで食べんね」
(もう冷えてるけども、明日までは持ちそうにないから、ここで食べませんか)
風呂敷が解けた中から顔を出したのは、おこわのたっぷり詰まった土鍋だった。鶏肉やゴボウがたっぷり入ったさっちゃんのおこわは炊飯ジャーを使わない本格仕様で、僕が小さいころからの大好物なのだ。今日は僕が畑に来ると思って、それをわざわざ持って来てくれたらしい。
「本当に!? 嬉しかぁ」
ちょっと大げさなくらいテンションをあげる。ま、実際のところあんまり演技の必要もないくらい嬉しいわけで、たいしたことでもない。
「じゃ、水汲んできましょ」
玄関に近かった佐々木さんがそう言って立ち上がった。僕が行きますよと腰を上げるけど、良か良か、とやんわり断られてしまう。いろいろ試してみた結果、電気・水道がどちらも使えないことがわかっていた。こういうときでも、変わらずに水をたたえる裏の湧き水は本当に頼もしい。佐々木さんがペットボトルを片手に、裏口から出て行った。
さて、僕は食器でも準備しようかな。
立てかけてあった折りたたみ式のちゃぶ台を引っ張り出し、食器を並べていく。ほこりをかぶっていたお茶碗を洗うため、けっきょく外に出なければいけなくなったのはご愛嬌。さっちゃんの手繰る木のしゃもじで、おこわが取り分けられていく……。
「さっちゃん、そのくらいでよかよ」
見てわかるほど多めに盛られた僕の茶碗を見て、思わず制止の声をあげた。
「なん言っとうとね。食べ盛りにはちゃんと食べんと、よう持たんばい?」
「ったく、一丁前に遠慮なんぞしてからに。ハゲるぞ」
言いながらじっちゃんにばしんと背中を叩かれる。さらに一回り大きくなったそれを渡された、といっても普段からすれば騒ぐような量ではない。何がどうなってもいいように、今日食べる分は土鍋の半分までと決めたから、これで大きめのおにぎり一つ分といったところだろうか。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
そのままさっちゃんの音頭で箸を手に取った。熱が逃げてしまっているとはいえ、香ばしい醤油と新鮮な筍(たけのこ)の風味、それに鶏肉からいい出汁でていて、たっぷりなゴボウの香りを引き立てている。昔から変わらないさっちゃん印の鶏おこわだ。
食べながらなぜかふっと、机の向かいに両親を思い浮かべてしまった。つんと鼻にこみ上げてくるものがあって、急いで思考を切り替える。今はウジウジしている場合じゃないし、家が、両親がどうなったのか断定するには情報が足りなさ過ぎる。
「そういえば、岡本さんとこのアイガモはどうすると?」
天井を仰ぎ何度かまばたきをして気持ちを切り替えて、そう切り出した。公民館近くに取り残された岡本さんの田んぼでは、しばらく前からアイガモ農法をやっている。まだ小さくひよこに毛が生えたような雛たちが囲いの中にいるはずだった。
「夜はここに上げてやったほうがいいかもわからんね」
佐々木さんが口を開いた。
「電気がこれじゃあ柵の電流も期待できんしなぁ」
いくら引いてもうんともすんとも言わない電気の紐に、自然と視線が集まる。確かに、田んぼを囲っている電線に電気が流れていなければ、鼬(いたち)でもなんでも入り放題だ。
「久坊、ご飯食い終わったら捕まえ行くぞ」
稲じいちゃんが、僕の方を見てにっと笑った。
人懐こいのかアイガモの子は思いのほか簡単に捕まった。全部で九羽、玄関をくぐってすぐの土間の一角に、椅子とダンボール、古新聞で寝床をつくってやる。間違って外に出てしまわないように戸締りの確認も忘れない。
そうしておいて、僕たちは広間で雑魚寝をすることにした。布団こそないものの、畳敷きの上でなら体への負担はそんなにない。幸い羽毛布団がないと眠れないような季節でもない。こうして、かえるの合唱をBGMにはじまりの夜は暮れていった。かなうなら、目が覚めたときすべてが夢でありますように。そんな最後の期待を転がしながら……。
とりあえず導入部分が終わったので、次の更新は少し先になります。
誤字ほかご指摘があれば、ぜひお願いします。