日本 はじめました   作:たこわさび

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五話 森にすむ者

 七月もおそらく半ばを迎えた夏の盛り、森に入ってしまえば幾分涼しいとはいえ太陽は日ごとに元気を増しているようだった。体調が悪くなっても頼れる病院がないどころか、日射病対策のスポーツ飲料すら手に入らないことを考えると、日中に無理しての作業はできない。特にさっちゃんと稲富のじっちゃんは、戦前・戦中の生まれだ。見た目どれだけ元気でも体調には気遣いが必要だった。

 

 日の出前から働いて、暑い時間はのんびり昼寝をし、太陽が西に傾いてから作業を再開するという生活パターンが自然と身についてくる。この生活が始まってから二ヶ月あまり、塾の講師として夜に働いていたころが嘘のように体が軽かった。慢性的な肩こりと目の痛みはやはり生活習慣の問題だったらしい。最初の何週間かは全身の筋肉痛と固い床の寝心地に悩まされたけども、慣れというのは恐いもので今は冷たい床が心地いいくらいだ。ただ相変わらず食事の量が少ないので、夕ご飯を食べた後すぐに横にならないと、空腹で眠れなくなるのが悩みの種だった。

 

 

 

 

 第五話 森にすむ者

 

 

 

 

 朝飯前の運動に悲鳴をあげる胃を左手で抑え、ズックを履く。今日は僕が渓流に仕掛けた罠を見に行く当番だった。

 

 「いってきます」

 

 返事を待たずに公民館の引き戸を開け、傘立てに差してある一メートルばかりの竹を抜いて外に出る。まだ空は薄暗く、空気も冷たい。雲はちょっとも無いようだった。

 

 畑の様子をうかがいながら、のんびりとアスファルト敷きの道路を歩く。昼間はフライパンのように熱くなる舗装道路もこの時間はおとなしいものだ。遠目で見た限りで田畑が荒らされた形跡は無かった。森がこんなに近くなったのに、いまだに猪にも猿にも被害を受けていないのは、森の恵みが豊かだからだろうか。木の葉の間に何度か猿らしき姿を見ていることもあり、まったくいたずらされないというのは有難いと同時に不気味でもあった。

 

 二・三分も歩けば道路は途切れ、そこからは森の奥に消える道なき道に身を任せる。というのもひと時前の話で、二ヶ月も足しげく通った場所は、藪が開かれ地面が踏み固められ、それなりに歩きやすくなっていた。渓流の罠に獲物があれば持って帰れるよう、ナイフと籠を確認がてらに抱えなおし、空よりいっそう薄暗い木立の中に足を踏み入れる。それにしても……。

 

 (今日はずいぶん涼しいな)

 

 森を吹き抜ける風に思わず肌をさすった。朝日に焼かれる前の露をたっぷり含んで、木の葉が手を顔を叩いてくる。草と落ち葉がふれるたび、ズボンのすそが濡れて重くなる。日ごろは慎ましくさえずっている雀や他の名前のわからない小鳥も、気温が低いせいで本調子が出ないのか今日の朝は静かに風の音がするだけだった。

 

 小鳥のさえずりで一日が始まるのもいいものだが、たまにはこうして自分ひとりの森を楽しむのもいいかもしれない。そんなことを考えたとたんに近くの木で蝉が鳴きだした。人がなけなしのロマンチズムをひっぱりだして楽しんでいたというのに空気を読んでほしいものだ。急に気恥ずかしくなって歩く速さをすこしだけ上げた。

 

 ふと、視界の端で影が動いた……気がした。

 

 動きを止め目を凝らす。見間違いならそれでいいが、例えばこの土地に熊がいない保証はないし、外国ともなれば虎が住んでいることだって考えられた。竹の杖を握り締め、息を呑んで時間が過ぎるのを待つ。もし本当に肉食動物に出会ったなら、むやみに刺激するよりじっとしていたほうが良い、と国営放送仕込みのにわか知識がささやいていた。

 

 体感時間が一分、二分と過ぎていく。そっと目を左右に振るも森は静かなまま、いつもと何も変わらない。

 

 気のせいだったかな、と肩の力を抜いた。安心のため息をひとつついて戻した視線に、しかし真っ黒な瞳が向けられる。深呼吸したままの口から肺に空気の塊が流れ込む。一瞬だけ目をつぶったその間に動いたのだろう、まるで瞬間移動したかのように現れたのはシェパードのような雰囲気の大型犬だった。

 

 こちらをまっすぐ見つめる鼻先に微笑み、見つめあう。彼は微動だにせず、ただ鼻先をひくつかせただけだった。大きな犬とであったとき、一番悪いのは相手をこわがることであるらしい。そうした瞬間に上下関係が出来上がってしまうからだ。とはいえ、最悪の事態を想定していた分、現れたのが犬であることを不幸だとは思わなかった。

 

 刺激しないようにゆっくりとした動きを心がけながら、左手を前に出す。万一噛まれたときのためにしっかりとこぶしを作り、反対の手で杖を固く握り締めた。そのままこちらにきて手の匂いをかいでくれるのをまつ。

 

 (五、十、十五、二十……)

 

 頭に響く鼓動を頼りに、数はどんどん膨らんでゆく。七十か八十を超えたところで、ほとんど無意識のうちに一歩右足を踏み出した。

 

 ヴゥ、と小さな唸り声が耳に届いたのは、右足が地面についたのとほとんど同じだった。空気が張り詰め、心なしか気温が下がったような気さえする。右から左から、そして後ろからも小さく落ち葉を踏む音が聞こえた。正面の木の間からも一回り小柄な二頭がはじめの彼の隣に並ぶ。ほんの一呼吸のうちに、あるいは気づかなかっただけではじめからずっと、僕は周りを囲まれていた。

 

 静かな森にいくつもの呼吸とうなり声が重なる。彼らの視線はあまり平和的でないように思えた。もみ上げから頬にかけて一筋汗が流れる。それを拭う余裕もなく、笑顔を貼り付け肩を張り、背筋を伸ばす。ようやくぬくもりを取り戻し始めた空とは対照的に、指先は凍りつきそうだ。あれほど刺激しないよう意識していたにもかかわらず、不用意に動いたことを後悔してももう遅い。ふと、アイヌの伝承を思い出した。「森で熊に遭ったなら親しげに話しかけなさい」最近の研究によれば、そうすると熊を刺激しないし、うまくいけば混乱して見逃してくれるのだそうだ。

 

 文献を読んだときはアイヌの知恵に感服したものだが、実際自分の命がかかってみると悪い冗談のようにさえ感じてしまう。それとも僕に勇気が足りないだけなのだろうか。話しかけるどころか、すこしでも音を立てればそれを合図に襲われるようにさえ思い、胃が締め付けらるようだった。

 

 (どうしよう)

 

 頭の中は人生の中で一番かもしれないほどの速さで回転していて、それでも有益な情報は何ひとつ出てこなかった。せいぜいが飛び掛られたら脚を狙って打つといい、と晩酌のとき父がいっていた程度のもので、八方を囲まれては気休めにもならない。

 

 引きつり気味な笑顔の下で、ああでもない、こうでもない、ともう何を考えているのかもわからなくなってきたころ、ずっと僕と目を合わせていた彼が動いた。走馬灯じみた現実逃避は鳴りを潜め、その一挙一動に神経が集中して行く。肩の骨が上下し、筋肉が盛り上がりまたへこむ。それがひどくゆっくり見えた。小さく二歩、そしてもう二歩こちらに寄って、突き出したまま冷たくなっていた僕の左こぶしに鼻を近づける。その様子を機械のように見つめていた。

 

 湿った黒い鼻がひくりと動き、鋭い牙が覗く。そして動こうとしても言うことを聞かない左手の甲に、生暖かいものがふれる。舐められた! 安心とも恐怖ともしれない痺れが腕から肩をとおって背中に走る。見詰め合う瞳がまばたきをひとつ。彼はふいっと踵を返した。現れたときと同じように音もなく森の中に消えてゆく。そっと視線を巡らせれば群れもいつのまにかいなくなっていた。

 

 肩に力をこめたままどれほど待っただろうか。一分か二分か、あるいはもっとだったのかもしれない。蝉の音が頭に響き始め、辺りに音が帰ってきた。全身の力が抜け、崩れ落ちそうになる体を必死でとどめる。まるで白昼夢でも見たようだった。それでも左手に残る生暖かい感触と乾きはじめた唾液のぬめりが、ここで確かに事がおこったことを伝えている。とにかく足を動かす。一時も早く家に帰りたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 「疲れたああ」

 

 靴を脱ぎ散らかして広間に転がり込み、ひっくり返る。握りっぱなしだった竹の杖が、トンと音を立てて手からこぼれる。二回深く息をして天井を睨みつけていると、さっちゃんがこちらを覗きにきた。

 

 「おはよう、どげしたと?」

 

 いいながら放置していた竹の杖を玄関に持っていってくれる。目をつぶり大きくひとつ深呼吸して、それからゆっくり何度か息をする。少し落ち着いてから言葉を搾り出した。

 

 「犬が……」

 「うん」

 

 服の音がする。頭もとにさっちゃんが座ったのがわかった。右手が熱いものでつつまれる。小さく目をやれば、皺くちゃでシミだらけで、小さくて爪の先が黒い、見慣れた手が見えた。人肌にふれ右手が温もるにつれて、ゆっくりと余裕がもどってくる。冷たく固まっていた指に血が流れて行く。

 

 「犬の群れがおったとよ。森で囲まれて、もうだめかと思ったばい」

 

 はは、と笑う。そうして、自分が笑えたことに気がついた。

 

 「よかったねえ」

 

 よかった、よかった、とさっちゃんが手をさすってくれる。ふと、今の自分はずいぶん情けない姿なんだろうなと思った。だいの大人が寝っ転がって、おばあちゃんにあやされている図……九州男児の風上にも置けないと蹴りを入れられそうだ。

 

 はは、と笑う。たぶんこれからいろいろ考えないとならないだろう。もしあの犬の群れがこのあたりを縄張りとしているのなら、森に入ったり畑仕事をしたりするときにしっかり警戒をしておかないといけない。森に入ること自体、控えるべきかもしれない。食糧事情がさらに悪化しそうだ。

 

 「ありがとう、落ち着いた」

 

 ゆっくりと目を開ける。十分に温まった右手を戻し、状態を起こそうとしたところで今度は左手がつかまった。あがりかけていた肩と首を元に戻す。もう一度、ありがとうと呟いた。

 

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