姉ちゃんとクラインさんの挨拶も済ませ、四人でしばらくお互いの事を話し合った。クラインさんは他のゲームで知り合ったメンバーと、ログインしているらしい。「ナーヴギアをよくそんなにそろえられたな」とキリトが驚いていた。ボクはよく知らないんだけど、ナーヴギアの入手が大変なものらしい、ということは、母さんから聞いていた。ニュースで話題になっていたそうだ。
逆にクラインさんは、ボクたちが全員ベータテスターであることに驚いていた。というより、羨ましがっていた。ベータテストは、一〇〇〇人しか選ばれないからだと言う。ボクたちは特例で入ったから、今一つピンと来なかった。
「それにしても……おいキリトよぅ」クラインさんが、突如深刻そうな顔をして、ボクと姉ちゃんを交互に見遣った。
キリトを呼びながらボクたちを見るとは、これいかに。
当のキリトは、突然の空気に中てられてか、思わず、といった体で居住まいを正した。
クラインさんは、裁判でも始めそうな重苦しい雰囲気を纏っている。立場で言ったら、クラインさんが検事、被告人キリト、傍聴席にボクたち、のはずなんだけど、視線はやっぱりボクたちに向いている。と、
「なんだよこの子達は!」
突如叫んだクラインさん。目が点になる姉ちゃんとボク。ここにきて、ついにクラインさんの視線がキリトに移った。どこかジトリ湿った視線だった。
「お前、こんなカワイイ娘を二人も連れてベータテストやってたのか⁉」
「な!」キリトはクラインの突然の発言に目を見開き、
「お前、言うに事欠いてそれかよ……」呆れたような、気の抜けたような、なにより疲れたようなため息をこぼした。
「それにアバターなんだからリアルも美人かなんて分からないだろ?」
もっともではあるけど、夢のないキリトの発言に、姉ちゃんが控えめに笑いながら切り返した。
「キリト、それってリアルの私たちはかわいくないってこと?」
静かな声にひそむ威圧感。こういう時の姉ちゃんは本当に怖い。
「い、いや、そうではなくてですねランさん! いやラン様! 俺はただ単に、アバターが美人だからといってやましい事は考えてませんよー、ということが言いたかっただけでして!」
キリトはしどろもどろに言い訳を試みる。リアルだったら冷や汗でも見えそうだが、そこは仮想世界の事、汗をかくどころか顔が真っ青になっている。そんなエフェクトもあるんだ。面白い。
「……そう。ちなみにね、私たちのアバターはほとんどリアルと変わらないように設定しているの。言ってなかったっけ」姉ちゃんは、うふふ、と悪戯っぽく笑って言った。珍しい表情だ。
「うん?」キリトは意味が理解できていないようだ。ボクにも分からないけど。
「キリトって思ったより大胆なんだね。ねぇユウ、私たち、美人なんだって」姉ちゃんは満面の笑みで、恥らって見せた。無論からかっているだけだ。むふふ、これは面白いことになった。
「へぇー? キリト、ボクたちのこと、そーいう目で見てたんだー」ボクが乗ると、
「キリの字、おめぇも男だな」クラインさんもニヤリと意地悪く笑って続いた。
「んな! ハメやがったな!」キリトは顔が、今度は真っ赤になっている。この世界は感情が大げさに顔に現れるから、まさにゆでだこみたいになっていた。
一頻り四人で笑いあったところで、ボクは切り出した。
「さて……どうする? もう一狩りしてく?」
「あぁいや、わりぃ、俺はいったん落ちるわ」
申し訳なさそうにクラインさん。
「クラインさん、何か用事でもあるの?」
「用事ってほどでもないんだけどよ、俺五時半にピザの配達頼んでんだ」
「ぴざ!? いいなぁ、ボクも食べたいなぁ」
「いいだろー! まぁそういうことだから、おれぁここで落ちるわ。お前ら、サンキュな、助かったぜ色々!」
そう言って手を振り、後ろを向いたクラインさんだったけど、あっ、と声を上げてこちらに振り返った。
「言い忘れてたんだが、飯食った後……七時くらいだな、他のゲームで知り合った奴ら──さっき、自己紹介したとき話した奴らだな。そいつらと落ちあうことになってんだ。紹介すっから、皆とフレンド登録しねぇか? フレンドは多い方が何かと便利だしよ」
「いや、俺は──」
「そうね、会ってみましょうか」
何事か言い出しかけたキリトの発言は、それを読んでいたように声をかぶせた姉ちゃんによって遮られた。まぁた人を避けようとしたなー? ふふふ、そうはいかないよ、とボクは黒い笑いをかみ殺しながら、
「友達は多い方が良いよね!」
キラリと目を輝かせたクラインさんは、嬉しそうに声をはずませた。
「おぉ、そうか! んじゃ、七時に《はじまりの街》の黒鉄宮前で集合! 遅れんじゃねぇぞキリト!」
「いや、だから俺は──」
「もう、往生際が悪いよ、キリト」
なおも腰が引けているキリトに、ボクはしびれを切らした。
「ほら、うじうじしてないで! 男らしくないぞ!」
「そうだぞキリト、女の子に口で勝てるなんて、思わねぇ方が正解だ」
「……はぁ、分かった 分かった、分かりましたよ! リザイン リザイン」
キリトは口をへの字にして、力無く両手を上げた。クラインさんは、楽しそうにそれを見て口の端を釣り上げると、右手を振ってメニューを出現させ、
「それでよし! じゃあ、またあとでな!」
そうやってログアウトしようとしたクラインさんだったけど、数秒虚空に指を滑らせた後、訝しげに眉をひそめた。
「──んん?」
「どうしたの、クラインさん」ボクは言った。クラインさんは、渋い顔をしたまま器用に口角だけを上げて、苦笑した。
「いや……ログアウトボタンがねぇんだよ」
「はぁ?」クラインさんの言葉にキリトが反応する。
「ちゃんと探したのか? 良く見てみろって。メニューの一番下にちゃんと──」あるだろ、と続けようとしたのであろうキリトだけど、キリトの口は見事に『あ』の形のまま固まった。そしてしばらくのち「……ない、な」
小声でつぶやくキリトは、少々悔しそうだった。
「だろ?」対するクラインは、わが意を得たり、とばかりに得意げだ。特に威張るようなことじゃないと思うなぁ。
「……どこかと連絡とれないの?」少し心配顔の姉ちゃんが言った。
「うんにゃ、さっきっからGMコールしてんだけどよぅ、出る気配もねぇな……こりゃ、今頃運営は涙目だろうなあ」クラインさんが、ウヒヒ、と茶化すように笑うと、
「……おまえ、笑ってていいのかよ。ピザの配達五時半なんだろ?」
嫌味ったらしく、キリトが言った。さっきの意趣返しのつもりかも。そしてどうやら効果は抜群だったらしい。
ピタ、とクラインさんは一切の動きを止めること数秒。
「うぉぉぉぉぉ! オレのピザとジンジャエールゥゥゥゥゥ!」
頭を抱えて地面に蹲り、土下座にも似た姿勢になりながら吠えた。そんなにショックなの? なんだか気の毒になってきた。
「とりあえずここでなんか食べようよ。ピザみたいなのあるよきっと!」
ボクの提案は、うーん、と唸りながら何か考え事をしていた姉ちゃんに、見事に流された。
「ログアウト以外に、二人が脱出する方法は無いの?」
心配顔をそのままに、冷静な口調で言う。ログアウト方法か。自分には関係がないものだから、あまり考えてなかったな。
「ぬぁ?」
「ん?」
間の抜けた声を上げ、クラインさんとキリトは固まった。
「おいおい、まさかここから出れねぇとか言うんじゃねぇだろうな!」
相変わらず茶化すような調子を保ってはいたが、クラインさんは若干顔が強張って見えた。
「ログアウト! ……脱出!」
どうやら音声入力を試しているらしい。キリトはクラインさんに目をやって、ため息を吐いた。
「クライン、無駄だよ。このゲームに音声入力なんてコマンドはないんだ。それに……ログアウト以外の脱出方法もなかったはずだ」
「おいおい……マジかよ……」
クラインさんは呆然と言った。でも、何か見落としているような気がする。この世界はナーヴィギアによって連れてこられているんだから、つまり。
「じゃあ、ナーヴギアを外せば良いんじゃない⁉」
こうすれば絶対に現実世界に戻れるはずだ。なんとなく脳に悪そうではあるけど。
と、思ったんだけど。
「なぁユウキ、それが出来ちゃったらフルダイブにならないだろ?」
「え、そうなの?」
結構自信があったボクの提案は、キリトに子供を諭すような口調で否定されてしまった。その口調止めて!
「俺たちが外の体を動かそうとしたって、その電気信号は全てナーヴギアにインタラプトされる。だからこそ、現実世界の事を気にしないで、ここで思う存分動けるんじゃないか」
「インタラプト……?」
「……まあ要は、自分だけじゃ脱出不可能ってことだ。俺は、もしかしたら家族に外してもらえるかもだけど……そろそろ晩飯だしな。お前はどうだ?」
「ボクは──」
と答えようとして、言葉に詰まった。ボクたちは、ある特殊な事情を抱えていて、それを他の人に言ってしまっていいものか、分らなかったのだ。
「ねぇ、私達あんまりゲームはしてこなかったからよく分からないのだけど、こういう時って、ゲームの管理者がなにかアナウンスしてくれるんじゃないの……?」
不自然な間が開きかけたところを、姉ちゃんが実に見事に埋めてくれた。
「ああ、普通はそうだろうな。特にこのゲームはVRMMOの先駆けにもなる訳だし……。ログアウトできないなんて致命的な欠陥があったら、今後規制されるなんてこともありうる。なんにせよ、少なくとも一度全員ログアウトさせると思うんだけど……」
キリトは、考え込むように腕を組んで俯いた。と、姉ちゃんがボクに顔を近づけてきた。
「ユウ。私達のあの話はあまりしたくないし、秘密にしとこう?」
小声でささやく。ボクもささやき返す。
「うん。このことがばれちゃったら、また変な感じになっちゃいそうだし」
「それじゃあ約束ね」
うなずきあうと、ボク達は軽く指切りを交わした。
「あーもう、どーすりゃいいんだ、っつーかどーにでもなっちまえぃ‼」
自棄(やけ)を起こしたような声に驚いて発信源を見ると、クラインさんが茜色に染まった空に吠えていた。どこかの青春ドラマにありそうな感じ。でも内容はかなり残念。
「キリト、アレどうしたの……?」
ボクはキリトに聞いた。
「ん? あぁ、あいつ一人暮らしなんだってさ。だから、ナーヴギアを外してくれるやつがいないんだそうだ」
「あー、そういうこと」
御愁傷様、クラインさん。
「……それはそれとして、解決策を考えるだけ考えましょう」
切り替えるように明るい口調で姉ちゃんが言った。確かに、ここでただ待っているだけっていうのもちょっとイヤだ。
四人が顔を突き合わせ、さぁ話し合おうとした──
──ところで、突然大きな鐘の音が草原を貫いた。
リンゴーン
リンゴーン
リンゴーン
…………
……
…
お腹を震わせるような、重々しく低い鐘の音。血のように真っ赤に染まる夕暮れの空。この世界から出られないという今の状況。さまざまなことが重なって、得体のしれない怖気が、ざわりと胸をなでた。
全員が身をこわばらせ、何か起こるのではないかと周囲を警戒していた、その時。
「うわあ!」
あの鐘が引き金だったのだろうか。青白い光が、バシュウ、という音と共に突然ひらめき、ボクの周囲を覆いつくした。それは炎のように伸びあがって、瞬く間にボクの視界を塞いだ。
「ユウ!」
姉ちゃんが叫ぶ声が聞こえる。ボクは驚きすぎて恐怖が吹き飛ばされ、おかげで『大丈夫だよ』と手を振る余裕が出来た。姿は見えないけれど、姉ちゃん達にも届いていたはず。
あっという間に明るさは増し、余りの眩しさに目を閉じ──
──もう一度目を開けたときには、さっきまで眼前にあった草原がきれいさっぱり消えていた。
今のって……転移エフェクト……なのかな?
ベータテスト時代に、層の間を移動する転移門を使ったときや、死に戻りのときに、同じような光を見た。でも確証はない。こんな、なにもしていないのに発動するようなものでもなかったし。
ひとまずボクは、辺りを見回した。
円形の広場に、黒い宮殿、少し磨(す)れたような石畳。どうやらここは、《はじまりの街》の広場であるようだ。そして、今も次々とプレイヤーが跳ばされてきているようで、あちこちに青い火柱のようなものが上がっている。
やっぱり転移してる。
「あ、ユウ! よかったぁ……」
後ろから抱きつかれて後ろを見ると、若干涙目な姉ちゃんと、驚きながら苦笑を浮かべ、姉ちゃんをなだめているキリト、どこか呆けて見えるクラインさんの姿が目に入った。
幸いにも、四人とも同じ位置に跳ばされたみたいだ。改めて捜す必要がないとわかってホッとした──のも束の間。
すぐに次の異変が起こった。
第一層の百メートルくらい上空、第二層の底近くに、おどろおどろしく鮮やかな、真紅の市松模様が描き出され、現実ではありえないだろう速さと正確さで空を埋め尽くしていった。紅い市松模様は、どこか牢屋を連想させた。もしくは鳥かご、といったところ。どちらにせよ、『お前たちは逃がさないぞ』という意思を感じた。
ついに、目に見えるすべての範囲に広がった紅い紐のようなもの。目を凝らしてみると、その紅は【Warning】【System Announcement】の文字だと判った。
呆気に取られたまま、隣に立っている姉ちゃんに視線を送った。しかし姉ちゃんは驚きと恐怖の表情を浮かべたまま、石のように固まっている。
そして鋭く息を呑みこんだ。
今度はなんだ、と上空に視線を戻し、はっ、とボクも息を呑んだ。
真紅に染まった空の中心に、血のようなネバつきを持った液体が溜まっていく。そしてそのまま滴ろうというところで、急速に何かを形作っていく。
とにかく不気味だ。口の中がカラカラに干上がっている。背筋に氷でも入れられたような悪寒が走る。
次の瞬間、その赤い固まりから、丈が二十メートルはありそうな、赤いローブが出現した。しかしなぜかローブの中には人が居らず、その空虚な姿は、得体のしれない恐怖でもってボクの心を凍らせた。
そして、からっぽなローブが、無い口を開いた。
『プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ』
《私の世界》
と言う表現に、ものすごく嫌なモノを感じた。他のプレイヤーも、誰一人として静寂を破る者はない。顔を硬くして、ひたすらローブを見つめている。目をそらすことを許されない。
『私の名前は茅場晶彦。今やこの世界をコントロールできる唯一の人間だ』
茅場……⁉
電気が走ったような衝撃が、全身を貫いた。
茅場、晶彦さん⁉
その名前は、聞き覚えがあるどころの話ではなかった。
今使われているフルダイブインターフェイスも、SAOも、すべて茅場さんの主導だったはずだ。 そんな人がなんで? 何かの演出かな。
そんな安直な答えでは絶対ないと、頭では分かっていても、そう思わずにいられなかった。
茅場と名乗ったローブは、他に考える余裕をボク達に与えず、一方的に話し始めた。
『プレイヤー諸君は、すでにメインメニューからログアウトボタンが消滅していることに気付いていると思う。しかしゲームの不具合ではない。繰り返す。これは不具合ではなく、本来の仕様である』
ホンライノシヨウ……?
どういう──?
「し……仕様だぁ?」
今まで黙っていたクラインさんが、ローブを見たまま茫然とつぶやいた。魂を抜かれてしまったんじゃないか、というほど、表情に生気がない。
それを見てようやく、実感が出てきた。
“本来の仕様”
彼はこの状況をそう言い表した。
この、ログアウトできないという状況が、トラブルではない、と言っている。
でも……結局それってどういうこと?
疑問の答えは、天からすぐに与えられた。
『諸君は今後、この城の頂を極めるまで、ゲームから自発的にログアウトすることはできない』
『また、外部の人間の手による、ナーヴギアの停止あるいは解除も有り得ない。もしそれが試みられた場合────』
嫌な間が開く。全身にゾワリと悪寒が走る。場の雰囲気も、切れる寸前の糸みたいにキリキリと引き絞られるようだった。
───そして、決定的な文言が告げられた。
『──ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが、諸君の脳を破壊し、生命活動を停止させる』
信号素子とかの話はよく分からなかったけれど、一つだけ、一番聞きたくないことだけは、はっきりと、頭に入ってきた。
“生命活動を停止させる”
死ぬ、と。
「ハハ……」
乾いた笑いが、隣から聞こえた。
「……何言ってんだ、アイツ。……おかしいんじゃねえのか。んなことできるわけねぇ、ナーヴギアは……ただのゲーム機じゃねえか。……んな真似ができるわけねぇだろ。そうだろキリト」
クラインさんは、今にも消えてしまいそうな、すがりつくような細い声で言った。
キリトは、ローブを見つめたまま何も言わなかったけれど、しばらくして口を開いた。
「原理的には、有り得なくもない、と思う。要は電子レンジみたいに……。……でも、ハッタリに決まってるよ。だって、ナーヴギアの電源コードを引っこ抜けば、とてもそんな高出力の電磁波は発生させられないはすだ。大容量のバッテリでも内蔵されてない……かぎ、り──!」
キリトは、目を見開いた。
最後の声に、絶望がにじんでいる。すぐにそれは、クラインさんに伝染した。
「内蔵……してるぜ。ギアの重さの3割はバッテリセルだって聞いた。でも……無茶苦茶だろそんなの! 瞬間停電でもあったらどうすんだよ‼」
クラインさんの、焦りと怒りのないまぜになった叫びに、話を聞いていたのかと疑うようなタイミングの良さで、ローブは続けた。
『より具体的には、十分間の外部電源切断、二時間のネットワーク回線切断、ナーヴギア本体のロック解除または分解または破壊の試み───以上のいずれかの条件によって、脳破壊シークエンスが実行される。この条件は、すでに外部世界では当局およびマスコミを通して告知されている。ちなみに現時点で、プレイヤーの家族友人等が警告を無視してナーヴギアの強制除装を試みた例が少なからずあり、その結果──』
ふたたび沈黙。
一万人がこの場に居るのにもかかわらず、誰も何も言わない。先に続く言葉が良い事であるはずがない、ということは、みんな分かってる。それでいて、その予想が裏切られることを信じているんだ。いや、信じたいんだ。
しかし、現実と言うのはやはり残酷なもの。それは仮想世界でも例外じゃないらしい。
『──残念ながら、すでに二百三十一名のプレイヤーが、アインクラッド及び現実世界からも永久退場している』
永久退場。死。
現実世界において、死というものは、ボクにとって、割と身近なものだったはずだ。少なくとも、ここにいる大半の人たちよりは。それなのに、いざ突きつけられてみても、まるで実感が湧かなかった。
放心したおぼろげな視界の先で、キリトが数歩よろめいた。クラインさんは、どすんと尻餅をついてしまっている。
目の前で起こっていることが、信じられないのだろう。そしてそれを、どうにかして打ち消したいのだろう。
クラインさんの目には、かすかに抗いの色がみてとれた。
「信じねぇ……信じねぇぞオレは」
つぶやくような声は、徐々に大きくなっていく。
「ただの脅しだろ。できるわけねぇそんなこと。くだらねぇことぐだぐだ言ってねぇで、とっとと出しやがれってんだ! いつまでもこんなイベントに付き合ってられるほどヒマじゃねぇんだ。そうだよ……イベントだろ全部オープニングの演出なんだろそうだろ‼」
最後は叫ぶようにして、クラインさんは荒く息をついた。
それは、この世界にボク達を閉じ込めているらしい茅場に言ったのだろうか。それとも、暗示をかけるために、自分に言い聞かせているのだろうか。それはもはや、クラインさん自身、わかっていないのかもしれなかった。
広場は騒然としている。不安や怒りを表している人もいる。でも、まだ聞こえてくるのは、『これは度の過ぎたオープニングイベントだ』という声が多い。
“あなたは死にます”と突然言われても、受け入れられる人なんてそうはいない。死は日常のどこにだって転がっているけれど、それをいつも考えていたら生きていけない。寿命がカウントダウンを始めているボクだって、茅場さんの言うことを信じ切れていないし、信じたくない。
でも、茅場さんは、ここにいる人たちの心の動きなんてどうでもいいようだった。
始まったときと何一つ変わらない、淡々とした口調で、アナウンスは再開された。
『諸君が向こう側に置いてきた肉体の心配をする必要はない』
さっきはあれだけ話声であふれていた広場が、不気味なローブが声を発するや、サーッと静まり返った。空気のよどみがどんどん増していく気がする。来たときにはさわやかに感じた風も、ぬめりを帯びて体にまとわり付くようだ。
『現在、あらゆるテレビ、ラジオ、ネットメディアはこの状況を、多数の死者が出ていることも含め、繰り返し報道している。諸君のナーヴギアが強引に除装される危険はすでに低くなっていると言ってよかろう』
何もない中空に、いくつものモニターが現れた。そこには、テレビのニュースらしきものが映っていた。一組の女の子とそのお母さんだろう女の人が、サスペンスドラマでおなじみの “KEEP OUT”の黄色いテープの前で膝をつき、手に顔をうずめて泣いていた。
あ、と声を上げ、ボクは、唐突に思った。
そうか、もう母さんと、父さんに会えないかもしれないんだ。それは、ここにいる誰にも言えることだった。
ローブが発した次の一言は、それ以上にショッキングだった。
『今後、諸君の現実の体は、ナーヴギアを装着したまま二時間の回線切断猶予時間のうちに病院その他の施設へと搬送され、厳重な介護態勢のもとに置かれるはずだ。諸君には、安心して……ゲーム攻略に励んでほしい』
「な…………」
「え…………?」
キリトとボクが、余りの事に声を詰まらせた。
この人、何言ってるの?
ボク達に、このままゲームをしろって?
大勢の人が死んでいて、これだけ大ごとになっているのに?
閉じ込められた、このままで?
だんだんと頭に血が上っていく感覚がする。それを抑える気にもなれない。
理不尽すぎる。君は命をなんだと思ってんの⁉
「ゲームを攻略しろだと⁉ この状況で遊べってのか‼」
キリトが、怒りもあらわに、荒々しく言った。
全面的に賛成だけれど、ボクは驚いてキリトを見た。
ここまで声を荒げるキリトは初めて見た。……考えてみたら、付き合い自体もさほど長くはないけれど。
それにしたって、中身のないローブを睨みつける眼光の鋭さは、尋常なものではない。
茅場の声は言う。
『しかし、充分に留意してもらいたい。諸君にとって、《ソードアート・オンライン》は、すでにただのゲームではない。もう一つの現実と言うべき存在だ。……今後、ゲームにおいて、あらゆる蘇生手段は機能しない。ヒットポイントがゼロになった瞬間、諸君のアバターは永久に消滅し、同時に』
三度の沈黙。
ここまで来れば、次の言葉を誰だって予想できる。これは刷り込みに近いものに感じた。あえてためをつくることで、恐怖をあおっているようにしか見えない。
しかしそれでも、最後の希望にすがる。自分の予想が外れていることを、きっと誰もが祈っているだろう。
でも、現実は、とこまでも残酷だった。
『諸君らの脳は、ナーヴギアによって破壊される』
心臓を締め付けるような、金縛りの沈黙。それに包まれた広場の中で、
「……馬鹿馬鹿しい」
キリトはひどく低い声で、唸るようにつぶやいた。
そうだ。本当に馬鹿馬鹿しい。ボクがもう、母さんと、父さんと会えないなんて。ありえない。そんなことあっていいはずがない。ボクはもう、充分失ったじゃないか。
友達も、学校生活も、家での暮らしも、そしてこの先何十年とあるはずだった、人生も。
なんでそれさえ奪われなきゃいけないんだ!
……あの人がボク達をこの世界に引きずってきたんだ。
あの人のせいでまたボク達は苦しまなくちゃいけないんだ!
あの人さえいなければ‼
いままでこんなこと、考えたこともなかった。人を恨んだり憎んだり、そういったことを知らずに生きてきた。ボクが今までずっと考えていたのは、ただ死にあらがうこと。そして、周りの人たちを悲しませないように、いつも笑顔でいること。それだけだった。頑張って頑張って、生きてきた。なのに。なのに……。こんなのあんまりだっ!
言いようのない真っ黒い感情が、お腹の底にたまって、体をじりじりと熱くしていく。ドクリドクリと心が脈打ち、その黒いモノは体中を巡っていった。
いまボクはきっと、鬼のような顔をしているに違いない。
黒く染まった頭の中に、茅場の声は容赦なくねじ込まれる。
『諸君がこのゲームから解放される条件は、たった一つ。先に述べたとおり、アインクラッド最上部、第百層までたどり着き、そこに待つ最終ボスを倒してゲームをクリアすればよい。その瞬間、生き残ったプレイヤー全員が安全にログアウトされることを保証しよう』
解放の条件はクリア。
死なないために引きこもっていようものなら、いつまでたっても出られない。かといってクリアは……。
それを理解して抗議しない人はいない。ボク達の中ではクラインさんが真っ先に怒声を上げた。
「んなことできるわけねぇだろ‼ ベータテストのときはろくに上がれなかったって聞いたぞ‼」
クラインさんの言うとおりだ、とボクは思った。
クリア、と単純に言っているけれど、これは「言うは易く、行いは難し」どころじゃない。
ベータテストのときは、死ぬこともいとわずに突撃して、二カ月かかってようやく十層に到達した。つまり単純計算で、二十カ月もかかる。しかも今度は命がかかっている。十層クリアまでに何回死んだかなんて、もはや覚えていないくらいだ、ということを考えれば、攻略にかかる時間は、あの時の比ではないだろう。いつ帰れるかの見通しなんて、立つわけがない。既に途方に暮れてきた。
デス・ゲームのチュートリアルは続く。
『それでは、最後に、諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう。諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントが用意してある。確認してくれ給え』
茅場の言うとおりにするのは嫌だったが、何かクリアに有用なアイテムかもしれない。ひとまず何が入っているのか確認することにした。
《手紙》
アイテムには、そう表示されていた。
手紙……?
メッセージで送ってくるのではなく、わざわざアイテムとして手紙を送ってくるとは、いったいどういう訳だろうか。
開くためにタップしてみると、手紙が実体化して現れた。
味気のない、白くて横長の封筒に、何の変哲もない紙が入っている。現実世界で使う手紙となにも変わらない。
開けようと封筒に手を差し入れたところで、周りにいたプレイヤーに異変が起こった。
白い光が、音もなくプレイヤー達の手元から噴き出したのだ。目を細めてよく見ると、どうやら全員鏡のようなものを持っているらしい。
「ユウ!」
「うわぁ!」
いきなり話しかけられて目をむくボクに、話しかけた本人、姉ちゃんは、焦ったようにぐるぐると周りを見ている。そして困惑気味に自分の手を眺めた。
「……私達には、何ともないんだね」
「うん。みんな手に鏡を持ってるんだ。たぶんそれのせいじゃないかな」
「……ほんとだ」
そういう姉ちゃんは、手に何も持っていない。
「姉ちゃんは何かアイテムが届かなかった?」
ふるふると首を横に振る。
「……どうなってんの……?」
ボクはつぶやいた。手紙を受け取ったのは、ボクだけなのだろうか。
そうしている間に、光が徐々におさまってきた。まぶしいくらいだったものが、すこしずつ人の輪郭がつかめるくらいまで弱くなっていき……クラインさんとキリトの姿に、違和感を覚えた。
やがて、手鏡の光は完全に消えた。
そして、クラインさんとキリトは、互いを見合って固まった。ボクと、そして姉ちゃんさえも、二人の姿を見て、口をあんぐりと開けた。
「おめぇ、誰だ……?」
赤いバンダナを頭に巻いて、頭に無精ひげを生やした人が、小柄な、黒髪で黒い瞳で、中性的な顔の剣士に向かって、お化けでも見たような調子で言った。ボクと姉ちゃんは、ショックで二の句が継げなかった。
「あんたこそ、誰だよ」
問いかけられた剣士が、男子にしては少しソプラノがかった声で、呆然と言った。
しばらく沈黙。
「キリトか⁉」
「クライン⁉」
同時に叫んで、今度は自分の体を見やった。
「なんで──‼」
クラインさんが叫び声を上げた。
キリトも驚いているようだったけれど、ボクと姉ちゃんを見て、ああ、と納得したようにつぶやいた。
「……二人とも、現実の姿に似せてアバターを作ったっていうのは本当だったんだな」
「う、うん」
ボクはかろうじて答えた。
「でもなんで二人とも……というより、みんな姿が変わったのかな……?」
姉ちゃんがキリトに問う。姉ちゃんの視線は、女の子の格好をした男の人に注がれている。うわあ、あれは悲惨……。
「どうやってかは分らないけど、俺たちは現実の世界と同じ容姿にされたらしいな」
眉間にしわを寄せて考え込むキリトに、クラインさんがハッとして言った。
「初期設定の時に、キャリブレーション……だっけ? やったろ、あれじゃねえのか⁉」
「ああ、ナーヴギアをかぶったまま全身を触っていくヤツか。……確かにあれなら、体格とかも測れるわけか」
「でもなぁ……体はいいとして、顔はどうやったんだよ。俺、キャリブレーションでも顔は触ってねぇぞ」
「ナーヴギアは頭だけじゃなくて、顔全体を覆うようにできてる。あれにセンサーでも付けておけば、スキャンだってできるだろ。……でも、問題はそこじゃない」
「……そうね」
キリトを見て、姉ちゃんがうなずく。クラインさんもキリトを注視している。
キリトは一瞬考えるそぶりを見せてから、慎重に、言葉を選びながら言った。
「問題は、こんなことをした……ここに俺達を連れて来て、閉じ込めて、わざわざアバターを現実のものにした理由だよ。ヤツの性格から考えて、無駄なことはしないと思う。きっと、これにも理由があるんだ……」
姿をリアルに近づけることについては、ボクには心当たりがあった。実験でこの世界に入るとき、現実に似せたアバターを作った理由を、先生から教えてもらったのだ。それに、たぶん閉じ込めた理由も同じだと思う。
「……この世界を、より“現実”にするため、だと思う」
ボクの答えに、キリトとクラインさんが息を呑んだ。姉ちゃんは眉間にしわを寄せて俯く。何か考えているようだ。キリトはうなずいて言った。
「そうか、確かにそれは……そうだろうな」
「……でも、結局よぅ、ここを現実にすることに、なんの意味があるってんだ。そもそも、SAOを作った意味が、俺にはさっぱりわからねぇよ」
クラインさんは納得がいかないようだ。ボクにもそれは全く見当がつかない。
頭を抱える二人を見て、再びキリトが言った。
「どうせ、すぐにそれも答えてくれるさ」
なかば投げやりというか、少々ぞんざいな口調だった。考えてもムダ、と思ったのかもしれない。
はたして、キリトの予想は的中した。茅場の声は、キリトの発言から数秒して、重々しく響いた。
『諸君は今、なぜ、と思っているだろう。なぜ私は──SAO及びナーヴギア開発者の茅場晶彦はこんなことをしたのか? これは大規模なテロなのか? あるいは身代金目的の誘拐事件なのか? と』
……もしかして今、楽しんでる?
そう思ってしまいたくなるほど、声のトーンが変わった。いままで無味乾燥、感情を全く出さなかったのに、抑えきれない喜びに似たものが含まれている、気がする。
新しいおもちゃを見つけた子供みたいだ。ボクは思った。
茅場は続ける。
『私の目的は、そのどちらでもない。それどころか、今の私は、すでに一切の目的も、理由も持たない。なぜなら……この状況こそが、私にとっての最終的な目的だからだ。この世界を創り出し、観賞するためにのみ私はナーヴギアを、SAOを造った。そして今、すべては達成せしめられた』
この世界を作って、一万人もの人をここに連れてくるのが目的で、それ以上はなかった……?
じゃあボクたちは、これから茅場の求めるものですらないことに命を掛けなきゃいけないの?
そんな、馬鹿な。
……だったら!
「もう目的を達成したなら、ボク達をここから出してよ! もういいじゃん、ここまでできれば‼ 君の勝手な都合で、いったい何人殺したら気が済むっていうのさ‼」
現実の喉だったら間違いなくつぶれていただろう大声で叫ぶ。しかし、それが茅場に届くことはなかった。
『……以上で、《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の──健闘を祈る』
そう言うと、赤いローブは空間に溶けるように姿を消し、空は元の色を取り戻した。
ボクは呆然として、ただ立ちすくんでいることしかできなかった。
広場に居る全員が、言葉を失っていた。