島津飛翔記   作:慶伊徹

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三十五話 島津義久との対談

 

 

 

八月二十五日、戌の刻。

島津家と大友家の対立にて勃発した『高城川の戦い』にて敗れた戸次道雪であったが、主君である大友宗麟の助命を受け入れられた事に加え、坊津にて交わした約束事から島津忠棟の家臣として働くことを快諾した。結果として高城にある部屋を一つ与えられることに。忍衆の監視付きであるものの有り難い限りである。

想い人かつ新たな主君の配慮に感謝しつつ、明後日には肥後北部へ進軍する事も考えて早めに休もうとした戸次道雪を訪ねる人影があった。

恋敵であり、主君の想い人であり、三洲一の美女として名高い島津義久その人。雷神からしてみても予想外な人物の訪問であった。

 

「こんな夜遅くにごめんなさい」

 

開口一番、謝罪を口にする島津義久。

南九州にて覇権を握る島津家の当主と思えない腰の低さに内心驚きつつも、戸次道雪は来訪を予期していたかのような冷静さで対応する。

 

「義久様が謝る必要などありません。本来なら私が出向かなければならないのですから。わざわざお部屋に来てもらうなど汗顔の至りです」

 

如何に大友家の大黒柱だったとしても、島津忠棟から大事な人だと断言されても、今の戸次道雪は只の一陪臣に過ぎない。

それも僅か三日前まで頑なに敵対していた敗軍の将である。島津義久に足を運ばせたと家中に知られれば糾弾されることは間違いなかった。

ご無礼をお許し下さいと頭を下げる道雪だが、義久は気にしていないとばかりに微笑んだ。

 

「そんなこと無いわ〜。昨日の今日だもの」

「お心遣い、痛み入ります」

「ううん。それより時間の方は大丈夫かしら?」

「夜更かしは好みませんが、これでも戦場を渡り歩いた一角の武将と自負しております。一日二日眠らずとも問題ありません」

「源太くんが言うには夜更かしするとお肌が荒れるらしいから。あんまり長居するつもりもないから安心してね〜」

 

聞き慣れぬ情報と名前である。

兎にも角にもいの一番に来訪の理由を尋ねる筈だったが、戸次道雪は浮かんだばかりの純粋な疑問を投げ掛けることにした。

 

「源太、とは?」

「あらあら。雪殿は知らないのねぇ」

「誰かの幼名でしょうか?」

「夫の事よ〜。幼名というよりも通称かしら」

 

義久は嬉しそうに口にする。

彼女の夫とは即ち島津忠棟の事だ。

言外に幼少期から仲良くしているのだと念を押されているようで、少しだけ胸の内に響く騒めきが大きくなってしまった。

しかし、御身は戸次道雪である。

涼しげな表情のまま軽やかに言葉を返した。

 

「忠棟殿の事でしたか。しかし、夜更かしすると肌が荒れるとは事実なのですか。初めて耳にしましたが」

「わからないわ〜。でも、源太くんが自信満々に断言してたから本当だと思うけど。行軍とかしてたらお肌とか気にしていられないけどね」

「確かに。ですが、気を付けることにします」

「それがいいわ〜」

 

あくまでも素面で。

内心では肌荒れを気にする乙女で。

察しているのか、それとも恋敵として見ていないのか。どこか島津忠棟を彷彿させる笑みを浮かべたまま頷く島津義久は、純粋に本心だけを述べているように見えた。

ーー手強いですね。

嬉しさ半分、悔しさ半分。

今年の三月までは恋に浮かれる愚かな女という印象だったが、主従で御家騒動を乗り切った事からどうやら一皮向けたようである。

忠棟を支えてくれる妻になったなら発破を掛けた甲斐もあったというものだ。

 

「話を戻します。義久様は何故私の元に?」

 

何はともあれ。

大事なのは島津家当主の来訪理由。

忠棟に申し付けた条件を反故にされる可能性とてなきにしもあらず。その場合、舌戦を繰り広げることも吝かではなかった。

 

「ちょっとお話がしたいなぁと思って。駄目だったかしら?」

「いえ、私も義久様と言葉を交わしたいと思っていましたから。主に今後の事について、後は忠棟殿の事について」

「奇遇ね。私と同じだわ〜」

「忠棟殿の言葉から察するに、直ぐにでも肥後北部へ侵攻するとの事ですが」

 

座敷牢にて交わした言葉を思い出す。

島津家と大友家。双方の総力を結集させて行われた決戦に打ち勝った島津軍だったが、尚も骨身に鞭打って残された肥後北部を平定するらしい。

大友家の背後から毛利家をちらつかせ、調略を駆使して内部分裂を図り、わざと数的不利な野戦に持ち込んだ真の魂胆は兵糧の無駄遣いを避ける為だったのである。

島津軍の死傷者は6000を超える。彼らを丁重に供養し、また負傷者に対して医療を施す者などを差し引けば肥後北部に侵攻する島津兵は10000と少しといった所だろうか。

 

「家ちゃんと忠元が懸城に、歳ちゃんと有信が御船城に、源太くんと兼盛が高森城に。兵数は詳しく決まってないわねぇ。明日、源太くんが決めるらしいけど」

「三つの部隊で一気に、というわけですね?」

「農繁期を跨ぐのは良くないもの。みんな疲れてると思うけど、此処で肥後北部を占領しておかないと後々に響くって源太くんが言ってたわ〜」

 

農繁期を跨がないとは、つまり九月中旬までに肥後全土を平定するつもりなのか。

戸次道雪は肥後平定に必要な情報を整理した。

懸城に引きこもっていた大友宗麟は既に豊後へ退却したらしい。半数の兵力で角隅石宗の率いていた本陣を壊滅させた島津家久と新納忠元ならばもぬけの殻となった懸城など容易く奪還できる。

高森城は別名『囲城』と呼ばれ、清栄山付近の標高約八町(840メートル)迫地に立地している山城だ。肥後、豊後、日向の国堺を押さえる要衝に位置している重要拠点な為、島津家宰相が直々に攻めるのだろう。此方も特に大きな障害は無いと思う。

問題は御船城である。肥後だけでなく、九州全域に轟く名将『甲斐宗運』が守護する御船城を陥落させる為には、鬼島津の武力と今士元の知略を最大限活用させないと先ず不可能に近い。

当然、忠棟も承知済みだろう。

それでも速攻で阿蘇氏を攻める理由は一つだ。

 

「忠棟殿は龍造寺を警戒しているのでしょうね」

 

龍造寺家と島津家は同盟を結んでいる。

しかし相手は龍造寺隆信。肥前の熊である。

警戒して当たり前、出し抜けるなら裏を掻く。

当然の事ながら龍造寺隆信も同様の考えだろう。

それが戦国時代の常である。

正義は勝者にある。敗者の言い分は誰の耳にも届かない。

 

「実際、筑後に侵攻しているもの」

「肥後は九州のほぼ中心に位置しますから。龍造寺もあわよくば狙っていることでしょう。忠棟殿が焦るのもわかりますよ」

 

非常に口惜しい事ながら、高城川の戦いで名だたる武将と数多くの兵士を亡くした大友家に以前までの力は無くなってしまった。

流石の高橋紹運でも支えきれないだろう。

否が応でも大友家は大大名家の立場から転げ落ちる。

大友家の没落後、九州の覇権を握るのは南九州を支配下に治める島津家か。もしくは躍進著しい龍造寺家のどちらかに限られた。

それ故に、お互いに九州平定に必要な立地を確保しようとする。龍造寺隆信なら筑後を、島津忠棟なら肥後である。

被害が大きくなろうとも此処は拙速を尊ぶべし。

僅かな動きの遅れが全てを台無しにするかもしれないのだから。

 

「雪殿から見て、行けると思うかしら?」

 

微かに思案してから戸次道雪は強く首肯した。

 

「島津兵の精強さ、兵站維持能力、武将の才覚などから判断すれば問題ないかと。全軍の軍配を握るのも忠棟殿ですから。唯一の問題点は九州北部の勢力で連合を組まれた場合ですね」

 

甲斐宗運については一旦思慮の外に置く。

最悪、御船城に甲斐宗運を釘付けにしておくだけで事足りるからだ。

その隙に高森城を抜いた島津忠棟隊が隈本城を陥落させる。阿蘇家を率いる阿蘇惟将は凡将では無いが、決戦を制した島津家の勢いを抑え込める器の持ち主ではない。

それでも道雪の脳裏に一抹の不安が過ぎる。

阿蘇家の支柱たる甲斐宗運は、控えめな評価を下しても大友家の両翼たる高橋紹運や戸次道雪と同等の資質を持つ武将である。

島津歳久と山田有信の部隊が一蹴される事も視野に入れて置くべきか。早速、忠棟に進言するとしよう。

そこまで考えて、道雪は内心苦笑した。

ーーもう、島津家を基準に物事を考えるなんて。

ともかく、甲斐宗運の脅威は視野の外とした際に残る問題点は九州北部にて対島津同盟を結ばれてしまう事だろう。

 

「やっぱり包囲網が敷かれるかしらね〜」

「龍造寺隆信は強かな男です。島津家と同盟を組んでいても、その背後で島津家を貫く槍を扱いている事でしょう」

「龍造寺家が主導だと思う?」

「此度の敗戦で大友家に島津包囲網を主導する余力は無くなりましたから。可能性として挙げるなら龍造寺家だと思いますよ」

 

大友家を巻き込んだ対島津同盟。

両家の足並みが揃うかはまた別として、九州平定の妨げになるのは自明の理と言えよう。

同盟を締結することで国力で勝った上、九州北部に出られぬ様に蓋をしてしまえば島津家の躍進は一旦止まってしまう。

一刻も早く九州全土を平定したいと願う島津忠棟の気持ちを嘲笑うように、軍事行動を取れないまま時間だけが過ぎていってしまうに違いない。

 

「源太くん曰く、包囲網が敷かれる可能性は三割強らしいわ」

「忠棟殿が忍衆を用いて撹乱しているのでしょうね。抜け目ない方です。未来でも見通すように先手を打つ。その才覚、余人の及ぶ域を超えております」

「その彼が甚だ不都合と断言した御仁がいるわ」

「ほう?」

「雪殿は誰だと思う?」

「はてさて」

 

道雪は小首を傾げ、思案に耽る。

桶狭間の戦いを制した織田信長。天下人と称される三好長慶。肥前の熊こと龍造寺隆信。越後の龍と畏れられる上杉謙信。甲斐の虎の異名を持つ武田信玄。道雪の義妹である高橋紹運。そして、関東を勢力下に治める北条氏康などなど。

戸次道雪の脳裏に次々と浮かぶ大名や武将たち。それぞれの特徴を活かした領国経営は警戒して然るべき鮮麗さを誇り、彼らに付き従う武将たちが率いる兵士と相対するとなれば背筋に冷や汗が流れることだろう。

だが、九州に根を張る武将にとって最も恐ろしい御仁とは一人だけだ。

雷神と称えられる戸次道雪であろうと、彼の張り巡らす謀略は恐ろしいの一言に尽きる。

最大限の注意を払っても足元を掬われるかもしれない知略の持ち主。

その名前はーー。

 

「謀神・毛利元就」

 

中国地方に覇を唱える毛利家当主。

僅か一代にして国人から大名に躍進した人物。

有名な『厳島の戦い』にて陶晴賢を破り、急速に弱体化した大内氏の旧領を併合した毛利元就は博多と石見銀山を掌握。一気に押しも押されぬ大大名へと躍り出た。

博多に関しては戸次道雪と高橋紹運で奪い取ったが、それでも油断ならない大名であることに変わりない。

道雪の発した答えに、義久は正解だと頷いた。

 

「ええ。源太くんが勝てるかどうか分からないと声を震わせた御仁。もしも毛利元就殿がこの九州にまた手を伸ばしてきたら厄介なことになるわ」

「忠棟殿なら前以て手を打ちそうですが」

「当然よ。でもその裏を掻かれる可能性も少なからずあるわ〜」

 

確かに、と戸次道雪は同意した。

 

「それが三割強という事ですか」

「実際、毛利家は昨年隆元殿が早逝してしまったわ。東に尼子家という敵を抱えている現状、九州を視野に入れた行動は取れないでしょうけど」

 

毛利家の次期当主と目された長女の死去。

伝え聞くに、心優しく賢い少女だったらしい。

その悲報は毛利家中に激しい動揺を招いた。

当時滅亡寸前まで追い込まれていた尼子家だったが、毛利家を襲った訃報の隙を突いて、再度御家の建て直しを計っている。

慎重居士である毛利元就のこと。長女の早逝から立ち直っているだろうが、未だ家中の動乱冷めやらぬ時期に東西へ手を伸ばすだろうか。

 

「もし元就殿が謀略を仕掛けてきたら如何なさるおつもりなのですか?」

「源太くん曰く、どうにかするらしいわ〜。どうにか出来なくても何とかするって」

 

それは明確な答えではない。

思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 

「全く。あの方らしい物言いです」

 

だが、不安を感じない。

島津忠棟ならどうにかするのだろう。

神速で三洲平定を成し遂げ、大友家との決戦に勝利した今士元ならば謀神すら屠ってくれると期待している。

戸次道雪として、雷神として、彼に恋する『雪』として彼の夢を支えてあげたいと思う。終わりの見えない道だが、それでも常人と違う視点を持つ彼なら天下静謐を叶えると確信している。

そんな道雪の心情を知ってか知らずか、島津義久は居住まいを正して、おもむろに口を開いた。

 

「あー、そのね、源太くんの事なんだけどね」

「義久様?」

 

だが、どうにも歯切れが悪い。

どうかしたのかと疑念を覚えた直後ーー。

島津家当主はゆっくりと頭を下げた。

深く深く、誠意を込めるようにゆっくりと。

 

「戸次道雪殿。夫の事を助けてくれてありがとうございました。どうかこれからも夫の事をよろしくお願いします」

 

自らの愛を押し付ける愚か者。

それが戸次道雪による島津義久の評価だった。

僅か半年前は島津忠棟の現状を把握せず、夫婦会議と称する気持ちの押し付けによって艱難辛苦を増長させていた。

あの時は本気で殺意を覚えていた道雪だったが、主君として、また支えるべき夫として、忠棟の事を第一に想う島津義久の在り方を見れば自然と微笑んでしまうのも無理なからぬ事だった。

 

「はい。私の全てを懸けて忠棟殿を支えるつもりです」

 

嗚呼、心が痛い。

座敷牢で理解した筈だ。

義久と忠棟の仲に割り込めないと。

互いを愛し合う男女を引き裂くなど野暮だと。

この恋心は封印しよう。

雪は忠棟の隣に居られるだけで幸せなのだから。

そんな道雪の誓いを引き千切るように、義久は一歩近寄ってから口を開いた。

 

「ありがとう、雪殿。私の思い過ごしかもしれないけど、雪殿って源太くんのことが好きなの?」

 

ーーと、唐突すぎる!

 

「そ、そのような事は決してありません!」

 

咄嗟に否定したが、顔は真っ赤に違いない。

身を焼きそうな恋慕。甘酸っぱい初恋である。

恥ずかしさから大声で否定してしまったが、島津義久は余裕の笑みを崩さない。

強かな部分も成長を遂げていたようだ。

少しだけ苛ついてしまったのは秘密である。

 

「あらあらぁ。顔が赤いわよ?」

「あ、熱いからです」

「まぁ、夏だものね〜」

 

思わず半眼で義久を睨む。

 

「ーー成る程、似た者主従ですか」

「ん?」

「いえ、何でもありません」

 

小首を傾げる義久。

気を取り直したらしく島津家当主は戸次道雪の肩を優しく掴んだ。三洲一の女と名高い美貌を微笑ませ、驚天動地な台詞を口にした。

 

「私のことは気にしないでね。源太くんも雪殿を少なからず想っているみたいだから。もし良かったらあの人の寵愛を受け入れてあげて」

 

道雪の頭上に疑問符が乱立する。

ーー寵愛って、あの寵愛でしょうか?

寵愛とは、特別に大切にして愛すること。

意味は理解している。

しかし意図がわからない。

 

「よ、義久様はよろしいのですか?」

「ええ、勿論よ」

 

一瞬の間も置かず即答された。

道雪の理解を超えていた。

ーー私なら誰にも渡したりしないのに。

だからか、語気を荒げて問いかけてしまった。

 

「何故?」

「だって、源太くんの一番は私だから」

 

 

絶句。

 

 

「それだけは弘ちゃんにも、直茂にも譲る気はないわね〜。勿論、雪殿にも負ける気はないから覚悟してね」

 

生来の器が大きいのか。

それとも島津家の特徴なのか。

判断しにくい島津義久の言葉に、戸次道雪は思考を放棄して頭を下げるのだった。

 

 

 







本日の要点。

1、毛利家始動する。

2、島津義久、忠棟の一番であることを宣言。

3、ただいまでごわす(スライディング土下座)

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