十二月十日、巳の刻。
南九州に於ける覇者、四カ国を治める島津義久の居城である内城は吹き荒ぶ木枯らしに負けず鎮座している。
連日商人を乗せた船が行き交う鹿児島港。平野部を覆い尽くすほど城下町。島津の今士元が造り上げた大規模な工業場。荒れ果てた京を捨てて来た公家達の齎した京文化。南海貿易の中継地として様々な物品が立ち並ぶ大市。
まさしく南の都と呼んで差し支えない発展度合いである。寒さを吹き飛ばす熱気に包まれた城下町に比例するように、内城にて政務を取り仕切る島津歳久の仕事は増えていく。
早朝から一度も休む事なく指示を出す様は鬼気迫る程。三年前と比べれば文官は着々と増えているものの、島津家の発展速度と比較してみると追いついていないのが悲しくも確かな現状であった。
「ふぅ」
太陽が中天に差し掛かる直前。
絶え間なく動かしていた筆を置き、肩を解す。
うーんと伸びをすると小気味好く骨が鳴った。
予定通りの進歩状況。
一先ず休憩にしようと立ち上がろうとした瞬間。
「どうぞ、歳久様」
音もなく現れた女性がお茶を差し出した。
身体に張り付いた黒い忍服は露出が多めで男を惑わす扇情さだが、百地三太夫曰く機能美に溢れた一品とのこと。漆のような黒髪は高い位置で括られている。首に巻かれた真紅の襟巻きは忍として如何な物かと疑問に思うものの、滞りなく他家の情報を持ち帰る辺り問題ないのだろう。
彼女の名前は神部小南。
元は伊賀国のくノ一だった経歴を持つ。
「ありがとう--って、いつから其処に?」
襖を開ける音はしなかった。
元々部屋の何処かに潜んでいたのだろう。
神出鬼没な三太夫に幾度も驚かされた結果、不意を突いた小南に対して驚嘆せずに、ご丁寧に差し出されたお茶を頂く歳久。嫌な慣れであった。
「つい先程。政務の邪魔とならぬように気配を消していました」
「声を掛ければ良かったのに」
「いえ、お美しい横顔を眺められて眼福でした」
言葉とは裏腹に無表情である。
畳に腰掛けず、身体を揺らさず、直立不動の姿勢を保ちながら能面のような表情を貼り付けている様は、何処となくからくり人形を彷彿させる。
三太夫といい、藤林といい、小南といい、島津の忍衆を統括する者達は一癖も二癖もある連中ばかりだと、歳久は自らを棚に上げて内心嘆息してしまう。
「女好きですね、相変わらず」
神部小南は女性である。
膨よかな胸、肉の付いた太腿、括れのある腰囲。
いずれも数多の女性を羨ましいと思わせる身体つきである。
少なくとも島津歳久より胸が大きい。それはそれは大きいのだ。三太夫に紹介される前、胸が小さいくノ一だと説明された。なのに負けた。普通に負けた。歳下に負けているという点も敗北感を増長させた。
だが、彼女は女好きだ。
島津義久に謁見した瞬間、永遠の忠誠を捧げますと平伏。島津義弘の武力と容姿を巴御前の再来だと狂喜乱舞。歳久と家久は生涯護り続けますと手に手を取って宣誓したぐらいである。
しかし、本人は素知らぬ顔で嘯く。
「美しい物が好きなのです。輝いていますから」
「金銀も?」
「良いですね、輝いています」
「義ねぇは?」
「あの方の眩しさは天下一でしょう」
「忠棟は?」
「鈍いです、輝いてません、我らと同類です」
散々な言い様である。
神戸小南の輝いていないは醜男の証明に他ならない。勿論、それは彼女の主観的な美醜判断であるけれども。
余りな評価だが、歳久も否定はしない。
ただあの男の笑顔は向日葵の如く温かいのだと思わず反論しそうになって、慌てて口を噤んだ。
何を生娘のように。
彼岸花の間違いでしょうに。
此処は同意して然るべきです、はい。
コホンと咳払いした歳久は明後日の方向を見ながら頷いた。
「まぁ、顔は確かに平々凡々ですが」
「私個人としては好みに入ります」
「入るんですか……」
どっちだよ。
「ただ--」
「ただ?」
「棟梁に毒されています。似た雰囲気がします。だから嫌です。我らと同じ日陰者の匂いがします」
「謀略が得意ですからね、あの男は」
肥後国北部を殆ど接収に近い形で平定したのは記憶に新しい。交戦したのは高森城だけで、他の城に住む国人衆は大友家から離反し、隈本城も重臣の裏切りによって内側から瓦解した。
当然、主導したのは忠棟である。
何年も前から綿密に計画されていたのだろう。
腹心の百地三太夫に休暇が与えられなかったのも道理だ。肥後国北部を調略だけで切り崩していなければ、島津勢は毛利元就が主導した包囲網によって瓦解していたに違いない。
「はてさて。その男の事ですが、小南が内城に来たという事は何かありましたか?」
「いえ。肥後と筑後の国境で龍造寺勢と依然として睨み合ったまま。後詰の部隊は菊池城、前線に築かれた二つの砦に山田有信殿と東郷重位殿がそれぞれ3000の兵士を伴って詰めています」
銭に物を言わせた人手と材料で築き上げた二つの砦。薩摩街道に沿うようにして造られた高瀬砦に加え、菊池城を護るようにして建てられた菊鹿砦の二つは対島津包囲網の侵攻を食い止める為に建築された。
不必要な物は省いた結果、僅か一月半で完成。
十日前に龍造寺勢と一戦交えた際も役に立ったと聞いている。
「事前に定めた通りですね。龍造寺の動きは?」
「兵数で上回っていても容易に勝てないと理解しているようで。積極的に攻勢に出ようとしておりません。まもなく本格的に冬になります。一度国許へ退かれるでしょう」
見るからに寒そうな格好の小南が言うと説得力に欠けるのだが、と胡乱な目付きで睥睨する島津歳久。
「大友家も日向との国境に兵を置くばかり。大した動きはありません。高橋紹運は一刻も早い島津討伐を訴えているようです」
「ならどうして?」
貴女が来たのか。
訝しむような視線で問い掛けると、小南は此方をと一通の書状を差し出した。差出人は島津忠棟。島津歳久宛になっている。
「棟梁曰く毛利元就殿に動きありと」
「ほう。南下ですか?」
「いえ。山陰に登りました。出雲遠征を行うようです。対島津の為に尼子家を滅ぼす気だろうとのこと。毛利の両川も引き連れています」
「山陰は雪で動けない筈では?」
「その油断を突いた形となります。忠棟様が言うには最悪を想定して動くとの事」
厄介な事になった、と歳久は肩を竦める。
もしも此度の遠征で尼子家を滅ぼしてしまえば、後顧の憂いなく九州へ牙を向けることが可能となる。
「わかりました。私も最悪を想定して動く事とします。急いで軍を編成しなければなりませんね」
「隈本城に拘留してあった角隅石宗を内城へ送るとのこと。殿も扱いについては歳久様に一任すると申しておりました」
「成る程、石宗殿を。説得できたようで安心しました」
「はい。道雪殿に根負けしたようです」
歳久は道雪の登用に反対した経歴がある。
彼女の大友家に対する忠義は本物な上に、島津家に対して劇薬な存在になると考えていたからだ。
忠棟の恩人だとしても、島津家に害を成す様なら排除する他ない。結果として想い人に嫌われようとも、憎まれようとも、それが島津歳久に課せられた義務だと思うから。
「それはそれは。石宗殿が来られるなら何とかなりそうです。忠棟に感謝の言葉を伝えておいてください」
「承知致しました。ならば、私はこれで」
「次は何処へ?」
「佐土原城に」
「弘ねぇによろしくと」
「御意」
淡々と言葉を交わした直後、小南は音もなく消える。まだまだ忍として未熟であると謙遜する彼女だが、歳久からしてみれば充分な技量を持っているとしか思えないのだが。
「さて、と」
神部小南は去った。
周囲に人の気配無し。
義久ではなく私に書いてくれたと緩みそうになる頬を意志の力で食い止め、忠棟からの書状を読もうとした途端、外から襖が開かれた。
「歳ちゃん、いるー?」
「!?」
「あらあら、やっと見つけたわ〜」
「よ、義ねぇですか。どうしました?」
咄嗟に書状を隠してしまった。
何故隠してしまったのか理解できないまま。
今更目の前で読み直す訳にもいかず、歳久は何食わぬ顔で義久を部屋に招き入れる。実の姉妹だが主従関係にもある為、上座に義久を座らせ、自身は速やかに下座へ移動した。
「わざわざ下座に移ることないのに」
上座に腰掛けながらも苦笑する義久。
歳久は姉兼主君に対して頭を下げながら答える。
「仮にも主君ですから。義ねぇの我儘は聞きません」
「歳ちゃんが年々厳しくなってるわ」
「義ねぇは既に四つの国を手中に治める大大名なのですから軽率な言動は慎んでください。源太も忠倉も甘やかし過ぎです。私は許しません」
「はーい」
無論、義久は日頃から政務を行なっている。
筆頭家老である忠棟不在の中、以前にも増して自発的に島津家発展の為に活動していた。歳上の家臣たちへ矢継ぎ早に指示を下す様は隠居した島津貴久にも負けていないと家中でも評判である。
だが、忠棟不在は心身に悪影響を与えているらしく、時折酷く甘えん坊な姿を見せる事がある。まだ実の家族に対してだけだが、もしも家臣たちの目に触れることあれば威厳を失いかねない。
何とかしないと拙い。
苦労性な歳久は頭を悩ませ、解決策は義久の夫に任せた。お前の妻だろ、早く何とかしてくれ。意訳すればこういう風に書き記した書状を一週間前送ったばかり。
何がしかの対応を考えてくれていると思うが。
はてさて、どうなった事やら。
「それで、何故私を探していたのですか?」
「えっとねー、明日行う評定の前に歳ちゃんから色々と話を聞いておきたいと思ったの。ほら、此処三ヶ月ぐらいは歳ちゃんが色々な事を主導してたでしょ?」
「義ねぇも手伝って下さったではありませんか」
「うん。でも、源太くんから直接任されたのは歳ちゃんだから。今年最後の評定だもの、家臣に良いところ見せたいじゃない?」
茶目っ気を含ませた物言いに、歳久は頭を振る。
敵わないなと再認識。
人の扱い方が本当に上手だと頼もしさを感じた。
主君としては当然ながら花丸である。
「わかりました。では、既存の物から。串木野金山は本格的に稼働を始めました。谷山に造られた金座にて薩州金として鋳造する予定です。詳しくはこれから定めようかと。何しろ掘っても掘っても金が溢れてくるようなので、最初にしっかりと定めておかなければ後々災いになります」
「明銭は使わなくなるの?」
「いえ、税としても禁止する事はありません。質の悪い銅銭だとしても、状態に応じて区分すれば問題ないかと」
「なるほど〜」
忠棟曰く、明銭の納税を停止したらデフレが云々と口にしていた。
どうやら大陸を支配する明朝の莫大な力が衰え始めているらしく、このまま進むと明銭の輸入が難しくなる可能性が高い。つまり貨幣が流通しなくなる。結果として貨幣の価値が高騰する。
そんな中、銅銭の納税を停止してしまうと、際限なく価値が高騰し続けてしまう。だからこそ長い年月を掛けて段階的に明銭に頼らない政策を実施しなくてはならないとの事。
今回の薩州金もその第一歩である。
「谷山の稼動も問題なく進んでいます。堺や津島から造船に必要な職人を呼び寄せ、領内であちこちに散っていた鉄砲職人、鍛治職人も集めましたから。砂糖製造も順調です」
「もしも間者に入り込まれたら終わりかしら」
「忍衆が絶えず監視していますから問題ないでしょう。それに、砂糖の製造は極秘中の極秘として扱っています。暴露する心配は少ないかと」
「そう。安心したわ〜」
手に職の有る人間は高待遇で迎え入れた。
様々な手段を用いて稼いだ銭によって仕事を与え続ければ、連日連夜お祭り騒ぎのように職人たちが動き回る谷山の町。
島津水軍、又は貿易に使用する船の建造。既に畿内、東海、関東にまで伝わった鉄砲の優位性を保つ為に質の高い鉄砲の大量生産を行い、示現流普及に合わせた薩摩由来の名刀として売り出すべく刀鍛冶も毎日休みなく汗水垂らす。
薩州産として日ノ本全土に拡大する砂糖の勢いは滞りを知らず、朝廷への献金は年々増え続け、高城川の戦いを終えた後、朝廷から官位の授与すら持ちかけられた程である。
現在、島津義久には従四位下『左京大夫』を与えられていた。
「問題は、源太の提示した改革案でしょうか」
「六角殿が行った楽市楽座だったかしら?」
「はい。商人の往来を妨げてはならない、座の特権をまったく認めない、屋敷地や家屋ごとの諸課税は免除する。座に喧嘩を売るようなものです」
独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者。それが『座』である。これを廃止するという事は、誰もが自由に商売や事業を行う事が出来る状態にしたいと忠棟は常々口にしていた。
元々、座は悪い物ではない。
明日の世も知れぬ乱世にて、巨大な権力によって不当に値が下げられたり、税を取られる事態に備えるための自衛組織だったのである。
しかし、そうした組織は次第に変質していった。
座によって既得権益を維持する事が最大の目的になり、不当に高値をつけて販売することも多々ある。製造や運送にあたって業務を放り出し、領主に対して要求を呑ませようとする事例も一度や二度ではない。
更に特権を世襲しようとする座まで現れ始め、やりたい放題の様相を呈してきた。本来は民衆を守るための存在であった筈の座が、民衆や領主にとって邪魔な存在に成り果てていったのだ。
「でも、行わないといけないのよね」
「これからは経済力が物を言う時代となる。それに商人が多く出入りする町を作れば、兵糧や武器弾薬を調達しやすくなりますから」
楽市楽座の利益は此処にある。
賑わう城下から、従来の屋敷地の広さなど土地を基準にしたものではなく、売上に応じて冥加金を徴収してしまえばより島津の懐は温まるようになる。
「やれそう?」
「公家の方は献金で手を打てそうです。問題は寺社の方でしょう。只でさえ南蛮貿易の利益を得る為に、寺社の方は常々不平不満を口にしていますから」
「そう。いざという時は、彼らも敵に回す覚悟が必要ということかしら?」
「はい。源太は物怖じせずに、坊主たちはお経を唱えていればいいと吐き捨てましたが。政事に口を挟むなとも」
「--歳ちゃん、明日の評定で楽市楽座を通そうと思うわ。協力してね?」
「簡単に言わないで下さい」
「歳ちゃんならできるでしょう?」
「まぁ、源太からも頼まれていますからね」
「やった」
嬉しそうに微笑む主君。
歳久の口からため息が漏れた。
「後は関所の廃止に間道整備、本拠地の移動。仕事は山積みです」
「間道を整備したら敵に攻められた時、危なくないかしら?」
「忠棟も理解しています。ただ危険性よりも、商人の往来を多くしたり、大軍を移動させやすくなるなど多種多様な利益が生まれますから。私も賛成しています」
「国人衆の反発は、金で抑え込むのね」
「これを想定して、源太は串木野金山を掘り起こした節すらあります。全くあの男は、道筋だけ付けた後は私に放り投げるだけ。厄介な事この上ないです」
でも、と義久が嬉しそうに笑う。
「歳ちゃん、楽しそう」
思わず頬を触る。
確かに緩んでいた。
弁解のしようなどない。
悪戯っ子のような視線を向ける義久から目を背けて、歳久は不満そうな演技を行い、やれやれと首を横に振った。
「疲れるだけです」
「またまた〜」
「義ねぇの夫なのですから、何とかして下さい」
「うーん、今は雪さんに任せてるから」
「はぁ、この夫婦は」
此方の思惑など度外視する辺り、似た者夫婦である。
そんな二人だからこそお似合いだと思い、歳久は一線引いたのだ。
「世話が焼けますね、本当に」
本日の要点。
1、神部小南、見た目は某ソシャゲーの加藤段蔵。
2、冥加金とは売り上げに応じて支払う税金。
3、島津お抱えの忍衆、通称『御庭番』に決定。