一月十三日、酉の刻。
龍造寺隆信挙兵の報せを受けた俺は即座に5000の兵を率いて内城から出立。国人衆の心象に蔓延るであろう反乱の兆しを断とうと考え、十二日の明朝には隈本城に入った。
有川殿に預けていた6000の兵を合わせれば11000の軍勢となる。島津家の動員できる三分の一を集めた隈本城は、新年早々休む暇もない戦支度によって上から下への大騒ぎとなった。
昼は諸将を集めて軍議を開く。筑後に集結しつつある龍造寺勢に対する策を話し合う傍ら、肥後を訪れる商人たちから兵糧を買い占め、夥しい武器弾薬を集め、その幾つかを肥前と日向に分けたりする仕事に追われる目に。
内城には義久と7000の兵を残し、肥前には数の問題から6000の島津兵を援軍として派遣した。有馬家と合流すれば8000に及ぶ。
後は総大将である島津家久様次第。御庭番衆を数多く肥前に放っているから問題ないと思う。残るは大隅の内通者と大友家の動きぐらいだった。
「夜分遅くにすまないな」
そして、夜。
人知れず雪さんを臥所に呼んだ。
「忠棟殿、まさかとは思いますが……」
「安心して欲しい。無理強いしてまで女を抱く気はない。今宵、此処に呼んだのは雪さんに相談事があるからだ」
はぁ、と溜め息を吐く雪さん。
「どうした?」
「……お気になさらず。して、相談事とは?」
「ああ。高橋紹運の事で聞きたい事がある」
「成る程、紹運がどうかしましたか?」
車椅子を巧みに操り、臥所の奥に近付く。
如何に人払いを済ませていても、車椅子越しに話せば会話は筒抜け。他家の間者および忍の耳に入る可能性が高くなるだけである。
「それよりも」
俺は雪さんの手を取った。
「まあ、忠棟殿?」
「其処では寒いだろうに。火鉢の近くで話そうでないか。遠慮せずに此方へ来てくれ」
ゆっくりと身体を動かす。緩慢な動きなのも仕方ない。何しろ雪さんは脚が動かないのだから。
優しく手を握るのも手伝う為だ。決して邪な気持ちを抱いた訳ではない。雪さんは俺にとって御仏に近い存在だ。手を出す事すら恐れ多いのだ。
「ありがとうございます、忠棟殿」
「礼など無用だ。こんな夜更けに呼んだのは俺だからな。この程度の配慮は当然であろう。寒くなかったか、雪さん」
「いえ。忠棟殿から呼ばれたと聞いて、卑しくも心身を清め、図らずしも身体を温めておきましたから」
雪さんを用意してあった火鉢の前に座らせる。脚を痛まないように配慮するのも忘れない。雷神である『鬼道雪』を怒らせる程、俺は怖いもの知らずではないのである。
「--」
雪さんの場を紛らわせる冗談に絶句した。
何と答えるべきか。そもそも冗談であるのか。
頭上に疑問符を幾つも浮かべた俺が雪さんらしくない冗談の真意を推測していると、微笑みを携えた雷神様が一転して話を戻した。
「さて、紹運の事ですね」
「然り。豊後方面を調べさせている小南から先ほど報告があってな。何でも最近、紹運殿と宗麟殿の間に軋轢が生じているらしいのだ」
早口で話すと、雪さんは真剣な表情で頷いた。
「紹運と宗麟殿が。理由はわかっていますか?」
「どうも臼杵城内に於いては、戸次道雪は死んだのだと吹聴されているようで。紹運殿が何度諌めても宗麟殿は考えを改めず。日に日に両者の仲は険悪になっていたらしい」
「仕方ありません。宗麟殿にとって、私は死んでいた方が色々と都合も良いのでしょう。事実、多くの者に島津兵に囚われてしまう姿を見られていますからね」
高城川の合戦。
大友宗麟は敗北した。
弁解の余地など皆無とすら言える大敗北だ。
大友宗麟自ら総大将として日向国へ攻め込んだ挙句、島津勢によって完膚無きまでに打ちのめされる結果に。約7000もの死者を出し、約8000もの負傷者を生んだ。
当然ながら国人衆から反発を食らった。
筑後と筑前西部を龍造寺隆信に奪われた事も痛かった。大打撃では済まない。本来ならお家が傾く被害である。
大友宗麟を罵る者も少なくなかったと聞く。
日頃から寺社仏閣を足蹴にして、キリシタンを優遇する様は家臣団の反発を招いていた。燻っていた不満はいつ爆発しても不思議ではなかったと言えよう。
九州探題に任ぜられた宗麟にとって恥辱の極みだったに違いない。顔を真っ赤にして地団駄を踏むだけに飽き足らず、島津勢を犬畜生と蔑んだ上、島津忠棟はデウス様に弓引く悪魔であるとも叫んだらしかった。
そんな大友宗麟にとって、雪さんは都合が良かったのだ。敗軍の将として島津に囚われている。生きているか死んでいるかも定かならず。故に敗戦の責任を被せてしまえば、大友家の面目が立つと考えたのである。
目論見は上手くいった。
心ある家臣は諌めたものの、家中随一の弓取りとして讃えられていた雪さんを快く思わない者は数多く、戸次道雪死去の噂は風よりも早く九州全土を駆け巡った。敗北の責任も付与された不名誉な噂であった。
「ですが、私と紹運は事あるごとに宗麟殿へ諫言していました。今更その程度で軋轢が生じるとは思えません」
「紹運殿はな、俺を殺すと息巻いているようだ」
「なんと」
今度は雪さんが絶句した。
ワナワナと唇を震わせ、目を見開く。
「真にございますか?」
「小南の報告が事実ならな。何しろ俺は大友家の衰退を決定付けた大罪人。つまり、この島津忠棟を打ち取った者は勲功者となるわけだ」
「その太功を持って、私を大友家に復帰させる」
「紹運殿はそう考えているらしい。そして、宗麟殿と決定的な食い違いが起きた。雪さんならわかるだろう?」
雪さんはコクリと首肯した。
「宗麟殿は日向にキリシタンの国を作りたいと考えています。しかし、紹運は肥後にて采配を振るう忠棟殿を討ち取りたいと望んでいるのですね」
「以前の大友家ならいざ知らず、落日を迎えようとしている彼らに万の軍勢を二つも用意するのは至難であろう」
「だから家中が割れていると」
「然り。筑後に集中している肥後勢を横から突き崩すか、龍造寺勢と歩調を合わせるように日向へ南侵するか。大友家は揉めに揉めているそうだ」
前者は高橋紹運を筆頭とした武断派の者たち。
後者は大友宗麟を旗頭とした文官派の者たち。
上策としては紹運に軍配が上がると思う。掻き集めた10000の軍勢を動員して高森城を一気呵成に落とし、筑後の兵士たちと連携を密にして島津勢を挟撃すれば勝ち戦となるは必定。例え日向から島津兵が北侵しても堅牢な臼杵城を抜かれる前に取って戻り、補給路を遮断してしまえば新納忠元殿も袋の鼠である。
だが、宗麟は豊後への侵入を殊更に嫌っている。
島津兵の侵入罷りならんと泣き叫び、慌てて高橋紹運を豊後に呼び戻したのは島津の笑い草にまでなっていたりする。
「忠棟殿は、宗麟殿に肩入れを?」
「既に忍を放ち、噂を流している。日向に大筒を大量に用意したとな。攻城戦の用意は済んであるとも」
大筒の威力を目の当たりにしていなくても、攻城戦の用意をしてあると聞けば、宗麟にとって日向へ南侵するしか選択など無いも同然である。
「紹運は如何なりましょうか」
「拙かろうな。逆心の兆し有りと煩く囀る声もあるらしい。宗麟殿も本気のようだ」
「--決戦に負けたからでしょうか」
「可能性としては高い。余裕が無いのだろうな」
「そう、ですか……」
鬼道雪は瞳を閉じて熟考する。
日向には8000の島津兵が配置してある。率いるのは新納忠元殿。堅固に改築した懸城ならば後詰が来るまで容易に耐え忍べる筈だ。
如何に武勇の誉れ高い高橋紹運と言えども短期の突破は不可能。キリシタンの国を作ると喧伝する大友宗麟が足を引っ張るだろうからな。
その間に九州全土の戦局は一気に動くだろう。
その為に、肥前には島津家久様を遣わしてある。
「雪さん、遠慮するな」
「私は既に忠棟殿から禄を食む身です」
「義理の妹、紹運殿が気に掛かるのだろう?」
「そのようなことは……」
答え辛そうだ。
当然か、頷ける訳がない。
高橋紹運は俺を殺すと息巻いている。
戸次道雪を薄暗い座敷に幽閉し、剰え島津兵の慰み者として活用しているのだと勘違いしているらしい。神部小南は御見逸れしましたとか皮肉気に報告したが、そのような嘘偽りに踊らされた者に殺されたいと思う程、俺はこの命を捨てていないぞ。
遂に雪さんは顔を伏せた。
義妹への情、現主君への忠節。
まるで板挟み。握り拳は震えていた。
その手を咄嗟に掴んだ俺は、雪さんを安堵させるように口を開いた。
「俺はな、紹運殿も島津家で召抱えたいと思っている」
雪さんが顔を上げた。
玲瓏たる美貌は健在である。
長く美しい濡羽烏の髪が首元を伝い、胸によって押し上げられた着物に沿う姿は酷く煽情的であった。
思わず見惚れてしまった。
恐れ多くも『可愛い』と思ってしまった。
「貴方を殺そうとしている者ですよ?」
「そう、俺を殺そうとしている。嫌っているのも間違いない。だが、島津家を目の敵にしているとは申していない。召し抱えるのに不都合など無いだろう?」
「しかし--」
「雪さん、俺は貴女を悲しませたくない」
だから、と続ける。
「どうか紹運殿を説得してくれないか」
「私が、紹運を?」
「文を出せばよい。雪さんの筆跡なら紹運殿も気付く筈。俺と雪さんで交わした大友家の処遇について書いても構わない」
他家の武将に近付き、書状を渡すなど御庭番衆なら造作なき事。更に戸次道雪直筆の説得なら、高橋紹運も揺れ動くに違いない。
以前ならば大友家への忠節から即座に破棄するだろう寝返りの書状も、此処まで主君との関係が拗れた今なら心に響くのは当然と言えよう。
「そんな--。なら、私はどうやって忠棟殿のご恩に報いればいいのですか」
雪さんは俺の腕に縋り付く。
悲し気に目を細め、力なく言の葉を紡いだ。
「処断されるべき命を救われ、恥ずかしくも大友家の存続を願い、貴方を仇敵と忌み嫌う義妹すら受け入れようとしてくださる。私に返せるご恩を超えています」
「ご恩と言うなら俺は二度も雪さんに救われている。坊津で、鹿児島で。お互い様だ。そう思わないか?」
「なればこそ。紹運を救って頂ける事で忠棟殿に対するご恩が一つ増えます」
「これから返して下されば良い。そもそも重位の師匠となって頂いた事もそうだが、相談役として日々の政務を手伝ってもらっている。感謝してもし足りないのは俺の方だ」
紫紺の双眸から目を離さない。
昨年末から暇を見つけては東郷重位に教授する事もさりながら、数少ない禄で様々なことを雪さんに押し付けているのは俺の方である。
坊津、鹿児島にて二度も押し潰されそうな心を救ってもらった。例え命を救おうとも、大友家の存続を義久に願っても、俺を殺そうと意気込む紹運を召抱えようとも、雪さんに対する感謝の念が消える事は有り得ないのだ。
「雪さんは、紹運殿が死んでも良いのか?」
「良くありません。しかし、それは紹運が決めた事ですから」
「意地を張らずともいい、雪さん。俺とて何も慈善から進言している訳ではない。紹運殿は戸次道雪に並び称される名将だ。島津家が天下統一するのに必要な武将の一人と言える。打算目的も多分にある」
正直な話、高橋紹運以外なら許していない。
この後、毛利家や織田家とも干戈を交えなければならない日が来る。きっと来る。
天下を統一するとは先ず畿内を手中に治める事は勿論、四国、関東、北陸、奥州など悉く平定しなければならない。後世に名を残す優秀な人材が一人でも必要だ。故に宗麟との軋轢という下らない理由で死なせたくなかった。
「……申し訳、ありません」
どうやら熱意が伝わったらしい。
雪さんはゆっくりと上体を起こした。
そのまま見つめ合うこと数秒、突然瞠目した。
慌てて乱れた服を正した後、赤面した顔を両手で隠しながら頭を横に振るう。普段冷静な雪さんに有るまじき行動に俺は面食らってしまった。
「我を忘れたとは言え、御身に縋るとは……。武将として何とあるまじき行い。ましてや女として何と淫らな行いなのでしょう。どうか、どうか勘違いしないでくださいね、忠棟殿」
どうか忘れてくださいと頼み込む雪さん。
雷神と讃えられ、鬼道雪と畏怖される武将という頼もしい一面しか知らなかった。雪さんも一人の女性で有るのだと、愚かしくも俺はようやく気付いた。
何を今更と自分でも思う。
坊津で初めてお会いした時は奴隷商人に腕を掴まれ震えていたのに。鹿児島で再会した時は雨に打たれて雷の音に心底怯えていたのに。
いつの間にか、戸次道雪を神格化していたのかもしれない。彼女は気高く、凛々しく、恋という不確かな物を一蹴する女子だと決めつけていたのかもしれない。
恥ずべき勘違いだろう。
戸次道雪も人の子だ。一人の女でもある。
そんな当たり前な事に俺はようやく辿り着いた。
「無論分かっている。今回の件、雪さんに淫らな想いが一欠片もない事は、この忠棟が重々承知している。ご安心召されよ。誰にも言い触らしたりしない」
「--ありがとうございます」
「何か不満が?」
「いえ、そのような事はありません」
感謝の言葉に色々と棘が含まれていた気がした。
俺の勘違いか。何年も雪さんを神格化した上、その心中を推し計れなかったのだ。
直ぐに理解できるとは思っていない。
ゆっくりと知っていこう、戸次道雪を。
「ならば良いのだが」
はい、と断言する雪さん。
既に姿勢を正して、覇気すら取り戻している。
何だか狐に化かされた気分だ。
「お言葉に甘えて、紹運に文を書く事とします」
「そうか。よろしく頼む」
「しかし一つ問題がございます」
「問題とは?」
「如何に私からの文だと理解しても、紹運からすれば信じる理由がありません。無理矢理私に書かせた書状だと思う可能性とてあります」
「確かに。対島津包囲網の成された今、大友家を存続させる約定は逆に怪しまれるか」
「その通りです」
「ふむ」
雪さんに相談役となってもらった見返り。
流石に弱すぎるか。
如何に鬼道雪を家中に招くためとは言えども、宿敵とも呼べる大友家を存続させる危険性を鑑みれば到底信じられる処遇とは言えなかった。
あの時は雪さんを殺したくなくて必死だった。
相談役に収まったのも妙案だと当時は納得したものの、こう考えると限りある悪手の一つだったのかもしれない。
さて、どうするか。
そもそも紹運と宗麟の仲が険悪になっていなければ問題なかった。龍造寺を潰し、毛利を九州から追い払った後、大友を囲んで殲滅。捕えた紹運は雪さんが説得してくれるというのが筋書きだったんだから。
にも拘らず、大友家は島津包囲網に参加。龍造寺家から贈られた側室である鍋島直茂は、表向きではあるけれど幽閉された事になっている。
そうでもしないと家臣団が納得しなかった。只でさえ龍造寺隆信の唐突な裏切りに家中怒り心頭だからである。
如何に島津家宰相である俺の側室だと言っても関係なかった。
ん、側室……。
そうか、側室か!
「雪さん、忠棟に策有り」
「策、ですか?」
「然り。雪さんは嫌かもしれんが」
「拝聴します。問題がある時は、その時に」
ズイッと身を乗り出す雪さん。
「此度の件、不都合なのは大友家の存続という条件を紹運殿に信じさせる事。又、雪さんが島津家に囚われ、陵辱を受けているという偽りを解く事である」
「はい。私が相談役となったのも紹運なら信じぬでしょう。日頃、大友家以外に仕える気はないと口にしていましたから」
「故に俺は考えた。大友家の処遇を殊の外寛大とし、雪さんの身も清らかなままである。その事を紹運殿に知らしめる方法は一つしかあるまいと」
瞬間、何かに気づいたらしい。
雪さんは目を見開き、頬を紅潮させた。
「--まさか、忠棟殿?」
「そのまさかだ。俺が貴女に一目惚れ。当初は雪さんも断ったが、大友家の存続と引き換えに承諾したという事にすれば良い」
「しかしそれは……」
雪さんの耳元で囁く。
「貴女は俺の側室となった。文と共に誓詞も見せれば紹運殿も納得行こう。さすれば二つの疑惑も解ける。どうであろう?」
何故か雪さんは耳まで真っ赤である。
左手は畳に添えられ、もう片方は胸に押し当てていた。
「私が、忠棟殿の側室?」
「雪さんの美貌ならば紹運殿とて嘘偽りだと断言出来ぬ筈よ。そして、側室を陵辱させる阿呆もいまい」
「忠棟殿の、側室……」
「勿論、今だけ。文の中だけだ。実際に雪さんと会って話せば全て解決する。先ずは紹運殿から信頼を勝ち取らねばならないのだからな」
「一晩。一晩だけ、考えさせてください」
「構わないが、そんなに嫌なら違う策でも--」
理解しているのかどうか曖昧に頷きながら、俺の助けを借りて車椅子に乗った雪さんは小姓と共に自室へ戻っていった。
人一人居なくなり、臥所は急に寒くなる。
「形式なだけでも嫌なのか、俺の側室って」
火鉢の炭を火箸で突きながら俺は少し落胆した。
本日の要点。
1、忠棟「雪さん可愛い(可愛い)」
2、道雪「殿に何と謝罪すればいいのか(困惑)」
3、小姓「また女を口説いたのか。こいつヤベーわ(確信)」