島津飛翔記   作:慶伊徹

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四十三話 毛利元就から布告

 

 

 

一月十六日、申の刻。

隈本城は重苦しい雰囲気に包まれている。

特に島津忠棟の仕事場である書院の間は形容し難い空気によって満たされており、島津義弘の厳命から誰も近づくことの出来ない場所となった。

肥後に展開する御庭番衆も『とある失態』から普段よりも気を引き締めて周囲の人払いを行なっている。

夕暮れから紅く染まる室内にいるのは五名だけ。

包帯を巻かれた状態で休眠している高橋紹運の傍らに座す戸次道雪。火鉢の横に腕組みして瞑目したままの島津忠棟、鎧を纏った状態でいる島津義弘、そして豊後から怪我人を運んできた神部小南である。

 

「よくぞ紹運殿を護ってくれた、小南」

 

普段の軽やかな口調は鳴りを潜めている。

島津忠棟の全身から放たれる無形の圧力は刻々と強さを増していた。

肌を刺す圧力から感じ取れるのは計り知れない怒気と殺気、だけではない。言葉にできない憐れみと不甲斐なさも含まれている。

それら全ては忠棟本人に向けられた物だろう。

横目で家宰を視界に納めた後、義弘も便乗した。

 

「本当、お疲れ様」

「勿体無きお言葉。されど紹運様に傷を負わせてしまいました。我が身の非力さを恥じ入るばかりです」

「如何に北原殿たちのご助力があったとしても、臼杵城から脱出し、此処まで無事に紹運殿を運んだのは其方の機転有っての事ぞ。誇れ。大功よ」

「恐悦至極」

 

小南が恭しく頭を下げた。

昨日の出来事。臼杵城にて大友宗麟、乱心。

高橋紹運を殺害しようとしたのは独断だったらしい。軍議を行なっている最中の事、十数人の屈強な武士たちが評定の間に乱入。迷う素振りすら見せずに高橋紹運へと斬りかかった。

不意の事で対応が遅れたと小南は嘆いていた。しかし彼女だけでなく、他の武将も例外なく驚愕していたようだ。

その様子は演技などに見えなかったとの事。

『北原鎮久』やその子供である『種興』らの助けで死地を脱した紹運は、豊後へ派遣されていた神部小南の手を借りて肥後へ落ち延びた。

延々と追撃してくる兵士。落ち武者狩りに勤しむ近隣の百姓。大友家と異なる動きで追い詰めてくる異色の忍たち。諦めの悪い複数の追手を振り払い、隈本城に辿り着いた彼女たちが血塗れでも五体満足だったのは、紛れもなく地理感に優れた小南の大手柄であった。

遠慮、謙遜も過ぎれば嫌味となる。

反省しつつも、己の果たした役割に誇りを持つ。

御庭番衆に説かれた言葉だ。

実質的な御庭番衆の創設者である忠棟からの教示なのだと三太夫から聞いた義弘は、自分が佐土原城にて政務を取り仕切っている間に起こった御家騒動の名残だろうな、と納得したのを鮮明に覚えている。

不必要な遠慮、行き過ぎた謙遜。

忠棟を苦しませ続けた二つの事柄。

大切な部下に教示するのも当然であろう。

 

「まさか、このような事になろうとは」

 

苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる忠棟。

紹運の手を握り続けたまま、道雪が口を開いた。

 

「やはり、例の小姓が毛利家に情報を?」

「であろう。紹運殿に渡った書状の内容から推察致せば答えなど明白。何しろ雪さんは未だ文を送っていない故な」

 

三日前、紹運に命の危機が迫っていると知った忠棟は深夜に臥所へ道雪を呼んだ。寝返りの書状に於ける内容を打ち合わせたと聞く。

島津義弘としては色々と問い質したい状況なのだけど、その際、部屋の外で座視していた小姓が存在したとの事。

会話の内容は三人しか知らない

忠棟と道雪が白ならば、黒は自ずと判明する。

そして更に、毛利家に情報を流したとされる小姓が偶然にも今朝から姿を消している点も鑑みれば答えは一つであった。

 

「道雪の筆跡と瓜二つで、尚且つ次の日に送られた書状でしょ。元就殿は昔から相応の準備をしていたって事になるよね?」

「御意。そもそも奴は八年も前から島津家に仕えており申す。義久様にも確認した次第」

「八年前から毛利家は島津家に間者を送り込んでいたと。流石、謀神ね。御庭番衆も彼については特定できなかったんでしょ?」

 

忠棟の返事に、義弘は頭を振った。

紹運の持っていた書状は、確かに道雪の筆跡と瓜二つだった。本人も驚いたぐらいである。その精度はまさに推して知るべし。

高橋紹運は騙された。

それ程までに精巧な偽の文だった。

一朝一夕の準備で行える離間工作ではない。

 

「恥ずかしながら」

 

小南が、申し訳ありませぬと謝罪する。

 

「宗麟殿に例の情報を流したのも、小南が見たという忍も毛利のモノでありましょう。隆信殿には紹運殿を殺害する利点が、付け加えれば余裕すらありますまい」

「だろうね。でもさ、源太。毛利家にも紹運を殺す利点があるのかな?」

「情報が足りませぬ故、断定した事は口にできかねますな。一つだけ申し上げるなら、毛利家にとって島津包囲網は茶番でしかなかったと云う事で御座りまする」

「その裏で何かを画策していた、と」

「御意」

「見事に踊らされたね」

「返す言葉もありませぬ。不覚でした」

 

そうだ、と義弘は身を引き締める。

毛利家に踊らされていたのは大友家だけに非ず。

不本意ながら島津家も同様だ。

例の小姓は、高城川の戦いにて虜囚とした戸次道雪を見張る兵士であったと聞く。先の戦で武功を挙げた。島津家宰相から信頼を勝ち取り、小姓に指名される。

何を隠そう今士元すら騙されていた。

御庭番衆が掻き集めた情報によれば、御家騒動の下地になりそうな情報を幾度も周囲に流布していたようである。八年間という膨大な年月ながら誰にも不審に思われず、慎重でありながら大胆に島津家の足を引っ張る行いをやり遂げた。

そんな凄腕の間者が、身を隠してでもやり遂げようとした大友宗麟による高橋紹運の殺害とは、果たして毛利家にどのような利益を齎らすというのだろうか。

 

「雪さんには悪いが、大友家は終わりよな」

「家中を二分した御家騒動。血で血を洗う惨劇になりかねない。でも、豊後を切り崩しやすくなったんじゃないかな?」

 

武断派の筆頭だった高橋紹運が、当主の一存で手打ちされかけた。

長年忠勤に励んだ両翼の一角すら弁明すら聞かずに殺そうとする。日向国に侵攻する直前なのも痛かった。豊前や筑前東部の国人衆が少なからず兵を出したのは、戸次道雪に匹敵すると謳われる名将が副将として指揮してくれると聞いたからである。

糾弾、捕縛、無視、逃亡、帰還。

一夜明けて、大友家中は混乱の極みとなった。

当主を糾弾する者、紹運と関係が深いという謂れで捕縛された者、宗麟の命令を無視する者、末端の兵士たちは逃亡し、国許へ帰還する国人衆すら現れるという始末であった。

既に島津へ降伏の打診を申し出る国人衆もいた。

 

「調略の手は打ってありまする」

「抜け目ないなぁ」

「兵の損害なく大友領を奪取する好機に御座りますれば。懸城の新納殿にも大友領内に侵攻せよと早馬を出してありまする」

 

島津兵の損失を考慮すれば、時間を掛ける事も考えられた。理由は簡単である。時間が経過する分だけ大友家の国力は日に日に激減していくのだから。

しかし忠棟は拙速を尊んだ。

山陰地方を攻めていた毛利元就が突如反転したからである。尼子征伐は小早川隆景に任せ、謀神は吉川元春を連れて九州北部に雪崩れ込むつもりなのだと。

豊後にて毛利勢15000が陣を構えてしまえば万事休す。島津の北伐戦略は音を立てて瓦解してしまうに違いない。

だからこそ新納元忠に北侵を命じた。

 

「忠棟殿、大友家は如何なりましょうや?」

「こうなれば致し方無し。宗麟殿には切腹を、いやキリシタンなら自害出来ぬか。ともあれ殺す他あるまい。家督は嫡男に譲らせるとしよう」

「--承知しました」

「義ねぇに訊かなくてもいいの?」

「義久様から此度の全権を譲られております。問題ありますまい。隠居か、死ぬか。元々二つに一つだったのですから」

 

呆気なく大友家当主の死亡が決定した。

事ここに至っては是非も無し。

道雪も目を伏せるだけで反論もなく承認した。

 

「失礼致しまする」

 

刹那、襖の奥から声がした。

二桁に及ぶ御庭番衆が警戒する書院に近づける輩など彼らの棟梁か。もしくは棟梁に匹敵する凄腕の忍のどちらかである。

 

「藤林か?」

「如何にも」

「入れ」

「御意に御座りまする」

 

音もなく入ってきた長身の男。

手足が異様に長く、存在感は希薄だった。

身に纏う忍装束は黒一色で統一されている。

義弘は初めて見る伊賀流の上忍に対して尋ねた。

 

「肥前で何かあったの?」

「はっ。肥前南部、沖田畷にて合戦がありました由に御座りまする」

「して、どうなった?」

「家久様の策により龍造寺勢は壊滅致しました」

 

大勝利に御座りますると付け加える藤林長門守。

抑揚の無い声に戸惑った義弘だが、次の瞬間には喜びを爆発させた。

 

「家ちゃんが勝ったのね!?」

「はっ。龍造寺勢の名だたる武将を尽く討ち取った由に御座りまする。四天王も然り。また情報が錯綜しておりまするが、龍造寺隆信の首もあるとか」

「よし、よし!」

「流石は家久様よ。三倍の敵を屠ったか」

「忠棟殿、もしも隆信殿が討死なされたのなら最大の好機です。肥前と筑後の国人衆も龍造寺家から離反致しましょう。瞬く間に接収できます」

「然り」

 

道雪の進言に首肯した忠棟。

喜ぶのも束の間、佇んだままの藤林へ口早に命令した。

 

「藤林、肥前に取って返せ。家久様に伝えよ。此度の戦勝、真にめでたき事なり。戦勝の勢いそのまま肥前並びに筑前西部を接収するのが肝要と存ずるとな」

「かしこまりました」

「くれぐれも拙速を尊べとも申し伝えよ」

「御意」

 

御免、と一言。

藤林は足早に去る。

残された書院の間は俄かに活気付いた。

否、沖田畷の合戦にて大勝利した報せは瞬く間に隈本城を駆け巡ったようだ。城全体が歓喜の声で包まれる。

義弘と道雪が声に弾みを持たせて今後の展望を話し合う。

 

「これで龍造寺家も終わりかな?」

「当主が討死されたなら是非もありません。国人衆は尽く離反、抑え付けられていた者たちも島津家に靡くでしょう」

「直茂の謀略通りになったね」

「此処まで巧みに隆信殿を操るとは恐れ入りました」

「忠棟の肝煎りだからね。えげつないよ」

「成る程、納得しました」

「うんうん。--で、源太は何してるの?」

 

険しい顔付きで小南に耳打ちする忠棟。

二度ほど頷いた神部小南は失礼致しますと告げ、至る所に包帯を巻いた痛々しい身体のままで立ち去った。

家宰は火鉢の炭を突く。

視線は崩れる炭だけに向けられている。

 

「嫌な予感が致した故」

「予感?」

「違和感と呼んでも構いませぬ。例え直茂の誘導があったにせよ、大友家凶行の翌日に都合良く龍造寺勢が沖田畷にて敗戦致し申した。果たして全て偶然でありましょうや?」

 

九州全土を巻き込んだ大戦。

しかし蓋を開けてみれば拍子抜け。

一戦にて龍造寺家は壊滅、大友家は自滅した。

勿論、島津家も調略を続けていた。

沖田畷にて龍造寺家を待ち構える戦略も、高橋紹運を島津家に寝返らせるのも、武断派と文官派による争いを増長させたのも忠棟の策略だった。

全て目的を達成したと云える。

だが、過程と結果が予想と僅かに異なっている。

 

「……同時期に島津包囲網が瓦解し始めた?」

「如何にも。片方は御家騒動、もう片方は重臣を失う大敗北。一見、島津包囲網は崩れたと判断できましょうな」

「されど、毛利家だけは何も失っていない」

「大友家の御家騒動に毛利家が加わっていたのは事実。なれば龍造寺隆信の動きに関わっていないと云うのは有り得ますまい」

「元就殿は何を狙ってるの?」

「今一つ、今一つ情報があれば……」

 

眉を顰める島津家宰相。

炭を弄る火箸を止めない。

紹運の寝息、道雪の義妹を撫でる音が木霊する。

島津義弘は徐ろに立ち上がった。

元就の動きを見極めるのは忠棟に任せる。適材適所だ。槍働きに全力を尽くすと決めた義弘は今夜にも出陣する為に、各諸将へ陣触れを通達しようとした矢先の事だった。

 

「大旦那、一大事だ!」

 

百地三太夫が転がり込んだ。

息を荒げ、肩を上下する様は忍らしくない。

真冬にも拘らず汗で濡れた服は異常とも言える様だった。

 

「三太、何があった!?」

「大友宗麟が死んだ」

「いつだ!?」

「二刻前。厠で死んでいたらしい。下手人は見つかっていない。臼杵城は大混乱だよ。国人衆も我先に国許へ帰ってる。収拾はつきそうにない」

「そんな……」

 

道雪が絶句している。

義弘も怒涛の展開に息を呑んだ。

隆信が討死したのは家久の大手柄。何も問題などない。翻って大友家はどうだ。高橋紹運は手打ちされかけ、凶行に及んだ大友宗麟は何者かに暗殺された。

二つの大大名が同じ日に死去した。

九州北部は大混乱である。目も当てられない。

 

「待て、そうか。そういう事か!」

 

忠棟が火箸を投げ捨てた。

三太夫の肩を掴み、目を開いたまま訊いた。

 

「毛利元就は何処にいる!?」

「流石、大旦那。元就の旦那は海峡を渡った。門司城を接収したそうだよ。言い分は島津包囲網が崩壊した今、九州北部の混乱を迅速に終結させる為だと」

「速い、速すぎる!」

 

忌々しげに吐き捨てる忠棟。

 

「義弘様、出陣致しましょう。一刻も早く筑後と豊後を平定しなければなりませぬ。毛利家よりも早く」

「わかった!」

 

正直、義弘に全貌は掴めていない。

宗麟の死去。毛利家の九州上陸。矢継ぎ早に耳へ飛び込んでくる情報が多すぎて、脳が処理しきれていなかった。

けれど、島津家宰相は完全に把握している。

なら問題ない。与えられた指示に従うのみだ。

書院の間から走り去る義弘。

その背中を眺めながら島津忠棟は嘆息した。

 

「狙っていたのはこれか、毛利元就」

「一時的な九州北部の空白地帯を作り上げ、三国同盟を大義名分として即座に占領。そのまま国人衆を纏め上げ、増大した兵力を元に島津家を叩き潰すといった所でしょうか」

「俺も同じ考えよ。紹運殿を殺そうとした理由も理解した。龍造寺隆信を死地に追い込む偽の情報を流していたのも。全てはこの為よな」

「家久様に拙速を尊べと告げたのも、この事態を予測して?」

「いや違う。此処まで周到に計画されているとは思いも寄らなかった。俺の失態よ。謀神を甘く見ておった。最大限の注意を払っておったというのに!」

 

忠棟が舌打ちした。

許されるなら壁も殴り付けたかった。

毛利元就を過小評価していた訳ではない。

むしろ三大名の中で最大限の警戒を払っていた。

だが足りなかった。

後世にて『謀神』と称される戦国一の謀略家が一枚上手だった。それだけ。たったそれだけの事である。

だからこそ島津忠棟は、数秒後に冷静さを取り戻した。

己の未熟から起こった事態だ。

ならば成長すればいいだけの話である。

名誉挽回、汚名返上。

謀神よりも高みに登り詰めれば良いだけだ。

 

「雪さん」

「はい」

「貴女は隈本城に残れ。3000の兵を預ける」

「私も共に参ります。元就殿が相手なら--」

「謀神ならまだ策を弄している筈。元就殿が島津家と正面から戦をすると思えぬ。故に雪さんを残す。何かあれば独断で動け。俺が許可する」

 

肥前から家久率いる6000。

日向から新納率いる9000。

肥後から忠棟率いる8000。

合計23000の兵士で九州北部を攻め取る。

想定通りに事が運べば35000以上の大軍勢となるだろう。対する毛利勢は如何ほどか。例え数で勝っていても油断できない。必ず逆転の手を打ってくるから。故に、戸次道雪を残すと決めた。

 

「……忠棟殿」

 

心配そうに見つめる道雪に、忠棟は言い放った。

 

「俺の背中を任せる。良いな?」

「承知、致しました」

 

嬉しそうに、噛み締めるように。

戸次道雪はゆっくりと頭を下げた。

 

 

 

 




本日の要点。

1、隆信「釣られたクマー(死亡)」

2、宗麟「神の下へ(死亡)」

3、元就「計画通り(確信)」

4、忠棟「謀神やべーわ(驚愕)」




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