「……………うわぁ」
およそ1キロの険しい山道を進むこと20分弱。3年E組の教室として充てがわれている椚ヶ丘中学の旧校舎の全体を視界に入れた伊月は、開口一番にそう呟いた。
覚悟はしていた。E組の学習環境は超が付くほど劣悪で、とても勉強に集中できるような場所ではないと有名だったから、まあこんなものだろうとある程度の予想はしていた。つもりだった。
「でもさすがにこれは……予想の上をいったな」
まず、当たり前だがボロい。正直100年前に建てられましたと言われても納得してしまいそうなくらい年季が入っていて、実際にはそんなことはないのだろうが、ちょっと突いたら一気に音を立てて崩れ去ってしまいそうなくらい腐蝕の進んだ木造平屋だった。
辺り一面を無造作に生えた雑草が覆い、校舎の向こう側に広がる校庭はもはやその面影を残しておらず、原野が広がっている。
「……ま、まあ、いかにも山の上の学校って感じで雰囲気があっていいんじゃないかな……?」
とりあえず伊月は、うんうんとポジティブに考えた。そうしないと、これから一年間ここでやっていけない気がする。
すると、そんな伊月の背中に聞き覚えのある少女の声が届いた。
「ヤッホー、伊月ー!」
「ん?──ってうおっ!?」
振り返った瞬間、視界に大きな影が映り込み、ガバリと伊月に抱き着いてきた。突然の出来事に虚を突かれた伊月は、その勢いに押されて背中から倒れ込む。
「イッツツ……ったく、いきなり飛び込んで来るなって前から言ってるだろう!」
「えへへ、ごめんごめん。久しぶりに伊月の後ろ姿が見えたから、ツイ」
「いや、ツイじゃねえよ………はあ、まあいいや」
強打した背中を摩りつつ、悪びれる様子なくふわりと笑った“彼女”に呆れてため息をついた伊月だったが、すぐに彼女と同じように笑顔を作った。
「久しぶりだな、ヒナ。相も変わらず元気そうだな」
「うんっ! 久しぶり、伊月!」
ポンポンと叩くように頭を撫でる伊月に身を任せながら、少女──倉橋陽菜乃はその名のごとく、太陽のように朗らかにもう一度笑った。
○
横河伊月と倉橋陽菜乃の関係は、いわゆる幼馴染というものだった。と言っても、物心ついた時からの付き合いだとか、家が隣同士だとか、そんなテンプレートな関係ではない。
二人の初めての会いは、小学一年生の時。校庭の隅で一人で遊んでいた倉橋を伊月が遊びの輪に入れたことからこの関係は始まった。以来10年近くが経ち、思春期に差し掛かって少しばかりお互いに疎遠になっていくであろうと思いきや決してそんなことはなく、伊月と倉橋の関係は普通以上に良好に続いているのだった。
「……だからって異性に何の躊躇もなく抱き着いてくるのは、流石に不用心過ぎだと思うんだが……」
「え、何か言った?」
「いや、別に……」
E組の教室へと続く廊下を歩きながら、伊月は前方で鼻歌まじりにスキップをする陽菜乃の背中に向けて小さくため息をついた。
「あはは……でも、ホントに最初はビックリしたよー。歩いてたらいきなり陽菜ちゃんが走り出して、どうしたんだろうって思って見てたら見覚えのない男の子に飛びつくんだもんねぇ」
と、伊月の隣を歩いていたもう一人の少女が、ポニーテールを揺らしながら苦笑いを溢した。
少女の名前は矢田桃花といい、この教室での陽菜乃の友人らしい。
「でもそっかあ、あなたが陽菜ちゃんの言ってた幼馴染の男の子だったんだね〜」
そう言って矢田は顎に手を当ててマジマジと伊月の顔を覗き込んだ。
「……………」
「……? えっと……」
じっと見詰めてくる矢田に首を傾げて尋ねると、彼女は「ご、ごめんなさい!」と慌てて離れた。
「あの、カッコいい人って陽菜ちゃんから聞いてたから、ツイ!」
「……あー、ヒナの言うことは結構大袈裟だからあまり間に受けない方がいいぞ?」
「ぜ、全然大袈裟じゃないよ!……む、むしろ聞いてた以上だったというか……」
「え?」
「え、えーと………」
頬をわずかに赤らめてツンツンと人差し指を合わせている矢田。すると、そんな彼女の視界に少し不機嫌そうに頰を膨らませた陽菜乃の姿が映った。
「きゃあっ!? ひ、陽菜ちゃん!?」
「もー、桃花ちゃんも伊月も、私の話を無視して何イチャイチャしちゃってんのさー!」
「い、イチャイチャって……わ、私は別にそんなこと……」
「ウソだね〜、だって桃花ちゃん、顔赤いよ?」
「あ、いや、これは……」
ずいっと問い詰められて狼狽える矢田。やがて彼女は一縷の望みを賭けて伊月に目を向けてきた。伊月は小さく息を吐いて、陽菜乃の頭を軽く小突く。
「こらヒナ、そこまでにしとけ。矢田が困ってるぞ」
「むー、元はと言えば伊月が鼻の下伸ばしてるのが悪いんだよ!」
「伸ばしてねえよ」
「伸ばしてたもん」
「そんなことより早く教室行こうぜ。もうすぐHR始まるんだろ?」
「ああっ、誤魔化した!」
あからさまに話題転換をして歩き出した伊月の後を追って陽菜乃が小走りで彼に駆け寄っていく。彼らの目と鼻の先には3年E組の教室があった。
「ここか?」「うん、そうだよー」と、ついさっきまでの出来事がまるで最初から無かったかのように仲睦まじく話す二人を見て、矢田は驚きが隠せなかったが、すぐにHRを告げる鐘が鳴ったのを聞いて、彼女も二人の後に続いて教室に入った。
○
今日、この3年E組のクラスに停学処分を受けていた生徒が来ることは、担任教師のタコ型超生物──殺せんせーやつい先日から体育教師として赴任してきた防衛省の烏間を通じてクラス中の誰もが知らされていた事実だった。別にそれは良いことだと思う。クラスに仲間が一人増え、殺せんせー暗殺の幅が広がるのだから。
問題は、その生徒が一体どんな人物なのかだった。
例えば、同じく停学から復帰した同級生の赤羽業は、一年生の頃から成績は非常に良かったものの素行も非常に悪く、暴力事件を起こして“E組行き”を宣告された生徒である。停学が明けても彼のその攻撃的な性格が改善されることはなく、今でこそ殺せんせーの“手入れ”によって角が取れて
だからこそ今回の生徒──横河伊月は果たしてどうなのか気になって仕方がない。
潮田渚も、そう思っている数人の内の一人なのだった。
「──実際どんな人なのかな、横河君って?」
HRが始まる丁度5分ほど前、渚は後ろの席に座る友人の杉野に何気なく尋ねた。
「横河かあ……俺は名前しか聞いたことがないな。でも運動部の間じゃメチャクチャ有名人だったぞ、アイツ」
「へえ、運動部の人なんだ?」
「ああ、所属部は剣道部。相当な実力者で、2年の時に出場した全国大会では全試合二本勝ちのストレート優勝っていう偉業を達成して、噂じゃ高等部の剣道部顧問から推薦入学を条件に勧誘を受けてたとか」
「高等部の推薦入学!? それ、相当スゴイ人じゃん!?」
椚ヶ丘学園の高等部は、本校舎の生徒は無試験で入学することができる。なので、推薦入学の権利が本校舎生徒に与えられた場合、それは入学料及び授業料の全額免除を意味しているのである。
「ますます気になっちゃうなあ。そんな人が、どうしてE組なんかに……」
「うーん……詳しくは俺もよく知らないんだけど、聞いた話じゃ、暴力事件を起こしたとか……」
「えっ?」
「へぇ〜、暴力事件ねぇ……じゃあその横河ってヤツ、相当危ない人間なんだねぇ」
二人の会話に笑みを
「危ない人間って……カルマ君が言うんだ」
「お前も充分危ない奴だよ」
一度のみならず何度も暴力沙汰の問題を起こした人が何を言うか。二人の棘のあるツッコミも特に気にした素振りを見せることなく、カルマはカラカラと笑った。
「横河はそんな奴じゃないぞ」
と、三人の話に異議を唱えるように別の場所から声が上がった。
「磯貝君、前原君……」
男子学級委員の磯貝悠馬と、彼の友人である前原陽人である。
「横河のこと知ってんのか、二人とも?」
「ああ、知ってるぜ。何回か飯食いに行ったこともあるしな」
そう言う前原の傍で、磯貝も肯定するように頷いた。
「あいつは良いヤツだよ。少なくとも、自ら進んで暴力事件を起こすような奴じゃない」
いつの間にか、教室にいた他のクラスメイトも渚たちの会話に聞き耳を立てていた。
本当に、どんな人なんだろうか。杉野や磯貝たちの話は、ますます渚の興味を引いた。
鐘が鳴った。そろそろHRが始まる。鐘の音を聞いて、クラスメイトたちは各々の席に戻り始めた。教室のドアが開いたのは、それと同時だった。殺せんせーが来たかと視線が注がれる中で、しかし入って来たのはターゲットではなく、三人の人物だった。
二人はクラスメイト。倉橋陽菜乃と矢田桃花。そしてもう一人は、彼女たちと仲睦まじく会話をしている見知らぬ生徒。いや、知らないが知っている生徒。
横河伊月が、そこにいた。