イリーナ・イェラビッチ、職業「殺し屋」。美貌に加え、実に10ヶ国語を操る対話能力を持ち、いかなる国のガードの固い
彼女が連れ込んで来た三人の男たちもまたプロの殺し屋であるが、彼らはイリーナに惚れており無償で彼女の傀儡となっている。彼らの協力の元、たった一日で暗殺の準備を整えたイリーナには必ず殺せるという絶対的な自信があった。
しかし、彼女はまだ知らない。
自分が思っている以上に、殺せんせーと呼ばれる生物が怪物だということを。
○
5時間目の体育の授業は、射撃訓練だった。烏間の指導の元で基本的な射撃の姿勢、狙い方などを教わった生徒たちははるか遠くに設置されている的に向けて次々と発砲していくが、まだまだ素人の腕である。真ん中を撃ち抜くどころか、まず的に当てること自体が至難の技だった。
「…………」
皆が四苦八苦している中、伊月は慎重に狙いを定め、撃った。弾丸は真っ直ぐに的に吸い込まれていき、中心のほんのわずか外に命中した。
「……と、外したか」
「いやいや、どこがだよ。ほとんどド真ん中じゃねえか」
残念そうに舌打ちをする伊月に前原が近付いていき、彼に続くように磯貝と陽菜乃、そして矢田も集まった。
「やっぱすごいなあ、伊月は」
「そうだね、さすが伊月君」
「何かコツとかあるのか?」
「コツ?」
唐突に尋ねられた磯貝の問いに、伊月は10秒ほど考えて、
「……コツと言っても、オレはただ烏間先生に言われた通りにやっただけなんだよなあ」
「そ、そうか……」
「なかなかチートだな、こいつ……」
あっさりと答えた伊月に、磯貝たちは乾いた笑いを溢すしかなかった。
「おい、あれ見ろよ!」
と、そんな彼らの耳に届いた三村の声。振り向くと彼は倉庫の方に目をやっていたので、その視線を追って他の者たちも倉庫を見やる。そこには殺せんせーと彼にベッタリと抱き着くイリーナの姿があり、二人はそのまま倉庫の中に入っていった。
「あーあー、思わぬスキャンダルを目撃してしまった」
「なーんかガッカリだな。殺せんせー、あんな見え見えな女に引っかかって」
菅谷の呟きに周りにいた者たちも一様に頷いた。その顔には、明らかに失望の色が見て取れる。
「……烏間先生。私たち、あの
片岡が語気にわずかな怒りを込めて烏間に直訴する。烏間もよく理解していたのか、彼女の言葉に「すまない」と答えて申し訳なさそうに顔を伏せた。
「プロの彼女に一任するようにという国の指示でな、俺も逆らえんのだ。……だが、わずか一日で全ての準備を整える手際を見る限り、殺し屋として一流なのは確かだろう」
烏間の話を聞き、誰も何も言えなくなってしまった。確かにイリーナのことは嫌いだが、いとも簡単に殺せんせーを篭絡してしまったその手腕には正直目を見張るものがあった。
もしかしたら、彼女なら殺せてしまうんじゃないか。そんな考えが、無きにしも非ずである。
誰もが二人が入っていった倉庫を見つめる中で突如として銃声が轟いたのは、その直後のことであった。
○
ほんの僅かに時は遡り、話したいことがあると言って殺せんせーと共に倉庫に入ったイリーナ。しかし、この時すでに彼女の暗殺は始まっていた。
「……それでイリーナ先生、話とは?」
潜入暗殺の上で最も重要なのは、
しかし、今回のターゲットは未知の生物。ここは、怪しまれる前に一気に仕留めるのが上策だ。
「殺せんせー、私……いつも特別な人を好きになるの」
「にゅやッ!?」
イリーナは頰を上気させ、瞳を潤ませ、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。
「その体とその
「あ、いや、その……!」
多少強引でもいい。大事なのは自分に注意を向けさせることである。この倉庫に誘い込んだのだってちゃんと理由がある。この倉庫は昨夜のうちに殺せんせーを殺す場所に改造しておいたのだ。この中にはすでに、イリーナが呼び込んだあの三人が銃を構えて合図を待っている。防衛省が開発したというBB弾の銃なんかではない。連射性が高く、殺傷力も高い本物だ。これをぶっ放して死なない生物など、この世には存在しない。
「殺せんせー、全部脱ぐから一分待ってて」
後は自分が安全な場所に避難するだけ。イリーナは殺せんせーにそう告げて防弾仕様に改造した得点ボードの裏に隠れた。
次の瞬間、千を超える大量の実弾が殺せんせーを襲った。けたたましい音が倉庫内に響き渡り、断末魔さえも掻き消してしまう。
作戦は成功した。あと5秒もすれば銃撃は止み、後に残るのはかつて殺せんせーと呼ばれていた生物の残骸のみだ。イリーナはほくそ笑み、やがて銃声が聞こえなくなったので死体を確認しようと得点ボードから身を出した。
しかし、その笑みは一瞬で消え去ってしまった。
「え……」
そこにいたのは、無傷で佇む殺せんせーだった。ついさっきまで銃撃していたはずの三人は彼の触手に巻かれて気絶していた。
「ヌルフフフ! 残念ですがイリーナ先生、私に鉛の弾は効かないのです。体内で全て溶けてしまいますからねぇ」
ドロドロに溶解した銃弾が殺せんせーの手からこぼれ、床に流れ落ちる。
「そして、私の顔をよく見てください」
それを驚愕の表情で追っていたイリーナは続けての殺せんせーの言葉に顔を上げる。言われた通り注視してみると、さっきまでは二つしかなかった目が四つに増えていた。
「目が……四つに?」
「あ、いえ。どれか二つは鼻の穴です」
「まぎらわしい!」
イリーナのツッコミを華麗に無視して、殺せんせーは説明を続ける。
「昨日までは倉庫に無かった金属の臭い、成人男性の加齢臭、その違和感に思わず鼻が開いてしまう」
そこでイリーナはハッと思い出した。殺せんせーの情報収集をしている時に渚から聞いた、『殺せんせーは鼻が無いのに鼻が良い』という情報を。
「罠にかかったフリをすれば、簡単に暗殺者をあぶり出せる……要するにあなたは、プロとしての暗殺の常識に囚われすぎた。私の生徒たちの方が、よほど柔軟で手強い暗殺をしてきますよ」
ゆったりとした足取りで近づいてくる超生物。この絶望的な状況を打開する策を、イリーナは持っていない。
「……そして、知っていますか?」
壁にぶつかり、もはや後ずさることもできなくなった時、殺せんせーはイリーナに告げた。
「私の暗殺者への報復は……“手入れ”だということを」
そして、無数の触手がイリーナに襲い掛かり、一瞬の間も開けず彼女の悲鳴が薄暗い倉庫にけたたましく響いた。
○
けたたましい銃声の後に響いたイリーナの悲鳴とやけに執拗なヌルヌル音が耳に届いたので、伊月たちは訓練そっちのけで倉庫へと向かった。
おそるおそる倉庫の扉を開けようとしたちょうどその時、中から殺せんせーがすっきりとした顔で出てきた。
「殺せんせー、おっぱいは!?」
岡島の質問に、殺せんせーは顔色をピンクに変える。
「いやぁ……もう少し楽しみたかったですが、皆さんとの授業が楽しみですから」
「な、中で何があったんですか……?」
と、そんな渚の質問に殺せんせーが答える前にイリーナが倉庫の中からふらふらと姿を現した。
体育着にブルマという、健康的でレトロな格好で。
「ま、まさか……わずか一分で、あんなことされるなんて……」
健康的でレトロな格好のイリーナは、焦点の定まっていない目で虚空を見つめながら呟いた。
「……肩と腰のこりをほぐされて、オイルと小顔とリンパのマッサージをされて、早着替えさせられて……その上まさか、触手とヌルヌルで、あんなことを……」
そこでパタリと崩れ落ちた彼女を見て、どんなことだ! とクラス全員が心の中でツッコむ。
「殺せんせー、一体この人に何したんだよ?」
「……さあねぇ。大人には大人の手入れがありますから」
伊月の質問に灰色の真顔で答えた殺せんせーは、間違いなく悪い大人の顔をしていたと思う。
ともあれ、なんやかんやでスッキリしたE組の面々はこれ以上イリーナの心配はせず、「教室に戻りますよ!」という殺せんせーの指示に元気よく返事をしてその場を後にしたのだった。