イリーナ・イェラビッチは途轍もなく怒っている。
それは、教室の黒板に荒々しく殴り書きされた『自習』の文字と、タンタンと乱暴にタブレットを叩く彼女の姿を見れば一目瞭然であった。終いには教卓にダンッと手をつき、「なんでWi-Fi入んないのよこのボロ校舎!!」と設備に悪態を吐く始末である。
まあ、あれだけ自信満々に殺すと豪語していながら結局暗殺に失敗し、あまつさえ大勢の前で恥をかかされれば、その怒りも分からなくもない感情である。しかし、だからと言っても彼女はこの3年E組の教師である。それは授業を放棄していい理由にはならない。
「先生、授業してくれないなら殺せんせーと交代してくれませんか? 俺ら今年受験なんで……」
クラスの代表として磯貝がそう告げると、イリーナは小馬鹿にしたように笑った。
「ハッ! あの凶悪生物に教わりたいの? 地球の危機と受験を比べられるなんて……ガキは平和で良いわね〜」
彼女の言葉に言葉を詰まらせる生徒たち。しかし、次の言葉にクラスの雰囲気が一変した。
「それに、聞けばあんたたちE組ってこの学校の落ちこぼれだそうじゃないの。勉強なんて今更しても意味ないでしょ?」
イリーナは、踏んではいけない地雷を踏んでしまった。しかし彼女はそれに気付かず、懲りずに自分の協力をしろと言う。暗殺に成功したら一人500万円ずつ分けると続けるが、100億に比べたら雀の涙ほどの報酬だ。もはや、彼らは我慢の限界を迎えていた。
「……出てけよ」
得意げに聞きたくもない話を続けるイリーナに誰かが消しゴムを投げつけ呟いた。
そしてそれを皮切りに一気に不満が爆発した。
「出てけクソビッチ!!」
「殺せんせーと変わってよ!」
暴言と共に消しゴムやペンが次々とイリーナに投げつけられる。
「な、なによあんたたちその態度はっ! 殺すわよ!?」
「上等だよ! やってみろコラァ!!」
「そーだそーだ! 巨乳なんていらない!」
何やら約一名全く関係のないことで怒っているようだが、こうなってはもうどうでも良いことだろう。
収拾がつかなくなってイリーナが教室を逃げるように出て行くまで、暴言と投げつけの嵐は止むことはなかった。
○
「何なのよあのガキ共!!」
教室から追い出されてしまったイリーナは、職員室に逃げ帰るなり呆れた表情で座っていた烏間に猛抗議した。
「こんな良い女といられるのよ!? ありがたいと思わないわけ!?」
「……ありがたくないから軽く学級崩壊してるんだろうが」
対して烏間はそんな彼女に同情はせず、むしろ生徒たちと同じように青筋を浮かべていた。
「いいから彼らにちゃんと謝ってこい。ここで暗殺を続けたいならな」
「なんで! 私は教師なんて経験ないのよ? 暗殺だけに集中させてよ!」
バンバンとうるさくデスクを叩くイリーナに、烏間は盛大にため息を吐いた。そして「仕方ない」としぶしぶ立ち上がりイリーナを外に連れ出す。怪訝な表情を浮かべるイリーナが彼に連れられて目にしたのは、デッキチェアに座りながら何やら作業をしている殺せんせーの姿だった。
「……何やってんのよ、あいつ?」
「テスト問題を作っている。どうやら水曜6時間目の恒例らしい」
「ふーん……にしても、やけに時間がかかってるわね?」
マッハ20で動ける彼ならば、問題作りくらいあっという間に終わってしまうはずだが。
「……ひとりひとり問題が違うんだ」
「えっ……!?」
「生徒に見せてもらって驚いた。苦手教科や得意教科に合わせて、クラス全員の全問題を作り分けている」
烏間の言葉を聞きながら、イリーナは再び殺せんせーに目を向ける。
テスト問題を作成している彼の触手の一本には、『生徒データ』と表紙に書かれたノートが持ってあった。そのノートを見、すぐ脇のテーブルに山積みされている問題集の問題を参考にしながら一問一問丁寧にテストを作っているのだ。
「高度な知能とスピードを持ち、地球を滅ぼす危険生物。そんな奴の教師の仕事は、完璧に近い」
そう言って烏間はもうここに用が無いとばかりに踵を返し、行ってしまう。慌ててイリーナも彼の後に続き、校庭に出たところで烏間は「見てみろ」とそこで遊ぶE組の生徒たちを指差した。
「……遊んでるだけじゃない?」
「動く目標に正確にナイフを当てるためのトレーニング──俺が教えた『暗殺バドミントン』だ」
「はあ?」
「暗殺など経験がない彼らだが、もちろん賞金目当てとはいえ勉強の合間に熱心に腕を磨いてくれる。
「…………」
「お前はプロであることを強調するが、もし暗殺者と教師を両立できないなら、ここではプロとして最も劣るということだ」
あ…、とイリーナは小さく声を上げ、俯いた。烏間の言葉を受けて、殺せんせーや生徒たちのここでの過ごし方を見て、プロにこだわっていた自分が酷く矮小な存在のように思えた。
「ここに留まって奴を狙うつもりなら、見下した目で生徒を見るな」
それだけ告げて、烏間は校舎の中に戻っていった。その背を見送らず、イリーナは楽しげに笑う生徒たちの姿を休み時間が終わるまで見続けていた。
○
次の英語の時間。いきなりドアを開けて教室に入ってきたイリーナに驚くも、すぐに嫌悪の眼差しを向ける生徒たち。彼らが席に着くのを待たずイリーナはチョークを手に取り、黒板に一つの英文を書いた。
「You're incredible in bed.
慌てて席に着き、突然のイリーナの行動に呆然とするが、「ホラ!」と彼女に急かされたので棒読みの英語で黒板の文を読んだ。イリーナは一度うんと頷くと、
「アメリカでとあるVIPを暗殺した時、まずそいつのボディーガードに色仕掛けで接近したわ。そのとき彼が私に言った言葉よ。意味は『ベッドでの君はすごいよ……♡』」
『(中学生になんて英文読ませんだよ!)』
赤面する生徒たちに構わず、イリーナは説明を続けた。
「外国語を短い時間で習得するには、その国の恋人を作るのが手っ取り早いとよく言われるわ。相手の気持ちをよく知りたいから、必死で言葉を理解しようとするのね。私は仕事上必要な時、その
何人かの口から「おー!」という感嘆の声が漏れた。確かに、世界を股にかけてきた暗殺者の会話術は聞いて損はないだろう。
「受験に必要な勉強なんてあのタコに教わりなさい。私が教えられるのはあくまで実践的な会話術だけ」
イリーナは誰にも視線を合わせず、気まずそうに話し続けた。その姿はさながら、ビクビクしている子供のようにも見えた。
「もし……それでもあんたたちが私を先生と思えなかったら……その時は、暗殺を諦めて出て行くわ。そ、それなら文句ないでしょ?…………あと、悪かったわよ、色々……」
最後の言葉は虫の羽音のように小さかったが、しっかりと全員の耳に届いていた。話し終えてからの数秒間は、イリーナにとってはとてつもなく長い数秒間だった。自分なりの誠意を込めて謝罪した。しかし、それ以上にひどいことをし、言ってしまったのも確かである。この言葉で許されなくとも、仕方のないことだと受け入れる覚悟はできている。
そんな面持ちで小さくなっているイリーナに、生徒たちは顔を見回し、そして次の瞬間には大声で笑った。
「何ビクビクしてんのさ。さっきまで殺すとか言ってたくせに」
カルマの言葉に、イリーナは赤面した。
「なんか、普通に先生になっちゃったな」
「うん、もうビッチねえさんなんか呼べないね」
「あ、あんたたち……分かってくれたのね」
そして、前原と岡野の会話を聞いてとうとう耐えきれなくなり、感激のあまり目元に涙を滲ませながら口元を覆った。
「考えてみれば、先生に対して失礼な呼び方だったね」
「呼び方変えないとね」
ああ、なんということだろう。誰かに受け入れてもらえることがこんなにも嬉しいなんて。今まで暗殺者として過ごしてきた中で感じたことのないこの気持ち。
大好きよ、あんたたち。そんなことを言おうとして口を開きかけたイリーナは、
「──じゃ『ビッチ先生』で」
次の瞬間、固まった。
「え、えっ……と、折角だからビッチから離れてみない? ホラ、気安くファーストネームで呼んでくれても構わないのよ?」
「でもなあ、すっかりビッチで固定されちゃったし」
「うん、イリーナ先生よりビッチ先生の方がしっくりくるよ!」
「そんなわけで、よろしくビッチ先生!」
「授業始めようぜ、ビッチ先生!」
ビッチ先生、ビッチ先生、ビッチビッチビッチビッチ。
クラス全員のビッチコールに、徐々にイリーナの顔から笑顔が消えていく。その代わり、彼女の顔にはドンドン青筋が増えていき、そして、ブチッと切れた。
「キーーーッ!!! やっぱり嫌いよあんたたちッ!!」
奇声を上げ、銃を取り出して怒鳴るイリーナに、しかしもう怖がる者は一人もおらず。
しばらくの間、彼女の怒声と生徒たちの笑い声が治ることは無かった。