思うに、異世界という言葉はあまりにも陳腐だ。
数々の創作物で使い古された手垢の付いた表現であるし、何よりリアリティがない。
漫画かアニメの世界にでも迷い込んでしまったならともかく、ここは歴とした現実。夢あふれる魔法や心踊る冒険などあろうはずもないし、今のところ幼馴染みの美少女もいない。御都合主義なストーリー展開など期待できない紛れもないリアルなのである。
そう、そして何と言っても悪名高い中世ヨーロッパ!
戦争、処刑、疫病、貧困、身分、差別、宗教、魔女狩り。
枚挙に暇がないが、これでもほんの一端。平成の日本をのんべんだらりと生きてきた俺など、その一端に触れただけでも百回死んで余りあるほどだろう。
さらに辺境の貧村に生まれて両親は幼い内に逝去。性別はこの時代地位の低い女である。
人生ハードモードであることは言うまでもない。
しかしだ。
俺は懸命に生きた。
未開な中世の生活の中、ごわごわとした麻の布の服に身を包み、農作業に狩りにと奔走して。
もちろん、村人たちの助けは必要不可欠であった。
正直に言うと、ろくに字も書けず簡単な計算にも手こずる彼らのことを、俺は心の内で長い間見下していた。
しかし直に触れてみればわかる。
閉鎖的な村の中の、偏屈な村人たちだからこそ、彼らは身内に対して温かな顔を見せる。
両親を早くに亡くし、誰にも懐こうとしなかった俺の世話を、村人たちは文句を言うでもなく焼いてくれた。
だからこそ助けたいと思ったのだ。
愚かな人たちだった思う。
妙なプライドなど捨てて、このまま伯爵の犬を続ければ幸せになれたのに。身の丈に合わない真似をして、身の丈に合わない地位を求めてしまった。
村は今、未曾有の危機を迎えている。
俺が何とかしなくては。
見つけたのだ。他とは違う奴を。
この世の理からーー絶対的な不文律のようなものの外からこちらを眺め、超然と振る舞っているかのような人間を。
良かった。これで村は助かるだろう。
ありがとう、鷹の団。
本当に感謝するよグリフィス。
だってここは、俺の第二の故郷なんだから。
「鷹の団か…」
煌々と明るく照らし出された森の中。乱れなく整列した兵士たちを背後に控えさせ、エッガース伯爵家の三男、ダニロは呟いた。
眼前に広がるのは炎に包まれた小村だ。近頃エッガースの屋敷で話題となっていた傭兵狩りの村だった。
ダニロは此度、父であるエッガース伯からこの村への襲撃任務を任じられていた。
当初は伯爵の退屈凌ぎのための余興として用いられていた傭兵狩り。しかし予想以上に武力を蓄え、謀反の動きも見え出した。
よって、本日敢え無く解体処分と相成るのである。
名目はエッガース伯爵家の三女を拉致した罪…ということらしいが、その三女の存在など、立場的には実兄であるところのダニロにとっても初耳であった。
そういば三ヶ月ほど前、年頃の使用人の娘がひとり屋敷から姿を消したらしいがーー順当に考えて、本件と無関係ではないだろう。
「相変わらず父上も悪趣味なものだ」
ダニロがそう言って薄ら笑うと、騎馬でもって夜襲を行っていた鷹の団四十余名が、北へ向って退却を始めるところであった。いや、退却に追い込まれたといった方が正しいか。
引き際を誤ったらしく、傭兵狩りの兵八十ほどを引き連れての必死の退却戦である。
「やはり無理だったのです」
鬼の首をとったかの様子で憤然とそう言ったのは副官のエドガーであった。
「だから申したのです。そもそも、奴らは情報収集のために雇ったに過ぎませんでした。それを…」
くどくどと続けられる副官の苦言。
その一切を耳に入れることをせず、ダニロはあの若い団長のことを思い浮かべていた。
……一目で惹かれた。あの魅力に。
まず断っておくが、ダニロに男色家の気はない。
故に彼が感じ取ったのは、グリフィスから発せられる資質の気配だった。
あの父などとは比べるべくもない。
人の上に立つべき者の、圧倒的な王者の資質。
だからこそ己の直感を確かめるため、鷹の団に単独での夜襲を任せた。傭兵狩りとの兵力差は倍以上。地理の面でも圧倒的不利。
それでもあの男なら、と思った。
しかしその期待も、あの無様な姿を見れば覚めた。
「夜襲自体は鮮やかなものだったのだがな。後が続かなかった」
「我らの任は傭兵狩りの壊滅です。あれでは警戒させるだけさせて、敵戦力の殆どが残ったままではないですか。そもそもダニロ様、殲滅戦に数で劣る隊をお使いになるなど用兵の何たるかをまるで分かってーー」
「あーわかったわかった。私が間違っていたよ」
副官の呈する苦言を、ダニロはひらひらと手を振って遮った。これ以上部下の前での説教は勘弁願いたかったのである。
そして二人がそうしている間にも、鷹の団の戦況は悪化の一途を辿っていた。
今にも尻を食い付かれそうで慌てふためいて、隊列もガタガタ。彼らがいかに動揺しているかがありありと表れている。
さらに言えば今は夜である。悪視界、おぼつかない足元に加えて追手側には地の利がある。どう贔屓目に見ても、傭兵狩りが追い付くのは時間の問題だった。
しかし兵力差は歴然である。一度背を見せてしまった以上、このまま逃げるしか選択肢はあるまい。
「…………」
あの男から感じた何かは間違いだったのだろうか。
ダニロは少々落胆しながらも、己の責を全うしようと命を下した。
「まぁいい。我らが横っ腹を叩けば伏兵の真似事にーー」
西から伏兵だ!!
叫んだのは誰だったか。
突如として闇から浮かび上がったのは二十の騎兵隊。炎に赤く照らされながら、勢いをそのままに一本の槍となって傭兵狩りの背後へと襲いかかる。
「ほほう」
「これは…」
ダニロと副官が感嘆の声を上げる中、前を行く鷹の団が伏兵に連動して瞬時に反転。
あっという間にお手本のような挟撃が成された。
「これは…余計な世話だったか」
「ダニロ様、あの先頭の男…」
伏兵の指揮を務めている、黒髪の若い男を指して副官が呟く。
「確か、近頃この辺りを荒らしていた盗賊団の頭です。確か名は…コルカス」
「ほう」
あのタチの悪い悪餓鬼どもを、鷹の団が丸ごと吸収したか。
ダニロが関心する中、先ほどまでの逃げ腰から打って変わって鷹の団の攻勢である。
後ろに気を取られて目の前の敵に徹しきることができないでいる傭兵狩りと、策が成り、戦意の高い鷹の団。
今や完全に形勢は逆転し、傭兵狩りは防戦一方であった。
「見事……しかしそれにしても傭兵狩りの動揺が大き過ぎはしませんか?」
「ああ、これは恐らくーー」
予め敵兵の数を知らされていた為だろう、とダニロは語った。
鷹の団の団長は大胆にも傭兵狩りの村へ直接乗り込み、自ら情報収集を行ったらしい。その際に傭兵狩りの中枢を担う人物、またはそれに近しい者に、自軍の戦力でも漏らしたのだろう、と。
「誤報。我が傭兵団は少数なので、存分に油断して下さい、ということでしょうか」
「そういうことだ」
多勢はそれだけで戦意を呼ぶ。戦意があるからこそ突然の夜襲でも持ち直すことができたし、恐怖ではなく怒りが勝った。何を寡兵如きがと、剣を持って戦うことができた。
しかしそこで伏兵。数の利での勝利を確信していたからこそ、失意の程は大きい。
そうなれば相手は元農民。決壊は早かった。
前後合わせて二十人を一方的に斬られると、傭兵狩りは武器を捨て、我先にと戦前逃亡を選んだのである。
しかし逃げるにしても北と西には敵兵。南は火の海。
となれば残るは一つ。
「我らのいる東の森だ」
唯一残された退路が遮蔽物の多い、しかし自分たちの良く知る森。
恐慌に煽られた傭兵狩りが悩む理由はなかった。
「ダニロ様。敵兵、来ます」
「ふっ…なるほど。我らが二枚目の伏兵という訳か」
結局、この村の人間は最初から最後まで弄ばれるだけの人生だった。
最初は傭兵、次に伯爵、そして最後に鷹の団グリフィス。
彼らはただ運が無かっただけだ。
生まれた場所が悪かった。ただそれだけの理由で、その一生を憎しみと絶望の内に終わることとなる。
その最後の瞬間に抱く不の感情とは、一体如何程のものなのだろうか。
「……ふん」
ーーこうはなりたくないものだ。
「全軍、抜刀!」
ダニロの強い声が、暗い森の中に響いた。
「起きろ、アルマ」
「んっ…」
目を覚ますと、そこは鷹の団の天幕の中だった。日は完全に暮れていて、どうやら短くない時間、寝入ってしまっていたようだった。
「立てるか」
「……あぁ」
何故だか足元がおぼつかず、声をかけてきた男の肩を借りて立ち上がった。
「来い。お前に見せたいものがある」
男が俺を支えたまま、ゆっくりとした動きで歩き出す。
「…………」
記憶が錯綜している。
意識を失う前に何をしていたのかを正確に思い出せない。
終始ぼんやりとしていて、意を決し微睡みから抜けきろうとすれば、余計なことは考えるなという内なる声に抑えられてまた元に戻る。
その繰り返し。
故に。俺は頭に靄がかかった状態のまま男に諾々と従って、ただ足だけを動かしていた。
「…………」
俺を連れるこの男は、どうやら天幕を抜け、村の方へと向かっているらしい。
意識が混濁しているせいか、周囲がやけに騒がしい。喧騒が聞こえてくる。鎧姿の大勢の人影が姿を現し、いつもの見張り塔が黒い燃えカスになっているようにも見える。
徐々に輪郭をはっきりとさせていくそれらを、何となく認識したくないと思った。
意識を逸らすため隣に首を巡らせると、そこには俺に肩を貸して歩く男ーー鷹の団団長の姿があった。
「グリ…フィス…?」
そうだ、俺はこの男と取引をしていたのだ。
頼るものがなく、打ちひしがれていた俺へ、グリフィスはまるで聖者のように救いの手を差し伸ばしてくれた。
どれほどの喜びだっただろう。
俺はその瞬間、傭兵グリフィスに魅せられてしまったのだ。
叶うなら共に連れて行って欲しかった。
例え村の為とはいえ、傭兵に村の秘密を全てうち明かし、裏切りともとれる行動をとった俺を皆は許しはしないだろう。
であるなら、村が救われたことを信じ、鷹の団団員となり、グリフィスの元に付くのも手だと思ったのだ。
この男は大物になる。
その道中には、きっと多くの困難と栄光が待ち構えていることだろう。
その栄光の一端を俺も掴むことができれば、もしかすれば村を本当の意味で救うことも出来るかもしれない。
皆との和解も叶うかもしれない。
そんな、夢を見た。
「てめぇアルマ! 裏切りやがったな!」
「殺してやる! ふざけやがって! 殺してやる!」
「ううっ…アンタのせいで夫が死んだ……フリッツのことよ! 息子も! 母も!」
「アルマ…な、何で…酷い…酷い…」
「こっちにこい糞餓鬼! 殺してやる!」
「アルマ! 裏切り者が!」
怒号。
廃墟となった家々に未だ燻る残り火に照らされ、広場に集められた村人たちの怒りに満ちた形相が浮かび上がる。
憎しみに支配されたその姿はよく見知ったものだ。
ただ一つ違いがあるとすれば、今回はその矛先が傭兵ではなく、俺に向けられているということか。
「うっ……うぅっ…」
グリフィスから腕を離され、俺はその場で崩れ落ちた。
涙が止まらなかった。
「て、てめぇ…グリフィス…グリ、フィス…」
「安心しろ。お前には情報提供の功により温情がかかるよう、俺から雇用主に掛け合っておいた」
「騙した…騙しやがったなこのクソ野郎…!」
「ああ、悪いな。俺たちはエッガース伯側の人間だ」
グリフィスは顔色ひとつ変えず、平時通りに応答した。
「さぁ、今のうちに最後の別れを済ませておけ。そのためにお前を連れてきた」
伯爵家の兵団によって拘束され、地に転がされている村人たち。
これから彼らの処刑が開始される。
「アルマァ!!」
一際大きな怒号に驚いて振り向く。
その憎しみに満ちた声の主は、血まみれで横たわる村長のダンだった。
「貴様っ…恩を仇で返したな!」
「ちっ、違っ…」
「両親のいないお前にとって、俺たち村人は親そのものだった! お前はそれを、今から皆殺しにするのだ! この親殺しめ!!」
「違う! 騙されたんだ!」
生き残った皆の鈍く光る目が、こちらを向いた。
「俺も騙されたんだ! ほ、本当は助けようと思ってしたことで……まさかこんなことになるなんて思ってなかっーー」
「死ねよ」
小柄な人影にそう言われた。
よく世話になっていた隣の家の子、ルディだった。
片親で、父親を知らず育ったルディ少年は、早く大きくなって母の役に立ちたいと良く漏らしていた。
「母ちゃん、返せよ」
今その母親の頭部を、小さな膝の上に乗せている。
言うまでもなく、こんなつもりじゃなかった、で済む話ではない。
「殺しておくべきだった…」
「……え?」
「アルマ、お前を殺しておくべきだった。お前の母親が死んだあの日に」
深い後悔を滲ませる声音で、ダンがそう言った。
「な、なんで…」
「お前は昔から変わり者だった。子どもらしからぬ言動を繰り返し、大人顔負けの狩猟の腕を見せ、訳の分からぬ言葉を喋り…」
処刑の順は村長のダンからだ。
強引に兵たちにひっ立たされ、木で作られた簡易的な絞首台へ連れて行かれる。
「みな、お前のことを不気味に思っていたよ」
「う、うそ…」
「嘘なものか。だから両親のいない幼いお前が負担になっても、口減しに殺せなかったのだ。お前の正体が実は悪魔なのではと、みな警戒していた」
「…………」
「そして、我々の予想は当たっていたようだーーこの悪魔め」
村人たちを見る。
同じように「悪魔め」と、その目が告げていた。
「今思えば…お前が生まれた頃からか。村によく傭兵が来るようになったのは」
ダンが台座に乗せられ、首縄をかけられる。
「あれをやったのも、お前だったのか」
エッガース兵団の一人が、羊皮紙片手に罪状を読み上げる。
ダンは涙を流していた。
「いったい何の怨みがある? 何の目的があってこんなことを…」
兵が羊皮紙を仕舞い、絞首台の台座を支える兵に合図を送る。
「悪魔の子め…殺しておくべきだった…」
つつがなく残りの処刑も終わらせるため、早々に台座が外され刑が執行された。
「がっ…」
硬い首縄がダンの首筋に食い込む。
顔色が真っ赤になり、真っ青になり、そして痙攣が始まった。
「殺して、おく…べき、だっ…」
ーー親とも思っていた人だった。
仲良くなりたくて、とっくに覚えていた獲物の解体をよく頼んだ。その代わりに肉を置いていき、お前は村一番の猟師だと褒められることを期待した。
しばらくして、ダンは死んだ。
「ダ…ン…」
その双眸は最後まで俺を捉えて離さなかった。そして、そこにあったのはただ憎しみだけだった。
残り村人たちは数人同時に刑がなされた。
木に吊るされた死体は神に呪われたものとされるため、みな斬首刑を望んだが、数が多すぎるという理由でその大半が絞首台によって処理された。
大人も子供も分け隔てなく、みな一人の悪魔を怨んで死んでいった。
刑が終わる頃、俺はひとり広場で蹲っていた。
見渡す限りの木々に、かつての顔見知りたちが吊るされている。
地獄のような光景だ。
そして、その地獄を作り上げた一人はまぎれもなく俺だった。
「グリフィス…」
グリフィスはもういない。
鷹の団は伯爵の兵団に先駆けて村を出て行った。
「グリフィス…!」
ただ一つ俺に残ったものがあるとすれば、もう、このどうしようもない復讐心だけだった。
そしてその相手こそが、この地獄を共に作り上げたーー
「……?」
不意に、胸元に違和感を感じた。
引っ張り出すと、そこにはまだ真紅に光るベヘリットが残っている。
確かこれは人質だったはずだ。
鷹の団が村に危害を加えないための…
「……! は、はは…何だ、俺は騙されてない。グリフィスは初めから、こんな石コロなんて要らなかったんだ。俺にくれてやるつもりで……だったら…約束も…破ってない…」
全部、俺が間抜けなだけだった。
復讐は見当違いだったのだ。
「……死のう」
立ち上がろうとする。
力が入らず、尻餅を付いた。
そしてその拍子に何かを蹴ってしまった。
ガシャンと音を立てて転がったのは、クロスボウだった。
板バネの強い、子供では到底弦の引けないものだ。もちろん、俺程度の力では扱うことなど出来ない。
しかし、そのクロスボウの弦受けを見れば既に弦がかかっている。後は矢を乗せて引き金を絞れば、それで射出体制が完了となる状態だ。
クロスボウをコッキングしたままにしておくのは、安全面、使用寿命の面から射手が避けるべきことの一つ。
故に俺がそれを直そうとクロスボウを手に取ったのは、己も射手であるからこそ出た、無意識の行動であった。
「ーー!!」
そのクロスボウ台座には、鷹の刻印が記されていた。
瞬間、俺はグリフィスの残したメッセージを理解する。
鷹の印。
ベヘリット。
そしてコッキング状態のクロスボウ。
「ク、ククク…そうか、そういうことか…」
約束を守って大切にしていたネックレスを手放す?
どうやら、グリフィスはそんな殊勝な男ではなかったらしい。
「ああ、受けてやるよ。今度こそ当ててやる」
クロスボウを引っ掴み、震える足を無理矢理立たせて歩き出す。
奴の目的地はエッガース伯爵領。
方角さえ分かれば、どの道を使っているのか割り出すのは簡単だ。
……分かっている。悪いのは俺だ。
愚かにも初対面の人間を信用し、村を救おうと思い上がり、失敗を犯し、親代わりの村人を皆殺しにした。
だからそのせめてもの償いに、俺と、そして裏切り者グリフィスの命を捧げる。
これは挑戦状だ。
一射限りの復讐許可証。
「朝の再現にはならない。ベヘリットは今、この胸にあるんだ」