「ああ、ここにいたんだ! 凛ちゃん」
咄嗟に振り向くと、穂乃果がニコニコ笑っていた。だがにこが泣いていることに気づくと、急に心配そうに眉をひそめた。
「……ど、どうしたの?」
にこは慌てて目元の涙を手の甲で拭うと、仮面の笑みを無理に浮かべた。
「だ、大丈夫だにゃ……ちょっとにこちゃんとケンカしただけ……」
「えっ! にこちゃんと! それでにこちゃんは?」
「ま、真姫ちゃんと……」
「ああ、それなら大丈夫そうだね! お互いケガはなかった?」
「ええ……いや、うん……」
「そっか、じゃあまず花陽ちゃんと仲直りしなきゃね……行こう!」
「……うん」
穂乃果に引っ張っられ、屋上へ向う間もにこには現実感がなかった。夢を見ている気がした。
屋上ではラフな練習着姿の他のメンバーが1カ所に固まって真剣そうな表情で早口で話し合っていた。海未が、にこと穂乃果に気づいた。
「凛!何があったんですか!」
海未は眉をキリリとつり上げて、ツカツカと近づいてきた。
「いや……あの……」
「にこちゃんとケンカしたんだって」
「にこと? 全くこんな時期に何をやっているんですか!」海未はグッと拳を自分の顔の近くで握りしめた。
にこは黙りこんだ。背はいれかわる前と違いはないが、これからどうなるのだろうという不安があるからか、いつもより萎縮してしまう。
「海未ちゃん……」
「穂乃果は黙っていてください!」
「あの……さ……」
にこは口を開いた。
「何ですか?」
「……いや、何でもない……」
「もう何なんですか!」海未は握っていた拳を腰のあたりに下げた。にこも言うことがなく、穂乃果も言えることがないようだった。
「まあまあ……海未……」絵里が海未の肩をぽんぽんと叩いた。「いいじゃない……ケンカするほど仲が良いって言うでしょ。ロシアでも、友だちの口げんかは楽しんでいるだけって言うわよ」
「花陽ちゃんの様子じゃ……楽しんでいるようには見えないけど……」ことりが首を傾げる。
「花陽ちゃんは?」穂乃果が訊いた。
「希ちゃんと、あそこに……」
ことりの指さすほうを見ると、出入り口の脇の壁のところに花陽がうつむいていて体育座りしていて、同じくうずくまった希が花陽の頭を撫で撫でしていた。
「凛、ほら!」絵里がにこの手を急に掴んで、花陽のところへ走り出した。花陽はにこをちらりと見て、またうつむいた。
「ほら? 凛、花陽に謝りなさい」絵里はにこに謝るように促した。
にこは謝ろうとしたが、なぜ謝るのだろうという気持ちになった。
「……ねえ。かよちん……」にこは訊いた。「凛は別にそんなにひどいこと言ってないと思う……にゃ」
「凛!」絵里が批判するようににこを見た。「なんで素直に謝れないの?」
希は黙って、花陽をなで続けた。にこは急に嫉妬と怒りの混じった感情に襲われた。にこのほうがずっとひどい目にあっているのに……にこは拳を握りしめた。
「あ……謝らないにゃ……だって凛は何も悪いことなんかしてないにゃ……」
「なあ、凛……」希が笑顔でにこを見た。「一体、何があったんかな……? 花陽に聞いてもようわからんのよ」
「り、凛は……」にこは自分の唇が小刻みに震えているのに気づいた。「……ちょっと怒鳴っただけにゃ……」
にこの不満とは、少し怒鳴っただけで謝らなければならない、ということだったのだ。真姫だったら、いちいちあれぐらいで泣き出したりしない。
希は絵里と顔を見合わせた。絵里は困ったような表情をしていた。
「ねえ、凛。花陽はそれぐらいで、でも傷つく子なのよ。それは凛が一番わかっているはずでしょ?」
にこは改めて気づいた。にこは今、凛なのだった。凛であるならば凛でなくては……にこは自分の軽率さを後悔して、花陽を見下ろした。
「そうだにゃ……」にこは瞬きした。「かよちん!」
にこが花陽に呼びかけると、花陽は膝の間に埋めていた顔を上げた。にこは笑顔を作り、花陽に右手を差し伸べた。
「ごめんなさいにゃ!」
花陽は瞬きして、手の甲で赤い目元をこすった。そして笑顔を浮かべた。
「うん。凛ちゃん」
希と絵里は安心したような表情で微笑んだ。にこも花陽が機嫌をなおしたのでホッとした。
穂乃果がやってきた。
「おっ! 仲直りしたんだね!」
「ほんまによかった。うち感激や……」
「ねえ、花陽ちゃん? 凛ちゃん、借りてもいいかな?」
「えっ?……」
花陽は不思議そうに口をつぼめた。
「いや……凛ちゃん、なんかね? にこちゃんとも喧嘩してるみたいなの」
「そうね……謝ったほうがいいわよ。凛」と絵里も言った
にこは穂乃果に引きずられて、部室の前まで戻ってきた。穂乃果はドアをノックした。
「にこちゃん、真姫ちゃん? 穂乃果だよ? 入ってもいい?」
応答がない。穂乃果はにこの手を握り「いないのかなぁ……」と言いながら部室の中に入った。
部室の中には真姫しかいなかった。真姫は俯いてじっと黙っていた。
「あれ? 真姫ちゃん? にこちゃんは?」
様子がおかしい、とにこは気づいた。真姫がピクリとも反応しない。穂乃果も不審に思ったらしい。
「真姫ちゃん……? どうしたの?」
真姫はポツリと呟いた。
「にこちゃんなんて……知らない」
「えっ……?」穂乃果は首を傾げる。
真姫はグイッと顔を上げる。目じりから涙が溢れていた。「もう……今日は……帰るわ……」真姫は鞄を掴むと、立ち上がって部室の開けっ放しのドアへ走った。穂乃果とにこの間を抜ける。にこと穂乃果は慌てて振り返る。真姫はドアから廊下へ走り出た。穂乃果とにこが急いで廊下に出たときには真姫の背中は遠かった。ちょうどいた運動部の人混みのなかに消えてしまった。
穂乃果とにこは顔を見合わせた。穂乃果は戸惑って、視線を右往左往させ、吃って言った。
「ねえ……凛ちゃん……真姫ちゃん、ど、どうしたのかな……」
にこは俯いた。自分の姿をした凛に対し言っていることだとわかってはいても、やはり自分に対して言われているようで辛い。それに真姫の辛い姿は見たくないのだ。
「穂乃果ちゃん……」
「何?」
「今日休むにゃ……」
「えっ?」
「ちゃ、ちゃんと……仲直りしたいから」
穂乃果は突然ガシッと、にこの肩を掴んで振り向かせた。にこは驚いた。穂乃果は目を潤ませていた。
「そう! それでこそ! μ'sだよ! じゃあ穂乃果たちは真姫ちゃんを追いかけるね!」
穂乃果は屋上へ戻るため、廊下を走っていった。