にこは、音ノ木坂学院のありとあらゆるところを走りまわった。凛がいそうな場所や、いそうにない場所……つまり体育館やアルパカの飼育舎、弓道場、講堂、駐輪場、グラウンド、桜並木のところなどだ。しかし、凛はどこにもいなかった。
にこはあまりに走りまわったので疲れて、講堂の裏にある水飲み場の傍に座りこんだ。自分の頬を自らの手で包むと、ほてっていた。ハアハアと喘ぎ声を聴くが、その喘ぎ声は凛の声だから、あらためて自分が凛と入れかわってしまったという事件の重大さを思い知った。これからどうなるのだろう……
夏の夕がたの太陽は橙いろの光をあたりの草原に投げかけていた。背の高い白い草が柵のあたりに生えていて、それが、ときおり吹く風によってゆれ、風がやんでも余韻によって揺れつづけていた。もうおそい時間なのだろうか。あたりは静まりかえっていて、太陽も沈みかけていた。東の空は、すでに藍いろになっていて、星がいくつか輝きだしていた。虫がひっきりなしに鳴きつづけていた。
にこは立ちあがろうとしたが、脚に痛みをおぼえたのでまた座りこんだ。にこは普段走ったこともないようなとんでもなく長い距離を走ったことに気づいた。
「まったく……あいつ……どこ行ったのよ……」
にこは呟いた。そして呟いたあと、長い吐息をついた。にこは立ちあがった。家に帰らなければ……そのときにこは気づいた。自分は今、凛の姿なのだ。つまり、凛はにこの家に、にこは凛の家に帰らなければならないのだ。にこは凛の家を知らない。家を知らなければ帰れない。
にこは進退きわまったと思ったが、急に雷に撃たれたように名案を思いついた。にこは慌ててポケットに手を突っこみ、スマホを取り出した。
凛のスマホから凛の家族に電話をすれば、迎えに来てくれるはずだ。それにスマホで凛に連絡すればいいのだ。それに真姫とも……にこは自分の馬鹿さかげんが、一人恥ずかしく、スマホの画面をつけた……
スマホはロックされていた。スマホの画面にはどこで撮ったのだろう、遊園地のようなところで、凛と花陽がピースをしている写真が待受になっていた。にこは世間の不条理さに、思わずスマホを握りしめた。同時ににこは気づいた。にこのスマホはロックされていない。つまり凛はにこのスマホを自由に見ることができる。にこは背筋に悪寒を感じた。やはり凛はなんとしても探しださないとならないようだ。
校内をこれだけ探して誰もいないとなると、やはりもう校外に出てしまったのだろうか……にこは講堂の裏を出て、弓道場のあたりを歩いた。そのとき海未と会った。海未は制服姿で、スマホを持ちながら何かを呟いていた。
「海未……ちゃん?」
にこは海未に声をかけた。海未は顔を上げた。
「あっ、凛ですか」
海未はスマホをポケットに突っ込んだ。
「何してるの……かにゃ?」
「いえ……先ほどからにこと真姫と連絡がとれないので……探してたんですよ……」
「へえ……」
「どこ行ったのか……靴箱にはにこの靴はあったので、おそらくまだ校内にいると思うんですけど……」
「真姫ちゃんは?」
「いや、真姫の靴もまだありましたよ、心配ですよね」
「う、うん」
「ですが……そろそろ帰ったほうがいいかもしれませんね。時間も時間ですし。それにほっといてほしい時も人間にはありますし……私もときおり、一人になりたいときがありますよ……」
「そうだね……」
にこは海未の話を適とうに聞きながして別れると、校内にもどった。校内は静まりかえっている。夕陽の明かりにひたされたクラスはどれも無人だった。当然凛のクラスも見たが、誰もいなかった。ただ箒が一本床に落ちていた。にこはロッカーに箒を入れた。
「……全く、世話がやけるわね……」
そのとき縦長のロッカーを見て、にこは突然思いだした。部室のロッカーにスマホを入れたままにしていたのを。にこは慌てて、部室へと廊下を走った。
部室には誰もいなかった。花瓶が倒れたままになっていいて、赤いクッションのパイプ椅子の二つほどに水がぽつぽつと垂れて、パイプ椅子を濡らしていた。
にこはロッカールームのドアの取っ手を掴んで、回そうとした。しかし回らなかった。二三度繰りかえしたが取っ手は回らない。壊れているのかもしれない。
しかし、そう思ったときロッカールームの中で人が鼻を啜るような音を聞いた。にこは慌てて耳をドアに押しつけた。やはり時おり人が鼻を啜るような音が聞こえる。にこはとんとんとドアをノックして、ロッカールームのなかに焦って甲だかくなった声で呼びかけた。
「誰かいるんでしょ! 開けなさい!」言ったあと、にこは我にかえった。凛はこんな口調で話したりしない。そのため優しい声で言いなおした。「凛だにゃ……誰かいるなら開けてほしいにゃ……?」
「わ、私よ……」
ロッカールームのなかから真姫の声が答えた。
「真姫ちゃん?」にこは驚いた。「ここにいたの……かにゃ?」
「えっと……戻ってきたのよ……」
「ふうん……」にこは嫌な予感を感じた。
そのとき、うんっ……と呻く声が聞こえた。女の声だった。真姫の声でないことは確かだった。
「真姫ちゃん?」にこは自分の声が震えていることに気づいた。
「な、何?」
「誰かなかにいるの……かにゃ?」
「いないわよ。誰も」
ロッカールームのなかにいる真姫は言下にそう答えたが、それはにこの不吉な予感を確信に近いものに変えた。
「入れてほしいにゃ……」
「あっ……その……ちょっと待ってほしいんだけど……」真姫が慌てているのが声からわかった。しかしにこは残酷なまでに執拗に食いさがった。
「入れてほしいにゃ……どのくらい待てばいれてくれるのかにゃ……?」
「あの……だから……その……」
「入れてくれないと、みんな呼ぶにゃ。みんな心配してるにゃ」
「ちょっと! それはやめて!」
にこは頬を震えさせながら、苦い笑みを浮かべた。
「呼ぶにゃ。みんな心配して学校じゅう探しまわってるにゃ……」
ロッカールームのなかにいる真姫は黙りこんだ。にこは膝が震えていることに気づいた。
「……わかったわ……入れてあげる……」
鍵が解かれる音がした。