にこはゆっくりドアを開けた。ロッカールームのなかには、電灯の白い光で照らされていて、ロッカーや長いすのあたりに影をつくっていた。そこに真姫とにこの姿をした凛が長いすで隣あって肩をよせあい座っていた。二人は手をつないでいた。
「ねえ……」凛の姿である、にこは何か怒りのような、恨みのような息苦しい気持ちで言った。「ここで、こそこそ二人で何をしてたんだにゃ……?」
凛と真姫は慌てて手を離した。顔を真っ赤にした真姫が口ごもりつつ弁解した。
「まあ……いいじゃない。凛……あの……と、友達と手をつないでただけだし……」
「にこが友達……」凛の姿をしたにこは嬉しさと妬みの交じる感情で真姫の言葉を繰り返した。にこは動転して沸騰したように熱い額に片手を当てた。
「あ……それじゃそろそろ帰る……にゃ、いや、帰るにこ!」凛は言った。
にこはどうしても真姫と凛が手をつないでいたのに、不愉快を感じた。自分の姿をした凛と、真姫だったから余計そうだったのかもしれない。
三人は校内に残るメンバーを部室に呼び出した。
最初に希が部室に戻ってきた。
「もう二人ともどこ行ってたんや……探したんやで……?」「ごめんなさいね。けど、もう大丈夫よ……」真姫は答えた。メンバーが集まった。
「それじゃ、みんな仲直りしたことだし、今日は遅いからもう帰ろうよ!」穂乃果が言い、海未は黙って頷いた。
「家に案内してくれる?」
にこは校門のあたりで凛に言った。
「うん……」
凛の家は二階建ての一軒家で、洋風の家だった。住宅街のようなところに同じような家が、碁盤の目のような道路で区画されたところに、何軒も並んでいて凛の家もそういう家の一つだった。クリームいろの外壁で、凛の家の他の家も同じクリームいろの外壁だった。「ここだにゃ……」
凛がおずおずと言った。にこは振りかえった。
「あのさ……凛」
「な、何かにゃ……」
「悪いんだけど、妹と弟たちのご飯作ってくれる。それと……アルバイトも……これは後でLINE するね……」
「うん……わかったにゃ」
「あと……」にこは喉まででかかった言葉を飲みこんだ。「いや……なんでもない……」「じゃあね」にこは家に入ろうとしたが、凛に呼び止められた。
「ねえ待ってほしいにゃ……にこちゃん……」凛はうつむいた。「説明すれば……みんなわかってくれるんじゃないかにゃ……」凛は涙を一筋流した。「おうちに帰りたいにゃ……」
にこはため息ついた。
「それは無理よ。誰も信じるわけないじゃない。そんなこと言ってたら下手したら精神病院行きよ」
「うん……」
「ひとまず、凛はにこ、にこは凛として暮らすしかないでしょ」
「わかってるにゃ……」
「絶対に勘づかれたらダメ! たとえ信じてくれても、いれかわりなんて発覚したら世間とマスコミの見世物にされるわ!」
「見世物?」
「アイドル生命の終わりってこと、とにかくお互い完璧に演じなきゃダメってこと。だからそのにゃ喋りも人前じゃ禁止ね」にこは深く息を吸った。「じゃあね……凛また明日」
「うん……」
凛を残して、にこは凛の家にもどった。入ってすぐに凛の母親らしい人がリビングから走ってでてきて甲高い声で言った。
「凛! どこ行ってたの……!」
「いや……部活が長引いちゃって……」
「部活が長引いたって今何時だと思ってるの!」
靴箱の上にある時計を見ると、もう午後十時だった。にこは咄嗟に言い訳するより正直に言ったほうがいいと悟った。
「あ……友達と喧嘩? 本当に?」凛の母親は疑わしそうににこをじろりと見た。
「……まあ、いいわよ。早くお風呂入っちゃいなさい」
「うん……」
星空家の浴室は、にこの家よりはこころなしか広かった。というよりもこれが平均なのだろうか。にこは全身を鏡に映した。自分が映っているというかんじがしない。何かのドッキリで鏡が映像になっているんじゃ……とも思ってみる。夢なのかとも思ってみる。しかしそれは違うと薄々わかっている。
にこは湯船につかった。筋肉痛がすごいかと思ったが、凛は普段から鍛えているのだろうか、たいして痛くもない。
ダイニングには凛のぶんだけがあった。白飯と鰤大根と青菜の漬物など和食メインだった。にこは普通に箸をつけた。にこは内心いれかわって得をしたのはこれだと思った。
気づくと凛の母親が眼を丸くして凛を見ている。にこは首を傾げる。
「それお父さんのよ」凛の母親は眼を瞬かせながら、指さす。指さした先のキッチンにはホットドッグとフライドポテトがあった。にこはしまったと思った。凛が魚を食べるはずがない。にこは凛の母親の顔色をうかがった。
凛の母親が感きわまったというかんじで言った。
「お魚も、ご飯も……食べられるようになったのね……」
「う、うん」
「よかった。じゃあ鰤は食べられるのね。じゃあ明日も鰤にしようかしら」
「いや……それはちょっと勘弁だにゃ」
凛の父親らしき人も二階から降りてきた。
「お父さん!」
「なに?」
凛は父親似なのか、凛の父親は猫のような愛らしい表情をした愛想のよさそうな人だった
「凛が魚を食べられるようになったんですよ!」
「えっ!」凛の父親はにこの皿をのぞきこんだ。「本当だ」凛の父親は穏やかな笑顔でにこに尋ねた。「鰤好きになったのか」
「う、うん」
にこは父親というものに慣れていない、特に優しい父親というのを知らないので、少し緊張した。
「そうだ。凛、友達と喧嘩したんですって」
「ふうん……だけど喧嘩は大切だよ。お互い溜めこむのがいちばんよくないね」
「そう……ですかね」
「そうだよ」凛の父親はにこに言った。「だけど、今度からはもう少し早く帰ってきなさい」
にこは少し顔を赤らめて、頷いた。