夢の中で、僕はいつも怯えている。
目の前には、いつの間にか殺してしまった死体が転がっている。
遠くで鳴るサイレン。
僕の姿を見て、悲鳴をあげる女。
飛び交う怒号。
幾度となく、夢であれ、夢であれと、願っていた。
僕は考えていた。
この夢は、僕に、一体、何を教えてくれているのだろう、と。
「またあの夢を見たの?」
「うん」
「覚えてないんだ。どうやって殺したかって」
「気が付いたら死んでいるんだ。でも、僕が殺したってことは分かる」
僕と会話しているこの少女は、僕の創り出した幻覚だ。
見えてしまっている。
その自覚があっても、幻覚は消えてはくれない。
もうずっと、何年もずっと、消えてくれない。
だから、僕は諦めて、幻覚を受け入れることにした。
「貴方の危険な思想を……イドを止めようと、夢を見せているのかもしれないね」
「僕はただ、人間のイドは殺人を望んでいると考えただけだ。殺人を肯定しているわけじゃない。それを抑えなきゃいけないと思っている。雨守愛先生の本の通りだ」
「私はこの本嫌いだな」
「そりゃそうだろうね。君はイドだから」
「うん。私はイド。あ、名前じゃないよ」
少女はイドだ。
少女の姿をしたイドだ。
「『枯れイドに蛙を』は、イドを枯らして、人間的に生きることを説いている。非常に道徳的だ。この本に書いてある人間の姿こそ、僕たちがならねばならない生物の姿に他ならないはずなんだ」
「でも、人間は生きるために動物を殺すでしょ? それはどうなの?」
「生きるためには仕方のない事もある」
「じゃあ、イドを枯らしてはいけないと思うよ」
「どうして? 動物を殺すことに妥協性を見出しているのは、人間のエゴだろう?」
「違うよ。人間は動物を殺すことに快感を得ているんだよ。動物を食べることにも、快感を得ているんだよ」
滅茶苦茶だ。
「イドは枯れていてはいけないの。だからこその言葉なの。枯れイドに蛙を、はね。この本は間違ってる」
人間は社会を作ってから、イドを制御し始めた。
それでも人は殺しを望むし、今でも、一度だって、むかつく奴だとか、邪魔な奴だとかを殺してしまおうかと、思う。
それを止める為に、人間は道徳をつくり、法律をつくり、罰をつくった。
「イドが潤ってしまえば、人は人を殺し続けるだろう」
「そうかもね」
「それはいけないことだ。今の世界は、人間のエゴで出来ている。表から見たら、社会とは、巨大なスーパーエゴであって、裏はエゴの塊なんだ」
「ふーん。なんで社会じゃないといけないの?」
「え?」
「私には分からないな。どうして社会の中でしか生きられないと考えるのか。どうして社会ではないといけないのか」
「それは……」
昔からの疑問。
どうして我慢しなきゃいけないんだろう。
どうして分け合わなきゃいけないんだろう。
どうして平等を求めるのだろう。
どうしてお金があるんだろう。
どうしてうるさくしちゃいけないんだろう。
どうして働くんだろう。
どうして人を殺してはいけないんだろう。
どうして。
「どうしてだろう……」
「人間って、エゴばかりだよね。自分自分って。自分さえよければいいって、裏では考えているのに、自分を守るために他人を敬い、重大に扱い、道徳を演じ、世界平和をうたう。ねえ、どうして? どうして人間はイドを枯らすの? どうして社会を重んじるの?」
「……それが、人間だから」
「人間だから……?」
そうだ。
それが人間なんだ。
イドを枯らさずして生きる者は、動物でしかない。
「そっか、人間って大変なんだね」
でも……。
「……でも、どうして人間でなきゃいけないんだろう」
そう零したとき、少女はニッと笑った。
「やっぱり貴方について良かった。さあ、人間のイドを潤す時だよ。目を覚ませ人間たち。エゴという邪悪なものから解き放たれ、真のスーパーエゴを目指すのよ。真の道徳は、エゴの無い世界。自分のいない世界。人間の、いない世界」
「人間の……いない世界」
「そう。みんな、イドに還るの。自然に溢れた世界。潤いのある世界。砂の城を壊せ。在りし日の地球を、エゴのない世界を」
「……」
「行こう? エゴのない世界へ。そこには、貴方をイジメた奴らも、貴方を傷つけた親も、先生もいない。あるのはただ一つ。何にも邪魔されない幸福だけだよ」
少女は僕の手を取った。
「枯れイドに蛙を」
とても冷たい、小さな手だった。
「最後に言い残したい言葉をこの紙に書きなさい」
看守が僕に紙と鉛筆を渡した。
「なに書くの?」
少女は興味ありげに筆の走る行方を見ていた。
あれから僕は、少女と共に街へ繰り出して、次々と人を殺していった。
無差別に。
僕は知ってほしかった。
人間とは何か。
どうして人間でなければならないのか。
どうしてイドを枯らさなければいけないのか。
考えてほしかった。
そして、気が付いてほしかった。
「僕たちは悪くないんだ。僕たちを悪とし、こうして小さな紙に言葉を書かせる人間こそ、悪なんだ。本当の道徳とは、イドを……生物の持つ「幸福に生きたい」という要求を……邪魔しない事なんだ……。そうだよね……こいしちゃん……」
もうそこに、こいしちゃんはいなかった。
-枯れイドに蛙を-