村から離れた山の中。
まだ子供だった私は、何も知らずにどんどん山を登っていって、日が暮れそうになってやっと、自分がとんでもないところに迷い込んでしまった事を悟った。
辺りはどんどん暗くなってゆくのに、帰り道も分からず、そうしている内に、完全に日が暮れてしまった。
私はただ泣くことしか出来なかった。
お母さん、お母さん、と。
すると、遠くに、ぽっと、明かりが灯っているのが見えた。
藁にも縋る気持ちで、明かりの方へと走った。
小さな小さな小屋の光だった。
不安に思いながらも、戸を叩く。
すると、中から子供の私と同じほどの少女が出てきた。
ピンク色の髪、体を周回するホースのようなもの。
「帰れなくなってしまったのですね。夜が明けるまで、泊まってゆきなさい」
少女は一人で暮らしているらしかった。
しかし、村で見かけたことなどない。
ましてや、ピンク色の髪の毛など。
「私の事が気になるのですね」
「どうして分かったの?」
「私は心が読めるのです」
「心が? まさか」
「当ててみましょう?」
私の考えることを、全て、少女は当てて見せた。
「凄いや」
「不便な力です。お陰で、私はこうして、村から離れて暮らさなければならない」
「どうして?」
「人は、心を読まれることを嫌うのです。理想としている自分、隠したい自分を晒すことを、恐れているのです。自分の中に眠る、欲望。イドを必死に抑えている。私は、それを暴いてしまう力を持っている。人間にとって、これほど厄介な存在はないのです」
「僕は別に心を読まれても平気だよ」
「そうかしら。なら、貴方の好きな女の子をばらされてしまったら、どう? 貴方が隠している悪い点数のテストだとか」
「それは嫌だなぁ」
「大人になると、もっと隠したいことが増えるのです。それが、生きることにとって邪魔なものであって、バレてしまうと生きられなくなってしまうもの。殺人だってそう。大人はみんな、人を殺してはいけないというでしょう?」
「うん。僕もそう思うし、人殺しは警察に捕まって死刑にされちゃうんだ」
「それでも、殺したいほど憎い人に、いつかは出会うのです。人間はみんな、殺したい人が一人はいて、それを抑え、隠して生きている。それを暴く私は、その人間にとって邪魔だという訳なんです」
「よく分からないけれど、君はそういう理由で、一人、ここに居るんだね」
少女は優しく微笑んだ。
でも、それは、どこか悲しくて、私にそれを悟らせないように、笑っているようにも見えた。
翌朝、早い時間に少女は私を村の近くまで送ってくれた。
「また遊びに行ってもいいかな?」
「それはいけません。私の事は忘れなさい」
「でも……」
その時、遠くで母が私の名を叫んだ。
「お母さん!」
母に抱かれて、しばらく泣いた後、少女の方を見たが、もう既に、少女はいなくなっていた。
あれから数十年。
親父の一周忌が終わって一段落した頃、私は急に少女の事を思い出した。
自然と足は山を登っていた。
「確か、こっちだったか」
しばらくすると、川辺に出た。
「昔、こうして遊んだなぁ」
小石をいくつか拾い、ポケットに入れる。
そうして、小石を一つ、川へと投げた。
「3回か。昔は10回はいったはずだったが」
そうこうしている内に、あの時と同じように、日が暮れていった。
「しまった。引き返そうか」
そう思った頃にはもう遅く、辺りは闇に包まれていった。
空を見ると、満点の星空が望めた。
「田舎だなぁ」
そんな暢気なことを口にして、野宿をする場所を探した。
すると、遠くに、ぽっと、明かりが灯っているのが見えた。
同じだ。
あの時と。
私は走った。
そして、戸を叩く。
戸が開いて、驚いた。
「少女」はあの頃と全く姿を変えていなかったのだ。
「私の事は忘れなさいと言ったのに」
少女に招かれて、私は家にあがった。
聞きたいことはたくさんあった。
何故、心が読めるのか。
何故、歳をとっていないのか。
「私は妖怪なのです」
「よ、妖怪?」
「えぇ」
信じられない。
妖怪だと?
そんな馬鹿な。
「信じられない、そんな馬鹿な、ですか」
今になって気が付いたが、周回するホースの中心に目のような球体がある。
「それが心を読むのです。第三の目」
「第三の目……」
「昔、話をしたように、私の事は忘れてください。私は、ひっそりと暮らしたいのです」
「どうして? 君のその力は、きっと役にたつ」
「お金ですか?」
「え?」
「お金儲けに使えるのですか?」
確かに私は、少女の力を思い出したとき、ふと、金儲けにも使えると思った。
「いや、そうも思ってしまったが、僕は君の力を理解し、人間と同じように生活させることが出来るとも思っている。あの時、助けてくれたお礼に、今度は私が外の世界に出してあげよう。こんな寂しいところじゃ、不便だろう」
「お断りします。私はここでひっそりと暮らしたいのです」
「しかし……」
「それに、私は心を読みたくはないのです。読みたくなくても、流れてくるのです。外の世界には人間がたくさんいます。穢れた心の叫び。抑えきれない欲望。私はそんなものを聞き続けられない。だから、こうして暮らしているのです」
そう言うと、少女は耳をふさいだ。
まるで、心の声がうるさいとでも言うように。
「貴方も、すっかり穢れてしまった。父親が死んでしまった時、遺産で家のローンを払えると喜んだり……」
「そ、そんなことは……」
「いいえ、思ったはずです。実家だって売り払ってしまったのでしょう?」
「……」
「それに、母親の事も……。認知症の母親を貴方は邪魔に思っている。だから、早く死んでしまえと思って……」
無意識だった。
無意識に、私はポケットに残っていた小石を、少女へと投げた。
その石は、第三の目とやらに当たった。
「痛い……!」
第三の目から血が流れる。
第三の目は、少女の体の一部なのか。
「ご、ごめん。ついカッとなって……大丈夫か……?」
「……今、分かりました」
「え?」
「やはり、人間は欲望を解放させないといけません。私は今まで、それを解放させてはいけないと、暴いてはいけないと思ってました。危険だから。でも、違う。欲望は……イドは、抑えれば抑えるほど、悪を増す。だから、イドは解放させなければいけない。そうしなければ、人間はいつまでたっても、同じ過ちを繰り返す。人間の目指す道徳……スーパーエゴにはたどり着けない」
「どういうことだ? それよりも、大丈夫か? なんなら病院へ……」
「出ていって……」
「でも……」
「早く……!」
少女の声に圧倒され、私は小屋を飛び出した。
翌朝、少女の事が心配で小屋の方へ戻ってみると、そこにはまた、別の少女がいた。
「君、ここにピンクの髪の女の子がいなかったか? 怪我をしているはずなのだが」
少女が振り向く。
体を周回するホース。
第三の目。
あの少女と似ているが、少し違うような少女が、そこにいた。
「さとりお姉ちゃんはもういないよ」
「さとり?」
「うん。さとりお姉ちゃんは眠りについたの。今度は……そうね、こいし、ここにある小石と名乗ろうかしら?」
そういうと、少女は血の付いた小石を取った。
「君はあの少女を知っているのか? 眠りについたとは?」
よく見ると、少女の第三の目は閉じていた。
そして、血を拭きとったような跡も。
「まさか、君があの少女なのか?」
「枯れイドに蛙を」
少女はそう言って、小石で私の右目をつぶした。
不思議と痛くはない。
だが、右目が心臓のように脈打っているのを感じた。
そしてその鼓動は、私を眠りへといざなった。
目が覚めた時、私の横には母の死体が転がっていた。
血の付いたガラスの灰皿が私の手に握られていた。
父が遺したものだった。
「一体……」
「枯れイドに蛙を」
声の方を見ると、あの少女……こいしがいた。
「これは貴方が望んだこと。望んだ結果」
「ち、違う……! 私は……!」
「抑えて抑えて、溜まりに溜まった欲望が、悪となって解放される。イドは、常に解放していないと、こうなるの」
「イド……」
母をどうにかできないか。
施設に入れるにも金がかかる。
いつまで生きているかわからないのに、施設に入れて長生きでもされた日にゃ、もっと金がかかる。
早く死んでしまえと思った。
一瞬。
……いや、そうじゃないだろ。
いつだって、母がコロッと死んでくれれば、誰かが殺してくれれば、何なら自分が自然を装って。
そう考えてきただろう。
それが出来なくて、抑えなきゃいけなくて、ストレスになって……。
「お姉ちゃんは最後まで信じていた。貴方が欲望を抑え続けるって。でも、貴方のイドはそれを許さなかった。結局、人間はイドを抑えることは出来ないんだ。抑えてはいけないものを抑えるから、余計にね」
「……」
「枯れイドに蛙を」
灰皿から血が垂れた。
その音に気を取られている内に、少女は姿を消した。
私は一人になって、さとりの事を思っていた。
彼女に酷いことをしてしまった。
もし、私が彼女に会おうなどと思わなければ、きっと、今でも彼女は、あの小さな小さな小屋で、幸せに暮らしていただろう。
彼女の嫌っていた、人間の穢れに触れずに済んだろう。
こいしなどと名乗らずに済んだろう。
「貴方は最後までそうなのですね」
それは私のつくりだした幻か、さとりがそこにいた。
「本当は、私に会わなければ、こんな目に合わずに済んだと、自分の事ばかり」
そう言うと、さとりは消えた。
「私は……」
東京の、狭く小汚いアパート。
その中で、母の血の臭いが、むわっと、湿気に混じって、私の鼻をついた。
それが、なんとなく、母の霊が復讐のために起こしているような気がして、気持ちが悪くなって、台所にあった包丁で自分の鼻を刺した。
何度も、何度も。
それでも臭いは消えない。
「ああそうか」
私は、母の子供だった。
-枯れイドに蛙を-