日本に来たのは、これが初めてではない。
それでも、リック・タイターは、日本の夏の暑さには馴れないでいた。
「こんなにも蒸し暑いのに、日本人はあんな厚着をして、ご苦労なこった」
そんなことを英語でぼやいたところで、彼らは気にもとめないだろう。
いや、英語が出来ない事をあげているのではなく、彼らはそういう人種なのだ。
九段下から神保町の方へと歩いて行く。
この辺りは、いつ来ても風景が変わらない。
遠くに見える日本武道館のマスタードソースを確認すると、リックは、日本に来たことをはっきりと実感した。
本屋にはビジネスマンと、リュックを背負った根の暗そうな男、泣き止まない子をあやす女がいるだけだった。
日本の本は好きだ。
表現が曖昧な文章ですら、はっきりと主張してくる。
故に、日本の本は翻訳が難しいのだ。
それでも、リックは翻訳家を仕事として選んだ。
それは、ある一冊の本に出会ったからであった。
『枯れイドに蛙を』
リックはこれを「Ghost_of_id」とタイトルを訳したものを自分の国に持ち帰った。
反響は大きなもので、世界中の翻訳がこぞって、作者である雨守愛のもとを訪れた。
「イドの妖怪か」
溜息を一つ。
この本によって手にした大きな報酬。
しかし、それとは裏腹に、リックの心には、それでも埋められない大きな穴が開いているかのようだった。
しばらく本屋を巡った後、聖橋の近くにある石でできた椅子に座って、駅を行く人々の流れを眺めながら、リックは考えていた。
『Ghost_of_id』
イドの妖怪。
「まるで御伽噺のタイトルのようだ」と、友人に言われた。
それが、リックの中で、何度も何度も反響している。
そして、その声が小さくなった頃、親父の言葉が、忘れかけていた遠い記憶の中から――だが確かに、聞こえてきた。
「お前もいつかは人を殺すのだ。俺がお前の母を殺したようにな」
徐々に、芥川の歯車のように――リックの視界はそれらに奪われた。
「クソッタレめ」
ホテルで寝ていても、頭の中で計算が終わらずにいた。
偏頭痛の時はいつもそうだ。
眠ろうとすると、痛みと一緒に、永遠に終わらない計算が始まる。
日本の暑さと、一瞬でも気を緩ませたのが原因だと、リックは考えていた。
「貴方は父親と同じ殺人鬼になるの」
それは、テレビの声でも、ホテルマンの声でも、リックの声でもなかった。
「なんだお前は」
頭を抱えながら、ゆっくり起き上がる。
そこには――格好の少女がいた。
「さあ、街に出て、人を殺しに行こう?」
「なんだお前は」
「そんなのどうでもいいじゃない。さあ、人を殺しに行きましょう」
これは夢か。
人を殺しに行きましょう?
それじゃあまるで、雨守愛の――とリックは思った。
「お前はイドの妖怪だな」
「知ってるの? 私の事」
「イドは人間にとって悪そのものだ」
イドの妖怪は表情一つ変えなかった。
それがリックに、少女がイドの妖怪であると確信させた。
「皆そう言うよね。でも、お腹がすくでしょう? お腹が空いたら、貴方は何をするの?」
「腹を満たす」
「でしょう? だから、動物を殺す。植物を殺す。魚を殺す。食べる分だけじゃない。たくさん殺す。ね?」
言いたいことは分かった。
だが、あえて質問する。
「何が言いたい?」
「だから、お腹が空いたら殺すでしょう? それは食欲を満たすだけじゃないの。殺したいから、殺すためにお腹を空かせるの」
無茶苦茶な理論だ。
「人間が完全人工の、生き物ではない食材を生み出したら、きっと殺しは無くなるぜ」
「それはないよ」
また、表情一つ変えない。
イドの妖怪は、真実しか話さない。
少なくとも、リックはそう感じた。
「だって、それでも人間は殺しをするのだもの。お腹が満たされても、殺し続けるのだもの。食事なんて手段だよ。殺しが出来れば、きっと人間は、お腹がすくことはないはずだよ」
「お前の言うところによると、全ては殺しにあるのだな。何故、そこまで殺しにこだわる? イドは何故、殺しばかりを取り上げるんだ?」
その時、初めてイドの妖怪は笑った。
背中に蜘蛛の赤子を何百匹も入れられたような感覚が、リックを襲う。
「人間が殺しを望んでいるからだよ。殺しを抑えているからだよ。殺しをすれば、幸福になれるからだよ」
リックの脳裏に、親父の顔が浮かんだ。
親父は、母を殺したとき、幸福を感じたのだろうか。
仕事が上手く行かず、酒ばかりを飲んでいた親父。
酒が切れると、ずっとイライラしていた親父。
母はそんな親父をかわいそうな人だと言っていた。
当時のリックにはそれが理解できなかったが、今になって分かる事があった。
親父は自分勝手で、何でもかんでも好き放題やって、後始末を母やリックに任せていた。
そんな親父は幸福だと思っていた。
だが、そうではなかったのだ。
ずっと、不幸だったのだ。
不幸からの脱却方法が分からず、ずっと苦しんでいたのだ。
酒に溺れると、きっと、少しだけ幸福な気分になれたのだろう。
母はそれを知っていて――と言ったのだ。
そして、親父は母を殺した。
「お前が親父に母を殺させたのか?」
「うん。だって、苦しいって言ってたから。不幸を紛らわせるものが無いって。あったとしても、それのせいで妻を困らせてしまうって。だから、妻を殺したら? って言ったの。妻を殺せば、迷惑をかけずに幸福に浸れるでしょう?」
親父はどうしようもなかったのだろう。
殺したくて殺したんじゃない。
殺さないと生きていけないと、勘違いしたんだろう。
イドのせいで。
本能が、イドが、そうしないと生きて行けないと、訴えたのだろう。
「やはり、イドは人間にとって危険なものだ」
「どうして? だって、このままだとずっと不幸だよ?」
「そうはさせない。イドに対抗する。イドが無くても、幸福になれる方法を探す」
「無理だよ。そんなこと、出来ないよ」
「俺は母を、親父を救うことが出来なかった。だからこそ、他の奴らにはそうはなってほしくない。人間はイドから脱却する。「枯れイドに蛙を」は、「Ghost_of_id」は、その第一歩だ」
「「枯れイドに蛙を」はそんな意味じゃない!」
イドの妖怪は、血相を変えて叫んだ。
リックの顔はそれに反し、冷たく、静かなものであった。
「どうして? 貴方の父親はそれで不幸から脱却したのに! 私は、救ってあげたんだよ!? なのに、どうして私を悪者扱いするの!?」
「人間にとってそれが、幸福でないからだよ。不幸じゃないから幸福だという訳ではないんだ」
「そんな訳ない! 不幸が無ければ幸福もない! 幸福が無ければ、不幸もないの!」
「それは、不幸な奴の考え方だ。不幸な奴が、必死になって考えた、虚しい空想だ」
頭痛は消えていた。
それに気が付いた時、そこにはもう、イドの妖怪はいなかった。
それからしばらくして、リックは翻訳の仕事を辞め、故郷で、罪人となった親に取り残されてしまった子供を引き取る孤児院のようなものを始めた。
年を重ねるにつれ、理解者も増え、支援者も現れた。
罪人の親を持った子供は、自分も将来そうなるのではないかと怯えている。
そんな子供たちに、リックはあの日あった話をしてやった。
すると、子供たちは安心する。
自分の親は悪くなかったのだと。
誰もがそうなる可能性があるのだと。
だからこそ、イドを否定しなければならないと。
やがて、その考えは大きな波紋を広げ、世界中に知れ渡る事となった。
「Ghost_of_id」
「枯れイドに蛙を」
そう唱えると、人々は救われるような気がした。
-枯れイドに蛙を-
次回、最終回の予定です。