雨守愛の死後、リック・タイターを筆頭に雨守教が作られた。
イドを否定し、全員が幸福になれる生き方を示すその活動は、多くの信者を集めた。
しかし、人が多く集まれば考えが変わってくるのも当然であった。
元々、雨守教にはイドを否定するという以外、これと言った方針などはなかったのだ。
組織は乗っ取られ、やがて政界へと進出しだすと、雨守教は分裂を始めた。
それでも――。
「ただいま、こいしちゃん」
「お帰り、お兄ちゃん」
「カレー、美味しい?」
「うん」
あれは雨の降る夜の事だった。
ずぶ濡れになって、座り込んでいる少女を見つけた。
体は傷だらけで、服もボロボロ。
それがこいしちゃんだった。
僕は彼女が、雨守教の人々が目撃したというイドの妖怪だと、何故だかは分からないけれど、すぐに分かった。
「体の傷、ずいぶん良くなったね」
「お兄ちゃんのお陰だよ。ありがとう」
「ううん。カレー、おかわりあるよ」
「本当? じゃあ、たくさん食べちゃおうかな」
こう元気に見えていても、こいしちゃんは段々弱ってきているように見えた。
最近では、一日中寝ている日もある。
「沢山食べて、元気になってね」
「うん!」
「じゃあ、電気消すね」
「うん。お休み、お兄ちゃん」
「お休み」
この先、僕はこいしちゃんをどうしたいんだろう。
こいしちゃんは妖怪だ。
本人もそう言っているし、僕も、根拠はないけど、そう感じる。
だから、他の人には見えないだろうし、衰弱してしまったら、病院にも連れてゆくことが出来ない。
だからと言って、こいしちゃんをどうしようという気もなく、ただただ、一緒にいて、こうして暮らしている。
何故、僕はあの時、こいしちゃんを助けたんだろう。
「お兄ちゃん、起きてる?」
「起きてるよ。眠れない?」
「うん。今日はずっと眠ってたから」
「そっか」
「ねえ、お兄ちゃん。私の事、どう思ってる?」
「どうって?」
「好き? 嫌い?」
「嫌いではないから、好きかな?」
「どうして?」
「どうしてって言われても」
「人間は意味を持たないと行動できないんでしょう? お兄ちゃんの行動や発言には意味がないの?」
「あれ、イドって無意識何でしょ? だったら、意味のないことも存在するって思ってないの?」
「…………」
「こいしちゃん?」
「人間達が私を否定するの」
雨守教の事か。
「人間はイドを枯らしたものだって。だからね、お兄ちゃんも人間でしょ? だから、意味がないとおかしいと思うの」
「それは雨守教が言っているだけだよ」
「でも……」
こいしちゃんは不安な顔をした。
僕がこいしちゃんと初めて会ったあの日と同じ顔だった。
「でも、違うっていうんだもん。人間にイドを潤すことを教えても、みんな、私に石を投げてくるの……。だから……」
「こいしちゃん……」
「私は人間にイドを潤すことの素晴らしさを教えたかった……。人間には、イドを解放させることが必要なの……。あの時、皆がイドを潤すことを覚えていれば、お姉ちゃんは……」
「お姉ちゃん? こいしちゃん、お姉ちゃんがいるの?」
「うん……」
「どこにいるの?」
「ここ……」
そう言うと、こいしちゃんは「第三の目」に触れた。
「今は眠っているの。心を閉ざして……」
「そっか……」
「お兄ちゃん……私は間違ってたのかな……。どうして人間は私を否定するの……?」
「それは……」
僕には分からなかった。
難しい話だと思ったし、雨守教がどうして大きくなったのかも分からない。
けど、人間はイドを否定している。
「イドは大切なの。お兄ちゃん……私、怖いよ……。多くの人間が、お姉ちゃんを傷つけた人間のようになってゆくのが……」
こいしちゃんは震えていた。
僕には雨守教をどうするだとか、イドを潤す事をどうするだとか、そういうことは出来ない。
今僕に出来るのは、こいしちゃんの悲しみを受け入れてあげる事だけだった。
小さな体を包んでやる。
とても冷たい体だった。
「お兄ちゃんの体、温かいね」
「こいしちゃんは冷たいね」
「ごめんね……」
「ううん。僕がこうしたかったんだ。これって、イドでしょ? 意味なんてない。こうしてあげたかったから、する」
「お兄ちゃん……」
「僕、思うんだ。こいしちゃんの言うように、イドを解放させることも大切だし、雨守教の言うように、イドを抑えることも必要だって」
「…………」
「大切なのは、そこに温かいものがあるかどうかなんだと思う。誰かを幸せに、そして、自分も幸せになれるかどうか」
「……そんなの難しいよ」
「こいしちゃんは今、こうしていることが幸せ?」
「うん。幸せだよ。温かいもの」
「僕もだよ」
「私の体は冷たいから……」
「でも、心は温かいよ。こいしちゃんをこうしているだけで、温かいものに満たされる気がするんだ。だから、僕も幸せ」
「お兄ちゃん……」
「こんな程度なんだよ。イドがどうとか、エゴがどうとか難しい話じゃない。こうして温かさを感じるだけでいいんだ。生きる意味だとか、本能がどうだとかいう話こそ、人間の生んだ言葉遊びでしかない。本当はもっと、単純で、身近にあるべきものこそ、大切にするべきなんだと思うよ」
「……そっか。そうだよね。私、間違ってたのかもしれない。私もお兄ちゃんとこうしているだけでいいと思った。きっと、お姉ちゃんも同じことを言うと思う」
「それでも、人間はイドを枯らすかどうかにこだわり続けるだろうけれどね……」
「…………」
「でも、きっと僕たちみたいに自分で見つける人間もいるはずだ。不可能じゃない。そうでしょ?」
「……うん!」
出会ってから一番の笑顔だった。
「ここ?」
「うん」
そこには、ボロボロの小屋が建っていた。
とてもじゃないが、人が住める環境ではない。
ここまでの道のりだって、何十年も人が足を踏み入れてないような山道だったし。
「ゲホゲホ……」
「大丈夫?」
「うん……」
こいしちゃんは一人で起き上がる事も出来ないほど衰弱していた。
『ある場所へ行ってほしい』
そう言われ、ここまで来たけれど、ここは一体。
「ここがね、私の生まれた場所なの」
「ここが?」
「お姉ちゃんが眠った場所でもあるの」
確かに、鍋のようなものもあるし、昔、誰かが住んでいたような形跡もある。
「隣に井戸があるの。そこへ行って」
草木をかき分けると、小さな井戸が出てきた。
「ここに私を落として」
「え?」
その時、大きな風が吹いた。
井戸の中から。
「これは一体……」
「お別れだよ。お兄ちゃん」
「どういうこと?」
「私の目的は達せられたの。だから、地獄へ行かないと」
「目的って? それに、地獄って……」
「私は人のイドを解放させて、色んな人を殺してきた。だから、地獄に落ちるの」
「でも……」
「お姉ちゃんが呼んでるの。この井戸の中から」
僕は耳を澄ましてみたけれど、ただただ風の音が聞こえるだけだった。
「私は人間のイドを解放するために生まれてきた。それは、人間をスーパーエゴに導くことでもあったの」
「でも、人間は結局……」
「お兄ちゃんに出会えた」
「え?」
「お兄ちゃんはスーパーエゴなの。イドを解放するけど、エゴのように静か……。そこに殺人だとか、自分だけの欲求なんてない。本当に誰かを想って、気遣って、そして、自分自身をも幸せにする。スーパーエゴ。本当のスーパーエゴ」
「僕が……」
「私、お兄ちゃんに出会えただけで幸せだったよ。この時、この瞬間の為に、私は生まれてきたんだって、今分かったよ」
「こいしちゃん……」
「最後のお願い。お兄ちゃんの名前を私にもちょうだい?」
「ああ、いくらでもあげるよ。だから……」
僕にはこいしちゃんを井戸に落とす事など出来なかった。
こいしちゃんともっと一緒に居たかったし、なにより、彼女が地獄に行くことなんてないのにって思った。
こんなに優しくて、人間を思っていて。
彼女こそ、スーパーエゴなのではないだろうか。
そうも思った。
「お兄ちゃんは優しいね」
「僕は……僕には……出来ない……」
「枯れイドに蛙を」
そう言うと、こいしちゃんは僕の体から離れた。
おそらく、最後の力を振り絞ったんだろう。
「こいしちゃん!」
手を伸ばしても、もう遅かった。
「ありがとう、お兄ちゃん。名前、大切にするからね」
笑った顔が見えたと思ったら、すぐに闇へと消えていった。
深い深い、闇だった。
「古明地君」
「あ、はい……」
「最近、元気ないね。何かあったの?」
「いえ……別に……」
「そうだ。今日仕事終わったら、一緒に飲みに行かない? お姉さんが奢ってあげる」
「お姉さんって、一つ違いじゃないですか」
「どうでもいいじゃない。今夜ね。じゃあ」
「はい」
あれから、僕は何かを忘れてしまったようだ。
気が付いたら、家にいて、何をしにあの場所へ行ったのか、分からなくなっていた。
「確か、誰かいたはずだったんだけどな……」
喫煙室のテレビが雨守教について報道していた。
「枯れイドに……蛙を……」
気が付くと、そう零していた。
信者でもないのに。
だけど、それが雨守教のものとはまた別のものな気がして、また、悲しいものな気がした。
テレビが言う。
『雨守教の信者が急に減ったんですよね。やはり、分裂が原因でしょうか?』
『どうでしょうか。分裂はもっと前からありましたし、今更という気もしますが』
「枯れイドに蛙を」
今度ははっきりと、意識して、そう零した。
何故だかは分からない。
けれど、それが大切な何かを思い出させてくれる言葉な気がして、また、誰かを想う言葉な気がした。
-枯れイドに蛙を-
高貴な椅子の上に、金髪の少女が現れた。
八雲紫によく似ている。
最近の幻想郷はこういうことが良く起きるらしい。
お姉ちゃんも見当たらない。
私はこの少女の名前を聞かなければならない。
そんな気がして、私はこう言った。
「こんにちは。私の名前は古明地こいし。貴女の名前を教えて」
少女は一瞬、戸惑いを見せたが、すぐに平生を取り戻そうとしたのか、早口でこう言った。
「私はメリーよ」
-東京メリー-
枯れイドに蛙を