申し訳程度のワンピ二次【完結】   作:安木ポン酢

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第一話 遭難体験

 私は迷っていた。

 

 熱と湿気が周囲の空気を埋め尽くしている。じっとりと汗ばんだ身体に張り付いたシャツが私の精神力を削ぎ落としていく。そろそろ体力は限界に近い。何処とも知れない場所を目的も無く彷徨い続けた事で足は棒のようになっている。靴も履かずに剥き出しの地面を歩いたせいでお気に入りの靴下も滅茶苦茶だ。

 だけどもうそんな事は気にならない。

 渇きと飢えだ。

 辛い。苦しい。

 喉が渇いてぼうっとする。お腹が空いて吐き気がする。熱っぽい身体が意識を遠くに運んでいくのに、内蔵を握り潰すような嘔吐感が強引にそれを引き戻してくる。外面を取り繕う余裕なんて無い。そこにはただ背後から迫り来るひりつくような焦燥感だけが有った。

 

 どうしてこんな事になったんだろう。

 何も分からない。なんだってこんな状況に。ああ、もう。一体何がどうなって。

 

「痛っ……」

 

 上の空だ。

 脇から飛び出た木の枝がピシリとすねに跳ねて、目の覚めるような鋭い痛みを残していく。全く気付かなかった。注意力が低下している。危ない。もっと気を付けないと。これ以上はもう無理。苦痛だ。耐えられない。

 まともじゃないと思った。身体の表面の細かい傷がひりひりとした痛みと沸々と湧き上がる苛立ちを伝えてくる。すねも腕も不規則に走る赤い線で一杯だ。次に同じ事が起こったら今度こそ駄目に違いない。

 ――そんな事を考えた次の瞬間に跳ねる木の枝。

 

「……っ」

 

 もうたくさんだ。

 反射的に腕を振り回して正面の障害物を跳ね飛ばす。勢いを付けたせいで巻き込まれた他の枝が連続で腕を打ったけれども、それも気にならない。つくづく思い通りにならない。むしゃくしゃする。本当についてない。何が何でも、目の前に有るもの全てが気に食わなかった。

 それがあらかたすっきりして、そこでふと我に返って恥ずかしくなる。私は何をやっているんだ。

 そう思っても、その後に気分が良くなる訳でもない。全身を包む不快感がすぐにまた私を苦しめる。無意識に顏が下を向いた。泣きそうなのかも知れない。心がふらふらと不安定に揺れているような気がする。一度傾いたら終わりだろうなと不意に思った。

 

 夢だろうか? 多分そうだ。

 だけど苦しい。早く覚めてよ。もう何時間経ったと思っているんだ。好い加減起きたっておかしくないでしょ。早く起きて。起きろってのに。

 自分が冷静じゃないのが何となく分かる。それと同時に、取り乱さず冷静になれとも。でもそう思う度に頭が真っ白になって自分が分からなくなる。今もそうだ。私は何を考えているんだろう。訳が分からない。

 違う、冷静にならないと。だからなんだ、冷静になってどうする。お腹が空いた。気分が悪い。吐き気がする。ああ、息が苦しいな。胸に何かがつかえてるみたいに。喉が渇いて死にそう。

 水――

 

 

 

 ふと気付けば地面に座り込んでいる。

 少し意識が飛んでいた。いつ座ったのか全く記憶に残っていない。身体の節々が痛みを訴える。具合の悪さは相変わらずだ。それどころかさっきよりも悪化している。放っておいたらどんどん酷くなっていく。

 だけど打つ手は何も無い。どうすればいいのかも分からない。こんなのは知らない。一体何が起こっているんだ。早く何とかしないと――何とかしないと、なんだ。

 どうせ夢だろう。起きたら全部無くなってる。放っておけばいい。シャワーでも浴びればすっきりするさ。何ならこのまま崖から飛び降りたっていい。

 

 おもむろに立ち上がって歩き始める。足に力が入らない。身体が左右に揺れている。

 まるで熱に浮かされたようだった。意識が飛び飛びで自分が何をしているのかはっきりしない。今は多分歩いている。ああでも、私は何をしようとしていたんだっけ。

 何かに躓いた。咄嗟に手を前に突いて転倒に備える。一瞬遅れて、両腕に走る強い衝撃。それはぼんやりと霞んでいた思考にとっては思いの外刺激が強くて、私の意識をこちら側へ引き戻すのに十分な力を持っていた。

 

 水を掛けられたように覚醒した頭が何かを考えている。

 地面に付いた手から伝わる生温かく湿った土の感触。木々の隙間を抜けて細く降り注ぐ日差しの熱さ。何処か遠くから風に運ばれてやってくる潮の香り。

 全部有り得ない。何もかもがおかしいんだ。こんなの現実な訳が無い。夢だ。夢に決まってる。

 ――本当に?

 

 私の中の誰かが語り掛けてくる。それは恐らく私だった。

 

 一体何度繰り返した事だろう。

 丸一日だ。丸一日ずっと歩き続けた。昨日目覚めてから今の今まで、ずっと。正確には丸一日ではないかも知れないけれども、それでも私にとって長く辛い時間だった事には変わりない。それだけの時間を、私は目的も無く彷徨い続け、そしてこの異常な状況について考え続けていた。

 いや、それは考えと呼べるような整然としたものではない。精々が堂々巡りといったところだろう。理由も分からず、いつやって来たかすらも分からず。ただ気付けば私はここに居た。だから、思考の程度もその情報量に準ずる。

 例えばそれは、ここは何処なのか、だとか。どうしてここに居るのか、だとか。何かの事件に巻き込まれたのか、だとか。どうやったら出られるのか、だとか。私はちゃんと家に帰れるのか、だとか。何も分からないから、じゃあこれは夢なんだな、なんて考えて。

 

 だけど私には信じ切れない。夢だ、夢だと考える程にあらゆるものが現実味を帯びてくる。肌から伝わる寒気が走るような質感。それが私の認識を惑わせて、理性をも粉々に砕こうと襲い掛かって来るのだ。

 ――違う、冷静になれ。

 寝て起きたら無人島に居た、だって? 馬鹿馬鹿しい。作り話でもあるまいに。本気で現実と考えているのか。

 そんなの、寝言だ。寝言は寝て言うものだ。寝言を言うなら、そいつは寝ている。ほら、やっぱり夢じゃないか。私は夢を見てるんだ。

 

 酷い頭痛がした。

 頭を押さえる。熱は無い。でも、普段よりも少し熱いような気がする。

 気がするだけだ。気のせいだ。きっと気のせいに違いない。

 

 視線を上げると、緑が映った。随分と目に優しくない緑も有るものだと思った。二度と見たくないとも思ったけれども、そう都合良く目の前から消えてくれる訳でもない。私の意思に関係無く自然の形はただそこに有り続ける。そんなものに向かってあれこれとがなり立てるのはうんざりする程空しく思えた。

 ずきずきと目の奥が痛む気がする。でも、本当は痛いのは目なのか、頭なのか。もしかしたら歯かも知れない。分からない。何処が悪いんだろう。苦しいのは確かだ。だけど、なんで苦しいのかが分からないんだ。

 

 やっぱり夢じゃないんじゃないか。だってこんなに苦しいのに。夢ならとっくに覚めてる筈だ。

 馬鹿を言うな。これが現実な訳があるか。苦しいのはお前がそう思い込んでいるからだ。

 だけど、それにしては感覚がはっきりしてるじゃないか。それに、もうここに来てから丸一日経ってる。やっぱり現実だ。

 夢の中だけの現実の間違いだ。起きたら全部消えて無くなっている。まさか本当にそう信じ込んでいるんじゃないだろう。

 現実逃避は止めろ。目の前に有るものを認められないって言うのか。

 冷静になれ。お前の考えている事は正気じゃない。

 冷静になるのはどっちだ。どうせ認めるのが怖いだけのくせに。

 夢だ。

 現実だ。

 夢だ!

 現実だ!

 夢なのか?

 現実なのか?

 どっちだ。

 どっちなんだ!

 どっちが夢で、どっちが現実なんだ!?

 

 熱い日差しがじりじりと肌を照り付ける。手を翳して遮ると少しだけ身を守れたような気になったけれども、風が吹いて位置を変えた熱線がすぐに私を焼いた。ざわざわと揺れる葉が私を馬鹿にしているように見える。私は自分が正気なのか分からなくなった。

 気味が悪くなる程に現実としか思えない真に迫った感覚。何処からどう見ても夢としか思えない現実離れした状況。明らかに相反するその二つが重なり合って存在しているという矛盾。そうだとしたら、私が今この瞬間に感じているものは一体何だというのだろう。何が現実で何が夢なのか。何も分からない。

 

 でも、駄目だ。

 もう疲れた。夢だとか現実だとか、どっちが正しいのかなんてもうどうでもいい。限界だった。だって結論が出ない。人間的な思考がこの現実を否定しても、動物的な直感がそれを更に否定する。人間としての感情がどうか夢であって欲しいと訴える一方で、動物としての本能が生き残る為に行動しようとする。そんな衝動を無意味な事だと小馬鹿にしているのに、それが現実だった場合の事を恐れてもいる。

 駄目なんだ。夢でも現実でも、どちらかを断言する事なんてできない。ヒントの無い二択の問いは一人で答えを出すには難しすぎる。頭で考えてどうにかなる問題じゃない。だから、そうじゃなくて、私にとってどちらの方が都合がいいかだけを考えれば良かったんだ。

 夢だ。

 夢に決まってる。夢の方が嬉しいから。だからこれは現実じゃない。もし現実だったとしたら私はとても困る。認めたくない。野垂れ死にするしかないじゃないか。嫌だ、そんなの。だから、私は夢を見てるんだ。

 

 そうだ。

 そもそも前提が間違っていたんだ。こんな非現実的なものが現実な訳が無かったんだ。まともに考えればすぐに分かる。平凡な女子高生、それもわざわざ家の中に居る奴を捕まえて、意識の無い内に日本から遠く離れた、少なくとも季節が冬から夏に入れ替わる程度には距離の有るところまで連れて行って、意識を失っていた事で身体に残って然るべき不自然な疲労感をも違和感無く取り除き、そこまでやったのに何故か無人島に置き去りにする。どんな確率だ。有り得ない。まず間違いなく夢を見ているか、そうでなければ私の頭がおかしくなってしまったという可能性の方がよっぽど現実的じゃないか。馬鹿馬鹿しい。つまらない事に時間を使ってしまった。これ以上考えるのはもう止めよう。時間と労力が勿体無い。

 ――それに、こっちには決定的な証拠も有る。

 

 だって、幻覚が見えるんだ。

 ほら、また。

 

 顔を上げた先には不思議が有った。

 そこに現実は存在しない。ひどく未来的なエフェクトと共に、何か知らない新しいものが現れる。それは私が今まで生きてきた中で見た事の無い、しかし、ここに来てから何度か目にしていた未知の光景。私の視界には半透明の板の形をした空想が映り込んでいた。

 明らかにまともな代物ではなかった。現実というものから遠く離れた場所に居る。つまり、幻覚だ。時折夢に現れる、それ特有の訳が分からない何か。今回に限ってもその原則は同じ事だった。

 

 だけど、私の視線を遮る未確認飛行物体は、やっぱり私の発想に縛られてもいるんだろう。それは未知でありながら何処か既視感を覚えるようなもので、ひどく乱暴に言えばパソコンの液晶画面をそのまま空中に浮かべたような様相を呈していた。若干後ろが透けて見えていて、その表面には何やら模様のようなものが描かれている。

 当然、触れる事はできない。指で突いてみてもすり抜けるだけで、反発も無く、光の強さに反して熱さなんかが感じられるという事も無い。幻覚なんだから当たり前だ。邪魔だから消えろと念じてもそうはならないけれども、時間が経てばその内勝手に消える。だのにいつまでも私に付いてくるものだから、迷惑この上無い。何なんだこれは。見れば見る程腹が立つ。なんでこんな。

 違う、落ち着け。腹を立てるな。そんな事に体力を使ってどうする。

 何を焦ってるんだ。どうせ夢なんじゃなかったのか。

 

 

 

 また意識を失っていた。

 喉がからからに渇いている。まるで砂が張り付いているかのようだった。かさかさになった唇にちくりと刺すような痛みが走る。もしかすると割れてしまっているのかも知れない。手入れの手間を思ってうんざりした気分になったけれども、少ししてここが夢の中だった事を思い出して気が楽になった。

 水が欲しいなと思った。それは極めて自然な欲求からくる実に分かりやすい願望のように思われた。何が何でも達成しなければならない究極の使命なのだという確信が有った。

 水は何処に有るのか? 水道という単語がすぐに浮かび、すぐに消える。別の方法を考えないと。何か無いかとのろのろと思考を巡らせて、頭の回転が鈍っているという事に思い至る。思考が上手く纏まらない。脳の半分は眠っているかのように感じられた。

 そんな中で、ふと、私の脳裏をある一つのイメージが通り過ぎていったのが分かった。

 それは波の音だった。

 

 足を動かしている。

 身体の感覚がはっきりしない。果たして前に進めているのか。ただ地面を引き摺っているだけのようにも思える。夢を見ているのは確かだった。

 潮の香りがする。きつい匂いで、呼吸する度に身体の水分が飛んでいくような気がした。断続的に響く雑音が耳を打っている。さっきよりも音が大きい。近付いてきているみたいだ。

 足の動きが一瞬だけ速くなった。地面の質が変わってきている。土と砂の境界。一歩毎に足を取られてとても歩きにくい。靴下と足の裏との間に細かい砂が入り込んでくる。ざりざりとしたむず痒い感触が妙にリアルだった。

 

 やがて、視界が開ける。日差しが痛い。熱くてひりひりする。これは真夏の午後二時の太陽だ。如何にも肌が荒れそうな空間だと思った。

 広い場所だ。白い大地と、その先に広がる青い草原。きらきらと日の光を反射して輝く波が飛沫を上げて踊っている。そこに突如大きな影が浮かび、次の瞬間水面から勢い良く飛び出す超巨大な何か。爆音と共に海面が弾け飛び、妙に引き延ばされた滞空時間を経て、縮尺を間違えた魚のような形をした物体が水でできた大地に激突する。

 そんな光景を呆然と見送って、ああ、と小さく呟きを漏らす。いよいよ見るものが空想染みてきた。そろそろ巻きに入っているのか。認識がどうにも付いて行かない。こうなると、目が覚めるのも恐らく時間の問題だろう。

 その前に水だ。水を飲んでおかないと。

 どうして?

 

 吸い寄せられるように波打ち際に近付いていく。体が熱い。兎に角水が欲しかった。喉が渇いている時に海水を飲むのはいけない事だけれども、夢なんだから多分何とかなるだろう。適当な推量で自分を納得させる。

 そんな自分を後ろから眺めている自分が居る。現実感が感じられない。足を踏み出せばそのまま何処までも落下していくような感じがする。倒れたらきっと、起き上がれない。でも、夢だから何をしてもいいんだ。

 服を脱いだ。よれた上着が乱暴に砂浜へと脱ぎ捨てられる。最高の気分だった。小気味好く吹く風が身体にへばり付いていた汗を取り払っていく。恥ずかしいとは思わない。暑いし、べたべたして気持ち悪いし、無い方がいいよ。靴下もいらない。脱いだ方がすっきりする。

 露出した肌を直接照り付ける日光に本能的な危機感を覚える。身が竦む思いを抱きながらも、心の大部分は穏やかな波のような感情に包まれ、周りの事なんて殆ど気にも留めていない。動じていないというよりは、概ね鈍くなっている。

 日中の野外で、下着姿でふらふらと身体を揺らしているという事。何かがおかしいような気がしたけれども、何がおかしいのかは分からなかった。

 

 足音が鈍くなるにつれて、足の裏に伝わる感触が湿っぽくなる。海に近付くにつれて、潮の香りと波の音が強くなる。ふと後ろを振り向くと、遠くに離れて小さく見える木々の影が有る。対して、正面に広がるのは何処までも続く海の姿。私はその光景に足元が崩れるような心細さを覚えた。

 地面に膝を付く。腰を下ろすだけで焦燥を孕んだ不安が掻き消え、代わりに奇妙に大きな安心感に包まれる。同時に、下半身の力がざるから砂が流れ出るように抜け落ちる。もう立ち上がろうとはしないだろうなと思った。

 少し顔を上げれば、寄せては引いていく波の群れが目に映る。手を伸ばして届く距離ではない。かと言って立ち上がる気力も無いので、四足歩行でのろのろと砂浜を這って進む。膝が擦れて痛かった。

 程無くして、その一〇メートルの距離が埋まる。海は目前だ。いざ手を伸ばすというところでタイミング良く寄せる波とぶつかり、地面に着いていた膝の辺りが飲み込まれる。遅いように見えて、意外と速いものだと思った。間を置かずに引き上げていき、あっという間に戻ってきて膝を濡らしていく。そんな事を無数の波の群れが繰り返している。周囲の温度で生温かくなっているかに思われたそれは、そんな予想に反して意外な程に冷たい。

 おかしいな。まるで空洞だ。水を見つけた筈なのに。何も感じない。どうでもいいとすら思っている。なんでこんなに空しいんだろう……?

 

 

 

 ああ。

 何だか頭がぼうっとする。もしかして、寝てたのか。

 いけない、早く起きないと。遅刻……ううん、ここ、何処だろう。何?

 そう言えば、夢を見てるんだったっけ。でも、そう言えば、って何だろう。まるでもう知っていた事みたいな。まあ、細かい事を気にしてもしょうがない。それよりも早くここから

 

 あれ?

 何か落ちてる。

 なんだこの渦巻き。めっちゃうまそう。

 果物? キウイに似てる。これ、食べられるのかな。良く分からないけど、別にいいや。どうせ夢だし。食べよう。でもどうやって食べればいいんだろう。分からん。そのまま食べちゃえ。この大きさなら丸ごと一口でいっても

 

 不味い

 

 これ絶対腐ってる。

 なんか風呂の排水溝のぬめりみたいな味がする。

 気持ち悪い。

 吐きそう。

 なんで。

 ああ。

 

 我に返った。

 返らなくて良かったのにと思った。

 

 荒い呼吸の音が聞こえる。過呼吸だろうか。余裕というものが感じられない。一体誰が。少しして、それが自分のものである事に気付く。

 愕然とした。私は何を焦っているんだ。意識した瞬間にとてつもない不安がぶり返してくる。訳も分からずここから逃げ出したい気持ちになった。

 嘘だろう。夢だ。夢なんだ。現実じゃない。夢に決まってる。辛い。苦しい。熱い。眠い。好い加減にしてよ。早く終わって。もう嫌。誰か助けて。

 

 その時、頭上からあの独特な電子音が聞こえた。まるで心を読んでいるかのように絶妙なタイミングだなと思った。

 

「……なんなの」

 

 自然に口から零れ出た声は寒気がする程震えていた。それはまるで自分の声じゃないみたいに低かった。だけどそんな状況でありながらも私の精神状態は何処かちぐはぐで、自分が今どんな気持ちでいるのかも分からなかった。意識がどうでもいいところに向いているようでもあった。こんな声が出せるのかという場違いな驚きすら抱いていた。

 ただ、少なくとも冷静ではない。絵の具が水に溶け出すように私の心は乱れている。或いは、ここに来て現れた幻覚幻聴に『切れた』のかも知れない。それでいて、そんな風に自分を客観的に見つめる感情の余白のようなものが残ってもいる。

 いや、それは無いか。こんな状況で、余裕なんて残ってる訳が無い。

 次の瞬間、私の中で激しい気持ちの動きが有った。もう何も考えられない。ただ感情の赴くまま、今まで受けた苦しみの全てを叩き付けるかのように頭上を睨み付ける。

 

 そして止まった。

 

「…………え?」

 

 それを見て、私が何を思ったのかは分からない。

 単純な驚きよりも困惑の方が大きかったのは確かだ。知らず零れた小さな声も、単に声が漏れたというよりは息を吐いたら声も一緒に漏れたという方が近い。頭の中を意味の無い単語がぐるぐると駆け巡っていて、思考は混乱の極みにある。

 その瞬間、私は先程まで感じていたあらゆるしがらみの存在を忘れていた。恐らくそれは、ここに来てから最も心の安らかな瞬間に違いなかった。

 

 

 

『高次元体権能「メニュー」の起動を確認しました。あなたの名前を教えて下さい』

 

 

 

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