申し訳程度のワンピ二次【完結】   作:安木ポン酢

2 / 8
第二話 高次元体権能『メニュー』

 なんだろう、と思った。

 

 視線の先には奇妙な物体が浮いている。それは物理的に実体が無く、視覚にも半透明にしか映らない謎の存在。

 まるで幽霊だ。

 そんな考えが一瞬過り、すぐに掻き消える。それにしては何やらシステマチックで、動的な気配が感じられない。同じ無機物でも随分違う。つまり、〇と一で表せるか。目の前のものは、生きても死んでもいなかった。

 一度目を閉じ、少し間を置いてゆっくりと瞼を持ち上げる。だけど、私の目に映っているものは変わらない。件の電子的な何かがまた別の何かに化けた訳ではないし、そこに描かれていた模様が日本語に差し替えられた訳でもない。

 ただ、読める。もしくは、分かる。模様だと思っていたものは実は文字で、少なくとも日本語と同等以上の文法に基づいた言語である、そういう事を感覚的に、直観的に理解している。文字を見て認識するというよりは、頭で直接イメージを取り込んでいるかのような。実際に目にしている訳ではないにしろ、ここに来てから初めて目にする、最も慣れ親しんだ知的な文化に、私は身体の緊張が一気に弛んでいくような安心感を抱いた。

 

 ――だからなんだ、という話だけれども。

 

 戸惑いから立ち直るのに、そう時間は掛からなかった。

 もしくは、脳が仕事を放棄した。戸惑いを維持するだけの思考を続ける事ができない程度には、私は心身共に疲れ切っている。元々、然して関心が無い。失望しているとも言える。目の前で起こるあらゆる出来事が、学校の授業で使うパソコンで適当に描いた落書きと同じ類のものに見えた。

 無気力を形にしたような溜め息と共に、斜め上のそれから目を離す。驚きが抜けてしまえば何の事は無い。良く分からない模様だか文字だかがいきなり理解できるようになった? それで、何かいい事が有るなら教えて欲しい。そんな事が何か重要な意味を持つとは、私には到底思えなかった。

 ここで起こる事の全てが下らない茶番のように思える。そこに価値を見出す事ができない。夢でも何でもいいから、この状況をどうにかしてくれる存在をこそ、私は心底求めている。他は何も要らない。いつになったらこの悪夢は終わるんだ。誰か何とかしてくれ――

 

『高次元体権能「メニュー」の起動を確認しました。あなたの名前を教えて下さい』

 

「……もういいって言ってるでしょ! さっさと何処かに消えて!」

 

 手を振り上げた。

 膨れ上がる赤い感情が一瞬で理性を振り切り、見苦しい叫び声を上げさせる。まるで癇癪を起こした気の短い女みたいだと思いながらも、胸に燻るむかつきは私にそのちっぽけな自尊心に従う事を許さなかった。最早、私の神経を逆撫でする為に存在しているようにしか考えられない。眠くて堪らない時に脇腹を指で突かれる事に匹敵する不快感が有った。

 そんな私の怒りが伝わったのか、半透明の画面は尻すぼみな効果音を残して空気に溶け消える。今まで碌に反応しなかったのにどうして今更と疑問に感じたけれども、それすらどうでもいい。これ以上何かを考えるのは耐え難い苦痛だった。目の前の問題を何もかも投げ出して、頭を空っぽにして倒れている事が最善の行動であるように思えた。

 

 目を閉じて仰向けに倒れ込む。視界が赤い。真上に有る太陽の光が薄い瞼を通り抜けてきている。顏の上に腕を乗せると、視界が一気に暗くなって心なしか周囲の空気が涼しくなったような気がした。

 だけど、その暗闇が穏やかなままだったのは十数秒の間だけだった。

 ふと、気分が悪くなる。もしくは、気分が悪かった事を思い出す。思考が止まり、意識の逸れる場所がなくなる。意識の逸れる場所がなくなり、じわじわと身体の苦痛が蘇ってくる。

 そして身体の苦痛が蘇って、私の感情も悪い方向へと傾いていく。

 

「あぁ……」

 

 呻き声が漏れた。

 息が苦しい。身体に酸素が足りていないような気がする。こめかみの辺りがきりきりと痛む。肩が竦んで、内臓がせり上がる、そういう我慢できないタイプの痛みを全身に感じる。

 総毛立つような寒気が有った。それは真夏の日光で熱せられた窓枠の金具を触った時に感じるものと少し似ていた。熱の籠った空間に居ながら、そんな周囲から明確に切り離されている。私は唐突に自分が生きているのか分からなくなった。

 

 酷い騒音がする。がんがんと何か大きなもの同士がぶつかり合うような音だ。

 私がまだ小さな子供だった頃、風邪を引いた時によく見た夢。何だか丸くてとても大きな良く分からないものが鐘に似た音を出しながら迫ってきて、ゆっくりと押し潰される。痛くはないけど怖くて苦しくて、だけど身体を動かす事も声を出す事もできない。目を覚ましたと思っても大きな何かはまだそこに有って、いつの間にかまた押し潰されて苦しんでいる。もう何が何だか、今居る場所が夢なのか現実なのかも分からなくなって、やっと起きた時にも目が覚めたと信じる事ができない。

 そんな時には、決まって母さんの姿が傍に有って、そしてそれを見て私は堪らなく安心して泣くんだ。その瞬間、私は何もかもを忘れて泣く事ができた。今までも、そしてこれからも、きっとあれ以上に心の休まる瞬間は訪れる事が無いだろう。

 

 なんで急にこんな事を思い出しているんだろう。

 分からない。もしかしたら、風邪を引いているのかも。ああ、夢を見ているんだったっけ。もう子供じゃないのになあ――

 思考に靄が掛かっている。くらくらして辛い筈なのに、感覚が鈍くなったように何も感じない。あたかも流れるプールに身を任せているかのような。夢心地というのはこういうものを言うのかも知れない。

 だけど、それは束の間の安寧に過ぎなかった。瞼という壁を挿んだ向こう側に、極度に不可逆的な存在がすぐ目の前へと迫ってきている。目を開けたらその現実がこちらへ押し入ってきて、この安らぎが逃げていってしまうんじゃないか。

 確信に近い思いが浮かぶ。それがどうしようもなく恐ろしかった。

 

 意識がゆっくりと浮上していく。感覚が徐々に戻ってくる。

 嫌だ、待って。まだ、ここに、

 

 波の音が大きくなった。

 思考が鮮明になる。まさにそれは、机の上でうたた寝をしていて、はっと眠気が覚める瞬間だった。だけど目が覚めてしまった事を認めたくなくて、僅かに残った眠気の香りへと必死にしがみ付いている。

 ぴくりと腕が跳ねた。身体に力を入れないようにしていた筈なのに、どうして。ああ、駄目だ、何も考えるな。何か考えたら余計に目が冴えてしまう。早く眠りに付かないと。

 無駄な足掻きだと思った。ここに来てから最も意味の無い事をしているとさえ。もう一度あの夢心地に浸る事なんてできやしないのだと知っていた。だけど、目を開けてしまう気にもならなかった。

 

 気分が優れなかった。心はとても弱くなっていて、ネガティブな事ばかりが頭に浮かんでは消えていった。一人でいるのが心細くて、誰かの温もりを求めてもいた。そしてそれは、きっと風邪を引いているからに違いなかった。

 

 

 

 その時、私は救いを求めた。

 救いは、私の求めに応えた。

 

 

 

 お腹に軽い衝撃が走る。

 何かが落ちてきたようだった。

 実体が有る。冷たく、硬い。小さいけれども、それなりに重い。剥き出しの腹部に突然現れた謎の物体。それは勢いのままころころと肌を転がり、脇腹から滑り落ちる。そして次の瞬間には、湿り気の有る浜辺に受け止められて柔らかい音を立てた。

 

 私は暫く動かなかった。

 正確には、動く気にならなかった。その感覚は例えば冬場の早朝に布団から出たくないようなもので、長い映画を見終わった後にテレビのスイッチを切りたくないようなものだった。そんな時に自分の意思で動く事が果たしてどれだけ難しいのか。私はそれをよく知っている。

 だけど、この時ばかりは私の身体はその大原則を無視して動いた。理由は知らない。ただ気が付いたら私の手は何かを掴んでいて、その事に気付いて初めて手の中の感触を認識していた。変な表現だけれども、本当に気付いてから気付いたかのような。もしかしたら何かがここに落ちてきた事さえ忘れていたのかも知れない。

 

 直接目で見ようと腕を顏から退けると、真っ白な世界が私を荒々しく出迎える。ずっと暗闇にあったからか、目が明るさに慣れていない。反射的に目を閉ざし、それでも何とか手に持っているものを視界に入れようと片手で影を作って薄目を開ける。眩しさはまだ収まらない。目を通して脳を焼いているようにも感じられた。

 一分程して状態が落ち着くと、手の中の物体を改めて観察する。

 ガラス瓶だ。

 空から降り注ぐ日の光を反射して輝いている。同じ輝きでも、海のそれとは全く違う。西洋的で無機質な、それでいて数学的な美しさを持つ人工の光。無色透明の輝きの中に鮮やかなクリアグリーンが存在を主張している。中に何か入っているのか。軽く左右に揺らしてみるとちゃぷちゃぷと小さな音がした。

 ――水?

 

 飲めるのかな。そう思って、気付いたら獣のように跳ね起きてコルクの蓋を握っていた。手が震える。もどかしい。思うように動かない。夢を見ているようだった。現実感を何処かに置き忘れている。目の前で今まさに起こっている筈の事が、過去にあった事を思い返しているようにも思えた。

 どうにかコルクを取り外すまでに、十数秒。その僅かな時間の事が殆ど思い出せない。覚えていないというよりは、記憶が切り取られたかのような。長い間マラソンをしていて、ふと冷静になった時に少し前の事をよく思い出せないのに酷似している。疲労によって余計なものが取り払われていたのかも知れない。私はただ純粋に、目の前の事にがむしゃらだった。

 すぽん、という音が鳴る、それと殆ど同じようなタイミングでガラス瓶に口を付ける。そこまで来て、未知の液体を身体に入れる事への忌避感が一瞬脳裏を過ったけれども、今更そんな事は気にならない。すぐに忘れて一息に中身を飲み込んだ。

 

 変化は突然現れた。

 

 なんだろう。

 とても、温かい。

 不思議な感覚だった。何だか柔らかい温度を感じる。喉を通り抜けてお腹に溜まり、それから全身に広がっていくような形容し難い穏やかな何かだ。

 どうして温かいんだろう。どうして温かいのに心地好いと思えるんだろう。涼しいでも爽やかでもなく、温かい。周囲を熱で囲まれているのに、どうしてこの温もりを手放したくないと感じてしまうんだろう。

 身体から力が抜けていく。それと同時に、全身に燻っていた悪いものも一緒に外に出ていっているような気がしている。錯覚じゃない。間違いなく心身の負担が軽くなっているのが分かる。なんだこれ。なんで楽になってるんだ。

 分からない。

 分からない、だけど……。

 

『回復薬(小)×1 50BP』

 

 兎に角、私は眠かった。頭が茹ったように回らなくて、これ以上何かを考えようとは思えなかった。目に映る全てがぼやけて見えていたけれども、それを不快に感じる事は少しもなかった。ただ一日のする事を終えてベッドに入る安寧を見た。徐々に遠くへ消えていく時計の針の音だけが有った。

 私の意識は何処か深い場所に沈んでいった。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

 目が覚めると既に日は落ちていて、辺り一面に薄暗い闇が広がっていた。

 果ての見えない真っ黒な平原。上下に分かれた二種類の世界は昼間とは別の振る舞いを見せる。太陽の光で満たされていた空はその有り余るエネルギーを繊細な美しさへと変え、生命の象徴にも感じられた海はその生気の一切を失って不気味に沈黙する。

 太陽の代わりに星々のきらめきで上品に着飾った夜空。そして、太陽の代わりを持たない暗黒の海。天に浮かぶ無数の光に美しさは有っても力強さは無く、時折気紛れに照らすばかりで地上には届かない。そんな僅かな光に当てられてちらちらと揺れる海面はひどく面妖で、得体の知れない化け物が蠢いているようにも見える。

 

 夜が訪れていた。

 何だかひどく肌寒い。鳥肌が立つ程ではないけれども、服がもう一枚だけ欲しいなと感じるような。そう思って自分の身体を見下ろすと、そこに有るのは白い肌。通りで、寒い訳だと思った。砂に塗れて滅茶苦茶になった髪は見なかった事にする。服は何処に行ったのか。きっと旅にでも出たに違いない。

 面白くもない冗談が言える程度には、体調が持ち直している。人並みの思考をするのに支障は無かった。

 

「ああ」

 

 声を出してみる。喉の震えは全身に伝わり、単に音が耳から入ってくる以上の結果を生み出す。不思議なもので、声を出す前と後では身体の調子が明らかに違ってくるように思えてならない。勿論、頭の方も同じだ。だから、私は寝起きには必ず声を出すようにしている。

 そのまま暫く何もせずに黒い海を眺めていた。低い唸り声を上げながら佇む巨大な底なし沼は、取り留めの無い煩雑な思考を受け止めてもらうのには如何にも丁度良いようだった。あと五分だけは、このままこうして時間を浪費する事を自分に許そう。そんな事を考えて、私はこの場所で最も確かに見えるものにじっと見入っていた。

 

 それから数分ばかりが経ち、概ね頭の中身を整理したところで――私は大いに赤面した。いや、赤面しているかどうかは分からないけど、恥ずかしい事は間違いない。

 つまり、黒歴史だ。身体の調子が整って、心に余裕ができたとも言える。だからと言って今の状況にも余裕が有るとは口が裂けても言えないものの、意識を失う前の言動を恥ずかしいと思う程度には私は理性が戻ってきていた。

 思い返すだけで嫌になる。あんなに情けなく取り乱して、もし誰かに見られていたらと思うととても落ち着いてはいられない。格好からして、なんだ。なんで私は服を脱いでいるんだ。細かい事はよく覚えていないけれども、大した理由ではなかった気がするし、年頃の女が野外で半裸になる理由って何なんだとも思う。何時何処で脱いだのかも思い出せないので探す事もできない。

 だけど、残念ながら今はそんな事は気にしていられない。年頃の女が野外で半裸のままでいる事よりも重大な問題が目の前に転がっている。

 

 それは言うまでもなく、この状況についてだった。

 分かりやすい言葉に言い換えれば、寝て起きたら何故か無人島と思わしき場所で倒れていて、そこで丸一日彷徨った挙句に力尽きて意識を失い、目が覚めたらまだそこに居るのに、どういう訳か身体の疲労がすっかり回復しているという事について。正直訳が分からないけれども、深く考え出すともっと訳が分からなくなるのであまり考えたくはない。

 だけど、考えるべき事は色々有る。例えば、ここは一体何処なのか。もしくは、どうしてこんな場所に居るのか。或いは、元居た場所に帰れるのか。そして、そもそも現実なのか。意識を失う前にも考えた事ではあるけれども、今なら多少冷静に考察する事ができるという点で異なっている。でも、果たしてその事に意味が有るのかどうかはちょっと分からない。錯乱しているよりかはましなんだろうけど。

 

 地面に向かって、『1+1=2』という数式を書いてみる。

 

 子供でも分かる簡単な数式だ。当然、間違える訳は無い。

 だけど、それは本当なのか。絶対に正しいと言えるのか。万に一つも間違いは無いのだと断言する事ができるのか。本当は間違っていないと思い込んでいるだけで、実は私はとんでもなく馬鹿な答えを返しているんじゃないのか。1+1は2ではなく、3や4だったりはしないのか。

 私は本当に、正気でいるのか。

 

 神経質な考えだとは思わない。その辺で拾った石ころが何故かダイヤモンドよりも貴重な鉱石という事になっていて、しかもそれに誰も疑問を抱かないのが夢の支配する空間だ。ここが夢なら最初から何を考えても無意味だし、仮に現実だったとしてもそれを証明するのは私の主観だけ。そうである以上、私の主観から導かれる思考に正当性は無い。少なくとも私は、ただの石をダイヤモンドより貴重だと抜かす奴の言う事を信じる気にはならないと思う。そして、今の状況もそれと似たようなものだろう。

 つまり、はっきり言って、考えるだけ無駄なんだ、そんな事。時間が勿体無い。正気じゃない人間が自分の事をそうとは考えないように、私がここで筋道立てて出した推論も他人から見れば支離滅裂で、頭がおかしいとしか思えないようなものだという事も大いに有り得る。ここでは敢えて夢という優しい言葉を使ったけれども、本当はここが紛れもない現実でありながらも真実ではない――要するに私が、例えば病院の一室で壁に向かってぶつぶつ何かを呟いているという可能性だって否定はできない。

 むしろ、確率的にはそちらの方がずっと大きい筈だ。多分、ざっと一〇〇〇〇倍くらい。その程度にはこの状況は訳が分からないものだと言える。勿論、できれば遠慮したい未来ではあるけれども。

 ……取り敢えず、コンクリートの壁を生身ですり抜けるよりかは現実的な範囲の話だろう。そうとでも思わなければやっていられない。

 

 

 

 一応の考えが纏まったところで、じゃあ、何をすればいいかという話なんだけど。

 ひとまず私は今すぐ家に帰りたいと思っている。ここが何処なのかは知らないけれども、隣町でない事は確かだ。簡単には帰れない。でも、なるたけ早く帰らないと不味い事になってしまう。家族や知り合いに心配を掛けるし、勉強も遅れる。最悪受験にも影響して、就きたい仕事にも就けなくなってしまうかも知れない。

 それは困る。非常に困る。そんな事になったら、将来結婚して家庭を築くというささやかながらも偉大な夢が叶えられなくなってしまう。美男子なら尚良し。そうなると相応に自分を磨いておかなきゃならない。そして、手っ取り早く女子力を上げるには生活力を高めるのが一番いいって母さんが言っていた。

 でもこんなところで道草を食っていたらその教えを守れなくなる。

 

 ――いけない、早く帰らないと。

 

 最早一刻の猶予も無かった。脇目も振らずに走り出そうとして、止まる。

 正面に海が有ったからだ。帰れる訳がない。そもそも、走ったからといってどうなるのかいう話だった。何とかしなくては。

 冷静になったところで、自分の置かれている状況がかなりの崖っぷちだという事に気付く。同時に、自分の精神状態が平時のそれよりも幾分高いとも。夜だから興奮しているのかも知れない。周りが真っ暗だと何をしても許されるような気がしてきて、人目を憚らずに思い切りはしゃいでみたいという気持ちが湧いてくる。慣れない環境に居るのも影響しているのか。安全で楽しい野外活動とは訳が違うというのに。

 

 水が無い。食料が無い。現在地が分からない。この三つだけでも既に永眠まで秒読みだというのに、この環境だ。サウナみたいに息苦しい空気、箱庭かと思うような狭い大地、周りは海に囲まれていて逃げられず、恐らく出ていると思われる捜索隊は私がここに居る事を知らない。こんな状況で生き残るのはその道のプロでも難しい気がする。ただの学生なら正直お隠れ一直線だと思う。

 やばい。

 どっと冷や汗が湧いてくる。氷でも入れられたのかと思うくらいに背筋が寒かった。さっきまでは捉えどころの無かった胸騒ぎが、具体的に言葉で表してみると一気に実感の有る危機感に早変わりだ。というか、このまま何もしなかったら昼間の焼き直しになってしまう。はっきりとした記憶は無いけれども、あんなに苦しいと感じた事は人生で一度も無い。同じ体験をするのはもう二度と御免だった。

 

 とは言え、実は、そんなに言う程切羽詰まっていなかったりもする。

 勿論何か悟りを開いた人のような心のゆとりが有るという訳ではないけれども、今すぐ泣き出しそうになる程の心の焦りが有るという訳でもない。どちらかと言うと、夏休みの折り返し地点で残り三分の一程度の課題に対して感じる漠然とした不安のようなものだと思う。

 つまり追い付けるかという不安じゃなくて、追い付かれないかという不安。余裕が有る中でのちょっとした心配事に近い。この状況でそんな風に考えられるのは余程の能天気か、そうでなければ恐怖で感覚が麻痺したかのどちらかだけだろう。だけど、私はそのどちらでもないつもりだったし、その上でこうして考える余裕が有った。

 何故か。

 それはこれが有るからだ。

 

「……出てきて」

 

 小さく呟くと、半透明の何かが私の目の前に現れる。

 それは平成生まれの子供には取り分け想像しやすい未知だった。何も無い空中に現れる鮮明な映像。青色と水色の中間の色合いに、その上に体系的に彩られる文字記号の数々。すぐそこに有るように見えて何処にも無いその板は薄い光を放ちながら暗闇に浮かんでいる。どうにも不思議な力が働いているらしく、反対側に回る事はできない。

 何なんだろう、これ。

 

 どけと頭の中で念じてみると、その通りに動く。おかしい。昼間はうんともすんとも言わなかったくせに。なんで今になって急に思い通りに動くようになったんだろう。

 いや、それは別にいい。今重要なのは、これが私の役に立つかどうかという事だ。

 意識を失う直前に起きた一連の出来事。具体的に何が起こったのかは朦朧としていて良く覚えていないけれども、何かとんでもない事が有ったらしい事は分かる。今こうして私が健康体でいるのもこれが関わっているのは間違いない。だからどういう事なのか詳しく調べる必要が有る。最低でも、次も助けてもらえるのかだけでも把握しておかないと。

 

『高次元体権能「メニュー」の起動を確認しました。あなたの名前を教えて下さい』

 

 なんか言っている。

 やはり、見た事の無い文字。にもかかわらず、読む事ができるという矛盾。矛盾というよりは面妖か。気味が悪くて仕方が無い。それを言ったら目の前のものもそうだけれども、方向性が違う。後者はE=mc^2とかで、前者は5=√5とかそういうの。気がおかしくなりそうだ。

 気がおかしくなると困るので、そうなる前に行動を起こす事にする。

 

「私の名前は詩織(しおり)です……」

 

 言ってから、何をやっているのかと遣る瀬無い気持ちが湧いてくる。空に向かって自己紹介。ああ、これは駄目。別に何とも思っていなかった筈なのに、実際にやってみると想像以上に居た堪れない感じだった。

 衝動的にきょろきょろと周りを見渡すけれども、誰も居ない。当たり前だ。こんなところを人に見られたら暫く立ち直れなくなる自信が有る。服も着てないし。

 どう考えても服を着てない方がまずいじゃないか。

 

『高次元体権能「メニュー」は「詩織」を認識しました。接続を開始します』

 

 適当な事を考えていたら、いつの間にか状況が動いていた。表示されていた文字が別のものに切り替わっている。

 高次元体権能、メニュー。暫定的にそう呼ぶ事にした目の前の何かはどうも私と接続を開始したらしい。何を言っているのかさっぱり分からないけれども、言葉通りに読み取るならそういう事になる。パソコンとかに詳しい人ならどういう事か分かるんだろうか。取り敢えず物理的にくっ付いてる訳じゃないのは分かるけど……。

 くっ付く?

 くっ付く。

 

 もしかして触れたりするんだろうか。

 

 即座に馬鹿な考えだと一蹴しようとして、失敗する。思い当たる事が色々有ったからだ。確かに昼間は触れられなかったけれども、それはこちらに反応しなかった事も同じ。そして、今はこちらに反応するようになっている。だったら、触れるようになっていてもおかしくはない。

 だけど、いくらなんでもそれはどうなんだろう。実体が有るようには見えないし、それになんか熱で火傷したりとか、そういう危険が有りそうで怖い。今のところ『メニュー』は私の生命線の最有力候補なので変に弄って元に戻せなくなったりしたくないというのも有る。

 でも気になるから触ってみよう。

 それに、現状他にできる事なんて『メニュー』に向かって呼び掛けてみるくらいしかない。それに比べると映像に触ろうとする方が幾分建設的に思える。一見難しそうな事でも、こうして二択にすると途端にできるような気がしてくるから不思議だ。

 

 流石にいきなり手を出す勇気は無いので、その辺に落ちていた木の枝に犠牲になってもらう事にする。物差しよりも少し短いというくらいの、丁度好い具合のものを手に持って『メニュー』に向かって突き出していく。小刻みに揺れる枝の先が徐々に半透明の画面へと近付いていき、そしてそのまま何の抵抗も無くすり抜けていった。

 

「…………」

 

 何も言わずに光に触れていた部分を指でなぞってみる。

 温かくはない。最初に調べた時と同じ感触。ざらざらとした手触りは特に変わりなく、見た目にも変化は見られなかった。そりゃあそうだよ。触れる訳ないよ、普通。何考えてんの私。遂に血迷ったか。

 木の枝を放り投げて地面に座り込む。急激に熱が冷めた気がする。何となく気力が沸かない。それに、少し悲しい。こう、胸が締め付けられるような感じ。どうにも心細いっていうか。

 なんか、一人だなって。

 ああ。

 寂しい。

 寒い。

 ……服、探さないと。

 

 そんな事を考えながら立ち上がろうとして――動きが止まる。

 

 

 

 音がした。

 

 

 

 電子音。

 自然界ではまず耳にしない架空の空気の振動。

 それが頭上で静かに鳴った。そんなに大きな音ではなかったけれども、何だかやけによく響いていたように思う。

 

 一気に目が覚めるような感覚が有った。例えばうつらうつらとしながら授業を受けている時に先生から指名された瞬間のような。

 少し違う気がする。多分もうちょっとさっぱりしたものだ。少なくともそこに後ろめたい緊張感とかは入っていない。じゃあ何なんだと言われれば、きっと普通に指名されただけの時なんだろうけど、これもまた微妙にずれているような感じがする。

 

 中腰になった状態で固まっている。

 動けない。動けないというよりは、動いたらいけないような気がする。上手く言い表せない緊張感。食卓の椅子を引いたら振動で箸が転がっていって、一秒後に床に落ちるのが分かっているのに見ているだけでいるだとか、そんな感じの良く分からない何か。

 視界に映るのは地面だけ。自然のものではない光に照らされてぼんやりと浮かび上がる砂の一粒一粒が何処か眩しい。スポットライトに当てられたように存在を主張する浜辺の光景を見ていると、空に瞬く星々を、更にその上から眺めているような妙な気分になってくる。

 そんな事を考えていたせいだろうか。奇妙に張り詰めた空気の中、不意に気の緩んだほんの一瞬の間だけ、すぐ目の前に有る筈のものが縮尺を間違えたかのように遠く離れた場所に見えた。

 

『旅人Aの服×1 10BP』

 

 何なんだ、一体。

 人が感傷に浸ってる時に。無神経じゃないか。そういうの、本当に止めてよ。人を馬鹿にしてる。ちょっとくらい、気を遣ってくれたっていいんじゃないのか。

 顔を上げて、すぐにその事を後悔した。次々と言葉が浮かんでくる。その内の全部が悪感情によるもので、そしてそれは全てが目の前のものから来ている。でもそれは明確に何かを敵視している訳でも、激しい感情を抱いている訳でもなく、そのくせ何も感じていない訳でもなく、かと言って押し殺した鬱憤が有る訳でもなかった。

 強いて言えば座りが悪い。

 愚にも付かない苛立ちを感じた。言うなれば、進路の悩みをクラスメートに零したら、恋の悩みで返された時のような。何をそんなに怒ってんだって、自分で自分の癇癪に呆れた。そういう訳だったから、それも暫くしない内に収まった。だけどこの先、この良く分からないものを頼りにする事は有っても、好きになる事は多分無いんだろうなと思った。

 

「……なに」

 

 反応を返す。口から飛び出した声には力が無く、如何にも相手をするのが億劫だと言っているようだった。敬語で話すのも馬鹿らしい。得体の知れないものに対する警戒と、人には理解できない神秘を重んじる気持ちが薄れてしまったように感じる。そうなった理由はいくつか有るように思えたけれども、一番の原因がそこに書いてある内容にあるのは間違いない気がした。

 『旅人Aの服×1』という何となく意味の捉えられる言葉と、『10BP』という全く意味不明の略字記号と思わしき何か。二つを組み合わせて『旅人Aの服』一つが『10BP』と等価だというのは漠然と推測できるけれども、それ以外の事はどうにも判然としない。

 だけど、何処かでこれに似たものを目にした覚えが有るような気もする。多分、昼間意識を失う寸前に。あの時はなんて思ってたんだっけ。よく覚えていないけど、確か何かを強く求めていたような、そんな記憶がこびり付いている。

 

 それが正しいなら、もしかすると今の状況もそれと似たようなものなのかも知れない。服を探そうと思ったら、これが出てきたんだ。欲しいと思ったものは何でも手に入る。

 凄い事だと思ったけれども、何故かあまり嬉しくない。嬉しくないというよりは、嬉しいと感じようとする事が面倒だった。多分次の日にはまた別の感想を抱いていると思う。でも、今は何と言うか、心が鈍くなったように何も感じない。何なんだろう。

 

 出し抜けに現れて砂浜に落ちた丈夫そうな服を見て、そんな事を考える。

 デザイン性を捨てた無骨な作りは今のこの状況にはうってつけで、汚しても惜しくないという意味でも如何にも都合がいいように思われた。

 それに、温かそうだ。動きやすそうでもある。風通しも悪くなさそうなので、蒸れるという事も無い。かなりださい事を除けば、概ね上等だった。

 

 地面に投げ出された服を掴んで、実体が有る事に衝撃を覚える。びっくりするというよりは、ショックを受けるという感じで。実感が持てない。ふわふわしている。ビンゴで一番に上がった時もこんな感じだった。え、ああ、うん、当たったんだ、みたいな。

 少しの間、私はそうやって固まっていた。服を着ようとしていた事を忘れていたような気がする。早く着ないと。

 座ったままでは着られないので、立ち上がって服を身に付ける。袖を通して、ズボンを穿いて、何故か付いていた靴を履いた。何だかそれだけで何が来ても平気なように思えてくる。根拠の無い安心感。服を着るって、結構凄い事だったんだ。当たり前すぎて知らなかった。

 ぼうっとする。なんか、頭が働かない。考えなきゃいけない事が沢山有るのに、その気力が片端から抜けていく。思考が飽和状態に陥っている。一度こうなったら暫く使い物にならない。

 少し、休もう。

 

 そう思って足元を見やって、そこで思考が停止する。一旦起き上がってしまった後で、改めて地面に横になるというのも抵抗が有った。寝転がるのは止めて、腰を下ろすだけに留める。服を間に挿んだ砂浜の鈍い感触がむず痒い。

 足を投げ出して、後ろに手を付いて、ぼんやりと夜空を見上げている。心が洗われていくようだった。時間の流れをひどく緩やかに感じる。本物はやっぱり違うなと思った。

 

 そうして黙って星空の姿を眺めていると、ある時不意に何も考えていない空白の瞬間が訪れた。それは偶然の産物に思えたけれども、丁度目が合った一等星が一際強く輝いて見えた瞬間と重なっていたような気がする。

 




 次の更新は8/16くらいになると思います。多分。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。