一五分くらいで星を見るのに飽きてきた。
星を見る自分に酔うのに飽きたとも言える。星座の事なんて分からないし、星が光るのを見てうっとりするのも微妙だ。やっぱり、私に情緒は無い。時間の動きに過敏な現代人の感性が染み付いている。何もしていない時間が続くと、こんな事をしてる場合じゃないと具体的な形を持たない焦燥が何処からか湧き出てきてしまうような。
ただ、確かに、今はこんな事をしてる場合じゃないな、と思った。
だけど、そうやって立ち上がろうと思ってから、実際に立ち上がるまでに少しの間が有った気がする。動くと決めても何となく動く気になれなくて、よいしょ、なんて声を出してみたり、あと一〇秒経った瞬間速攻で立つとか、そんな事を考えていた。
ズボンに付いていた砂を軽く払って、大袈裟に伸びをする。さっきまでは立ち上がるのも億劫だったのに、いざ立ってみると今度は座るのが嫌だと思えてくる。結局、何かが変化するのが不快なだけだという事なのかも知れない。じゃあ今の状況はどうなんだって、当然、嫌に決まっている。旅行するなら、日帰りだけで十分だ。
真っ黒な海に背を向けて、不安定な砂の足場を歩き始める。靴を履いていたら少しは歩きやすくなるかと思っていたけれども、別にそんな事は無い。むしろ、靴の中に入り込んだ細かい砂が足の裏と擦れ合って、痛痒いやら気持ち悪いやらで不快だった。
森とも呼べない雑木林が近付いてくる。もしくは、私の方が近付いていっている。何故そんな事をしているのかと言われれば、ただの自己満足には違いない。ここは少し広すぎる。こんなところにずっと居たら、心の隙間まで一緒に広がって余計に心細さが増していくような、そんな気がした。
それから、多分一分くらい。長いのか短いのか良く分からない時間を掛けて砂浜の中程に進んだ時、ふとした拍子に私は背後から纏わり付くような怖気に襲われた。
思わず立ち止まって振り返りそうになったところで、どうにか踏み留まる。今にも後ろの黒い海が身を乗り出して、こちらを押し潰そうと飛び掛かってくる――頭に浮かんだそんな馬鹿げた妄想が、現実の出来事になってしまいそうに思えて怖かった。
何かに追われるように早足で歩いた。頭ではそんな事は無いと分かっているのに、足を止めたらとても恐ろしいものがすぐ後ろにやってくるように思えて、必死に足を動かしていた。一秒でも早くこの場所から離れたくて、だけど走ってしまったら一瞬で何処かに引き摺り込まれるんじゃないか。そんな風に考えて脇目も振らず前に進んだ。それでも、最後は殆ど小走りのような状態だったと思う。
茂みの近くにしゃがみ込んで、それから漸く人心地付いた気がした。すぐ傍に有る木々の存在が頼もしい。思わず縋り付きそうになる。でもそれはこの突然の臆病風の中でも取り分け情けなく思えたから、手の平を当てるだけに留める。木の皮はごつごつして硬くて少し湿っていて、日本に居た頃は想像すらしなかった濃密な自然の気配を感じた。
木の影から砂浜を覗くと、薄らと暗闇に光る白い大地と、その先に広がる暗黒の世界がとても遠くに見える。何処かに有る筈の地平線は星空の端の暗闇と同化していて判別できない。安全地帯から眺めるそんな光景は、さっき居た場所と数十メートルも離れていないのに、自分とは到底関わりの無い縁遠い世界の出来事に思えた。
恐怖はもう無かった。
「……メニュー」
知らなきゃいけない事が沢山有る。
状況が一旦落ち着いたからか情緒にゆとりができた気がする。だからその為に必要なものを呼び出したけれども、何故かそれが恥ずかしい。『メニュー』なんかを当てにする事に抵抗を感じていて、別に悪い事をしている訳でもないのに苦々しい後ろめたさが燻っている。
いや、これは後ろめたいんじゃない。中学校に入ってシャーペンを使い始めた時に抱いた根拠の無い不満と少し似ている。いい感情を持っていないものに結局頼る事になって、そんな自分が浅ましいんだ。
目の前に半透明の何かが現れる。まず私がしなければいけないのは、この『メニュー』とかいう得体の知れない代物の使い方を知る事だった。
画面には何も書かれていない。今までは何かしらの言葉が表示されていたというのに、一体どういう事なんだろう。トップページ的な存在なのか。特に何も考えずに呼び出したからこういう事になったのかも知れない。
ここからどうすればいいのかさっぱり分からないので、一旦閉じるように念じる。すると、『メニュー』の姿は僅かなタイムラグも無しに掻き消えた。すぐ傍に付いていた光が無くなり、一気に暗闇が訪れる。
痛々しい程の沈黙。周囲の環境音も何処か遠くに聞こえてくる。何だか、とても心細い。あたかも祭りの活気の届かない、隅っこの暗いところに居る時のような。それは独特の喪失感を伴って身体のすぐ傍を通り抜けていき、やがてするりと落ちるように私の心から離れていった。
何はともあれ、使い方を知るには説明書を見ればいいと昔から決まっている。
当然そんなものは持っていないので、『メニュー』からそれらしい機能を探し出さないといけない。とは言え、殆ど無意識に願うだけで『旅人Aの服』とかいう代物が手に入るくらいだから、そこまで苦労はしない気がする。ヘルプの一つや二つは用意されているだろうし、コンピュータの事はあまり詳しくないけど、案外すぐに見つかったりするんじゃないか。
『広辞苑×1 2000BP』
そんな事を考えていたら、まるで的外れな項目が出てきてしまった。辞書なんか渡して一体どうしようと言うんだろう。さっぱり意味が分からない。何をどうすればこんな頓珍漢な選択肢が出てくるというのか。
そもそも『BP』というのが良く分からない。『2000BP』って何なんだ。『広辞苑』は『旅人Aの服』二〇〇着分の価値が有るという事なのか。それは『広辞苑』が高いのか、もしくは『旅人Aの服』が安いのか。それとも実は価格には何の関係も無くて、単に商品番号的な数字に過ぎないのか。
『所持BP 10940』
BP、というものについて教えて欲しい。そんな風に思いながら『メニュー』を呼んで、出てきたのがこれだった。根本的に何も解決していない上に新しい情報まで出てきている。インターネットの検索のようなものなんだろうか。役に立っているし便利でもあるけど、微妙に融通が利かない。
どうやらBPというのは数値で表す事のできる消費型の交換券……というと真っ先にお金が思い浮かぶけれども、兎に角そんなものらしかった。『BP』とは何なのか。どうやって手に入れるのか。何処まで汎用的なものなのか。何故10940も持っているのか。それは多いのか少ないのか。分からない事ばっかりだ。
取り敢えずボールパークの略とかじゃないのは分かる。だけど、じゃあボーナスポイントか何かかと言うと、そうかも知れないしそうじゃないかも知れない。別にどっちでもいいので勝手にボーナスポイントと呼ぶ事にする。
ただ、この調子だと、不用意にポイントを使うのは止めておいた方がいいように思える。『10940BP』という数値がどれだけの価値を持つのかは知らないけれども、無限には使えない。少なくとも、可能な限りの節約を心掛けた方がいいのは確かだろう。
頭を振って思考を打ち切り、『メニュー』に消えるように念じる。今はボーナスポイント云々の事はどうでもいい。それよりも、何か説明書の代わりになるものを見つけてやる必要が有った。
何故さっき上手くいかなかったのかは分からないけど、きっと何か雑念が混じったんだろう。こういうのは集中力が無いといけない。気持ちを入れ替えて、もう一度やり直す事にする。
ヘルプ機能を使いたい。
どうだ。
『アカシックレコードの断片×1 4000BP』
何だか良く分からないものが出てきた。今度は何だろう。
ちょっとした説明の為の項目が用意されているようなので、軽く覗いてみる。するとそこに有ったのはぎっしりと詰まった活字の森。文章だけでなく画像も一緒に添えられていて、説明が丁寧なのがしっかりと伝わってくる。
だけど内容は良くなかった。何やら訳の分からない単語がずらずらと並んでいて、しかも書いてある事が哲学的なものばかりでどうにも要領を得ない。宗教の話なんだろうか。取り敢えずあまり深入りしたくはないと思う。他の方法を考えないと。
『メニュー』を閉じ、目も閉じて意識を集中する。思い浮かべるのはヘルプ機能。ただでさえコンピュータの事は詳しくないのに、それよりややこしそうな『メニュー』を何の手助けも無しに使いこなせる訳が無い。今は他の何よりも、この訳の分からないものを訳の分かるものに変えてくれる存在が必要だった。
『雑学B 500000BP』
私の祈りは届かなかった。
ぴくりと眉が跳ねたのが分かる。雑学ってなんだ。余計にひどくなっているじゃないか。
いや、別に腹を立てているという訳じゃない。ただ思い通りにならないというよりは融通が利かない事にむかむかして、肩の辺りが窮屈になっているような感じがする。なんで上手くいかないんだろう。そんなに難しい事は望んでいない筈なのに。
一旦『メニュー』から意識を外し、ゆっくりと深呼吸をして気持ちを落ち着ける。焦ってもいい事は何も無い。穏やかな心でいると何かと得だって母さんも言っていた。こういう時こそ冷静にならないといけないのだと言える。
一体何がいけなかったのか。
そもそも念じるというのが良くなかったに違いない。全国模試を受けている時でさえふとした拍子に関係無い事を考えてしまうのが人間という奴だ。思考を完璧に制御するなんて悟りの一つでも開かないとやっていられないだろう。
何だか失敗したのも当然だったような気がしてきた。やっぱりやり方が悪かったという事か。『旅人Aの服』の時に上手くいったのは多分無意識だったからこそなんだと思う。
次は声に出して言ってみようか。実際に言葉に表せば、多少は雑念も混じりにくくなってくれる筈だ。
ヘルプ機能を使いたい。ヘルプ機能を使いたい。
よし。
「『ヘルプ機能を使いたい』」
――そして、目の前が真っ暗になった。
膝を付いている。
身体に力が入らない。指先が勝手に震えている。目を開けているのも辛い。今にも倒れてしまいそうだ。
どうにか腕に力を込めて、崩れ落ちそうになる身体を支える。くらくらと不安定に揺れる視界。目が回っているのか身体が揺れているのか。何だかとても息苦しい。心臓がばくばくと煩いくらいに鳴り響いていて、全身が燃えるように熱かった。
一体何が起こったんだ。いや、そもそも私は何をやっていたんだろう。確か『メニュー』の使い方を調べようとして、それから――
思考が上手く纏まらない。疲労が頭の働きを鈍らせている。疲労? どうしてそんなものが。疲れるような事なんて何もしていないじゃないか。
少し思い出してきた。
何が起きたか。分からない。何をしていたか。『メニュー』の使い方を調べようとして、『ヘルプ機能を使いたい』と言った。それからどうなったか。いきなり目の前が真っ暗になって、立っていられないくらいの疲労に襲われたんだ。
ここが繋がらない。どうして、声を出しただけでそんな状態になってしまっているんだろう。元々身体に蓄積していた疲労が表に出てきただけなのか。それで済ませていいレベルの話ではないような気がする。
そうだ、『メニュー』。『メニュー』は一体どうなったんだ。これが無くなったら私は生きていけなくなってしまう。
確かめないと。
鉛のように重い頭を何とか持ち上げ、頭上で光る画面を見上げる。
そこは情報の海だった。
光が蠢いている。
まるで、都会の夜景を空から眺めているような光景だった。いつもと変わらない半透明の板の上で、無数の項目と思わしき何かが忙しなく飛び交っている。それと一緒に沢山の模様も目に入ってくるけれども、なんて書いてあるかは分からない。それどころか、視界に入れるだけで頭がごちゃごちゃにこんがらがってくる。
これは文字なのか、それとも単なる模様なのか。多分、文字のような気はする。だけど、じゃあなんで今は読めないんだろう。さっきまでは問題無く読めていたのに。
……いや、違う。そうじゃない。そもそも、どうして私はここに書いてある事が読めるんだ。『メニュー』の影に隠れて目立たなかったけど、知らない筈の言葉の意味を感覚的に理解しているというのはどう考えてもおかしいじゃないか。
ぐらりと身体が傾いた。画面の中の様子もおかしい。光の波がますます激しく入り乱れている。こちらの思考に反応しているんだろうか。瞼が寝起きの時みたいに重い。頭ががんがんと鳴り響いている。相当危険な感じだ。早く止めないと。メニュー消えて。お願い。早く消えて。早く。
強い思いが通じたのか、私の前から『メニュー』が消える。同時に頭の中で反響していた騒音も鎮まり、穏やかな時間が戻ってきた。周囲の暗闇が心地好い。風呂でのぼせてしまった時に浴びる水のシャワーみたいだ。目を閉じてじっとしているだけで心も気分も落ち着いてくる。
だけど身体に残った疲労までは消えてくれない。まるで全身からごっそりと血を抜かれたかのような薄ら寒さを感じる。一体何が起こっているのか。ただの疲労じゃこうはならない。きっと普通じゃない事が起きてしまったんだと思う。
それが何かは知らない。
私がした事と言えば声に出して自分の望みを言っただけ。その行動が先程の騒動の原因だと決め付けるのはいくらなんでも乱暴な理屈に思える。『メニュー』に向かって話し掛けたのは初めてじゃないし、声を出す事自体に問題は無い筈だ。
ただ、だからと言って、全くの無関係という訳でもないような気がする。
すると問題が有ったのは内容だろうか。分からない。情報が少なすぎる。取り敢えず詳しい事が分かるまでは、声で『メニュー』を操作しようとするのは止めた方がいいかも知れない。何はともあれ、あんな苦痛を味わうのは二度と御免だった。
ひとまずは思考制御で何とかなりそうな事にだけ手を出すようにした方がいいだろう。今のところ思考制御の問題点は扱いにくいという事を除けば存在しない。元々『メニュー』の操作方法なんて知らないので、多少の不便さは相対的に誤差も同然。それは流石に言いすぎにしても……いや、やっぱりその理屈は無いか。マウスが壊れてたら誰でも困るような気がする。
余計な事を考えていても仕方が無い。思考制御の扱いに慣れる為に思い付いた事から色々と試してみる事にした。
まずは『旅人Aの服』を思い通りに呼び出せるかどうかを調べる。勿論実物に出てこられても困るので項目を出すだけだ。意識を集中し、雑念を捨てて『旅人Aの服』の事だけを考えながら『メニュー』を開く。一度なら偶然でも、二度出せればそうとは言えない。今までの経験則的に、多分上手くはいかないだろうけれども。
『旅人Aの服×1 10BP』
そうやって斜に構えていたら、なんと上手くいってしまった。
これはどういう事なのか。失敗するだろうと思っていたら成功してしまうなんて。成功は失敗で、失敗は成功。という事は――
もしかすると私はとんでもない勘違いをしていたのかも知れない。もう一度ヘルプ機能が無いかどうか調べてみる事にする。どうせ上手くはいかないだろうけれども。
『犬の手×1 3000BP』
とても役立ちそうにないものが出てきてしまった。犬の手って何。まるで聞いた事が無い。
しかも3000BP。広辞苑よりは価値が高いという事か。
あまりに訳が分からなすぎて泣きそうになってくる。何なんだ一体。と言うか、今更だけど、なんでヘルプ機能を使おうとするだけで有料のサービスが出てくるんだろう。そういうのは普通ただで利用できるものじゃないのか。
疑問には思うけれども、取り敢えずそれについて考えるのは止めにする。私の思い付きはやっぱり間違いで、ヘルプ機能には手を出せないという事がはっきりした。実際にはそうじゃないのかも知れないけれども、ここで考えるのは明らかに時間の無駄だ。今は『メニュー』の使い方に関しては置いておいて、現状に直結する問題を優先した方がいい。
つまりそれは――水が出せるのかという事。
『天然水×1 10BP』
頭の中で『水が欲しい』と『メニュー』に向かって語り掛けると、画面中央にそんな項目が現れた。どうやら水を出すのには苦労しなくて済むらしい。念の為何度か出したり消したりを繰り返して問題が無い事を確認する。これなら取り敢えず水不足に苦しむ事は無くなりそうだ。
そうして一気に肩の荷が下りたところで、ふと、素朴な疑問が浮かび上がってくる。視界に映るのは海に取り残された孤島のようにぽつんと浮かぶ項目の姿。何と言うか、空きスペースがかなり気になる。こんな一つだけじゃなくて、もっと沢山一度に項目を出せないんだろうか。
私のそんな願いはどうも許容範囲内と判断されたようで、何やら画面を埋め尽くすような勢いで大量の項目が出てきた。それどころか数が多すぎて全部収まり切らなかったのか、端の方にスクロールバーのようなものも見える。動くように念じるとその通りに画面が上下にスライドしていく。一体どれだけ有るのか想像もできない。
と言うか、なんで天然水が沢山出てきたんだ。
天然水天然水天然水。
アルプスの恵み。
端から端まで、世界各国から取り寄せられた天然水がずらりと画面に並んでいる。それは別にいい。結構な事だ。だけど、どうしてそこまでして天然水にこだわったのか。これだけの種類の天然水を用意できるなら、もう少し他の方向に力を入れてほしかった。午後の紅茶とかそんな感じの。
ただ、『メニュー』に融通性を求めてはいけないというのはここ数分の攻防でしっかりと思い知らされている。水が欲しいと言ったら水しか用意しないんだろう。向こうの譲歩に期待できない以上、こちらが扱いに慣れるしかない。
大量に並んだ天然水の項目を一つ一つ見比べていく。折角の機会なので、価格差なんかについても調べておきたい。今のところ服二〇〇着分の辞書とか一本で服一着になる水とか、市場価格が滅茶苦茶に崩壊している感が有る。完璧とまではいかなくても、多少の法則性くらいは見当を付けておきたかった。
そうして暫くリストを見て回る内に大体の価格は把握できたので、途中で見回りを切り上げる。というより、切り上げざるを得なかった。画面をスクロールする度にどんどんリストが伸びていくので、一向にその終わりが見えてこない。全部見るのに三年くらい掛かるんじゃないか。
『メニュー』の品揃えについてはひとまず置いておいて、他に気になる事も有る。画面に詰まっていた無数の天然水は、その種類に見合わず値段のばらつきが少なかった。
殆どの天然水が『1BP』で、稀に高いものは有っても『2BP』や『3BP』が精々。最初に出てきた『10BP』を上回る天然水は今のところ存在しない。もしかしたら見落としているだけかも知れないけど、見落とすくらい数が少ないというのは確かだ。
勿論値段は同じでも量が違うようなので実質的には価格差も有るという事だけど、それにしても少しおかしい。
具体的には『天然水×1 10BP』の項目のあらゆる点がおかしい。
まず値段が妙に高いというのが一点。他のものみたいにきちんとした量が書かれていないというのも変だ。説明を見れば画像が載っているので大体の量は分かるとは言え、正確な量が明記されていないというのはやっぱり奇妙な事に思える。
しかも明らかに少ない。ガラス瓶一本とか、どんな量だ。
そして一番気になるのは、『水が欲しい』と思った時に最初に出てきたのがこれだったという事。どうして『メニュー』は際立って高価で、かつ量の少ないものを真っ先に候補に挙げたんだろう。これよりも順当な選択肢は他にいくらでも有った筈だ。
それとも私がそう思っているだけで、実はこれが最適解だったとか? でも、説明文には薬の調合素材になるとかありきたりな事しか書かれていない。お勧めというには弱い気がする。特に見るべきところが有るとは私にはとても思えなかった。
――とは言うものの、今回の事で得られたものは少なくない。一部の例外を除けば物価が極端に乱れているという事も無いし、『1BP』だけでも十分な量の水が手に入るという事も分かった。その例外について考えるのは別に後回しでもいいだろう。
当面の謎が氷解したところで『メニュー』を仕舞って現実世界に帰還する。
身体が強張って少し息苦しい。何だか久々に外の空気を吸った気がする。周囲の蒸し暑さのせいなんだろうか。日本ではまだまだ寒かったから、それを感じない場所だと暖房の効いた室内に居るように錯覚してしまうのかも知れない。
やや大袈裟に伸びをして固まった身体を解きほぐす。ずっとしゃがみ込んでいた事で縮んでいた筋肉がぴりぴりと引き伸ばされていくのを感じる。全身の空気が入れ替わるようなその感覚は解放感が有ってとても気持ちがいい。あとはもう少しだけ気温が低ければ言う事無しだ。
穏やかな暗闇に目が慣れてくるにつれて、徐々に現実がはっきりと見えてくるようだった。たった一人で人類の文明圏から引き離されて途方に暮れているという事。不安が無いと言えば嘘になる。気が狂ってもおかしくない。
じゃあなんで私はそうなっていないんだと言われれば、やっぱりそれは『メニュー』の存在に理由が有るんだと思う。その証拠に、それの正体を知らなかった時の私は控え目に見ても冷静じゃなかった。
でも、もしかしたらただ実感が無いだけなのかも知れない。ここに来た時に冷静さを失っていたのも混乱によるものが大半だし、その後押しをした苦痛も大部分が肉体的な性質からくるものだった。
だから分からなくなる。私は地に足が付いているのか。今もそうだ。こんな訳の分からない状況にまともな現実味なんて無い。だけど、それはずっと続くものでもない。いつか不一致無く現状を認識する瞬間がやってきて、そしてその時何かとても恐ろしい事が起こるんだ。
意味の無い種類の心配だった。だけど同時に排除できない種類の心配でもある。今この瞬間は問題無くても、明日はどうか。明後日は。その先も大丈夫だとどうして言えるのか――数日後の自分が何を考えているのかを考えて、勝手に不安になっている。
馬鹿らしい話だと思った。その労力を他の事に費やす方が有益には違いない。必要の無い事に貴重な時間を使ってしまっている。それが分かっているのに動揺を抑えられなくて、思考が袋小路に迷い込みつつある。
少しでも気を紛らわそうとその辺を歩き回ってみたりもした。頭を冷やすには向かない周囲の熱気も、頭を緩めるには如何にも丁度良いように思われた。でもそのアイディアは的外れだったらしく、まるで上手くはいかなかった。
そんな風に暫く周囲を徘徊していると、ふと顔を上げた節に何かが砂浜に落ちているのが木々の隙間から見えた。
何だろうと近付いてみれば、それは私がパジャマ代わりにしていた上下のジャージだった。少し離れた場所に靴下も転がっている。一体いつからここに居たのか、彼等は全身砂に塗れてとても無残な姿へと変わり果てていた。いっそ見なかった事にしてあげるのが情け、なのかも知れない。
触るのが嫌だったので指で抓んで持ち上げる。汚い。くらげみたいにだらりと垂れた服の先からぱらぱらと砂が落ちていく。何となくそれが落ち着かなく見えて、上下に揺さ振ってやると面白いくらいに砂が宙を舞った。
思い出した。
確か、ここで服を脱いだんだ。暑いとか何とか、そんな理由で。他にも細々とした理由は有ったような気がするけれども、良く思い出せない。と言うか、思い出したくない。そんな誰の得にもならない記憶は忘れてしまった方がいいだろう。
そう思って周囲を見回していたところ、また変なものを見つけてしまった。今度は何だと拾ってみたら、完全に変色してぼろ布よりみすぼらしくなったシャツだった。布質の差かジャージと比べても損傷が酷い。砂が付着しているのではなく、砂を吸い込んでしまっている。
「うわあ……」
親指と人差し指で挟んで触ってみたら、ぱさぱさに乾いているくせに妙にしなしなしていて生温かかった。完全に鳥肌ものだ。最早洗濯機に入れるのさえ憚られる。一晩は水に漬けておかないと元の姿には戻らないだろう。そして、元に戻ったとしても着たくない。と言うか、もう見るのも嫌だ。
取り敢えずの処置として、ジャージの中に包み込んで封印を施しておく事にした。臭いものに蓋をするというのは実に良くできた言葉だと思う。これはつまり、昔から私みたいな人が沢山居たという事の証明なんだろう。面白い。
一塊に纏まった衣類を胸に抱え込んで雑木林に戻った。これが何かの役に立つとは思えなかったけれども、まさか捨てる訳にもいかない。正確には、それを持たずにはいられないと感じている。軽い筈の布の塊が、両腕にずっしりと重さを掛けてくるように思えた。
何をしてるんだろう。
唐突に頭に浮かんだ疑問。今の自分は客観的にどう見えているんだろうか。格好だけはそれなりにらしい装備をした女が、砂塗れのジャージを抱えて夜の無人島をうろうろしている。
場違いだと思った。私はここに居ていい人間じゃない。
帰らなきゃいけない。
家に帰らなきゃいけないんだ。
――家に帰る方法を教えて下さい。
心に浮かんだ祈りの言葉は自然と敬語になっていた。
おかしいな。敬語で話すのも馬鹿らしいって思っていた筈なのに。
疑問はすぐに立ち消えた。それだけ必死になってるんだ。
何故か?
知っているからだ。
もしくは、はっきりと理解している。これ以外に助かる方法は無いのだと。
どんな間抜けでも分かる事だ。ただの一般人が一人で無人島から脱出するなんて土台無理に決まってる。たとえそれが可能だったとしても、じゃあその後はどうすればいい。運良く陸に上がれたとして、そこは何処だ。ブラジルか。少なくとも日本じゃない。
言葉も知らない。治安も悪い。お金も無い。助けも無い。
そんな中で、唯一有ったのがこの良く分からない力なんだ。それは頼りもするし、必死にだってなる。つまり、神頼みに近い。どうしようもなくなった時に縋るもの。自分の力ではどうにもできないと分かっているから、目の前に有る理解の及ばない存在に必死でしがみ付いている。
私の祈りは届いたのかも知れなかった。
『世界間転移(詩織宅) 102500BP』
――ぬか喜び、なんだろうか。
最初にそれを見て、私はとても安心したんだと思う。ああ、なんだ、大丈夫じゃん、とか、そんな感じに。身体の強張りがするりと抜けて。溜め息だって漏れる。帰る方法が有る事に心の底から安堵した。
だけど、その次に隣の数字が見えて、それで一気に気分が萎んだ。見間違いとさえ思わなかった。ただ、どかんと叩き付けるように決定的な衝撃が有った。
ショックを受けたのは確かだ。でも、単に悲観するのとは少し違う。プラスとマイナスで言うなら紛れもなくマイナスには違いなくて、だけどその中に何処か諦め混じりの浮付いた気持ちが混じっていたような気がする。一体何処からそんな感情が湧いてくるのか全く理解できなかったけれども、暫くしない内に何となくその感覚が心に重なってくるのが分かった。
これは多分、何処か実感に乏しい驚きに固まっている状況に近いんだと思う。例えば試験の答案用紙の回収後に名前を書いた記憶が無い事に思い至り、不安に思いながら数日を過ごし、それがきちんと返却された事に安堵する――次の瞬間、得点が自己採点を大幅に下回っている事に気付いた時のような。
もしくは単なる逃避に過ぎないか。どちらにしろまともな思考からくる感情じゃない。
なんで思い通りにいかないんだ、どうして必要なものが足りてないんだ――そんな思いが思考の大半を埋める中で、まあこんなものかだとか、そんなに上手くいく訳ないとか、そういう感情が何処からともなく生まれてくる。或いは、そう思い込んでいる。
喜んでいいのか悲しんでいいのか分からないんだ。
ふと違和感を感じて頬に手を当てたら、濡れていた。泣いている。驚いて涙を止めようとしたら、何故か泣いている感覚が無い。既に泣き止んでいるという雰囲気でもなかった。
多分私は泣いてたんじゃなくて、涙を零しただけだったんだろう。ほんの一筋涙を流して、それで終わり。ごく短い時間だけ感極まるとこうなるって何処かで聞いた覚えが有る。
ああ、そうか。
何だか理解できた気がする。
安心するとか落胆するとか、喜ぶとか悲しむとか。そういうの全部引っ括めて、敢えて言葉にするなら、びっくりして目が覚めた、なんだ。私はきっと、今までずっと寝てたんだ。ただふわふわ漂っていたのが、分かりやすい課題を目の前に突き付けられて、漸く眠りから覚めたんだ。
生まれ変わったみたいだった。生まれ変わったに違いなかった。
帰らないと。
目的ができて、目が覚めた。BPだか何だか、兎に角貯めて、早く帰ろう。どうやって集めるのか、知らないけど。でも、帰れる。嘘じゃない。
現実なんだ。実感が有る。涙を流して、目の曇りが取り払われた気がする。視界の全てが鮮明になった。状況に流されるままでいるのはもう終わりでいい。
私は帰らなきゃならないんだ。
一人称は文章を色々作り込めて楽しい。誤魔化しも利かないので難しくもありますが。