申し訳程度のワンピ二次【完結】   作:安木ポン酢

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第六話 トラウマ

 身体の節々が痛い。

 

 寝違えたような違和感が有った。全身に何か良くない不純物が沈殿しているような気がする。筋肉痛の痛みをボンドで固めたらこんな感じになるんじゃないか。記憶が曖昧ではっきりしない。昨日、何か有ったっけ。

 寝起きで頭がぼんやりとしている。今、大体何時くらいかな。今日は休みだから寝ててもいいけど、九時過ぎだったら流石に起きよう。ああでも、今日は本当に休みで合ってるんだっけ。合ってる筈だけど一応確認しておかないと。それにしても、何だかシーツの感触がやけに真新しいような――

 

 あ。

 

 目が覚めた。

 一瞬で意識がくっきりと冴えて、周囲の音が一気に近付く。思考に掛かっていた霧が突風に吹き飛ばされたかのようだった。もう先程の微睡みが戻ってくる事は無い。だけど、あと少しだけその残り香にしがみ付いていたいとも思っている。

 それは起きようと思えばいつでも起きられる中での余裕だ。ただそこから休日という条件が抜けると、途端にやる気が無くなってベッドから出られなくなってしまう。冷静に考えると馬鹿馬鹿しい。

 

 取り敢えず、今ここから起き上がるのに何の障害も無い事は確かだった。

 腕立て伏せの要領で身体を起こしてベッドを降りる。うつ伏せで寝ていたので首が痛い。軽くストレッチをして緊張を解し、それでも取れない鈍い疲労にげんなりとした気分になった。昨日の出来事がまだ尾を引いている。

 多分、明日も、明後日も。

 

 時刻を見ると、七時だった。

 洗面所でうがいをして、からからに乾いていた口の中に水分を取り入れる。背後に浴室が有る事を必要以上に意識した。用を足す習慣を振り切ってまで部屋に戻って、その後で自分の馬鹿さ加減に呆れている。かと言って、わざわざ戻る気にもならない。

 お腹が空いていたからこっちに来たんだ。そんな風に考えながら、部屋の中央に置いてある机に座った。

 

 食事にしよう。

 ボーナスポイントの節約の為に煎餅を手に取って、食べる。美味くはない。空腹とは言え、喉が渇いているので当たり前だ。

 近くに有った冷蔵庫を覗くと、中身は空だった。ああ、という落胆の声が出る。期待していなかった、なんて言える程達観してる訳じゃない。扉を閉めて、もう一度開けてみても結果は変わらず、ただ真っ白な壁が広がるのみ。意外に広いのが腹が立つ。

 『メニュー』で買うのは勿体無いから、諦めて水道水を飲むしかないか。いや、そもそも、水が有るだけで最高だ。喉が渇いた時に飲めない苦しみは身を以て知っている。贅沢を言うのはおかしいだろう。

 そう考えて顔を上げたら、冷蔵庫の横に置いてある台の上に妙なものを見つけた。

 

 それはパソコンの画面を台の中に埋め込んだような形態をしていた。

 電源は入っていないのか、真っ黒な画面が私の顔を歪に反射している。近くにボタンらしきものは見当たらない。どうやって使うんだろう。と言うか、使えるものなんだろうか。

 取り敢えず触ってみると、電子的な起動音と共にライトが灯り、カラフルな文字と写真の集合体が現れた。

 と言うか、普通にお品書きとかに見える。

 

 まさか。

 

 閃きに従って指を画面に滑らせる。すると『メニュー』と同じように反応が返ってきて、画面に映る映像が別のものへと切り替わった。予想通りの展開に気持ちが逸るのを抑えられない。まだだ、まだ喜ぶな。ぬか喜びになったら余計悲しくなるじゃないか。

 目に付いたものを選択すると、画像がアップになって表示される。値段が書いてない。名前の部分が光っている。そこに触れたら、『取り寄せますか?』の質問の横に『はい』と『いいえ』の選択肢。

 『はい』を押した。

 

 冷蔵庫を開ける。

 有る。

 掴む。

 取る。

 

 ファーストフード店に有りそうな紙のコップだった。

 冷たい。表面には水滴がくっ付いていて、プラスチックの蓋からはストローが覗いている。手の平に馴染む程好い重さ。左右に揺らすと、ガラガラと何かがぶつかり合うような音が鳴った。

 ストローに口を付けて吸い上げる。はっとする程良く冷えた液体が舌に触れ、喉を通り抜けていく。息をするのも忘れて一心に飲んだ。呼吸が苦しくなってもそのまま吸い続けて、息が持たなくなっても尚口を離さず鼻呼吸で乗り切る。

 水だ。

 お茶だ。

 美味いお茶だ。

 こんなに美味いお茶は今まで飲んだ事が無い。

 

 ずず、という音がずずずずず、という音に変わって、間も無く抵抗感と潤いの両方が無くなる。それなりに量の有った冷たいお茶を三〇秒足らずで飲み干してしまった。自分で思っていたよりも身体の水分が足りていなかったのだと自覚する。まるで、生まれ変わったみたいだ。全身に力が漲っている。今なら一〇〇メートルくらいの全力疾走でも難なくこなせてしまいそうな気がした。

 もう一本頼んですぐさまそれに口を付ける。一気に半分程飲んで、それからゆっくり味わうようにちびちびと吸い上げていく。少しガブガブと飲みすぎた。お腹に冷えた水が沢山溜まって若干ばかり気分が悪い。身体の具合を整える為に、食べかけの煎餅を口に放り込んで誤魔化す。

 

 二本目のお茶を飲み終えて、暫く時間が経ってから漸く動く気になった。

 『メニュー』を開いて所持BPを見ると、10939ポイントから減っていない。値段が書いていなかったからそうじゃないかとは思っていたけれども、実際に目にしてみると相応のインパクトが有る。

 これはつまり、タダという事なのか。

 そんな旨い話が有る訳が無い。ここが日本なら迷いなくそう断言する事だろう。だけど今私が居るのは、何処なのかは知らないけれども、取り敢えず日本じゃない何処かだ。そもそも、『メニュー』絡みの問題は旨いとか不味いとかを超越したところに有る。今更そのくらいの事で狼狽えるのは間が抜けていると思う。

 じゃあ、やっぱり、無償提供のサービス? あそこに載ってたもの全部、食べ放題の飲み放題で、お持ち帰り自由とかなんだろうか。

 見てみたら、端の方に無料って書いてあった。

 

 凄い。

 やった。

 最高だ。

 

 煎餅なんて食べてる場合じゃない。

 砂でも食うように残りの欠片を胃に詰め込み、画面の中のお品書きに噛り付く。キャビア。キャビアは何処だ。自然にそんな事を考える程度には浮かれた気分をしている。五〇万円の時よりもはしゃいでいるかも知れない。食べ放題の誘惑はお金なんかよりもずっとダイレクトに迫ってくる。

 どれにしようか。何を食べよう。普通のレストランと比較して種類が多いので、悩む以前に目が迷う。全部でどれだけ有るのか分からない。多分、一〇〇人くらいが各々食べたいものを注文しても平気な数を網羅している気がする。ひとまず私一人なら何も問題無いという事だ。

 ただ、料理の種類はどれも保存の利かなさそうなものばかり。一年分くらい乾パンを出して蓄えておくというのは無理なんだろうか。

 

 寝起きなのでさっぱりしたものを選んだ。

 アユの塩焼き。フグの味噌汁。あとなんか、サラダとか色々。

 白米。

 取り寄せた食事をいそいそと机に並べていく。冷蔵庫から湯気の立つ焼き魚が出てくるのには相当な違和感が有ったけれども、それ以上の期待感によって塗り潰されている。美味しいものを食べられるというよりは、好きに選んだものを食べられるという事実に対して興奮が有った。

 ……あとは、一人じゃなければ言う事無しなんだけど。

 深く考え始めるとど壺に嵌るので思考を打ち切る。ものを食べている時に暗い事はなるべく考えたくない。手早く手を合わせてから食事に取り掛かる。一人で口にする『いただきます』はとても空しかった。

 因みにキャビアは結構探してみたけど、無かった。そもそも黒っぽい何かという事くらいしか知らないから、何処を探せば見つかるのか分からない。

 

 

 

 至福の時を終えて、私は浴室の前で仁王立ちになっていた。

 もしくは、単に立ち竦んでいる。時間にして、かれこれ一五分以上。他のやる事を優先してわざと後回しにしていたので、それを含めるとその倍くらいに伸びると思う。裸にはなっていない。一度服を脱いで、その後着直しているからだ。

 馬鹿らしいと自覚はしていた。だけど、どうもこういうのは理屈じゃないらしい。ジェットコースターを前にしてやっぱ止めたとなる心理に似ている。しかもあの時は正真正銘命の危機だったのでその躊躇も飛び抜けて大きかった。

 昨夜に起こった事について、遅かれ早かれはっきりさせなきゃいけないのは分かっている。でも、いざそれを目の前にすると足が竦んでしまうんだ。シャワーを浴びるのが怖いし、湯船に入るのはもっと恐ろしい。

 そこで私は一つの閃きを得る。そう言えば食後のデザートを食べていなかった。これを忘れたら食事を終えた事にはならないじゃないか。なんで忘れていたんだろう。風呂に入る前に済ませておかないと。もう歯を磨いてしまったので香りが少し気になるけれども、それくらいなら無視できる範囲だ。

 カロリーについては別に考えなくていい。むしろ昨日の分を補う感じでいこう。

 

 冷蔵庫の前まで戻り、品目の中からデザートの欄を表示する。凄い光景だ。ケーキなどのお馴染みのものから今まで見た事も聞いた事も無いような得体の知れないものまで、洋菓子や和菓子が山のように並んでいる。私はスーパーのカップゼリーで満足してしまう程度の甘味好きなので、もう何が何やら。別に適当なゼリーでもいいけど、折角だから普段食べなさそうなものを選びたい。ケーキ、ケーキはチーズケーキ、この苺大福もいいな、どちらか一つ……。

 いや、この際、両方にしよう。ついでにゼリーもだ。このフルーツシャーベットとクリームが上に乗ったお洒落な奴。なんか一個五〇〇円とかしそうな気がする。カップゼリー一五個分か。そっちの方が嬉しい。

 チーズケーキと苺大福に、フルーツなんとかゼリー、それとお供のホットコーヒーを携えて机に向かう。その上には処理に困った食器が一箇所に纏められていた。あれはどうすればいいんだろう。落ち着かないから、早く片付けたいんだけど。考えても分からないので、取り敢えずは放置の方向でいく事にしている。

 三種類のデザートが揃い踏みする様は壮観だった。三連ゼリーとは桁が違う。具体的には値段の桁が違う。一〇〇〇の大台に乗っているんじゃないか。それは別にどうでもいい。早く食べてやらないと。

 チーズケーキ、コーヒー、苺大福、苺大福、苺大福、ゼリー、コーヒー、ゼリー、チーズケーキ、コーヒー、チーズケーキ、ゼリー。バランスを取る為に上手い具合に攻撃を分散させる。油断すると大福に吸われてしまうので気を付けないといけない。というよりは、大福は味と食感が完結している上にコーヒーとは微妙に合わないと思う。

 反対に、ゼリーは割と万能だ。甘いものとは大体上手くいくような気がする。

 

 

 

 至福の時を終えて、私は浴室の前で頭を抱えて唸っていた。

 あれから凡そ三〇分。余計な事をして時間を浪費した挙句、結局元の場所まで戻ってきてしまっている。さっきから何も進展していない。食後のデザートとかそんな風習は我が家には伝わってないのに何やってんだ。

 このままではいつまで経っても先に進めない。早く何とかしないといけないという思いは有った。

 だけど、一体どうすればいい。確かに、何も起こらないという可能性は有る。だけど、それと同じくらいには、またあの時と同じ事が起こってしまうかも知れない。

 そうなったらどうする。まさか一生風呂に入らないという訳にもいかないだろう。でも、風呂に入ったら溺れてしまう。溺死する危険を背負ってまで風呂には入りたくない。だったら今この場でもそれは同じ事だ。

 じゃあ入らなくていいのか。そんな馬鹿な事は無い。これで何も無かったら私は大間抜けになってしまう。有りもしない危険に怯えて風呂から離れた生活でも送るのか。数日もすれば我慢できなくなるに決まってる。結局、遅いか早いかの違いしかない。

 風呂に入るか、入らないか。

 早く決断しろ。

 せめてシャワーだけでも。

 シャワーなら溺れないだろう。

 怖い。

 怖くない。

 ああ、もう。

 一〇秒だ。

 あと一〇秒後に速攻で動く。

 よし。

 一〇、九、八、七。六、五、四。

 三、二、一。

 ほら。

 動けた。

 

 必要以上に俊敏な動きで服を脱いだ。簡素な作りなのも手伝って一〇秒もしない内に裸になり、薄い扉の前に立つ。これを挿んだ向こう側にシャワーが有る――意識したら、足が浮き上がったかのような錯覚が走った。

 ざわざわと耳鳴りがする。

 立てない。足が攣った。苦しい。吐き気がする。いや、違う。全部気のせいだ。ただシャワーを浴びるだけじゃないか。何をそんなに怖がってるんだ。昨日みたいな事が起こる筈が無い。起こったとしても、湯船に入る訳じゃないんだから別に大丈夫だろう。

 違う。

 一番怖いのは溺れる事じゃない。何より、そういう身体になってるかも知れない事が怖いんだ。ガンを宣告される前のおじいちゃんも似たような気持ちだったのか。病気に罹ってるかも知れない、そんな可能性、今風呂に入ったらそれがはっきりしてしまう。

 無理だ。そんなの、耐えられない。高校の合格発表の時だって吐きそうだったのに。死に掛けたんだ。失敗したら、そんな大変な後遺症を抱えて生きていかなきゃならないなんて。酷い。あんまりだ。

 落ち着け。しっかりしろ。そんな風に怖がってるだけじゃどうにもならないんだ。やると決めたらやらないと。少なくとも、ガンに比べればなんて事は無い。

 

 扉を押し開けて浴室に入る。足に力が入らないので四つん這いだ。床に手を突くのは汚いと思ったけれども、何か有った時に備えるならこの方が安全で都合がいい。

 シャワーの射線に入り、そろそろと蛇口に手を伸ばしていく。覚悟は決まった。いつでも来い。心臓がどくどくと脈打つ音が聞こえる。激しい。耳まで顔が赤くなってるんじゃないか。やっぱり怖くなってきた。いや、大丈夫。きっと大丈夫だ。

 蛇口を捻る。

 背中にお湯が当たる。

 四肢に力を込める。

 耐える。

 耐える。

 ……耐える。

 耐えた。

 

 何も起こらない。

 

 やった。

 良かった。

 勝った。

 私は乗り切ったんだ。

 

「は、は、は……はぁ」

 

 緊張の糸がぷつりと切れた。

 身体のあらゆる栓が弛んで、引き攣った笑いが込み上げる。今にも地面に広がりそうな気分。腕から力を抜いたら水溜まりみたいになってしまうに違いない。それくらい脱力している。そして、そうやって心の底から安堵すると共に、先程までの自分の言動を思い返して如何にも阿呆らしくなった。

 ほら見ろ。やっぱり、何も無かったじゃないか。何が病気になってるかも知れない、だ。考えすぎにも程が有る。妄想の領域と言ってもいい。一瞬前の自分の事が今の私には理解できなかった。明らかに冷静な思考じゃないし、話が短絡的な方向に飛躍している。何か予兆が有った訳でもないのに、なんであんな事を考えたんだろう。色々と非常識な事が起こりすぎたせいでそういう事に対して盲目的になっていたのかも知れない。

 

 何だか一気に疲れた気がする。大山鳴動して鼠一匹とはこういうのを言うんだろうか。馬鹿らしい事この上無い。時間を無駄にしてしまった。何でもかんでも大事にしようとするからこうなる。失敗と言うか、失態だ。

 まさに、穴が有ったら入りたい気分だった。もう恥ずかしくて堪らない。三時間目の休み時間に間違って給食当番の白衣に着替えてしまった時に匹敵する。同じ当番の人に何のんびり友達と喋ってんのと言った時の、あの、顏。

 思い出すだけで冷や汗が出てきた。幸いなのは、今はあの時と違って自分以外の誰にも醜態を見られていないという事だろうか。私が口外しさえしなければ他の人に知られてしまう事は無い。

 よし、無かった事にしよう。

 

 黒歴史をまた一つ積み上げたところで、気を取り直して、或いは開き直ってシャワーを楽しむ事にした。シャワーが平気なら、湯船も問題無いだろう。昨夜のあれは、やっぱり湯船に入って気が弛んだ瞬間に心身の負担が一気に現れただけだったんだ。

 昨日は色々な意味で大変な一日だったから、そんな時に下手にリラックスなんてしたらそれはもう腰が抜けたっておかしくはない。その証拠に、風呂から上がってベッドに倒れ込んだ後の記憶が無いじゃないか。つまり、それだけ疲れ切っていたという事なんだと思う。

 身体の汗を悠々と流しながらそんな事を考える。さっきまでは震える程恐ろしかったのに、今は最早何とも思わない。意外に図太い神経をしているんだろうか。ただ面倒になっただけのような気もする。取り敢えず繊細じゃないというのは確かなんだろうけれども。

 

 シャンプーとボディソープを間違いつつ身を清め終えて、ついに湯船へと飛び込む瞬間がやってきた。だけど、まだお湯を張っていないので溜めながら入る。

 どぼどぼと蛇口から溢れ出る、一直線のお湯の流れ。そこに手を差し出すと叩き落とさんばかりの勢いで打ってくる。あんまり凄いので思わず道を譲ってしまった。太腿で両側から軽く挟むようにすると、くすぐったくて微妙に気持ちがいい。癖になる。

 あっという間に腰が埋まった。へそが見えなくなるのも時間の問題だろう。ここまで、何の異常も感じない。実を言うとまだ少しは不安だったんだけれども、この分なら大丈夫か。ますます、怖がっていたのが間抜けに見える思いだった。

 お湯の表面がへその上を通り過ぎて、胸の辺りにまで上がってくる。段々身体も温まってきた。そろそろ半分くらいは溜まっただろうか。あともうちょっとしたらお湯を止めてもいいかも知れない。

 そう思いながら湯船の縁に背中を預ける。心配事が無くなったのも手伝って、とても心地好い。思わず眠ってしまいそうだ。徐々に上昇する水位が遂に膝を覆い隠す。そして、それが胸に触れるか触れないかというところで――私は跳ねるように立ち上がった。

 

 なんだ。

 どうして立ち上がったんだ。

 

 身体が勝手に動いていた。反射という程シンプルな形の反応じゃない。もっと複雑で分かりにくい、何と言うかどろどろとしたものだ。敢えて言えば本能に近いけど、これはそういう動物的な性質とはまた違う気がする。

 それは嫌悪感だった。

 気持ちが悪い。生理的に受け付けないという感じがする。一瞬、身体を包む温かいお湯が粘性のヘドロへと変わったような錯覚に襲われた。今は何ともない。ただ、先程の感覚を思い返して出処の知れない寒気に苛まれている。

 何なんだ、これは。

 

 居ても立ってもいられなくなって、湯船の中から飛び出した。

 そのまま浴室を出る。肌寒ささえ気にならない。タオルで乱暴に身体を拭き、髪の毛を押さえて水気を取り除いていく。ドライヤーが無いのである程度は自然乾燥に任せるしかない。畳んで置いておいた旅人Aの服に着替え、何をするでもなく髪が乾くのを待って、その間に頭の中でぐるぐると困惑が駆け巡っていた。

 何故私は急に湯船から立ち上がったんだろう。何故私は心に安らぎを与えてくれるお湯を気持ち悪いと感じたんだろう。昨日のあれは気のせいだったって分かっていた筈なのに。

 まさか、トラウマになったのか。死に掛けたんだから、確かにそうなってもおかしくない。だけど、いくらなんでもそんな、簡単にっていうのも変だけど、ああ、どうしたらいいんだ。

 

 冷静な思考を維持できない。混乱を抑え込もうとしても次から次へと疑問が浮かんでは消えていく。そもそも、自分が何を考えているのかも分からなかった。ただ、少なくとも今この瞬間風呂に入りたくないと思っている事は確かだと言える。

 髪にタオルを当てたまま、追い立てられるように部屋へと戻った。その中は明かりが点いていながらも妙に暗くて、閉塞感が有るように見える。

 私は急に寂しくなった。

 それはすぐに目の前から消え失せたけれども、私はその感情を気の迷いだとは思えない。むしろ、そちらの方がずっと正しい気持ちなんだ。現状にとって都合が悪いというだけで。

 

 冷蔵庫の前まで歩いていって、冷えた飲み物を取り寄せる。瓶詰めにされたコーヒー牛乳だ。手の平との温度差で表面に霧が広がっていく。ひんやりとしていて気持ちがいい。こういう方向性の贅沢も悪くないと思った。

 その思考は逃避に近いものだった。

 

 

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