それは、暑い夏の日の事。
あの日の僕は、いつものように汗だくになりながら出勤していた。
森のように建ち並ぶビル群の合間を縫うように。
押し寄せる人の波に紛れ、蒸し暑い奔流の一部となってひた歩く。
喪服のような黒いスーツで身を包んでいたあの日の僕は、さながら歯車の如く回り続けた。
社会の一部となって、無感動に毎日を送り続けていた。
人間性も何もかもを捨て去ってしまったかのように、無表情に前ばかりを見つめていた。
それが、歯車の僕に求められていた唯一の事であったから。
だがある日、僕はふと思い立ったように天を仰いだ。
広がる空は、子供の頃と同じように青く澄み渡っていた。
けれど同時に、ビル群によって四角く切り取られた空に何か違和感も感じた。
果たして、空はこんなにも狭いものだっただろうか。
こんなにも窮屈そうで、息苦しいものであっただろうか。
同じだけど、違う空。
あの時のままで、けれど変わってしまった空。
この空のように、僕もいつか変わってしまうのだろうか。
すっかり四角くなってしまった空に、僕は言いようのない不安を覚えた。
……いや、むしろもう変わってしまっているかもしれない。
この四角い空のように、すっかり歯車になり果てている今の僕。
もし子供の頃の僕が見たら、どう思うだろう。
夢も希望もないこの現実に、幻滅するだろうか。
こんな大人にはなりたくないと、悲観するだろうか。
とはいえ、今となっては子供の頃の僕がどうするかなんて想像も出来なかった。
僕はもう、どこまでも自由に羽ばたける鳥ではないのだから。
今の僕は、ただの歯車。
多くの歯車に縛られ、回る事を余儀なくされている小さな欠片。
無理にでも止まろうものなら、即座に僕のような小さな歯車は吐き捨てられる。
そして新たな歯車がはめ込まれたら最後、僕の居場所はすぐにでも無くなるのだ。
———でも。
それでも、僕は羨まずにはいられなかった。
まだ美しい鳥であった子供の僕を。
夢と希望に溢れ、光り輝いていた毎日を。
笑いが満ちていた友人たちの温もりを。
そう。
僕は、羨んでいた。
そして———失望していたんだ。
代り映えしない毎日に。
思い通りにいかない人生に。
すっかり輝きを失った自分に、悲観した。
自分の生き方も満足に決められなかった僕に、価値など無いのだと。
「キャアアア!!」
刹那、耳をつんざくような女性の悲鳴。
そしてけたたましく鳴り響くブレーキ音。
瞬間、誰に言われるでもなく僕は走った。
信号無視して突っ込んできた車を見て、駆け出した。
まるで、そうするのが当然であるかのように。
失われかけた尊い小さな命を、力の限り突き飛ばした。
「……っ!!」
驚愕に目を見開く小さな子供。
自分の身に何が起きたのかすら、分かっていないようだった。
けれど、それでいい。
今まさに死にかけていただなんて理解でもすれば、きっとこの子は今後も恐怖に震える事になる。
輝かしい未来が、恐怖の記憶によって捻じ曲げられてしまいかねない。
「だから……気にするな」
たとえ、自分の代わりに誰かが死ぬ事になったとして。
それは、決して君のせいではない。
僕も、君を恨んだりはしない。
これは、他でもない僕が望んだ事。
価値の無い自分より、生きるべき命がこの世にはあるのだ。
———それは、暑い夏の日の事。
その日、一つの小さな歯車が、居場所ごと砕け散った。
———————
体中を揺さぶるような衝撃。
黒に塗りつぶされた意識が覚醒したのは、それから程なくしての事であった。
「……あ、ほら見て。
視界一杯に広がるのは、四角い空———ではなく、優しげで綺麗な女性の顔。
その隣には、遠目から暖かく見守る男性の顔もあった。
一体何事なのだろうと、体を起こそうとするも何故か動かない。
……というより、動かし方が分からなかった。
「……?」
あの衝撃のせいによるものかとも思ったが、しかし体に痛みはない。
それでも何とか自由の効かぬ腕を動かし、何となく自分の手をみた。
———そして、首を傾げた。
そこにあったのは、見慣れた自分の大きな手……ではなく。
柔らかそうで、小さな赤ん坊のような手だったのだ。
驚きのあまり腕を視界から遠ざけると、その拍子に何かが手に触れた。
同時に耳に届いた昔懐かしい音に、恐る恐る顔を音のした方向へ向ける。
そこにあったのは、細い柄が差さっている円柱状の大きな物体。
自分の手よりもはるかに大きなそれに、僕は既視感を感じていた。
だが、果たしてこんなに「これ」は大きかっただろうか。
半信半疑でもう一度触れてみると、やはり昔懐かしい音がガラガラと鳴った。
「
「けど、髪はママ似だ。綺麗で柔らかくて、ちょっと羨ましいな」
「もう、パパったら自分の子供に嫉妬してどうするのよ」
楽し気に笑いあう女性と男性。
事あるごとに出てくる
やがて優しげな二人分の視線を向けられた時、僕は理解し、学んだ。
この世に、転生というものが存在していた事を。