その日の夜。
それは、宿題を終えて、蛍とともにゲームをする準備をしていた最中の出来事。
突然居間へと呼ばれた僕と蛍は、親から引っ越しの予定を打ち明けられた。
同時に、父さんからは済まなそうに頭を下げられながら。
子供にとって、生活環境の変化は相当なストレスとなる。
だから頭を下げる父さんの気持ちも、分からなくはない。
とはいえ僕としては丁度中学に上がる前だった事もあり、正直気にしてはいなかった。
それに仕事の都合である以上、言ってしまえばこれは仕方の無い事。
誰にも責任なんてものはなく、父さんに不平不満を言ったところでどうしようもない。
そんなわけで、僕は二つ返事で了承した……のだが。
残念ながら、蛍は違った。
普段は父さんや母さんに甘えてばかりな彼女も、引っ越しと聞いてちょっとした癇癪を起した。
「なんで引っ越さなきゃいけないの?私、友達と離れ離れなんてヤダ!」
「蛍……わかってくれ。仕事なんだ」
「お願い蛍、分かってちょうだい。蛍は、パパと別々で暮らす事になってもいいの?」
「そんなのヤダ!パパと一緒じゃなきゃヤダ!でも友達とも離れたくないの!」
駄々をこねる娘に、父さんも母さんも嘆息した。
それもそうだろう。
小学5年ともなれば、友達との長きに渡る交友関係もピークに達し、今が一番楽しい時期だ。
そんな友人たちと別れなければならないと聞いて、納得できる子など居るわけがない。
とはいえ、だからといって引っ越しをやめますというわけにもいかない。
いずれはその別れを乗り越えてもらわなければならず、寂しさも我慢してもらうしかない。
離別という一時の悲しみさえ乗り越えられれば、後は時間が解決してくれるはずだから。
「蛍、本当に悪いと思ってる。だがな……」
「———知らない知らない!引っ越しなんて知らない!」
「ちょっと、蛍!!」
しかしその夜、ついに蛍が父さんの話に納得する事は無かった。
瞳に涙を湛え、逃げ去るように部屋へと駆け込んでしまった娘を、父さんも母さんも引き留める事は出来なかった。
どこまでも平行線な話し合い。
結局、娘への説得は翌日に持ち越される事となった。
お互い、一度頭を冷やして冷静になる必要があると考えての事だ。
ところが、その翌朝。
窓から朝日が差し込む時分になっても、蛍は自分の部屋から出てこない。
朝食の時間となり彼女の名を呼んでも、返答はまったく返ってこない。
一向に居間へ姿を現さない娘に、父さんと母さんは目に見えて狼狽した。
「パパ、どうするの……?このままあの子が非行に走ったら、私……!」
「お、落ち着きなさい。そんな事にはならないから」
正直、あの甘えん坊な蛍が非行に走る光景など想像出来ない。
あんなに両親を溺愛している子が、親不孝な行動をとれるわけがない。
とはいえ、それでも両親は真剣に悩み、娘への対応に苦慮していた。
このように苦労している理由は色々考えられるが、その大きな原因には恐らく僕という存在がある。
というのも、僕は傍目から見れば一介の男子中学生(正確にはまだ小学生)で、普通ならそろそろ反抗期に入る頃。
だが思春期も反抗期も既に終えている僕は、今時の子供特有の親への反抗や我儘というのをまともにした事がない。
教科書やノート以外何もない僕の部屋を見れば、これまで僕がどれだけ無欲で従順だったかが分かる事だろう。
勿論、父さんや母さんが僕に何かを買ってくれようとしたことはあったが、基本的にそれらは全て断ってきた。
他人の金を使って自分の欲を満たす事に、抵抗を覚えていたのだ。
つまり、父さんも母さんも、一般家庭の父母と比較すると育児に対する経験値が不足している。
僕がバカみたいに利口過ぎたがために、こういう不測の事態への対処を彼らは経験した事がない。
僕という冷水にも近いぬるま湯をなまじ経験してしまっているがゆえに、彼らは娘の熱湯の如き反応に驚くばかりなのだ。
冷水を浴びてからの熱湯というのは、ただ熱湯を被るだけよりも余計熱く感じるものである。
「……父さん、母さん。ちょっと蛍の部屋行ってくるね」
「ま、雅人!待ちなさい、今は……」
「別に、まだ寝てるだけかもしれないし。それに大丈夫、あいつには僕を突き放すなんて事はできないから」
不安そうな母さんの声には聞こえないフリをして、そそくさと蛍の部屋へと足を進める。
このままこうして手をこまねいていたところで、何も解決などしない。
あちらから足を踏み出さないなら、こちらから足を踏み出すしかないのだ。
「あー、蛍?部屋、入るぞ?」
蛍の部屋の戸に鍵はない。
押せば容易く開くだろうが、それでも一応ノックしてから静かに戸を開く。
そして恐る恐る顔だけで部屋を覗くと、そこにはベッドで静かな寝息を立てている蛍の姿。
どうやら、我儘を通すために姿を現さなかったわけではなさそうだ。
「おーい、蛍。いつまで寝てるんだ」
ベッド脇に置かれていた目覚まし時計は、既に一仕事を終え鳴りを潜めている。
いつもならちゃんと起きられているのに、今日に限って珍しく二度寝してしまったようだ。
気持ちよさそうに寝ている彼女を起こすのは気が引けるが、このままにしておくと母さんが極度の不安から倒れかねない。
意を決し、掛け布団からはみ出していた肩に手を掛けようとして———気づいた。
「アルバム?」
枕元に置いてあったのは、小さな冊子のアルバム。
その内の1ページが開かれており、そこには一枚の写真が貼られていた。
それは学校の友人達と思しき、仲睦まじそうな4人組の写真。
楽しそうに笑う彼女たちに混じり、写真の中の蛍もまた楽しげに笑っている。
「……」
きっと、夜遅くまで見ていたのだろう。
寂しさを紛らわすように、懐かしい想い出に浸っていたのかもしれない。
開きっぱなしだったアルバムを手に取り、僕はそっと本棚にしまった。
「蛍。ほら、起きろって」
「んぅー?おにいちゃん……?」
寝ぼけ眼をこすりつつ、目を覚ました蛍はむくりと上体を起こす。
そしてベッドの前で立つ僕と視線が合う事、十秒。
やがて府抜けたようにへにゃりと笑ってみせた妹に、僕はあからさまに脱力した。
「本当に、お前ってやつは……」
「え、え?お兄ちゃん?」
この様子だと、昨日の言い争いも癇癪も既に忘れているのだろう。
昨晩とは打って変わってすっかり機嫌の良い妹を前にして、僕は本題に移るべきか迷った。
きっとここで引っ越しの話題を出せば、また蛍の機嫌は急転直下で急落する。
こんな朝早くから、寝起きの妹の機嫌を損ねるのも気が引けて。
だがそれでも、引っ越しの話は機嫌を損ねるからと逃げていいような話でもなくて。
何度かの逡巡をしたのち、ついに僕は覚悟を決めた。
「蛍、引っ越しの話だけど……」
引っ越しという単語に、一瞬蛍は目を見開く。
そして、僅かに顔を曇らせるが———
「私なら大丈夫だよ、お兄ちゃん」
次の瞬間にはすべて吹っ切れたかのように笑ってみせた。
「そっか、それなら———え?」
結論から言うと、存外蛍は強い子であったようだった。
というより、彼女のその強さは時代によって生じたものでもあった。
高度情報通信が進んだこの現代において、今やスマホは全世界規模で普及を遂げている。
ここ日本でも超常的なスピードで一般化が進み、小学生までもが一人一台スマートフォンを持っている時代だ。
そのスマホさえあれば、いつでもどこでも連絡が取れる。
たとえ沖縄と北海道間であろうが、お互いの連絡先さえ知っていればすぐにでも相手の声が聴ける。
実際の距離とは別に、人と人との距離がかなり近づいてきている現代。
ゆえに今の時代、物理的な離別というのはたいして意味を成さない事も多い。
それは、小学生だというのにスマホを持たされていた蛍も例外ではなかった。
「友達の連絡先を聞いたの。これなら、いつでも話ができるよね?だから私は大丈夫だよ」
「あ、うん……そうだね」
「それより、新しい学校が楽しみ!ねぇお兄ちゃん、新しい学校でも友達出来るかな」
楽しそうに部屋で引っ越しの準備をし始めた蛍に、もはや寂しげな様子など微塵も無くて。
一体これまでの葛藤や父母の苦慮はなんだったのかと、なんとも言えない心地で蛍を見やった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「……とりあえず、準備する前に父さんと母さんに謝ってこい。昨日の事、忘れてないわけじゃないだろ」
「あっ、そうだった!パパー、ママー!!」
—————
3月の末。
僕達はついに住み慣れた家を手放し、新天地へと引っ越した。
このころには、蛍の新しい環境に対する期待値もピークに達していて。
引っ越し先への移動中、都会の風景が徐々に田舎のそれへと移り行く車窓に、蛍は目を輝かせた。
勿論それは、僕もまた同様で。
そして遂に目的地に到着して車を降りたとき、僕は目の前に広がる光景に言葉を失った。
僕ら一条家の引っ越し先は、予想の範疇を超えた自然溢れるド田舎だったのだ。
「うわぁ……!」
あたり一面を覆う、青々とした広大な田んぼ。
見渡しても所々にしか点在しない民家。
その背景を彩る、山々を始めとした大自然。
人の手が付けられていない天然の巨大な風景画に圧倒されていると、ちょいちょいと肩を叩かれた。
「ねぇお兄ちゃん、凄いよ。一軒家だって。しかも二階建て!」
「ん?あぁ……」
庭付き一戸建ての家。
ペチという名の犬が一頭居る一条家にとって、庭があるのは正直ありがたい。
とはいえ、きっとこのような田舎の土地でなければ手も出せないほど高価だった事だろう。
そのように子供らしくもなく勘ぐってしまうほど、それは見惚れるような小奇麗な家であった。
また、この家は周囲に点在する古き良き日本家屋とは違い、モダンな様相を呈していた。
特に玄関に設置されているカメラ付きインターフォンなんて、まさに「今風」。
なんというか、昭和の世界に一人平成から来た人間が紛れ込んでいるような違和感を感じる。
「雅人、蛍!ちょっと荷物の整理を手伝ってくれ!」
「はーい!行こう、お兄ちゃん」
どうやら、既に家屋の中には引っ越し業者によって荷物が運び込まれていたようで。
父さんからの応援要請に、僕は妹に腕を引かれるがまま我が家に足を踏み入れた。