少女のささやかな願いが世界に否定された聖なる夜。
時空航行艦アースラの艦橋、中空に映し出されるメインモニタを息を呑んで誰もが見守っていた。
第一級ロストロギア、発展しすぎた文明が残したとされる遺産。
厳重に管理、封印されてしかるべきもの。
その一つである闇の書の暴走がモニターのさき、第九十七管理外世界で姿を表した。
幾多の悲劇を生み出してきた力は銀色の髪の天使になり海鳴市の空に浮かんでいる。
民間人の被害を抑えるために空間固定結界を施すように指示は出していたが、それ以外に出来る事はなくアースラの艦長であるリンディはモニターを睨みつけていた。
輪廻転生を繰り返し、大破壊の爪痕だけを残していく闇の書、前回の被害者の中にはリンディの夫であるクライドがいた。
現在の闇の書の主に思うところが全くないとは言えないが、彼等を含めた犠牲者を極力出さずに闇の書を封印する事こそが、伴侶として管理局員として尊敬していたクライドの無念を晴らすことになるであろうと信じている。
モニタの中で黄色の魔力光が弾ける。
紫光の闇の書の周りを旋回し幾度と無く接触しては弾かれていた。
常駐戦闘員が息子であるクロノ・ハラオウンしかいない現状、闇の書の拘束は、嘱託魔導師であるフェイト・テスタロッサに頼りきっている。
発動後すぐに闇の書を発見できたことは幸運であった。
もともと、アースラスタッフが魔導師襲撃事件と闇の書の捜索のために第九十七管理外世界近辺に艦を駐在させていたこと、仲間割れのためか闇の書起動後の攻撃がリンカーコア収集の協力者である仮面の男たちに集中していたこと、これら二つの要素が合わさり海鳴市には被害が出ていない。
正式に養子になるのはまだ先のことだが、既に寝食を共にした少女の戦いを歯を食いしばり観戦するしかなかった。
クロノは仮面の男達を拘束後、事件の真相、解決方法を求め奔走している。
仮面の男達攻撃対象を見失った闇の書がその牙を周りに向けないようにフェイトは囮になりクロノが戻るまでの時間を稼いでいた。
歯がゆい思いがリンディの胸をよぎる。
アースラの艦長である彼女に出来る事は少ない。
彼女に出来る事、思いつくことには全て犠牲がつきまとってしまう。
アースラには対闇の書用に搭載された魔導砲アルカンシェルがあったが、それの使用には甚大な被害が避けられないため一児のいや、二児の母になる身として絶対に使ってはならない。
なればこそ、今彼女は事態が動いた時にどんな対応でも出来るように心を落ち着かせなければいけない。
長期戦になることを見越して、スタッフの一人に全員分の飲み物を持ってくるように指示を出した。
「あの先生、いい加減お座りになったらいかがですか? スタッフの皆も緊張していますので、大人しくしていてください」
視界の端、モニタ近くにチラチラと入り込む影に文句をつける。
複数の画面とスケッチブックの間、視線を交互に動かしていた男がようやくペンを置きリンディに不満たっぷりの瞳を向けてくる。
風変わりな卵の殻にも見えるヘアバンドを巻いたこの男は現地協力者の一人としてアースラに招集されていた。
非魔導師である彼が何の役に立つのかは甚だ疑問だが、リンディ自らがたっての願いで招き入れた人物だ――いつお願いに出向いたのか、記憶は曖昧なのだが。
こちらからお願いしている立場なのであまり強気に出るのもどうかと思い、機嫌伺いに彼の分の飲み物も用意させる。
部下から湯呑みを受け取った時に忠告を無視した男がオペレーターであるエイミィの視界を遮っていモニタを覗きこんでいるのが目に入る。
「大変です、艦長! 結界内に民間人の反応が複数あります」
エイミィは焦燥をあらわにモニタに光点を表示させる。
思わず力が入ってしまったのだろうか、分厚い湯呑みが砕け散り、持ってきた部下を驚かせリンディの制服に緑色の染みが広がった。
●
少女にとっての聖夜の始まりは終業式の後に、兄姉や幼馴染の男の子にフェレットのままの相棒、戦いの中で心を通い合わせて親友となった金色の髪の女の子と一緒に我が家で開いたクリスマスパーティーだった。
高町なのはが助力する一連の事件には一向に解決の糸口は見つからなかったが、かと言って日常を疎かにするわけにはいかない。
パティシエである母があらかじめ作っておいてくれたクリスマスケーキを皆で囲み、軽めの食事でキリストの誕生日を祝う。
もっとも、彼女たちの年齢、国籍、住んでいる地域を考えるとただ単にクリスマスという日を祝っているだけなのだろうが。
軽食をつまみながらのお喋りで会は過ぎていった。
途中、幼馴染の真が椅子に蹴つまずき、飲み物をなのはにぶち撒け服を着替えることになったが、それも含めて楽しい時間だった。
終わりには真がなのはとフェイトに髪飾りをプレゼントしてくれた。
クリスマスの習慣がない世界で生きてきたフェイトに、プレゼントを贈るよりもまだ受け取ることだけしか知らない年頃のなのは。
贈り物を用意していないことを理由に受け取りを遠慮しようとしたが、笑って気にするなと押し付けてくれた。
小さいが女性らしくお洒落に興味が無いわけではない二人は礼を言い、それを手の中で弄ぶ。
幼馴染のこういった卒のないところになのは好感を持ち、時に羨ましく思う。
姉の美由希はわかりやすく囃し立て、少女二人の顔を赤く染めた。
少々、しつこい姉に注意しようと思ったのだが、物欲しそうになのはの手の中の髪飾りに視線をくれていることに気付き、言葉を飲み込んだ。
なのはの知る限り姉は家族以外の異性から贈り物をもらったことも、したこともない。
日が落ちる前に会が終わり、この後は皆それぞれの家族のもとで聖夜を祝うことになる。
ただ一人、兄、恭也は綺麗に包装された袋を手に最近出来た恋人と過ごす予定だった。
玄関を出ようとする恭也の脚に縋りつき妨害する美由希は冗談めかしていたが、兄の額に流れる冬場の汗から考えると、本気だったのかもしれない。
どうにか、姉を振りほどき走って行く兄の背中と怨嗟の言葉を残す姉を眺めながら、こうはなるまいと、なのはは若干失礼な想いを胸にいだいた。
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始まりはアースラからの緊急連絡をユーノが受けたこと。
母に断りを入れ、すぐにアースラ内部に転送してもらう。
リンディの迅速な説明、既に状況は導火線に火がついている。
闇の書、守護騎士、それらの説明は事前になされていたが、どこか楽天的に考えていたのかもしれない。
隣にいるフェイトと頷き合い出撃するべく、胸元の待機状態のデバイスに手を伸ばす。
伸ばした指、なのはの手が宙を迷う。
この時になってはじめて、なのははレイジングハートが失くなっている事に気付いた。
動揺する少女を残して、使い魔のアルフとともにフェイトは海鳴の夜空に飛んで行く。
なのはは不思議そうにこちらを見やるフェレットに事情を説明した。
「わかった、なのははここで待機していて。デバイスがない君よりも、僕のほうが早くなのはの家に戻れる。必ず見つけてくるから、それまで早まった真似はしないでね」
なのはに念を押しユーノは転送の魔法陣の中に消える。
モニターに映るフェイトと闇の書の戦い。
それに参加できない自分の不甲斐なさを噛みしめる。
事件に巻き込まれた、少女には力があった、だから戦ってきた。
必要とされてきた事が、魔力を持っていた事が、自分の戦う理由であると勘違いしていたことにこの時になりようやく気付けた。
自分は巻き込まれたのではない、常に自分の意志で歩いてきたのだ。
「あの! 予備のデバイスはありませんか?」
なのはの決意はやんわりと否定される。
リンディは初めてのデバイスで出撃することの無謀と、インテリジェントデバイスであるレイジングハートとストレージデバイスの性能差を教えてくれた。
意気消沈するなのは。
「ああ、君が高町なのはかい? ふむ、焦る気持ちはわかるが、これでも飲んで、少し落ち着きな」
彼は初めて見る顔だった。
少女にコップを差し出す青年は独特の着こなしをしており、アースラの制服を着用していないので立場が分らず、戸惑ってしまう。
緊迫した状況下で何が楽しいのかニヤニヤと笑いながら、受け取ったなのはの反応を伺っている。
「あ、ありがとうございます。……あの、これって」
口腔内に拡がる慣れ親しんだ苦味と過剰なまでの砂糖の甘味。
突然のことで飲みきれなかった真緑の液体が口の端から少し噴き出している。
「ん、やっぱり飲めたもんじゃないな。いや、異世界の人間がくれたものだから味見してみようと思ったんだが、薫りや色味からどう考えても抹茶にしか見えないんだよ。それにあの艦長が砂糖を幾つにするか尋ねてきたもんだから、あなたと一緒で構わないと言ったら角砂糖を信じられない量、溶かしやがった。世界的に見れば緑茶に砂糖を入れる民族のほうが多いんだが、さすがにそんなものを飲むほど僕の味覚はいかれていないんでね。――なんだよ、睨むなよ、笑顔でいないと僕が悪口を言っているとこっちを見ている艦長に気づかれるだろ。ほら、早く笑えよ」
ハンカチで口元を拭うなのはにかなり図々しい要望を突きつけてくる名も知らぬ男。
呆れたようにこちらに視線をくれるリンディに男は笑顔で手を振っている。
彼の我儘になのはの気勢が削がれたのか、焦燥が鳴りを潜めた。
●
なのは達が観戦する二人の戦いは闇の書にその天秤を傾け始める。
高速機動で大出力の魔力砲を乱射する闇の書を翻弄するフェイトであったが、結界内で発見された民間人を庇うために防壁をはりその足を止める。
彼等は複数人いるために彼女とアルフだけでは手が足りない。
囮の役割をこなせずにその閃光を受け止めるフェイト、彼女の魔力量では闇の書の相手にはならない。
フェイトの苦悶の声になのはは強く拳を握りこむ。
もはや、一刻の猶予もない。
初めて使用するデバイスであろうとアルフと協力して民間人を逃がすことくらいは出来るかもしれない。
なのはが提案しようとした時に何か紙切れのようなものがサーチャーがを遮り、モニタを黒く染める。
一瞬、頭頂部の禿げ上がった初老の男性の顔が映り込んだ気がしたが、気にするまもなく事態が動く。
闇の書の手のひらから透明の魔力球が大きく波紋のように全方位へ広がっていく。
民間人を守るため、その身を晒しぼろぼろになった親友の少女は息が上がっているのか、その波紋から逃れられない。
『フェ、フェイト、逃げて! 早く!』
使い魔の悲痛な叫びとなのはの届かない悲鳴の甲斐もなく、球体に触れたフェイトは光に分解され消えてしまった。
主のために咆哮を上げ突撃するアルフ。
「――大丈夫、フェイトちゃんのバイタルはまだ健在だよ! 闇の書の内部空間に閉じ込められているみたい」
オペレーターのエイミィの説明になのははほっと胸をなでおろす。
『って、そういう! 事は! もっと早く! 言っておくれよ!』
無謀にも特攻を試みた狼の使い魔は闇の書の砲撃対象になったために、無数の魔力弾を器用によけながら青い顔で抗議を叫ぶ。
『あはは、ご、ごめんね。でももうひとつ朗報があるからそれで許して。通信が入ったよ、クロノくんが海鳴に帰還したってね!』
『ユーノです! なのはレイジングハートが見つかったよ! 今、真と一緒にアースラに戻るから』
左右のモニタにはそれぞれ、執務官であるクロノ、人間型に戻ったユーノと幼馴染の男の子の顔が映っている。
――さぁ、反撃の時間だ。
フェイトを助けるべくなのははアースラの転送室に走った。
●
これは夢なのだと少女は理解した。
とてもやさしくて穏やかで、だからこそすぐに現実でないことに気づく。
自分と同じ金色の髪を青いリボンで結った『姉』に、いなくなってしまったはずの『母』と楽しい食卓を囲む。
ついには一度もフェイトに微笑みかけてくれることのなかった母が笑顔で料理を取り分けてくれた。
彼女の身代わりとして作られたのに、その役割すら全うできなかったフェイトをアリシアは妹だと言ってくれる。
嬉しかった、だから涙が頬をつたい、拭っても拭っても枯れることはない。
頬いっぱいにプレシアの手料理を咀嚼し、くしゃくしゃになった自分の笑顔では心配する『家族』を安心させることは出来なかった。
やりたいことは沢山あった、手をつないで道を歩いたり、掃除をする母の後ろを姉と一緒に手伝って回ったり、夜ベッドの中で母の腕に抱かれて眠ること。
そんな当たり前のことをフェイトは噛み締め享受していく。
だが、時間は限られている。
だから最後にすることだけは、しなければいけないことだけは、最初に決めていた。
「――お母さん、愛されてあげられなくてごめんね。そして私を生み出してくれてありがとう」
母の望みに応えられなかったことへの謝罪、そして一縷の愛さえ与えられなかった自分がたった一つだけ、そう、たった一つだけ感謝しても許されること。
その正当な一つをプレシアとの絆として、母への想いを言葉に込める。
それを受け取った母は困ったように微笑み光となって掻き消えた。
いつの間にか景色は無くなり、どこまでも暗闇の続く場所にフェイトは立っている。
光源は見当たらないのにフェイトと対峙するように立つアリシアの姿は明瞭であった。
共に過ごした時間がない、いや面識すらない彼女に残していく言葉が見つからない。
「フェイトはいま、幸せ?」
そんなフェイトを見かねたのか自分よりも背の低い姉が歩み寄ってくる。
アリシアの質問を己の中で噛み砕き答えを探すのだが、真摯であろうとするほどにフェイトには自分が幸せであるのかがわからない。
「あぁ、ごめんね。フェイトを困らせるつもりなんかじゃなかったんだよ。えっと、じゃあ、もっと簡単な質問。海鳴の町は好き?」
この質問になら答えられる、フェイトは誇らしげにささやかな自慢をする。
「うん、まだわからないけど、大好きな人達の、大切な友達の暮らす町だから、これから好きになっていけると思う!」
海鳴に来て数ヶ月、まだまだ歩いたことのない道は沢山あるし、出会っていない人たちはいっぱいいる。
それでも、なのはの暮らしてきたこの町を、家族になるかもしれないリンディやクロノとの思い出が作られていくこの町をきっと好きになれる。
「そっか、じゃあもうこの場所は必要ないよね、外にあなたが幸福になれる居場所があるのなら。――そうだ、私はフェイトのお姉さんだから、フェイトの暮らすこの街を守ってあげるね。フェイトは私の妹なんだから、私やお母さんに気兼ねしないで絶対に幸せにならなくちゃダメだよ!」
姉の決別の言葉、泣きそうになるフェイトを強く抱きしめてくれる。
姉の背はフェイトよりも低いため胸に押し付けるように右手で頭を抱え込んでいた。
奇跡のなのか、幻なのかはわからない。
だが、フェイトの姉は暖かい幻想の中に彼女を引き止めることなく、送り出そうとしてくれた。
フェイトは優しい姉の見送りの言葉に頷く。
いつの間にか姉とお揃いだったはずの服は戦うためのバリアジャケットに、その左手には母から与えられたインテリジェントデバイスが握られていた。
バルディッシュ、と相棒の名を呼ぶ。
慣れ親しんだ彼との応答、雷の大鎌になったバルディッシュで空間の出口をつくろうとしたフェイトをアリシアが慌てて制止する。
「ちょっと待って、フェイト! 悪いんだけど隣の部屋で遊んでいる子たちも連れてってあげてくれるかな。多分あなたと一緒にこっちに来ちゃったんだと思うけど」
アリシアの指差す方には先程まではなかったはずの扉が佇んでいた。
壁すらない影の中、白い扉だけが存在を密やかに主張する。
フェイトがいる場所はおそらく闇の書の内部、他にも取り込まれた人間がいるのならば、
救出しなければ。
「私もいかなきゃいけないところがあるから、これで本当にお別れだね。ばいばい、フェイト」
そういってこちらもいつの間に出来たのか黒い扉に手をかけるアリシアを振りかえり、感謝の言葉を残す。
「その、あえて嬉しかったよ。ありがとう――『姉さん』」
見送ってくれた姉が、フェイトの作り出した都合のいい虚像なのかそれとも聖なる夜の奇跡なのかはわからない。
ただ、彼女と過ごした嬉しかった思い出だけを胸の中に秘め少女は一歩踏み出した。
●
木々の溢れる緑の世界。
フェイトがくぐった扉の先にあったのは、日が沈みかけた夕暮れ、ちょうど自然と人の暮らす町の境目だった。
森の入口に寄り添い立つ二つの人影。
彼らが姉の話していた取り込まれた要救助者だろうか。
確認を取るために数歩近づいたフェイトは見覚えのある彼らの顔に息を呑む。
片方はフェイトの通う学校のクラスメートであり、使い魔のアルフ曰く、アースラ襲撃事件の折、少女を助けてくれた少年。
フェイトは特に気にはならなかったが、なのはによるとこの世界でもかなり珍しい頭部を前面に押し出した奇異な髪型からすぐに彼だとわかった。
事件の際に仮面で顔を隠していた彼を気遣い、顔を隠していた事情を考え人目を忍んで彼等二人に礼を告げたのだが首を傾げられてしまった。
もしやアルフの勘違いか、まったく覚えがないと言った様子の二人。
とぼけているようにも見えず、闇の書事件が忙しくなり時間が流れてしまった。
そして彼の胸に頭を押し付けすすり泣いている普段着のミニスカートの女性。
後ろに括った桃色の髪の束と凛々しく切れ上がった瞳がどうしたことか今は垂れ下がっている。
闇の書事件の重要な参考人、守護騎士のシグナムだ。
仗助は身長で勝る彼女の頭を先ほどのアリシアとフェイトのように自分の胸に押し付け慰めている。
「シグナムさん、しょうがないよ。これが最良の選択だったんだ、もう『コイツ』を自然に返してやろう」
そう言って彼が向ける視線の先、シグナムの足下にはキャリーケースが置かれている。
ケース入り口の檻に黒く光る獣の瞳が覗いている。
シグナムは闇の書の収集をめぐり交戦したフェイトが視界の中に入ってもまるで反応を返さない。
おそらくフェイトが過ごしたあの家が本物でなかったのと同様にこの場所や彼女も闇の書によって作られたものなのだろう。
その証拠に仗助はフェイトに気づくと犬を追いやるように、下に向けた手の平をしっしと振って応えてくれた。
フェイトの思いが反映されたのがあの世界ならば、この場所は彼にとってなにか意味のあるものなのだろう。
当事者である彼等の元から数歩遠ざかりちょこんと体育座りをするフェイト。
少女は逸る気持ちを隠し成り行きを見守ることにした。
ようやく泣き止んだシグナムは決意を込めた眼差しをケースに向け、檻をひらく。
彼女は中から飛び出してきた獣の首輪を外した。
シグナムの靴に頭を擦り付けてくるそれを泣き顔で叱りつけ森に帰す。
森への歩みの途中、何度も繰り返し振り返る獣を何度も檄を飛ばし、ようやくそれが視界から消えた時にシグナムは崩れ落ちる。
彼女の肩を支え、芝居がかった決意の言葉を少年は発した。
「シグナムさん、これでよかったんだよ。アイツも人に飼われるより自然の中で暮らす方がいいに決まってる。これからは僕達だけでアイツの分も楽しく暮らしていこう。ほら、八神の家でシャマルさんもザフィーラも待っている、早く帰ろう」
彼の言葉に頬を染めるシグナムは偽者だと知っていても違和感が拭えない。
抱きしめ合う二人、空にある夕陽の隣には『fin』の文字が物理法則を無視して輝いている。
それをただポケーっとしてフェイトは眺めていた。
たまに、あの獣はなんという種類だったのかなど瑣末な疑問があがるのみ。
空中に浮かんだ文字が空に紛れると同時に世界がぼやけ始める。
森の木々を始めとした風景が霧散し、ただポッカリと闇だけが残った。
残されたのは少年とフェイト、これでようやくこの闇の書の世界から脱出できる。
フェイトが彼の手を取り世界を破壊しようとした時にそのか細い声が耳に届く。
『――テスタロッサ、頼む、私の、言葉を』
とぎれとぎれに聞こえてくる言葉はどこから。
辺りを見回せば、先ほどまで少年がいた場所に僅かな光が集合し人の姿を形作っていく。
現れたのはシグナム、それも普段着でなくフェイトの見慣れた甲冑姿。
『ここに存在した私の似姿。それにバラバラになった私のコアの一部を紛れ込ませることが出来た。すまないテスタロッサ、こんなことを頼めた義理じゃないことはわかっている』
幻ではなく確かに意思の宿った瞳がフェイトに懇願する。
魔導師と騎士として戦った時に受けた気迫とは違い、淡い光を放つ姿は今にもなくなってしまいそうな頼りないものだった。
『主を、救ってくれ。もはや今の私には、ただ消えていく私達には何も出来ないのだ。テスタロッサ、頼む』
彼女の望みはたったそれだけ。
彼女の騎士としての誇り高さを知るフェイトだからこそ、敵であったフェイトに頼み事をする筋違いを抑えこんで縋りつくこと、その行為がどれほどの苦渋の上のことか理解できた。
もとより無駄な犠牲者を出す気はない、それにただのプログラムではなく心を持つ彼女がここまで大切にする闇の書の主が悪人とは思えなかった。
フェイトが了承の意を伝えるために頷くと、シグナムは微笑んで闇に溶けていく。
無駄なこととわかっていながらも、消えていく彼女を助けようとフェイトは手を伸ばしてしまった。
――ただ、フェイトの伸ばしたそれよりも先に、少女よりすこしばかり大きな手のひらが守護騎士の腕を掴んだ。
●
闇の世界、吸収する壁はないはずなのに中心に立つ三人の周りには音がない。
疑問符を浮かべ沈黙するフェイト、彼女の瞳の先には手足を動かし体調を確かめるシグナムの姿があった。
残された最後の機会を消費し、覚悟を持って消えていくはずだった彼女は、確りとした重量感を伴った現実を持ってそこに存在していた。
「で、仗助。お前は何をしたのだ?」
確認が終わったシグナムは簡潔に閉じられた世界にいる最後の一人を厳しく問い詰める。
「えっと、あれ、シグナムさん。いつの間にこんな所に! 僕も閉じ込められてしまって途方に暮れていたところなんだけど」
「――で、仗助。バラバラになった筈の私のコアが完全に修復され、管制人格の支配から独立しているわけだが。お前は! 私に! 何をしたんだ?」
今はじめてシグナムに気付いたといったていの仗助。
とぼけているとわかるようにしか見えないとぼけ方をする少年におなじ質問を投げるシグナムの額には青筋が浮かんでいる。
少年は助けを求めてかフェイトの顔を見るが、何に困っているのかわからないので少女は手が出せない。
シグナムを一瞬にして現在の状態に戻すことはフェイトには出来ない、ならばこの場所にいるもう一人の仕業であると考えるのは自然なことだった。
だが、それを隠すのはなぜなのだろうか、それがわからないので助け舟の一つも漕いでやることがはばかられる。
だからシグナムの追求から彼を逃したのはフェイトではない。
「って、何だ、この影! 冷たい! 敵のスタンドか!」
彼を切り離したのは地面から這い出てきた質量のない影。
無数の手となり仗助の身体に巻きつき壁の中に吸い込む。
突然の事態に動揺し、バルディッシュを振り上げた頃には彼の姿は跡形もなくなっていた。
『――主は大変お怒りです。彼には少々お仕置きを受けて頂きます』
空間に響いた声は、フェイトが外で戦っていた闇の書の管制人格のものだった。
彼を助けなければと焦るフェイトを手で制するシグナム。
「今は闇の書の暴走を止めることが先決だ! ――それにさすがに主のあの配役はない。あれは怒って当然だ」
頭痛を堪えるように頭を抱える仕草をしたシグナムは手に持っている首輪を地面に捨てる。
事態の飲み込めないフェイトは首輪に付いているネームプレートを読んだ。
――そういえば疑問に思っていたあの獣の正体を思い出した。
学校からの帰り道に友人と遭遇したことのある可愛らしい丸く膨らんだしっぽにつぶらな瞳を憶えている。
確か『狸』だとなのはは教えてくれた。
都会には生息しておらず、海鳴では見ることが出来たのは珍しいと彼女が喜んでいたのが印象的だった。
転がった名札には丸文字で平仮名三つ『は・や・て』と綴ってあった。
ちなみに仗助が消えた後の空間に、これまたいつの間にか白い扉が存在を主張していた。
アリシアの『あの子達』という言葉を思い出し、まだ要救助者がいるはずと、扉をそっと開き中を覗く。
そこにあった光景にフェイトは既視感を憶えた。
フェイトを助けてくれたもう一人の少年。
刈り上げた両横にてっぺんのパンチパーマが特徴的なクラスメートの男の子。
彼が抱くのはすすり泣いている守護騎士の一人シャマル。
そしてやはり足下に存在するキャリーケース。
役者こそ変わっているが、演目は先程と同じもの。
ただ仗助の時のような森ではなくフェイトの知らない建物の前だった。
「って、この影は何だ! 冷てえ! ってか、すっげー痛いぞ!」
億泰を拘束する影は仗助のものより心なしか強く大きいものに変わっている気がした。
フェイトが駆けつけるより早く闇に飲み込まれる少年。
助けられなかったことを悔いるフェイトにシグナムの溜息が聞こえる。
「ああ、先程も言ったが、まずはこの空間を脱出することにしよう。大丈夫だ、アイツも主の友人にそうひどい事はすまい。仗助達の救出はその後だ。――ところでテスタロッサ、この施設はどういった目的のものなんだ?」
シグナムの変な落ち着き具合に肩透かしを食らったのかフェイトの熱も冷めてしまった。
ただ、彼女の疑問に此方の世界にはまだあまり詳しくないフェイトは答えることが出来ない。
フェイトの雷光の鎌とシグナムの炎の連結刃が空間を切り裂き脱出口をこじ開けた。
飛び出していくフェイトの頭の片隅にどうでもいいしこりが残る。
――『海鳴市保健所』とはあの小さな『狸』とどのように関係する施設なのかと。