――あぁ、またこれだ。
最近寝ると必ず見る夢。どろどろの黒い空間にただ佇むだけ。夢だと理解できるけど、何もする気になれない。この夢の空間は今の俺にとってあまりにも心地よくて、ただ溶けていくのを待つことが至福なのだ。
けれど、所詮それが叶わないことも知っている。所詮夢なんて睡眠中の記憶整理の産物なのだ。数時間で醒める儚い空間だ。記憶整理の産物がいつもこの夢なら、きっとこれが俺の見ている世界なのだ。これが俺の本質なのだ。なんて腐った人間だろうか。
きっと俺は一生変わらない。これからも勝手に人に期待して、勝手に人を傷つけて、勝手に自分が傷つくのだ。
そうなるなら俺は……。
そこで、意識はゆっくりと浮上した。
***
ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井。少し遅れて部屋のベッドで目覚めたことを認識した。身体を起こすと軽い眩暈を覚える。最近いつもこうだ。休学が明けて二週間程経ったが、寝た気はしない。実際はしっかりと規則正しい生活を送っているのだが、いつも寝起きはどこか気だるいのだ。
まあ、それも慣れの問題だろう。慣れてしまえば大抵のことはやっていける。無理だと思うから無理なのだ。やり抜けば無理ではないってどっかの社長も言っていたしな。……俺はいつの間にブラックの思考を!
ガシガシ頭を掻きながらどうでもいい思考を中断し、のっそりと部屋を出る。階段を下りるといい香りが鼻腔をつく。さっと顔を洗ってリビングに向かうと味噌汁と目玉焼き、ベーコンの香りをより強く感じて思考が完全にクリアになる。
「お兄ちゃんおはよ」
台所にはエプロン姿の小町と――
「あ、せんぱいおはようございま~す」
同じくエプロン姿の一色がいた。
「おはよう」
まあ、もう見慣れた光景なので新聞を広げながら席に着いた。
え、なぜ一色が朝から俺の家にいるかって? ……まあ、俺のせいなんだろうな。
自分では今まで通り過ごしているつもりだが、どうやらだいぶ無理をしているらしい。平塚先生から呼び出されたと思ったらいきなり心配されたほどだから相当なのだろう。
――比企谷、人間は脆い。確かに一人でやることは悪ではない。しかしな、一人でやれる、と一人で無理をする、は別物なんだよ。
あれを言われたのは停学明けの翌日、つまり奉仕部に行かなかった翌日だ。相変わらず生徒のことをよく見ている。本当にどうしていい相手が見つからないのか。
言われた意味は理解している。きっと俺は今無理をしているのだろう。しかし、それを俺はどうすることもできない。どうすればいいのかわからないのだ。そもそも今の俺は他人に信用も期待もできない。それは小町にもだ。だから一人で何とかするしかない。だから何もしない。
「せんぱい! 今日せんぱいの家に泊まりに行ってもいいですか?」
一色の提案があったのはそんな時だった。
正直言葉を失った。恋愛関係にない同年代の男の家に泊まろうなど普通じゃない。ここは拒否をするのが普通だ。しかし、考えてみる。これは小町のためになるかもしれないと。
あれから、小町に対する接し方が分からなくなってしまった。だからきっと、あいつには多大なストレスを与えているに違いない。一色を連れていけば、その発散になるかもしれないと思い、了承した。自分で提案しておいて、一色はよく分からん微妙な顔をしていたが、なんてことはないのだ。一色は自分に信頼も期待もしなくていいと言った。信頼も期待もしないのなら、俺が勝手に失望することはない。信頼しないことが分かっているからこそ、一番受け入れやすいのが一色いろはだった。
それに、ここで拒否をしてしまうと、それこそ一色に余計な心労を煩わせてしまいそうだったのだ。
それから一色は週の半分ほどを我が家で過ごしている。
『……次の話題はもうすぐ正式サービスされる“ソードアート・オンライン”の情報です!』
適当に一面記事と四コマを見て新聞を閉じるとちょうど朝のニュースが新しい話題に切り替わったところだった。
ソードアート・オンライン。過去のゲームハードとは一線を画すヴァーチャルリアリティゲームを楽しめる『ナーヴギア』待望のVRMMORPGらしい。ナーヴギアとはテレビの前で一人称だったり三人称だったりの画面と睨めっこしながら遊ぶ従来ゲームハードとは違い、ゲームの中にまさしく『フルダイブ』して遊ぶゲームハードなのだそうだ。口で言ってもよく分からんけど。
確かこの間まで行われていた二ヶ月間のβテスト千人の倍率が鬼のようにやばかったらしいとネットで見た気がする。初回ロット国内限定一万本。買えるやつは相当運がいいのだろう。
しかし、仮想の世界に自分自身が入ることができる……か。
「お兄ちゃん、ご飯出来たよー。早く食べよ!」
「ん? おお」
テレビから目を離すとテーブルには和食然とした朝食が広げられていた。朝食をしっかり食べることは一日を生きる上で非常に大事である。朝食を抜くと逆に太りやすくなるしな。
「じゃあ、いただきま~す」
「「いただきます」」
三人で他愛のない話をしながら朝食を食べる。二人の女子高生らしい話を聞き流しながら、ふと俺は仮想世界というものを夢想していた。
本物なんてきっと存在しない。存在しても、俺なんかが手に入るものじゃない。ならいっそ、仮想の世界なら、偽物の世界なら、少しは楽に生きることができるのだろうか。
***
あれから、特に大きな変化をせんぱいは見せていなかった。今までのように人との接触を極力嫌い、自分の周りに壁を作る。せんぱいのやったことを断片的に皆知っているから、その壁に触れようともしない。その壁に触れて、中に入ることが許されるのは極々一部だろう。私がその中に入っていることが、少しうれしい。
けれど、せんぱいの目は私を見ていない。いや、誰も何も見ていない。あの仮面のような笑みを、小町ちゃんにすら向けていた。誰も信頼しなくなったせんぱいに私は、物理的には近付けているが、精神的にはむしろ離されていた。
停学前と少し変わったことと言えばせんぱいが私の提案やわがままをあまり拒否しなくなったことだろうか。けれど、それは決して受け入れではない。むしろ無視に近いものだ。そばにいてもいいと許諾はされるが、そこに関与されることはない。
それでも拒絶される位ならマシだと、せめて少し長く物理的にそばにいたいという衝動を抑えきれず、気がつくとせんぱいの家に入り浸るようになっていた。
ちなみに、おうちには小町ちゃんの家に行くって口実にしている。まあ、同性だし、実際小町ちゃんの部屋で寝てるし問題ないよね。お父さんからは「寂しい」とか「いろはが不良に……」とか言われたけど、子煩悩なお父さんのことなんて私は知りま~せん!
まあ、お父さんなんてどうでもいい。今一番大事なのはせんぱいなんだから。
私はどんなせんぱいでも受け入れる覚悟をした。けど、それはせんぱいが無理をしないことが前提なのだ。納得していなくても、満足してなくてもいい。けれど、せんぱいが変わってしまった結果、倒れてしまうなんてことは論外だ。
きっとせんぱいは自分を責め続けている。せんぱいは優しいから、おそらくずっと自分を責め続けるのだ。自責の念は重く、重くのしかかる。メンタルの強いせんぱいでもこのままでは潰れてしまう。それは……嫌だった。
「じゃあ、また後でな」
せんぱいの声に意識を戻される。いつの間にか学校に着いていたらしい。三年生の靴箱は一、二年の靴箱と少し離れているので、せんぱいとは早く別れることになる。のそのそと歩いていく背中は……弱々しい。
なんとかしなければならない。もしせんぱいが潰れてしまって、もしも何も言わずに私の前からいなくなってしまったら……そう思うと焦りが湧いてくる。
今のせんぱいには逃げる場所が必要なのだ。ただ物理的に逃げるのではなく、精神的に逃げられるような。今の悩みを考えなくても済むような何か別の世界を見せるべき……別の世界?
「ねえ、小町ちゃん」
「? なんですか?」
立ち止って、二人してずっとせんぱいを見送っていたのだと思うと苦笑しそうになってしまう。けれど、今はそれが好都合だ。
「ちょっと一時間目サボらない?」
私一人だと心許無いから。この子にも協力してもらおう。
「失礼しまーす……」
常備している生徒会室の鍵で生徒会室に入る。時々来るとは言え、部外者の小町ちゃんは恐る恐る入ってくるのがちょっとかわいい。最近、小町ちゃんが妹ならシスコンになるもの仕方ないなと思ってしまう自分がいる。
「それで、一時間目サボってまで話ってなんですか?」
適当な席で居住いを正すと小町ちゃんは真面目な顔で聞いてくる。さすがにあのタイミングでこんな提案をすれば、せんぱいのことだってわかるよね。
「小町ちゃんは、今のせんぱいをどう思う?」
「それは……正直、見てられないです」
小町ちゃんの表情が暗く沈む。小町ちゃんにしても、今のせんぱいには何もできない。せんぱいは小町ちゃんとの接し方すら分からなくなっているようだった。今まで通り接しようとしているけれど、どこか無理をしている。
小町ちゃんと私がせんぱいに求めていることは違う。小町ちゃんはせんぱいに前のように戻ってほしいと考えている。前のようにシスコンで、ゴミいちゃんで、けど優しい。そんなせんぱいに戻ってほしいと。私はどんなせんぱいでもいいからそばにいたいと願っている。……どんなせんぱいっていうのは嘘だ。無理をしていないせんぱいのそばにいたい。
「私も、さすがに今のせんぱいはどうにかした方がいいと思ってるんだ」
二人ともせんぱいのことを心配していて、けれどその方向性は全然違う。方向性の違う二人が無条件に協力できるはずがない。音楽性の違いで解散が目に見えている。
では、そういう二人が協力するにはどうするか。片方がもう片方に合わせるか、お互いの妥協点を探り合うか……お互いにメリットのある案を提示するかだ。
「実は、ちょっと案があるんだけど……」
「……なんですか?」
疑問を向ける小町ちゃんの目はどこか疑わしげ。当り前だろう。考えの違う私からの提案なのだから、自分とは相いれない案の可能性が高い。まずは、この舞台の外で私を見ている少女を同じ舞台の上に上げなければならない。そのための話し方や考え方は生徒会と、なによりもせんぱいから学んでいた。だから大丈夫。
「あのね……」
だから、私の提案に乗ってもらうよ? せんぱいのためにね。
「なるほど……」
私の提案を話し終えると、小町ちゃんは顎に手を当てて、ふむ……と小さく唸る。こう言う何気ないしぐさが先輩にそっくり。似てないようでやっぱり兄妹なんだなって思う。
この案を決行した結果、どうなるかは正直未知数だ。私としては多少の息抜きになってせんぱいが無理をしなくなれば大成功で、小町ちゃんは現状策の思い浮かばないせんぱいが元のせんぱいに戻るきっかけになるかもしれない。特にデメリットもないだろう。
「確かに小町も藁にもすがりたい思いですから、その案はなかなか魅力的です」
小町ちゃんの好意的な反応に少し肩の力が抜ける。しかし、「ただ……」と険しい顔で続ける声にまた少し力が入ってしまった。
「そう都合よく手に入りますかね。ハードも結構高いみたいですし、そもそもソフトも手に入るか……ゴールデンウィークまで時間もないですからね……」
「確かに……」
この案の欠点と言えば、必要な道具が高価な上に入手確率は1%以下というところだ。1%以下とか四捨五入したらゼロじゃないですか。これは完全に廃案でしょうか……。なにか打開策というか入手率を上げる方法があれば……。
「あ……」
あの人なら……あの家ならひょっとしたらなんとか出来るかもしれない。
私は携帯を取り出すと、あの人に出すメールを打ちこんだ。
***
五月五日、ゴールデンウィークである。
なぜか今日は絶対に家にいるように小町と一色に念を押された。そんなことしなくても俺は基本家から出ないんだが……。ていうか、小町はともかく一色からも言われるってことは一色のやつ今日もうちに来るのか? そんなしょっちゅう年頃の男の家に来てご両親は心配しないんですかね。先輩は心配です。
そして、俺に家にいるように念押ししてきた小町は今出かけている。監視の目がないからと言って俺も出かけようなんて思いもしない。小町との約束を破るなどあり得ないからだ。……決してニートだからではない。リアルヒッキーではないのだ。
まあ、最近は一色の生徒会がない日は放課後は即帰るし、休日は家から一歩も出ないけどさ。
時計を見ると十二時。何も起こらんし、昼飯時だし飯食おうかな。けど、小町が腹空かせて帰ってきたら怒りそうだなー。
「ただいまー」
「おじゃましま~す!」
そんなことを考えているとちょうど小町が帰ってきた。やはり一色も一緒のようだ。この時間に来たという事は一色もうちで飯を食うのだろうか。とりあえず下の階に下りることにする。
「おかえり。今日はなんかあるの……か……?」
玄関まで向かうと小町と一色が立っていた。……なんか大きなダンボールを抱えて。そして走り去るタクシー。うちの妹はいつの間にタクシーで出かけるブルジョワになったんだ!?
「ていうか、それなに?」
二人の持っているダンボールを指差すと、二人してふっふーんと得意げにダンボールを開く。中から取り出されたのは……。
「中身はこれだよ!」
ナーヴギアとSAOのパッケージだった。開いた箱を覗くと合計三セット。そういえば、SAOの正式サービスは今日からだったか。子供の日に新作ゲームを発売するとかアーガスマジエンターテイナー……じゃなくて。
「それどうしたんだよ。ナーヴギア三セットとか結構バカにならない値段だったと思うんだが……」
それにSAOのパッケージもβテストユーザーの優先権千ロットを覗く九千ロットしかなかったと思うのだが、それを三本って……。
「ああ、これは買ったんじゃないんだよー」
「なに?」
「これはですね。はるさん先輩に譲ってもらったんです」
「……雪ノ下さんに?」
一瞬魔王がまたなにかたくらんでいるのかと身構えたが理由を聞くとなんてことはなかった。フルダイブ技術は医療や建築など様々な事業への応用が期待されている。なのでSAOを通してそれぞれの分野の専門的観点からの意見を聞きたいらしく、大手企業の一部には優先的にパッケージが提供されたらしい。雪ノ下建設にも提供されたらしいのだが、年齢層や趣味の相違で何本か余ってしまったらしい。まあ、“ゲーム”ってだけで偏見持ちだす年配者とかリア充とかいるからな。
そこに一色がちょうどSAOが欲しいと雪ノ下さんに連絡したらしい。一色としては雪ノ下さんのコネで一本くらいは確保できたり、多少安くならないかという程度の気持ちで連絡をしたようだが、まさかハード含めて三セットも無償でくれるとは思っていなかったようでだいぶ興奮していた。
「しかし、雪ノ下さんに借り作ってまでSAOやりたかったのか」
こいつら怖いもの知らずだな。
「あー、なんか陽乃さん的には在庫処分出来てむしろラッキーだったみたいだよ。これ結構大きいからかさばるし」
「それに、これはせんぱいのために手に入れたものですから」
「……俺のため?」
少し考えて、この間ふと考えていたことを思い出す。仮想の、全く別の世界なら少しは楽に生きられるのだろうかと。きっと二人は、俺を心配して、多少の息抜きにならないかと考えてくれたのだろう。平塚先生をして無理をしていると言われた俺は、ばっちり妹達にも無理をしていると思われていたらしい。
そんな心配をさせてしまっている自分が、ひどく醜くて、二人に申し訳なかった。
「そっか……。俺にためにわざわざありがとうな」
二人に例を言うと、二人はなぜか少し悲しそうな顔をした後、いつものように笑った。
「じゃあ、十三時から正式サービス開始らしいんで、ご飯食べたらダイブしましょう!」
簡単な昼食を食べた後、ナーヴギアの接続や設定をして、俺は時間までSAOの取説を熟読することにした。最近のゲームソフトはそのほとんどの取説が紙一枚とかになっているのに対して、SAOの取説はなかなかの厚さだった。厚すぎて小町と一色は読むのに飽きている。
あんまりネットゲームはやっていないが、ソーシャルゲームやMMOなどでは情報が命だということは理解している。特に初めて体験するフルダイブでのゲームなので誰か一人は取説レベルの理解はしていないと「入ってみたけどなにもできないぴえええぇぇ」とかなったりするだろう。ダイブ中は生身の身体は動かないみたいだし、最低でもログアウトの仕方くらいは覚えてないと。
「けど、ゲームの中に入り込めるなんて映画の世界みたいだねー」
「そうだな。こういうのはもう数十年後の技術だと思ってたよ」
「私あんまりゲームやったことないから楽しみです!」
え、一色ちゃんライトユーザーがこんなガチ勢しかいなさそうなゲームして大丈夫? まあ、大丈夫だろ。こいつ世渡り上手だし。
そうこうしていると時計が十三時を指す。ダイブ中は横になるので、小町と一色は小町の部屋で、俺は自分の部屋からダイブすることにしていた。
「じゃあSAOの中でな」
部屋を出ていく二人を見送って、ナーヴギアを装着する。今から行くであろう偽物の世界に、俺は年甲斐もなくわくわくを隠せない。せっかく二人が用意してくれた機会だ。現実の事を忘れて楽しまなくては二人に失礼というものだろう。
電源を入れて、ベッドに横になる。えーっと、確かゲームを始めるにはこう言えばいいんだっけか。
「リンクスタート!」
そして俺は、偽物だが偽物じゃない世界に飛び込んだ。
なんか二話目にしてちょっとごっちゃごちゃしてる感(´・ω・`)
しかもようやくゲームスタートだし(´・ω・`)
あ、一応年代はSAOに合わせていますが、正式サービス開始日をもろもろの事情で五月五日にしました
高三の十一月にネトゲ始める文系学年三位とかおらんやろうし(ぼそっ
pixivの方にざっとした設定はのっけていますが、SAOとナーヴギアの提供は安心と信頼のはるのんになってしまいました
両親に頼む形だと、一色の分用意できなさそうだし、そもそもSAOを三本揃えられそうになかったんです!
一万本しかないSAOが悪い
つまり茅場が悪い
そう考えると昔のネトゲ仲間でSAO買えたクラインって運良すぎですね
むしろそこで運使っちゃって彼女出来ないんじゃn(ゲフンゲフン
事前の設定をのっけちゃうといろいろネタバレになっちゃうんで、気になる人がもしいたら自分で身に言ってね(´・ω・`)
よかったら疑問点とか質問とかしてくれるとえる君うれしい(`・ω・´)