軒下に吊るした干し芋を一つもいで熱い茶を淹れた。
秋と冬の境目は短いが、雪が降るまでは少し間が開くものだ。蓑も編み、しし肉も干した。雪への備えは萃香が段取るだろう。年の瀬に備えるにはまだいささか急ぎ過ぎであるから、だだ茶をすするだけの日があってもいい。
魔理沙が再び訪ねてきたのはそんなある日であった。あの宴の晩から、すでに二十日が経っていた。
「土産だ。この前渡しそびれたからな」
魔女はどさりと風呂敷包みを放り投げ、私の隣に腰を下ろした。
「ふん。お茶は勝手に自分で淹れなよ」
元から承知していると言わんばかりに、魔理沙は手馴れた様子で縁側から土間へと上がって、囲炉裏の茶釜を傾けて戻ってきた。炒ったばかりの茶はよい香りを出す。その湯気はもう白い。冬はもう肌のそばまで近づいてきている。
「懐かしいな。私がこの郷を出た前の日も、こんな風に縁側で茶をすすったっけな」
「あんたはいつでもここにいたじゃあない」
「そうだっけな」
「だから、やっぱりいたさ」
宴会で喧嘩別れしてから顔を合わせていなかったので。沈黙が重いのはどうしようもない。私はまだこのどこに出しても恥ずかしいいい加減な出戻りの老いぼれを許してはいないし――しかし何より、何より最もこの私をいらつかせ許しがたく思わせるのは、相も変わらず霧雨魔理沙は悪びれもせず、振り返りもせず、ずっとずっと自由というそのことだった。
「約束、破っちまいやがって。この性悪魔法使いが」
「まぁ人生長いこと生きたんだ。そういうこともあるだろう」
「私たちは、約束したろう。あれはいくつだったかね。二十歳かそこらの小娘の頃」
「若かった」
人として死のうと、二人だけで秘密の約束を交わした。家族も身寄りもいない、ただの人間の私たち二人。なぜ死を拒まずに迎え入れようと決めたのか、もうその動機すら思い出すことさえ出来ないが、私たちは確かに誓ったのであった。
「あんたの気持ちはそんな程度だったんだね」
「何とでもいいな。そのまま枯れていくお前を見ているより、マシさ」
人として生き、人として死ぬ。それが一体どれほどの価値をもっているのか、愚かなのか、賢いのか、私にはもはや判別すらつかぬ。けれども古びた誓いが、私にはいまだに輝かしいものとして映っていることは、確かなのだった。
私は立ち上がり、干し芋をもう一つもいでくれてやった。食い意地がはっているだけあって歯は丈夫なままのようだ。食べっぷりは若い頃のまま、ひどく威勢がいいものだった。
「芋のお返しというわけじゃあないが。まずはあの晩渡せなかったら土産を御覧じろ」
言われるがまま土産の風呂敷をほどいて中をあらためた。紐で十字に束ねられた写真は、全てで幾葉あるだろう。百や二百はきかぬとおぼしき厚みであった。
一枚一枚を繰りながら、私はあと十年若ければ涙に暮れていただろうと思った。
「ちゃんと行ってきたぞ」
「そうね」
束からほどかれた一枚一枚に、切り取られた世界が息をしていた。
「霊夢、お前が私に頼んだ通り、世界を見て戻ってきたぞ」
「ええ」
「お前の分まで、自由を謳歌してきたぞ」
「色んなところにいったのねえ」
「とっても楽しかったぞ。腹の立つこともあったがな」
「これは?」
「それはピラミッドだ。昔栄えた、砂漠の国の王の墓だ」
「これは町?」
「とんでもない数の人が住む街だ。家の多くは透明なガラスでできてる。面白いだろ? 冗談みたいだぞ」
人の暮らす街並みの何と多様で摩訶不思議なことか。無数の未知は私の老いた心の臓には負担が強すぎたようで、胸の痛みに私は思わず左手をあてがったが、脈には動悸もなく、ただ私の心模様が動揺しているのだと気づき――その自覚は屈辱をともなった。しかし私の手は写真を繰るのをやめようとはせなんだ。世界はあまりにも多様で、魔理沙はそのあらかたを収めて戻ってきたのではないかと思えたが、彼女は金色の髪を大げさに振り乱し否定した。未知は永遠なのだと。
やがて私は、ただ一色に染め上げられただけの一枚に手を止めた。それが何であるか、教えられるまでもなく私は知っていた。
「これが海」
「そう、それが海だ」
手のひら大の四角い青は、想像よりも深い色合いで、空のように軽くはなく――いや、まるで重さのある溶けた空のようであった。魔理沙は海がいかに広いかを話し始めたが、私にはとんと見当のつかない言葉でばかりで説明するものだから、全く要領が得ない。だが尺や貫では到底測りきれるものではないと言われると、なるほどと頷く他ない。
私は海の話を欲した。せがまれるまま、魔理沙は次々と語った。魔理沙は私が望むがままに語り、自らの体験を交えて世界を映す鏡となった。霧雨魔理沙は義務を果たしている。私が飲ませたあの日の交換条件を、いま果たそうとしている。
「戻ってこい。そして外の世界の話を聞かせろ。霊夢はあのときそう言ったよな」
「泥棒のとんずらを許してはまずかろうさ」
「借りてるだけだって言っているだろう? ほうら、いまだって返している。私は嘘はつかないんだよ。借りてた本だってちゃんと返したさ」
「それを、当たり前のことというんじゃあなかったかしらね。ああ、いま思い出しても大変だったんだ、結界をあんだけ無茶苦茶にたわませて、引き戻すんだからね。結界に魂の形を覚えさせたから、戻ってくる時もすぐだったろう。理不尽なものさ。一度入れば出られない。出ていくのはとんでもない力を要する。まるで谷だね。ここは谷底よ」
私はいつか自らがねだった頼みの言葉を、恥として思い出していた。今この時より何十という星霜を巻き戻したあの頃の私は、若く、絶望のさばき方さえ知らなかった。その青さは生臭くさえある。
「馬鹿なことを頼んだ。戻ってきてくれ、だなんてな。私は、あの時は信じてたのさ。いつか自分も、博麗から自由になれると。ただの人として、自由になれるのだと。外への憧れがあれば、制約も呪縛も全て振りほどけると信じた」
「別に今からでも遅くはないだろう。無敵の博麗殿だろう」
「茶化すでないよ」
絶望にはまともに相対してはならないということを、私は髪が白むに従って気づきを得ていった。絶望は友とすればよい。手を握り、懐にかき抱いてやれば苦しむことなど露程もないのである。博麗の巫女は、決して自由になることはないのだと、とっくの昔に諦めてさえいれば、それで全ては丸く収まっていたというのに。
私は写真を繰ったが、そっと寄り添った絶望がために、胸の高鳴りはもう響くことはなく、動揺することなくただ見ることが出来るようになった。
「そんな目をさせるために、私は戻ってきたわけじゃあないぜ」
言い捨てて、魔理沙は吹きさらした寒風に身を震わせた。今日は晴れ間もさし、こんなにもぬくいというのに。この程度の寒さに押し負けるとは、無為に年を取ったものだ――いや、無為に年を取ったのは私の方で、いつかきっと寒さを覚えることすらないくらいに全てを冷ましてしまうだろう。それが老いであるのなら。
「寒い寒い。ここの冬は変わらんね」
「ええ、何も変わらない。つまらないところさね」
「結局、跡継ぎも子も取らなかったのか。博麗の神社は誰が継ぐんだ?」
「誰も継ぎはしない。私の代で終わりさ」
「先代はお前を育てたじゃないか」
「呪ってるよ」
魔理沙は驚かなかった。茶の最後の一滴までを飲んで、ふうんと鼻を鳴らした。
「そうかね。それでどうなる?」
「終わればいい」
「博麗の話じゃあない。ここは、幻想郷は一体どうなるんだ?」
「滅びればよいさ」
「霊夢、本当にそれでいいのか」
「魔理沙、結局貴方も、皆と同じことを言うのだね」
次代の巫女を定めようという、妖怪どもとの会合は既に百度を優に超え、その都度毎度毎度お馴染みのご高説が繰り返されてきた。曰く幻想郷の安寧を求め、曰く博麗の義務として、曰く実力行使を已む無しとするのならば。
「で、毎度毎度、妖怪と喧嘩してきたってわけか?」
「誰一人私を負かすことは出来なんだね。大半のやつらも、私が死んだら適当に誰かが次を継ぐだろうと諦め顔さ。それでいい」
「で、ほんとに何とかなるのか?」
「知らん」
この考えを始めるとどうにも愉快になってしまう、私は麓に届くのではないかというくらいに大声で笑い声をあげた。魔理沙は喝采を手伝うこともなく、干し芋を勝手にもう一つもいでは食っている。
「私が死ねば、八雲紫がどうにか細工しようとするだろう。それが間に合わなければ滅びる。なに、絶対というわけじゃあない」
「紫にできるのか、本当に」
「さあてな。何十年ぶりに帰ってきて、約束を反故にしたあとは説教かい? あんたも忙しいね」
「霊夢、お前はそれでいいのか。幻想郷がどうこうじゃあない。復讐のために死んで、それで」
「もうよい。私は生きた。ただの生贄でしかない人生だったとしても。他の誰かを跡継ぎや身代わりで縛り付ける気にもならなければ、郷のために永遠に礎石を続けるつもりもない」
人一人がくたばって滅びる郷であれば滅びればよいのだ。私の身代わりにこの檻に縛り付けるための子を産むつもりもなければ、誰かを引き取り教え導くのも御免だった。それがために幾度八雲紫とやりあったであろうか、もはや見当もつかない。危機を覚えてどこぞの妖怪どもが引きずって連れてきた子を、どれほど里に返しただろう。幻想郷が全てを受け入れるというのなら、滅びも甘んじて受けるべきなのだ。
私は彼女のしわくちゃの顔を真っ直ぐ見ながら言った。
「どうして今頃になって帰ってきた、魔理沙」
「おっと。つれないじゃあないか。私のことを一日千秋の思いで待ってたと思ってたんだが」
「待ってたさ、ずっと待っとった。ああ、けどもうよいのだよ。この写真を見ても何も感じない。ただ綺麗な絵が描いてあるだけだという気しかせん。千秋が一日とかわらぬのだよ、ここは。何も変わらない。何も変わることがない。私も何一つ変わることがないまま、前にも進まず後ろにも退かず、こんなにも老いた。もう私はどこにも行けないのだよ」
「嘘つくなよ」
「ついてないね」
「そうかい。ええい、偏屈になっちまって、まあ、ええ? 博麗霊夢はそんなにとんちきなやつだったかな」
「あいにく、こんな狭いところに縛り付けられちゃあ曲がりもするさね」
「まるで盆栽だな」
「もしくは、ただ干からびていくこの芋と同じだ」
「老いたな」
「うん。私はすっかり疲れた」
「何者にも縛られない。あまねくものから浮き上がり、孤高で、どこまでも飛べる。霊夢はそんな女だったろう。それすら忘れてしまったのなら、お前はもう、博麗霊夢ではないよ」
魔理沙の口調は私をなじるでもなく、叱るでもたしなめるでもなく、静かで潤っていた。その響きは何かの確信をもってるものにしか言えない言葉だったが、私はタネをすでに明かしてもらっていたことを思い出した。
「そうか。だからあんたは帰ってきたあの夜に、永遠に生きろなどと、言ったんだね」
「違うね。生きよう、といったのさ。付き合ってやるよ」
「それでどうなる? 私はどうすればいい?」
「結界をどうにかしよう。霊夢がいなくても何とかなるようにとか、誰でも容易く扱えるようにとか、色々あるだろう。蓬莱の薬を飲めば、何とでもなる。お前はずっとこの結界のことを調べ上げてきたのだろう、なあ、あと百年あればどうにでもなるんじゃないのか? 百年かけたらきっとできるさ。そして、私と一緒に外に遊びにいこう。霊夢、世界は広いんだ。私にそれを教えてくれたのはお前なんだぞ。一緒に生きて、そして一緒に探そう。そして一緒に外に出よう。霊夢」
私の呪いへの感度がいかほどばかりか、魔理沙には推し量ることさえ出来ないだろう。だからこんな軽率なことを言うのだと思うと、怒りを過ぎ去り悲しくさえあった。
働いた勘は、微動だにせぬまましっくりと収まった。
「霧雨魔理沙。それが条件だったのだね。私に永遠を生きるよう仕向けることが紫との取引材料だったわけ」
「霊夢」
「あの紫が他人を幻想郷から出すために簡単に境界を歪めるなんておかしいと思ったのよ。そう、そういうことか。お前も私をただの石ころとしか見てなかったわけだ。なるほど都合がいいものな」
生への渇望を呼び起こすために、外界への憧れを釣り餌とする。じたばたと生贄が足掻いている間は事もなし、百年二百年時がかかればそれもよし、成功したのなら万々歳。なるほど、中々うまい具合に出来た算式だ。
霧雨魔理沙は言い訳をせなんだ。立ち上がり、帽子を深々とかぶり直すとそのまま箒に腰掛けた。悪巧みが暴かれれば潔く、というその態度までが私の癇癪をほじくる。
「これだけは言わせろ。霊夢、私はあんたに憧れてるんだ。お前は忘れちまってるんだよ、自分が何だって出来るってことを。こんな箱庭が、よるべの全てでよいのか?」
「帰りな。私はもう疲れた。もう枯れたのだよ。今はもう、死を待つだけでいい。魔理沙、帰ってきてくれてうれしいよ。けど、もう会いたくはない。あんたはもう人間じゃあない、あんたはもう、妖怪の類いさ」
黒い魔女が屋根の上に消えていくのを待って、私は写真の束をもう一度十字にくくりなおすと、母屋の外の蔵を開け、その一番奥、たくさんある中でも特に目に触れない行李の一つに押し込んだ。行李をくくる紐には今日のことを忘れないよう、芋、と書いた封印を貼った。母屋に戻るとき、私は庭の中央を眺め、そして思った。ああ、この枯れ葉が舞い散る猫の額が、博麗霊夢の千年なのだ。そしていつか墓穴ともなるだろう、と。