キッチン周りの汚れが取れていなかったので、調理を任せた者を叱っていると、昼の三時を告げる鐘が鳴った。そこでようやく、結構な時間しぼっていたことに気づき、むしろ自らへの落胆を込めてため息をつき、小言を終えた。
「もういいわ、行きなさい。お嬢様にお出しするお料理は、もう貴方にお任せしているのだから、怠慢は許されないのよ」
きびすを返して私は外へと向かった。歩きながら私は恥じた。老いを自覚することはやはり恥を伴う。
正門は光の一粒一波とも通さないようにしっかりと閉じられている。それをそっと開け放つと良く晴れた青空がさっと差し込んで、館の中の埃をあらわにした。年末の大掃除を今年は幾分早めてもいいかもしれない。
私は冬を間近に控え、秋の盛りより寂しくなってしまった花壇に向かった。案の定、門番は今この時ばかりは庭師に職を鞍替えしており、腰を屈めて土の手入れに余念がなかった。私は背後でそれをしばらく眺めた後、引き抜かれた雑草の山に手をやった。
「風見幽香が見たら怒るわね」
「ここに来ることはないでしょう」
いつも身にまとっているグリーンの旗袍ではなく、美鈴は地味なつなぎを着ていた。冬には肥料をたっぷり与えて、春の開花に備えるらしい。
「……わがままなものね。命を取捨できる権利が私たちにあるのかしら」
「珍しく殊勝なことで」
雑草を引き抜き、土を素手で掘り起こすという一連の作業を、一定のリズムで美鈴は続ける。正確なリズムが笑えるほどだった。大したものだと思った。
「あ、如雨露とってもらえます?」
私は時を止めると、足元の如雨露を美鈴の背中へと放った。時への制約をやめると同時に如雨露は彼女の顔面に迫ったが、雑草を引き抜いたついでといった感じで、美鈴はこともなげに取っ手を掴み取った。
「……つまらないわね」
「いやこれ結構ギリギリなんですけどね」
「よくいうわ」
フフン、と得意げな門番の顔を泣きっ面に変える方法と手段を、ざっと思い浮かべたけれど、どれもやる気には起きなかった。まるで子供のような真似だ。
畝の全ての手入れを終えた美鈴は、最後に渡した如雨露の水をさっとまいて作業を終えた。額に汗が浮かんでいるが、それよりも土の汚れの方が何倍も目立った。気にせず手の甲で乱暴に拭っていたのだろう。
「みっともないわね、本当。紅魔館に仕えるものとしてなってないわ」
私はポケットからハンカチを取り出すと、それで拭ってやった。
「うわ、なんか照れますねえ。あはは」
「まったく、いつまで経っても貴方は変わらないのね」
なぜこんなことを口走ってしまったのかわからない。人生を総括するような話しぶりも、やはり老いの弊害なのだろう、そして私はそれにすっかり甘えてしまっている。
「いや、変わりましたよ」
「そう? そうは見えないわ」
「咲夜さんが変わったのと同じくらい変わりましたし、変わってないのと同じくらい変わってませんて。同レベルですって」
「あら、生意気いうのね」
「私だってたまには言い返しますよ、へへん」
その言葉を言い終わらないうちに、私は時を止めて彼女のつなぎをひきずり下ろして如雨露の残りを顔面にぶちまけた。時を放してやる。心底情けない悲鳴がおこる。全くどうしてどうして、美鈴のいうこともあながち的外れではない。こうしたところばかり私も変わらないものだ。銀色から真っ白に髪の色が変わってしまっても性根はまだまだ幼い、美鈴がいうように、美鈴と同じように。
さあ仕事の続きをと思い、私は情けない声を背中で聞きながら館へ戻った。そうこうしているうちに日はだいぶ傾いてしまった。私は自分の食事を済ませてから、メイドの一人に人間の里まで買い物に向かわせ、別の者に埃の積もっていたロビーの拭き掃除を命じた。
使いに出したメイドが、切れかかった蝋燭と油を抱えて戻ってきた時、途中で落ちてきたという天狗の号外新聞も一緒に手にしていた。紙の中央に大きく書かれた『霧雨魔理沙電撃帰郷』という極太フォントの見出しの墨は、まだ乾ききっていなかった。
誤報ではあるまいが、信じられないという気もする。霧雨魔理沙が幻想郷を去って二十年は経った。私にとっては半ば過去の人間ともいえる。が、そう思ったのもつかの間、買い足された蝋燭を一つ一つ、紅魔館の長い廊下に備えつけて火を灯すたびに、私の中のアルバムも長い廊下と同様に暗がりから照らし出され、うっすら積もった埃は容易く舞い散っていった。
過去への廊下はなぜ紙切れ一枚に書かれた名前一つで、かくも鮮やかに掘り起こされるのだろう。幻想郷にやってきて以来最もかしましい、青春とも呼べた日々は、霧雨魔理沙を抜いては語ることができない。
私は古書から薫るクリームのような甘い匂い、すなわち過去の香りに惑いながら、足早にお嬢様方の寝室へと向かった。日はもう落ちる。お嬢様がお目覚めになる時刻までもう間もない。
部屋の中央、ベッドの天蓋からはルージュのシルクが垂れ下がっており、二人分の人影が横たわっていたが、やおら片方の影が起き上がった。
「おはようございます」
「……フランはまだ寝かせておきなさい」
「かしこまりました」
寝台から椅子に腰を移されたお嬢様の後ろに従い、私はまずはいつものようにお世話を始めた。バラの香りをひたしたお湯で布巾を湿らせ、そっとレミリアお嬢様のお顔をふき、おぐしを整える。私がこの館を辞さない限り、この役目を誰かに譲るつもりはなかった。続いてクローゼットから今日のお召し物を選び袖を通していただく。
「久しぶりにメイド服を着てみない?」
お嬢様は着替を終えると、出し抜けにそうおっしゃった。私は笑って相手にせず、茶器を揃えた。美鈴が花とは別に茶を育てて数年になるが、ここ最近では最もよい出来だと胸を張っていた。確かに良い色つやだ。水で煮出してミルクを足した後も強く香る。
「貴方の忠誠心、最近翳りが出てるんじゃない?」
「あら、そうでしょうか?」
「昔の咲夜なら一もニもなく従っていたわ」
「年をとりましたもの。ご容赦くださいな」
私は苦笑いを押えきれないまま、紅茶を注いだ。ミルクを足してまた沸かしたロイヤルミルクティーは、鈍色の雲に隠れた夕焼けを思わせる。
「言い訳ばかり上手になって……その卑怯さも老いが悪いといいたげね」
お嬢様は寝起きの憂鬱さと、私への不満の両方をまるごと隠すことなく、口を尖らせたままカップに口をつけた。私はまた笑った。全く的を射た言葉には笑って誤魔化すほか手段がない。老いさらばえた老メイドは主人の小言にのらりくらりする手練手管ばかり長けてしまっている。
紅魔館には窓がほとんどないが、長い間住めばわずかな気配で外の明るさや天気がわかる。秋の暮れ、冬の訪れを思わせる晴れの夜に、今夜きっと星は騒ぐ。
「晴れますね」
機嫌を悪くされたのか、お返事はない。私は黙っておかわりを注いだ。夕暮れの甘い香り。お嬢様は黙って口に運ぶ。私は満たされる。良い茶をいれる。仕事のほとんどを他のメイドたちに割り振ってしまった今の私にとって、それが残された仕事のうち、最も重大なものといえるだろう。
「外に出るわよ」
不意に立ち上がられたお嬢様の後をカーディガンを手に追った。
今夜はやはり朝まで晴れと思われた。雲ひとつなく、星まで抜けた空は昼間に射し込んだ熱の一切を逃がしてすっかり冷えている。私は手にしたままのカーディガンを、黙ってお嬢様の肩にかけた。お嬢様は拒まれなかった。背に生えた羽が私の手にあわせてゆっくり畳まれていく。私は幸せである。
西の空に日の名残りが滲んでいるが、群青からなるグラデーションが空のほとんどを染め上げてしまっていた。バルコニーの欄干に灯ったカンテラがなければ、もう闇といってもよい。お嬢様は椅子に腰もおろさず、ただ立っていらっしゃるだけで、動かれない。カーディガンの裾と、白いフリルのスカートが時折風でたわんでは揺れる。
「永琳に聞いたわ。あまり良くないのね」
直截は美徳だ。私は笑った。お嬢様のカーディガンがなびく。私のまとっている黒地のロングスカートは重く揺れもしない。風があるようには思えないが、きっとどこかで吹いている。
「あら、お嬢様。そういうのをプライバシーの侵害というのですよ?」
「そう? メイドにプライバシーなんてない、というのが私の帝王学なのだけれど」
「あまり勘ぐりを入れられるというのも、威厳を損ねられますわ」
「時を止めたいわ」
お嬢様はやはり夜空を向いたままおっしゃった。ようよう、星も夜に目覚め始めていた。一際明るく輝く星は、私の想像の余地を全て塗りつぶしてしまうほど大きく、そして遠いと聞いたことがある。おとぎ話にも等しいそんな話を、どれほど前に誰から聞いたかほとんど忘れてしまったけれど、今このとき私には真実に思えた。
「時ですか」
「なんでもない」
「そうですか」
私は迷った末に、時を止めた。私だけが鼓動を刻む世界は、寒々しいが、同時に微笑ましくもある。動かない人というのは奇妙にか弱く、愛しい。私はしばらくじっとしたまま孤立し、やがて針を戻した。お嬢様は気づいておられない。こんな悪戯ともいえない戯れを、若い頃は何度もしていたことを不意に思い出して、私はむず痒さを覚えた。全ては老いのせいだ。
「そういえば、霧雨魔理沙が帰ってくるようです」
私はポケットから例の号外を取り出した。お嬢様は一瞥すると燃やしてしまった。
「懐かしいわね」
「二十年ほどですから、もうだいぶですね」
「きっとまた、ひどいどんちゃん騒ぎになるわね」
散り散りと夜に溶けていく灰を眺めながら、私は月を探したが、今夜は晦だ。星が主役の夜だった。