日が明けてどれだけ経ったか、鳶の鳴き声で目を覚ました時には、縁側で腹を丸出しにしていた。いつ眠ったか記憶にない。羽織ったどてらにも覚えがない。だがよく飲んだことだけはしっかり腹が覚えている。それさえ間違えていなければ構わないのが道理だが、さて今は何刻と日を探してみたとき、一際強い風が境内から舞い上がった。冬の風だがわずかに温かいと感じた。もうとっくに昼前だよとお日様が耳打ちしたように思えた。
やれ、もったいないことをした。やはり冬は朝に限る。明けて間もない薄暗らさの中、霜の降りた大地にかかった霞を冷たい風がさらさらと吹き流したときなど、それだけで一杯呑めるほど気持ちがよいものだから。
代わりに、足元に転がっていたすっかり冷えてしまった百合根饅頭を口に放り込んで瓢箪をぐびりと傾けた。善し。寝る前にしっかりと水を足していたおかげで酒はたんまり残っている。善し善し。
目前の境内は食べ残し飲み残しでとっ散らかっていたけれど、誰一人残っているものはいなかった。最後まで寝転がっていたのは私のようだったが、それもまた善し。誰もいなくなった宴の跡を、寂しく眺めるのも欠かせない醍醐味なのだから。私はそれを肴に、また一口二口と酒を下した。
起き抜けの迎え酒を堪能した後で、私は霊夢は何処、と探しに中へと戻った。霊夢は居間で何やら文をしたためていた。
「何書いてるの霊夢? 手紙?」
霊夢は筆を動かしたまま、何やら苦笑いをした。それは呑んでばかりの私をたしなめる顔だ。霊夢は最近よくそういう顔をする。
「手紙じゃあないのよ。いつものあれさね」
「あれね。難しいことは良くはわからないけど、よく続くねえ」
ここしばらく――といっても何年か、何十年かは忘れた。霊夢は博麗の結界についてよく学んでいる。自分で治めなくっちゃあならない代物だから、なるたけよく知っておきたいと、毎日毎日飽きることなく読み物書き物だ。
一度せがんで読んでもらったが、理解することは出来なかった。結界に関する知識など、霊夢と紫を置いて理解できる者など片手でさえ余るだろう。
私は筆を動かし続ける霊夢を眺めながら、瓢箪をくわえた。霊夢は呆れた顔で私の飲みっぷりを見やるが、なに、止められたところでやめるつもりはない。
霧雨魔理沙が帰ってきて、宴は昨日で三日三晩を数えた。それも流石に打ち止めだろう、大いに楽しんだものだ。桜もないというのにこれだけ愉快な宴はいつ以来だろうか。私は思い出してはまた酒を含んだ。私にとっての迎え酒とは、次の祭りまで呑み納めとしてあおるもので絶対に欠かせないものだ。私は今、宴を締めくくっているのである。
霊夢はやがて諦めたように、もう好きにやってくれと皺くちゃの頬を笑顔でさらに皺くちゃにした。ちょっと前なら――それが何年前かもとんと忘れたけれど、霊夢だって宴の次の日も呑んだ。けれど霊夢は最近そこまで呑まない。そして本当に酔うまで飲むこともない。体にガタが来ているからだと言っていたけれど、それはとても寂しいことだと思う。人間の不便さは重々知っていたつもりだけれど、しばらくぶりに誠に付き合った人間からあらためて感じると、私は全く寂しい。
断られるのが嫌で、私は霊夢に飲めとは誘わなかった。淡々と墨と筆を動かしている。私がここにいて邪魔じゃあないようだった。邪魔な時、霊夢は誤魔化さずに出て行けというから。愉快だった。それだけで私は嬉しくなった。
「結界のことはよくわかったの?」
霊夢は背筋をピンと伸ばして、手元だけが別の生き物のようにするすると動かしている。霊夢は目も上げずに答えた。「前よりはね」
「結界なんてさ、紫に聞けば一発じゃあないの?」
「紫が何でも知っているというわけじゃあないのよ」
なぜ結界を調べようと思ったのか。私は何遍も聞いて何遍も答えてもらっていたけれど、未だに納得のいく答えが返ってきた試しはないように思う。それにしばらく前から紫のことを話す時の霊夢の雰囲気が変わった。なぜだかは知らない。考えるつもりもなかった。
次の話題を探したけれど、何しろ昨日は宴だ。話題はそれに限る。
「しかし昨日の宴会は愉快だったね」
「毎日言ってるじゃないそれ」
「いや昨日は特別愉快だった」
「そう、よかったわね」
「流石にもう今夜はないかなあ。もう一晩くらいあってもいいけど」
「もう勘弁してよ」書き尽くした紙をよけて、白紙を取り出す。「いい加減ゆっくり寝たいわ」
筆が紙をなぞる音は、外の静けさを余計に際立たせる。私は背後を見やった。障子に映った影絵は揺れもしない。風すらなくなった冬の日。鳥の鳴き声も聞こえないのは寂しいが、それも冬の日。
「霊夢見た? 私と紅魔館とこの門番との腕比べ」
「あ、それ見てない」
「あいつも中々やるけど、まだまだ私の足元にも及ばないよ」
「ちょっと見たかったわね」
「霊夢寝てたからなあ」
「呼んでくれたら起きたわよ」
「こう、こうだ。そしてこうしてね、私はこう、ここだ、ここで一発入ったんだ」
美鈴も災難ね、と言いながら霊夢はやっぱり手を動かすのをやめない。私は文を書く霊夢が嫌いじゃない。どんな時よりも私の話を聞いてくれるからだ。ただ私の顔を見てくれないことだけが不満だけれど。
「魔理沙が来たのは初日だけだったねぇ」
「きっと疲れてたのよ」
そうかもね、と相槌を打ったけれど、私はどうにも腑に落ちなかった。
「霊夢も寂しかったろ。魔理沙の帰り、ずっと待ってたものなあ」
「そんなことないわよ」
「待ってたよ」
「そうだったっけねぇ」
「とにかく、私は不満だね。もっと魔理沙の話を聞きたかった!」
私は一度部屋を飛び出すと、昨晩呑んでた部屋に飛び込んだ。ガラクタのような魔理沙の土産は誰にも取られずに転がっていた。私はそれを両腕で抱え込んでまた霊夢の元に戻る。
「後で片付けてよ」
「ほら、これすごい。私はビックリしちゃったもんね」
出奔した白黒魔法使いが、錦代わりに飾った大八車一杯の土産物、その内の食べ物飲み物の類はとうに皆の腹の中だ。その他何やら価値のありそうな物珍しい変わり種は、手の早い物好きが我先に持って帰ってしまい、残りも香霖堂の店主が引き取っていったりで残ったのはいくらもない上にがらくたばかりときた。けれどそれで善し。私が一番気に入っていた物が残っていたのだから誠に重畳。
「特にすごいのはこれね。鯨の骨」
「それ本物なのかね?」
「老いぼれると疑ってばかりになるのね」
「ばばあは偏屈ってのが相場なのよ」
私はしげしげと骨の欠片を眺めた。馬の骨、牛の骨とどこがどう違うが全く分からない。どこの骨かも判然とはしない。けれど言い知れぬ夢が私の内で膨らんだのは確かだ。
もう長いこと生きたが本物の鯨を見たことがなかった。この世で一番でっかい生き物だと聞いたことがあり、私はいつか力比に相撲をとってみたいと常々思っていたのだ。
「鯨か、私もね」
「うん?」
「私もね、いつか鯨を見てみたいと思っていたのよねえ」
霊夢は筆を動かしながら、どうでもよさそうに言った。けれど霊夢の呟きが心のそこからのものであることが私にはわかった。
「幻想郷には海がないから、無理かもだね霊夢」
「幻想郷をでれば見られるのよ?」
「幻想郷は出られないさ」
「魔理沙は出たわよ」
「あれは霊夢と紫が手伝ったんだろう?」
詳しいことは知らないが、紫と霊夢が結界を緩めるかどうかしなければ到底かなわないのが道理だ。霊夢は曖昧に笑う。私は霊夢のそんな顔があまり好きではなかった。
「そういや結局、紫は宴会にこなかったね」
「結界の外の話は嫌いだからねえ」
「だってのに、魔理沙はうまいこと説得したんだね。紫がよくぞ許したもんだ」
霊夢は筆を動かしながら云々と頷く。
「またすぐ集まろうよ。魔理沙の話も、まだまだ聞けるだろう?」
「そうね、まだまだ聞きたいわね」
霊夢は曖昧に笑う。白い髪が垂れて目元は見えない。その手は筆を置き、硯に墨を刷り始めていた。
私は瓢箪を振った。酒はだいぶ減っていた。すなわちほとんど呑んだということになるけれど、どうにも詰まらなくなった。私は部屋を出ようと決め立ち上がったのと、霊夢が墨を置いたのは多分同時だっただろう。
「霊夢、私行くよ」
「どうしたの萃香?」そこでようやく霊夢は顔を上げた。「何を怒っているの?」
「怒ってはいない。ただ一つ得心が行かないのよね」
「なんだい」
「霊夢は何でそんな顔をするんだ?」
私はじっと霊夢を見た。霊夢は口元だけの曖昧な笑みをしつこく浮かべていた。
「どうした霊夢。祭りの時からずっと変だ。魔理沙と会った夜から何だか変だ」
「何もなかったわ」
「どうして嘘をつく?」
私は瓢箪を傾けた。飲めば飲むほど酒の味は薄まり、酔いもどんどんほどけていった。反して霊夢はその様子を常とは明らかに違えはじめた。墨を力任せに握りしめ、ついには震え始めている。やがて博麗の巫女の顔に、見たこともない泣き笑いの表情が浮かび、強風にしなる竹のような動揺を見せた。
「嘘つきは魔理沙よ」
硯が畳に落ちる鈍い音がした。墨汁が滲み出してじわりと藁を染める。
霊夢は震えていた。はらはらと、涙がこぼれたような気がしたが、それは私の錯覚だった。自分に嘘をつく愚か者は、最後は涙を流すことができなくなるのだ。霊夢の目は、頬は乾いていた。声も表情もまるっきり乾ききってしまっていた。部屋の炭の火鉢が一度大きく爆ぜるまで、私は立ち尽くす他なかった。