波紋の護人 作:嵐壱
「大東亜連合、か」
人の少ない品のある喫茶店、このご時世では珍しい天然物の珈琲や紅茶を扱うこの店は武家に連なる者たち御用達で密かに人気を博していた。天然物はただでさえ貴重かつ高価だ、庶民にはそう易々と手を出せないがために利用層が限られ、故に武家に連なる者たちがひっそりと、けれど憩いの場として利用している。
九條護人は手に取った新聞の一面で取り立てられている文字を口に出し、深い嘆息を覆い隠すようにカップへ口をつける。嗜好品の紅茶は味に深みがあり心を落ち着かせる。と、静かな音色の鈴が鳴り客の来店を報せる。目を向ければ、それが待ち人だとすぐさま気づいた。
少し店内を見回した彼女はやがて護人の姿に気づき、静かな足取りで対面の席へ腰を下ろす。
「ごめんなさい護人さま、待たせちゃいましたか?」
「いや、俺が早く着ただけで待っちゃいないよ。それに、ほら」
店内に置かれてあるクラシックな時計の針を指し示し、
「まだ約束の時間になってない」
妙に子どもっぽい飄々とした笑みを浮かべる。釣られて麻衣も口元に手を遣りながら同感するように可憐な微笑みを湛えた。
春先に二人が出会って半年が経とうとしていた。季節は秋へと移り変わり、また会おうと言った約束を守って、関東方面へ用事がある場合に護人は必ずこの街に立ち寄り麻衣と幸せなひと時を過ごしていた。まだ数えるほどしか共に過ごした日々は多くなく、されども二人の仲には愛が着々と育まれようとしている。
メニューを見て、しかしすぐさま護人と同じ紅茶を頼むと何をするでもなく麻衣は対面に座す初恋の少年を見遣る。あの殿上人は相変わらず浮世離れした存在感を纏わせてるが、同時に澄んだ瞳に深く根差す感情も見抜く。
「護人さま、悩み事でもあるんですか」
言って、テーブルに置かれた新聞が目に入る。一面が最近ニュースになってることを取り上げており、もしやと視線を戻せば困ったように苦笑している護人。どうやら殿上人は、大東亜連合に関して少々悩み事があるらしい。
「麻衣には隠し事ができないな、俺」
「護人さまは顔に色々と出やすいからですよ」
最初は恐れ多くても、機会を重ねれば慣れるもので。こういった軽口も二人の間で交わされるのは珍しくない。ただ、軽口と言うよりも本音に近い。愛する伴侶に隠し事のできない護人と、恋してる人への想いから常に視ている麻衣。麻衣だからこそ、護人の悩みに気づけたのだ。
離したくない、ともすれば今すぐにでも抱き締めたくなる狂おしい愛情をどうにか落ち着かせた護人は、新たにもう一つ同じ紅茶を頼み少々疲れたように息を吐いて見せる。
「おかげで、俺も忙しくなって疲れてるんだ。麻衣の笑顔が唯一の癒しだよ」
自然に零れた想い人からの言葉に麻衣は頬を紅潮させ、運ばれてきたカップへ丁度良いとばかりに目を向ける。その姿があまりにも愛らしく、穏やかに見つめながらこれからのことに想いを馳せていた。
帝国はいずれ戦場と化す日が来る。大東亜連合が結成されたのも、国連への不信感もそうだが連合しなければならないほど戦況が逼迫している。大陸の戦線も、また後退した。戦火がこの国へ及ぶまで、例え短くとも愛したこの少女と幸せな一時を送りたい。九條家の当主からは既に了承を貰っている、あとは自分たちだけ。
「護人さまはどうして私を困らせるんですか」
紅潮した頬を膨らませ、やや上目遣いに訴えてくる麻衣はやはり愛らしく、いつもと違った新しい一面を垣間見た気がした。
「思った通りのことを言っただけなのに、どうして麻衣は怒るのか」
「護人さまが困らせるからですよ、私を」
「でも疲れ切った俺の心を癒せるのは麻衣だけ、これ事実だし俺の真理」
「だから、その、困りますっ」
何が困るのか、そこまでは言わないけれども互いに気づいてはいる。ごめんごめんと謝りながらも護人は麻衣を困らせる発言を続け、その度に頬を紅潮させ嬉しくも恥ずかしい麻衣。
やがて喫茶店を後にした二人は、どちらからともなく指を絡めるよう手を繋いであてもなくただ街を散策した。秋の紅葉が至る所に見受けられ、街を歩く人々の表情も明るい。
「麻衣は、この街が好きだよな?」
「はい、私が生まれ育った街ですし。それに護人さまと出会えた、大切な街です」
平和な日常、幸せな一時。もしかしたら麻衣にとっての日常を奪う結果になるかもしれないけど、この愛らしい少女を自分だけの物にしたい想いがある。気づけば二人が初めて会った並木道へと来ていて、かつての桜吹雪は秋の絨毯が敷いてある。
「半年前のここで私たち、会ったんですね」
「あの時は桜が満開、今は秋の葉が絨毯を敷いてる。半年か、それだけ経ったのか」
静かに呟き、かつて桜吹雪が舞い散る中で声をかけた時のように緊張を覚えながら、幼さの残るあどけない麻衣の顔を見つめる。半年も経った、着々と時の歯車は動きつつある。護人の只ならぬ様子に気づいたのか、背筋を伸ばしやや緊張した面持ちで見つめ返す。
秋の涼しげな風が麻衣の艶やかな髪を撫で、前髪を彩る髪飾りの下へ葉が舞い降りる。桜吹雪を覆い隠したそれを手で掬い、意を決した護人は己が想いの全てを愛する少女へ告げる。
「高原麻衣、お前を伴侶に欲しい」
秋の並木道、紅葉の絨毯が敷かれた上で二つの影が重なった。胸の内に抱き締められた麻衣の頭は告げられた言葉も、この状態も、全てに追いつけなかった。否、追いつこうとしなかった。初めての接吻を想い人へ捧げ、この身を捧げ、全身を駆け抜け、やがて包み込む淡く心地良い幸福感。
「護人、さま……」
「俺さ、初めて麻衣と会ったときから一目惚れして。伴侶は麻衣だけだ、って心に刻み込んで。だから俺、麻衣が欲しい」
静かに佇む想い人の瞳はどこまでも澄んでいて、この身を捧げようと決めた。もう、この身は想い人の物なんだ、と。何も考えることをせず、想いのままに護人を受け入れ、己を捧げて。
「私も、麻衣も護人さまが好きです。大好きですっ。あの日、護人さまと出会ったときから麻衣の心は全て護人さまで埋め尽くされました……愛しています」
熱を持ち、少女の中に垣間見えった妖艶な愛情。感情の赴くままに身を想い人へ捧げ、想いが口元から言葉として滝のようにとめどなく溢れ続ける。二人の想いは結ばれ、祝福の金を鐘を鳴らす戦術機のエンジン音が甲高く舞い上がる。上空を通過した戦術機の巻き起こす気流に紅葉の絨毯は膨れ上がり、二人の姿を覆い隠す聖域を作り出す。
▽
二人が想いを通わせてからというもの、様々な波紋を広げながら事は進んでいく。特に武家社会でそれが顕著に表れていた。五摂家が一つ、九條家の男児に婚約者ができたのだから。
武家社会では注目を集め、一体どこの家の娘かと多くの者が憶測を並べ立てる。曰く、月詠の娘だと、曰く、かの篁中佐が遺した娘だと、曰く、とある将官の子女だと、曰く、国政を司る者の子女だと。数々の憶測が並べ立てられるが、話題に上った家は悉くが否定する。月詠も、篁も、多くの有力武家が否定し、次いで本人の語った市井の娘ということが更に大きな波紋を呼んだ。
将軍を輩出し、最も影響力の大きい五摂家、その一つたる九條家に市井の娘を迎え入れるのか、と。
他の有力武家や、国政、或いは武人の娘とならば大きな影響力を誇るというのに。事実、己の才もさることながら野心家でもある斑鳩崇継は煌武院の娘と許嫁であり、若き身ではあるが武家社会、斯衛では大きな影響力を誇っている。
多くの者たちが勿体無いと惜しむ声を挙げているが、九條護人を知る者らの反応はこうであった。
幼き時分から連れ回し、弟のように面倒を見たり共にやんちゃしていた斑鳩崇継はめでたいことだと祝福し、ついでとばかりに惜しむ声の多い武家社会に対しこう言ったという。
「あやつは野心や権力志向が皆無でな、興味の欠片もない。ただ、あの雲みたいに掴み所のない愚弟の心を掴んだのが市井の娘というだけ、ということであろう」
同じ五摂家として付き合いのある崇宰の次期当主、恭子は歳下の護人に先を越され祝福しつつも違う意味で涙が止まらなかったと篁の娘が述べていた。
「護人って、確かまだ16よね……16、あぁ……斑鳩の野郎にも許嫁がいたっけ。このままじゃ、私が売れ残りみたいになるじゃない」
「恭子様が一気に老け込んでしまったようだ……」
他の五摂家も似たり寄ったりで、惜しむ声は確かにあるけれどもそれ以上にめでたいことだと好意的である。次代を担う若者に婚約者ができたのだ、惜しむことはあろうと反対する理由はどこにもない。
こうして武家社会では波紋を広げつつも五摂家を筆頭に概ね好意的な反応を見て九條家現当主は思わず夢なのかと従者に訊ねたらしい。しきたりや伝統に囚われないやんちゃ坊主だけに、護人をここまで祝福する者がいるとは思えなかったのだ。
余談だが、同じやんちゃ坊主でも崇継や真壁介六郎は優秀な才を開花させ周囲に評価される一方で、護人は衛士の腕や剣術と言った戦技の他はてんで駄目である。それ故にただの武人、九條家の次期当主としては心許ないと陰で囁かれてもいた。
最も、当の本人たちは様々なことで忙殺されていた。高原家へ挨拶に伺えば、麻衣の両親は諸手を挙げて婚約に賛成し、更にはその場で娘の幸せを願い泣き崩れ。麻衣の九條家へ迎え入れる煩雑な手続きや段取り、関わりのある家々への挨拶、更には世間への公表について。
護人は16歳、麻衣は13歳、まだ結婚は認められていない年頃だが当の本人たちは既に新婚も同然、幸せ全快だった。九條家では花嫁修業も兼ねて麻衣を迎え入れる準備をし、通っている中等学校からの転校手続きや部屋、荷物など、更には五摂家や有力武家などを集めての晩餐会まで。
世間への公表については、九條護人が市井の娘と婚約した程度に留めるらしい。当たり前と言えば当たり前で、武家社会に身を置いてるのならば兎も角市井の出だ、本名やその他詳細を公表するのは時間を置いた方が良い。
それら全てを一通り済ませ、麻衣が帝都にある九條本家の屋敷に迎え入れられたのは季節が移り変わり雪が降りつつある頃だった。帝都での初雪が降った日と言われている。
「本日からお世話になります、高原麻衣です。不束者ですが、どうかよろしくお願いいたします」
一つの愛が起こした波紋は、武家社会という小さな世界にしか大きく広まっていない。されども高原麻衣の名を持つ一人の少女が九條家に迎え入れられた事象は、後の物語に大きな波紋を及ばせるとは知る由もない。
一方、帝国から遥か遠く離れたアラビア半島では、戦線の崩壊が時間の問題とされ大規模な撤退戦も視野に入れ始められていた。1996年が終わるのも、あと少し。
短いですがキリが良かったので。
アラビア半島とスカンジナビア半島の防衛線は半島防衛線としてBETA大戦の作中世界でもかなり評価できるかと。10年持ち堪えていますし。
あと、マレーシアも原作開始時に自国領土を保持してる辺り、朝鮮半島が脆弱過ぎたのかなぁとの思いが否めないです。大陸から後退する戦力が損耗していたから仕方ないとはいえ。