使い込まれた陶磁器のカップを揃いのソーサーに置くと、彼女は窓辺に目線を送る。
大きな雲のかかる空を見上げる顔は静かで、ついとカップの縁をなぞる指は靭やかに。
そうしているだけで周囲は咲き誇る花々の香りに包まれるほどになるが、今日は少しだけ冷たい気配も漂っていた。それは愛する向日葵よりも露に濡れた紫陽花を思わせるほどに、漂っていた。
ふぅ、と、二口目を含み、しばし雲を見つめ、またカップに手を添える。
それから外の天気と手元を交互に見比べる彼女。
表情も天気を宿してしまったように少しだけ陰っているようにも思える。
きっと憂いているのだろう。昨日植え付けたばかりで土も柔らかく、その根もいまだ覚束ない幼子が雨に濡れ、凍えてしまうかもしれないことを。
「雨除けをしてくればよかったわね」
玄関先へと視線を移して独り言。
立てかけてある愛用の傘に向かって語り、それでもと、自問自答を続ける。
綺麗にしてもらったからもう大丈夫と、そう言ってくれたから。
ありがとうと言われてしまったから、あの子が望んだことだから。
彼女はそれ以上を出来ないままにいた。
それでも、わかってはいるがどうしても考えてしまう。
庭の端に植えるだけで済ませてしまったけれど、それでもと。
終わりのない問答は彼女の頭に降り注ぎ続けるが、答えは出ない。
このままでは幼子よりも先に彼女の顔が涙に濡れてしまうと、そう感じさせるほどの悩みだ。
「やっぱり少しくらいは……」
コトリ、手にしたカップが空いた頃、ようやく彼女は席を立った。
だが、決断を下すには遅かったようだ。大きな悩みの後ついに思い立つも、見上げていた空は彼女の表情が感染したように暗くなっていく。
―ガタン―
この家で聞くことのまずない音、焦燥感の宿る音が部屋に響く。
と、次にはバタン。
玄関扉からも大きな音が立つ、彼女が飛び出したのだ。
「待ってなさいよ……!」
ポツポツ、外に出ると同時に降り出したものは彼女の髪を濡らす。
しかし今は気にしていられない、自分が濡れることよりもあの子が冷えてしまうことが気になってしまい、それどころではなかった。
ゆっくりと過ごしていた今までが嘘のように。
これまでの優雅さなぞ最初からなかったように。
早足に庭へと走っていく、持ち出した傘を差すことも忘れるくらいに、急いであの子の元へと向かう、それだけが彼女の頭にあった。
早く、早く。泥がスカートに跳ねるのも気にせずに彼女は走った。
庭とは言っても太陽の畑の全てが彼女の庭である。咲き誇る向日葵を眺めながら歩けば数時間は滞在できる広さが今は恨めしい、今日ばかりは自分の足の遅さが恨めしいと、そんなことを考える暇もないままに彼女は走った……強くなる雨も気にせずに。
そうしてたどり着いた庭の端、あの子を植えた辺りに来ると彼女の傘はようやく花開いた。
雨に凍えるあの子のために、ではなく、今眼の前に広がっている光景をゆっくりと眺める為に。
彼女の眼の前には大きな葉のカーテンが折り重なっていた。
それは先達の仲間たちの葉、早咲きの向日葵達が力を振り絞って作り出した小さく弱い屋根だが、彼女にはこれ以上ないほど心強いものに見えた。
「貴方達、無理をして……」
重なる葉に触れる彼女の指。
そっと触れるとその葉は先から色を変え、残っていた緑色も黃から茶へ染まる。
夏の始まりを前にするりするりと変わっていく向日葵の葉、茎。
花の妖怪に愛された花といえど彼らはただの花だ、無理をすればツケを払わなければならない。
「そう……ありがとう」
葉が落ちて、茎が萎びて。
ぽろぽろと崩れていくそばから地に帰る向日葵に向けて、彼女は満面の笑顔を送る。
小さな子をよろしくね、とでも言われたのだろう。
夏にまた会おうねとでも言われたのだろう。
彼女にだけわかる言葉はきっとそう言っていたはずだ。
「また夏に会いましょう」
瞳の端からは先の雨よりも強く暖かな雫が今にもこぼれ落ちてしまいそう……
……だが、それでも。
彼女は笑って送ることにした。
「この子と一緒に歓迎するわ」
最後まで笑顔のままで、散った彼らが消えるまで。
我慢しきれず、頬を伝うものが幼子の若芽を濡らすようになるまで。
それでも、向日葵に陰りは似合わないと知っているから、微笑んだままで。