WHITE ALBUM2 Concert route 作:powder snow
旋律という言葉がある。
それはリズムを伴った楽音の連なりを表す言葉であり、音楽を構成する基本的要素の一つ。流れに意味を持たせ、単音でしかない不確かなものに形を与える。
節、メロディとも言うが、今この場において、その旋律が艶やかに奏でられていた。
寄せては返す波のように緩急のある響き。
この場の主役は室内中央に設えられらているグランドピアノか、それともそれを操る奏者のほうか。防音の行き届いた室内に観客の姿は無く、彼女の演奏を褒め讃える者の姿はない。
けれど、そんなことは彼女にとって瑣末事だ。
観客はいらない。拍手にも喝采にも興味がない。聴く者を魅了するような甘い旋律を奏でながらも、彼女はそれらを求めていない。
この演奏があくまで練習――一日の十時間を費やす日課なのだとしても、無為にしてしまうに惜しい。
そう感じるくらい素晴らしい演奏なのに。
「――」
すらりと伸びた指先が鍵盤を叩き、次々に新たな旋律を生み出していく。
白磁のような白い肌。纏う衣装もまた白く、それらと対比するような綺麗な黒髪は、真っ直ぐに彼女の腰まで伸びていた。整った顔立ちと、モデルもかくやというプロポーションは、街を歩けばさぞ男性の衆目を集めることだろう。
とても魅力的な女性であると断言して差し支えはない。だが悲しいかな、当の本人にその自覚は一切ないのだが。
彼女の名前は冬馬かずさ。
欧州を中心に活躍する新進気鋭、若手のピアニストである。
そして程なく軽やかな旋律を最後に演奏が一段落した。
そのタイミングを見計らったかのように、室内に渇いた拍手の音が響き渡る。
「……母さん?」
かずさが音のした方向へと振り返ると、そこにスーツを着込んだ一人の女性が目を細めながら立っていた。
「いつ、入ってきたの?」
「ついさっきよ。演奏に集中してて気付かなかった?」
言いながらスーツの女性――冬馬曜子は、かずさに近づいてから用意していた紙コップを手渡した。八分目まで満たされた液体は、スポーツドリンクに蜂蜜を加えた冬馬家特製仕様のものである。
「お疲れさま、かずさ。どう? 今日も彼との会話は捗ったかしら?」
「……言ってる意味が分からない。あたしは普通に練習してただけだ」
コップの中身に口をつけながら、かずさがゆっくりと椅子から立ち上がる。それからそのままの姿勢で軽く“ん~っ”と伸びをした。
「惚けるならそれでもいいんだけどねえ。それで例の件なんだけど、考え直してくれた?」
「例のって、何のことだ?」
「だから、私のニューイヤーコンサートのこと。日本でやる、ね」
「……」
日本という単語が耳に届き、かずさの眉根が微かに動いた。
彼女達は名前が示す通り日本人だが、現在住んでいる場所はオーストリアの首都であるウィーン。
「来てくれるんでしょ?」
「……行かないなんて一言も言ってない」
「行くとも言ってないわよね?」
「揚げ足を取るな。心配しなくてもちゃんと行くよ。……大晦日に」
「大晦日ってコンサート当日じゃないの。日程はどうするつもりなのよ?」
「もちろん次の日に帰るよ」
「次の日って、元旦よ? 正気?」
「別に問題ないだろ。母さんのピアノを聞きに行くだけなんだから。聞いたら……帰る」
「……かずさ」
実の娘の解答に対して、曜子は嘆息で答えた。
「彼のことまだ引きずってるんでしょ? ある意味チャンスじゃないの」
「言っている意味が分からないっ」
「ギター君に会えるかもしれないわよ?」
「…………っ」
かずさにとって禁句に近い名前。それを口にされて言葉が詰まる。
――会える訳ないじゃないか。今更……あいつに会える訳……。
ぎゅっと目を瞑った状態でかずさが俯く。
こうして瞳を閉じれば、今でも鮮明に彼の姿を思い浮かべることができる。けれど彼女に許された行為はここまで。
これが精一杯。
一度唇を噛み締めてから、かずさはそっと瞳を開いた。
その時真っ先に目に飛び込んできたのは白と黒とのコントラストだった。けれど先程まで華麗な旋律を奏でていた鍵盤は何の答えも返してはくれない。
「……あたしは、なんにも引きずってなんかいない。未練なんか……ない、よ」
「そんな今にも泣きそうな顔しちゃって。未練たらたらじゃないの。けれど、まあいいわ」
大袈裟に肩を竦めつつ再度嘆息する曜子。かずさが素直じゃないなんてのは織り込み済みだ。
「私はコンサートの準備やらなんやらで一月前には発たないといけない。だから気が変わったら連絡して頂戴。待ってるから」
「気なんか変わらない。――変わるわけないだろ」
「あれからもう三年よ。そろそろいいんじゃない?」
「……っ」
かずさの心を縛っているもの。捉えたまま決して離さないもの。
曜子は自身の日本公演を契機にそれを何とかしたいと考えていた。
彼女とて人の親。娘の幸せを願わずにはいられない。
出来れば最良の選択をしてかずさに笑顔をプレゼントしたい。けれどそれが不可能なのならば――娘を縛っている鎖を断ち切る切欠になればいい。
そうとも思っている。
結局かずさは、曜子の思惑に半分乗る形で予定より一週間早く来日することになった。
大晦日の七日前。
――十二月二十四日、クリスマスイブに。
「メリークリスマス、かずさ。ごめんね、こんな日に呼びつけちゃって」
「全くだ。折角あんたがいないウィーンを満喫してたってのに。いい迷惑だよ」
「あら、ふくれっ面ね。もしかしてデートの予定でもあった?」
「それ嫌味か? あたしにそんな相手がいないの知ってるくせに」
場所を日本に移しての十二月二十四日の深夜。
曜子が滞在しているホテルの一室にかずさの姿があった。やや大きめなトランクから溢れる重装備感。
どうやら空港からここまで直行してきたらしい。
「荷物ここに置くよ。――っと。ふう。移動につぐ移動だったからさすがに疲れたな」
「空港からタクシーで来たの?」
「ううん。電車で御宿に出てからタクシーで。もう少しで終電逃すところだった」
「久しぶりの日本だからって迷子にならないでよ。――ねえ、かずさ。なにか飲む? お酒以外ならすぐに用意するわよ」
「じゃあコーヒー。思い切り甘めのやつ」
「オーケー」
部屋の隅にトランクを放置したかずさがソファに座り込む。
彼女の目の前には高級感のあるガラステーブルが設置されてあり、その上には今まで曜子が飲んでいただろうコーヒーカップが置いてあった。
そこに視線を移したかずさが、近くにあった一冊の雑誌に目を留める。何気なく手を伸ばしたかずさは、その雑誌の表紙を見て思い切り絶句することになった。
「え? なに……これ?」
「ふふ。それがわざわざあなたを日本まで呼んだ理由よ。どう、驚いたでしょう?」
「驚くもなにも――」
雑誌の名前はアンサンブル。隔月発行の音楽雑誌であり、かずさも日本にいた頃はよく購読していたものだ。
だから雑誌自体に違和感はない。
その表紙にでかでかと自分の写真が載っている以外には。
「……正直、訳が分からない」
「海外で活躍する若き才能って特集が組まれてて、その中からあなたが表紙に選ばれたってだけよ」
「なっ、こんなのあたしは許可してない!」
「私が許可したのよ」
かずさの対面に座りながら曜子がコーヒーの入ったカップをかずさの前に差し出す。それから雑誌の表紙に指を置きながら
「相変わらず写真写り悪いわよねえ。実物はもっと美人なのに」
「そんなことは聞いてないだろ」
「――冬馬かずさのあらゆる権利は冬馬曜子オフィスが保持している。分かってるわよね? それにこっちじゃ結構話題になってるんだから」
「……は?」
「ミステリアスなんですって。トラスティでの準優勝を受けて、ちょっとしたアイドルみたいな扱いになってるわ」
「冗談、だろ?」
悪夢だとばかりにかずさが目元を覆う。
言われてみれば空港からこっち、不思議と他人の視線を感じてはいた。けれどそれは旅行者に向けられる奇異の視線のようなもので、冬馬かずさという個人が注目を浴びていたとは思わなかった。
「まさか、わざわざこの為にあたしを呼んだのか……?」
「半分は正解ね。中にあなたについて書かれた記事があるわ。読んでみて頂戴」
「…………」
複雑な心境を抱いたまま、かずさが雑誌に手を伸ばす。
それから付箋が張ってる箇所が記事のあるページだろうと当たりをつけ、ゆっくりと押し開く。
「…………なん、だよ、これ……」
まず目に入ってきたのはまたしても自身の写真。次いでビッシリと書き込まれた文字列。
かずさはその内容を冒頭から読み進めてすぐに絶句した。
決して小さな記事ではない。それどころか複数ページにまたがり写真付きでかずさのことが紹介されている。
扱いは良いのだ。
「……ふざけんな」
問題は書いてある内容のほう。
率直に言うと暴露記事だった。冬馬かずさという人間の過去を暴き、記す。高校時代の彼女はあまり褒められた人物ではなく、どちらかと言えば不良と呼ばれる部類に属する人間だった。
そこに至る過程や理由はあったにせよ、こうして記事にされればどうしても悪い部分が目についてしまう。
在学した三年間の欠席日数。親しい友人を作らず一人でいることが多かった。等等。
「あたしが私生児で悪いかよ。そのことでこの記者に迷惑かけたって、いうのかよ……!」
憤りからか、雑誌を持つ指に力が篭る。だがすぐにその怒りの矛先は目の前にいる人物へと転化された。
「母さんっ!? これ――」
「私が全面的に許可を出したのよ。オールオッケー。全く問題ない内容よね」
「けどっ……!」
「いいから。最後まで読んでみなさい」
「……っ」
釈然としない心を抱えながらもかずさは再び紙面に視線を落とした。
その後も記事の傾向は変わらず、暴露的な内容が続いていく。それだけじゃなくかずさの生活習慣への駄目出しのような語句さえあり、手放しで褒め讃えるような感じは一切見受けられない。
これが雑誌の表紙さえ飾った彼女に対する特集なのか。
あまりにも扱いが悪すぎる――そう思ったものの
「え?」
けれど彼女は気付く。
この記事の内容があまりにも詳しすぎることに。あまりにも事実に沿っていることに。
とても深く掘り下げられていることに。
ここまでかずさの事情を知っている人間なんて、今の日本には一人しかいないという事実に。
「まさか……」
「まるで説教みたいな記事よね。あなたを前にして叱っているような。それでいて語り手の愛情が透けて見えるっていうのか」
「……っ」
「この記事とっても評判良いのよ。日本における冬馬かずさの人気の火付け役になった切欠よね。嬉しいことに売り切れ続出みたいだし」
美貌と才能に恵まれた有名ピアニストの直系。
欧州での実績と輝くばかりのコンサート会場。そこで演奏する冬馬かずさ。
本来なら美辞麗句で賛辞されるべき記事だ。
だが内容は逆。あくまで事実に沿って褒めるべき箇所は褒め、駄目なところをはっきりと指摘する。
そこに見えない愛情を絡めながら。
文字列を追い、次々と読み進め、最後まで読み終えて――結局最初からそれを三回繰り返してからかずさは顔を上げた。
「……これ、母さん。この記事書いたの、誰!?」
「さあ? けどその気になれば連絡ぐらいなら取れると思うけど。どうするかずさ? 興味ある?」
「えっと……」
「私はこの記事あなたへのラブレターだと思ったわ。――今でも変わらず思い続けています――的な。そう感じなかった?」
三年間離れていた。その間一度の連絡も取らず、声さえも交わさず。
互いに“相手は自分のことを忘れ新しい道を歩み始めている”そう思っていた。
だって、二度と会わないはずの二人だったから。
「連絡取ってみる? ただ今日はイブだから、編集部にかけても繋がらないかもしれないけど」
「……っ」
逡巡したのはほんの一時。
「か、母さん! で、電話……」
「電話?」
「借りても……いいかな?」
「電話ならそこに備え付けのがあるけど――」
曜子が視線で室内の電話を指す。かずさも曜子の視線を追いそれを見つけだすが、迷ったような素振りを見せつつ席を立とうとしない。
「……」
「かずさ。これ母さんの携帯。長電話でも構わないから掛けてらっしゃい」
「あ、ありがと!」
かずさの挙動から娘の思いを読み取った曜子は、自身の携帯電話を取り出すと娘の手へそっと握らせてあげた。
携帯を受け取ったかずさは視線を走らせ、バスルームらしき場所の目星を付けるとそのまま中へと踊り込んだ。それから手で扉を閉めるのも億劫とばかりに、背中で扉を閉じながら指で携帯を操作する。
「……はは。なんで、覚えてるんだろ……。三年間一度も掛けたことなんてないのにさ……」
全く色褪せることなく記憶の中に残る番号。
一つ一つ、今までの距離を埋めるようにボタンをプッシュしていく。
こうしてバスルームに飛び込んだのは、彼との会話を聞かれないため。だって自身でも何を口走るか想像もできなかったから。
携帯が繋がりコール音が鳴る。それにあわせかずさの心音がどんどんと高鳴っていった。
どう切り出そうか。
どんな反応を返してくれるんだろう。
相手は自分のことを覚えているだろうか。
ただ電話を掛けているだけなのに緊張から喉がひりつくし、携帯を持つ手が細やかに震えている。その状態からかずさを解放する瞬間が遂に訪れた。
コール音が途切れ、相手が電話に出る。
「この電話は現在電波の届かないところにあるか、電源をお切りになっている……」
耳に届いてきたのは抑揚のないガイダンスの音声。このまま待っていたら留守番電話へと繋がっていくのだろうが、かずさはそれを待たず携帯の通話を切った。
「……っふ、ふはは。そうだよ、な。今日、クリスマスイブ、だもんな……」
高揚していた気分が一気に沈静化し、代わりにどうしようもない虚脱感が襲いかかってくる。
気を抜いてしまえばそのまま崩れ落ちてしまいそうな倦怠感。それを背中を壁に預けることでどうにか凌いでいた。
携帯を握ったままの腕を上げ、目元を覆う。
別に涙を拭ったわけじゃない。ただこれから溢れてくるものを塞き止めたかっただけ。
「酷い奴だよお前は。あんな記事書いて、あたしの心かき乱してさ……」
右手に握った携帯がやけに重い。重いからかずさは再び携帯を耳に当てた。
「手なんか届かないのに、言葉なんか掛けられないのに、声も届かないのに……会いたいって、思っちゃったじゃないかぁ」
通話は途切れている。だからこれは独り言。
かずさの一方的な思いの吐露で終わる、ままごとだ。
「なあ北原。今日誰と一緒にいるんだ? 隣に誰がいるんだ? 雪菜と一緒に、いるのか?」
名前を言葉に乗せることで少しだけ勇気を貰い、もう少しだけ前に進む。
「……あたしは一人だよ」
電話だから言える言葉がある。かつてそう言ったのは誰だったか。
「春希……。会いたいよぅ、春希ぃ……」
三年間ずっと心に秘めていた。叶わない願いだと知っていたから。
それでも本音を口にすればもう自分を支えていられない。かずさは壁を背にしたままゆっくりとその場に崩れ落ちていく。
「日本になんて、来るんじゃなかった……」
扉を閉めていて良かったとかずさは思った。どんなにむせび泣いてもきっと曜子には届かないから。
今宵は恋人達にとっての聖夜。
クリスマスイブ。
ホテルの外では真っ白い雪がひらひらと降り始めていた。