WHITE ALBUM2 Concert route   作:powder snow

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第九話

 普段あまり人の行き来のない往来も、新年を迎えるこの日ばかりは様相を一変する。

 沿道には様々な種類の屋台が並び立ち、それらを冷やかす参拝客は道路の全面を占領する形で歩いていた。

 家族連れやカップル、団体の若者など、お年寄りから子供まで男女問わず幅広い年齢層の人々がにこやかな笑顔を浮かべながら、年に一度のお祭りを楽しんでいるのだ。

 もちろん屋台の主も今こそが稼ぎ時なので、声を張り上げ目の前を通る人を呼び込んでいる。

 ありていに言って活気があるのだ。

 

『連絡遅くなってごめん。今春希と一緒にいる。だから心配しないで』

 

 大勢の人でごった返す沿道にも時々エアポケットというか、ちょっとした空きスペースが出来ることがある。

 それは街路樹の下だったり、曲がり角だったりと様々だが、歩き疲れた人などが適度に休憩するスペースとして自然と活用されていた。

 人込みの中では使い難いだろうスマホや携帯を使って連絡を取り合う人の姿も目立ち、その中に一人で佇むかずさの姿もあった。

 彼女は日本で使う為だけに購入した(曜子に無理やり持たされた)携帯を使ってメールを送っている最中だ。

 送信相手は冬馬曜子。

 時間的にコンサートも終わっていて、携帯を取る余裕もあるだろうと連絡を入れたのだが、慣れないメール打ちに四苦八苦している姿が微笑ましい。

 彼女的には直接電話を掛けたかったのだが、相手が出られない状況もあるだろうと考慮しての選択だった。

 

『あと約束守れなくてごめん。コンサート聴けなくてごめなさい』

 

 打ち終わった文面を眺めて、やっぱり書き直そうと思って、それでもうまい言葉が浮かび上がらず、結局かずさはそのまま送信ボタンに指をかけメールを送った。

 すると思いのほか早く相手からの返信が返ってくる。

 

『おめでとう。良かったわね、かずさ。約束のことなら気にしないで。また後日ギター君を交えて食事にでも行きましょう』

 

「は、はは……」 

 

 付け加えられた後日という一文を見てかずさの表情が綻ぶ。

 言外に今日で終わりでなくていいのよと伝えられた気がしたのだ。けれど携帯を操作しメール欄の最後に添えられた“追伸”の部分を見たかずさは、小さな驚きの声を上げることになった。

 

『――追伸、避妊はちゃんとすること。若いからって羽目を外しすぎないようにね』

 

「……避妊って、一体なんの心配してるんだよ……母さん」

 

 非常に反応に困る一文を見てかずさが苦笑する。

 曜子的に愛しあう二人が出会えば後はすることは一つだろうと言いたいのだろうが、こればかりは幾ら彼女に“その気”があろうとも相手の意思が重要になってくる。

 春希に迫られたら嫌とは言えないかずさだが、彼に“その気”がなければ始まらないのだ。誘惑するなんて大冒険は今の彼女にはできない相談である。

 

「春希。お前、母さんに変な期待されてるぞ。責任重大だぞ。男ならちゃんとエスコートしてみせろよな」 

「お待たせ、かずさ。たこ焼き買ってき――」

「うわあぁぁああっっッッ!!」

 

 突然背中から春希に声を掛けられ、飛び上がらんばかりの勢いでかずさが悲鳴を上げる。

 そんな状態に陥りながらも、かずさは振り向きながら持っていた携帯を後ろ手に隠し、証拠の隠滅を計った。

 

「は、春希……?」 

「なんだよ急にそんな大声出して。俺、そんなに驚かせたか?」

「いつからそこに……? っていうか今の聞いてた?」

「なんのことだ? 俺、今戻ってきたところだよ。それよりほら、たこ焼き買ってきてやったぞ」

 

 そう言って春希が竹の船に乗せられ状態のたこ焼きを差し出した。

 熱々の状態を誇示するように立派な湯気を立ち上らせていたそれは、ソースの香ばしい匂いも手伝ってとてもかずさの食欲を刺激する。

 

「ありがと。けど買ったのってひとふねだけ?」

「まあな。結構買い食いしてきたし、八個入りだから四個づつ分けて食べよう」

 

 無事神様に願い事をし、参拝を終えた春希とかずさは、当初の約束通り屋台物色タイムに突入していた。

 所狭しと並ぶ店の品揃いに目移りしながらも、食べ物を中心にチョイスしながら制覇してきたのだ。

 ちなみにここでの買い食い代金の大半は春希の出費となっている。

 何故なら

 ――なあ春希、屋台ってクレジットカード使えるかな?

 とはかずさの言葉である。

 当然の如く縁日の屋台でクレジットカードなど使えるわけはなく、現金を殆んど持ち歩いていなかったかずさは欲しい物が買えないという事態に陥った。

 少し持っていた現金はあろうことか参拝時の賽銭で奮発してしまい、結局春希に頼る格好になったのである。

 ――あの、プリン、美味しそうだなぁ……春希と一緒に食べたかったなぁ。

 デザートを前にして、クレカを握りしめたまま涙目になっているかずさを見れば、春希でなくとも助けたくなるのは仕方ないだろう。

 

「そうだ春希。たこ焼きってさ、中身がタコじゃなくてもたこ焼きって言うのなんでかな?」

「え?」

「チーズが入ってたりウインナーが入ってたりすることあるだろ? でもチーズ焼きとかウインナー焼きとか言わないじゃないか」

「そりゃまあ……なんでだろ」

「タコが主役なわけじゃないか。なのにそのタコがいなくなってもたこ焼きって、ちょっと変な気しないか?」

「お前、妙なところに興味持つんだな」

「だってアーティストだしね」

 

 得意満面になって断言するかずさに、春希はアーティストって関係ないだろ、と突っ込むのを忘れない。

 そう突っ込みながら、かずさの目の前に件のたこ焼きを差し出す。

  

「じゃあ熱いうちに食べるか。かずさそこの――って、爪楊枝が足りないな」

「……うん。一本しか入ってない」

 

 入れ忘れたのか、はたまた店主がケチったのか。たこ焼きには長めの爪楊枝が一本刺さっているだけだった。

 その状態のたこ焼きを眺めながら、暫し額を付きあわせる春希とかずさ。

 

「俺、後でいいよ。かずさ先に食べてくれ」

「なに言ってんだ。そんなの味気ないだろ。二人で一緒に食べて感想を言いあうのがいいんじゃないか」

「じゃあもう一本、爪楊枝もらってくるか?」

「そこまでしなくてもいい解決方法がある。……春希が食べさせてくれ」

「は?」

 

 かずさが何を言い出したのか理解出来ないと、春希の目が点になる。

 

「だから春希があたしに食べさせてくれればいいんだ。で、次に春希が食べる。これで問題解決じゃないか」

「問題解決って……それ俺に“あ~ん”しろってことか?」

「そうだよ。あ、熱そうだからついでに“ふぅふぅ”して冷ましてくれ。あたし猫舌なんだ」

「お、お前な……」

 

 再会してから数時間一緒にいただけで、お互いにかなり遠慮が無くなってきていることを自覚していた。

 まるで昔に戻ったかのような。放課後の教室で二人でいた時のような。そんな感覚。

 遠く離れていても相手のことを思わない日は無かった二人だ。切欠さえあれば忌憚なく言葉を交わし合うのは容易だった。

 

「もしかして嫌なのか?」

「嫌じゃない、けど……」 

 

 空きスペースとはいえ周りには大勢の人がいる。

 やはり春希としては他人からの視線が気になるのだ。

 

「けど、なに?」

「っ……」 

 

 互いに相手の肝心な部分には踏み込めていない。けれど、だからこそ二人は、今のこの時間をを掛け替えのないものとして楽しんでいる。

 全力で楽しもうとしていた。

 だって手を離せば切れてしまう。そんな儚い再会だって気づいていたから。

 

「春希ぃ、早くぅ。たこ焼きが冷めちゃうだろ?」 

「あーもう、わかったよ! やればいいんだろやればっ。じゃあ……あーんっ!」

「あーん」

 

 かずさが口を開いてあーんをする。

 それを受けて春希は、爪楊枝をぶっ刺したたこ焼きを船から掬い出し、一度丁寧にふぅふぅと冷ましてから、かずさの口元へと運んでいった。

 周りに大勢人がいる中での羞恥プレイと、目を閉じて無防備な姿を晒すかずさ可愛さのダブルパンチが、彼の精神力を根こそぎ削っていく。

 

「……うまいか?」

「ん、んぐ。……っん。まあ、こんなもんかな」

「なんだよ、それ。美味いのか不味いのかハッキリしてくれ」

「今の感想は別のことについてだ。味は美味しいよ。ソースの風味が生地に合ってるし。だから、もいっこ!」

「待てって。俺にも一つ食わせて」

 

 かずさを制止し、春希がたこ焼きに爪楊枝をぶっ刺し一つ口に放り込む。

 

「……お、ホントだ。結構うまいな、これ」

 

 そんな春希のことを、かずさは穏やかな瞳でじっと見つめていた。

 彼の隣にある幸せを噛み締めながら。

 

 

 初詣で賑わう場所から離れていくと、途端に喧騒が届かなくなってくる。歩いている人の姿もまばらで、時折すれ違う人影も大人しいものだ。

 住宅街に目を転じれば、窓から明かりが零れている家も少なく、車の交通量も数えるほどに減っている。

 それも当たり前と言えば当たり前で、新年を迎え時間感覚が曖昧になっているが、現在の時刻は深夜の二時を過ぎていた。

 春希はそんな夜道を歩きながら、ふと目にした空の色に違和感を覚える。

 

「……あっ。いつの間にか雪、止んでたんだな」

「気づいてなかったのか? お参りする途中にはもう止んでたぞ」

「そっか。俺、色々と夢中だったから……気づかなかった」 

 

 雪は止んでいても気温は零下近くまで下がっている。

 二人は寒さを凌ぐには相手の体温こそ最適だとでも言うように、寄り添いながら歩いていた。

 手を繋いだまま、恋人同士の距離で。

 

 目指しているのは最寄の駅。始発が動き出すまでかなりの時間はあるが、その場でタクシーを拾えば問題なく帰宅することができる。

 春希は自分の部屋へ。かずさは母親が待つホテルへと。

 それが二人の別れの時間なのだと春希もかずさも気づいていたが、どちらも改めて言葉にすることは無かった。

 一度口にしてしまえば、否が応にでも意識することになってしまうから。

 極端な話、駅まで行かなくても車は拾えてしまう。けれど少しでも長く一緒にいる為に、こうして駅まで一緒に歩く道を選択したのだ。

 いっそ到着しなければいいのに、なんて思いながら。

 

「……駅、見えてきたな」

「うん」 

 

 けれど歩いていればいつか必ず目的地には着いてしまう。

 当然のように二人の視界に入ってきた別れの場所を見て、自然と足が止まってしまった。

 

「……」

「……」

 

 まだほんの少しだけ、猶予がある。

 その短い時間に何かしらの手を打てば、この二人の時間を延長することは可能なのだ。

 しかしそれは相手の領域へ強く踏み込むことを意味する。

 

 ――もし踏み込んで、相手に拒否されたら?

 

 このまま別れるのは身を引き裂かれるより辛い。けれど永遠に離れる決定打を受けるのには耐えられない。

 ここで別れてしまってもお互い日本にいればまた会うこともできるだろう。もし遠い国に行ってしまっても、今日みたいに偶然再会する可能性も残される。

 だけど――

 連絡先だけ交換して別れる方法はどうか。それも二人は考えた。けれど結局は逃げることに繋がってしまう。

 明日できることなら今日決断するしか繋がる道はない。

 三年前、結論を先延ばしにした結果、二人は愛しあったまま別れることになったのだから。

 

「……っ」

 

 寄り添うかずさを見つめて、春希はなにか口にしようと開きかけるが、結局は言葉をかけることができなかった。

 雪菜の悲しそうな表情が頭を過ぎった。

 武也や依緒の言葉が頭に過ぎり、麻理や千晶の励ましや思いが胸をついてくる。そして何より離れていたかずさのことが脳裏を占拠して止まない。

 ここで口を開いて出る言葉は決まっている。

 それを言ってしまったが最後、彼は止まれなくなるのを自覚していた。けれどその選択は、かずさを幸せにはしない。

 そう思っていた。 

 

「――なにか、言えよ」

「……っ。……ッ! か、かずさ。その……ホテル、近いのか?」

「ホテル? 近くはないな。けどタクシーを使えばそんなにかからない。……歩いて行けないってだけだ」

「そう、か……」

「それだけかよ? 春希、あたしになにか言いたいこととか、ないのかよ?」

「俺に何を言えってんだ? ハッキリ言ってくれなくちゃわかんないよっ。そういうかずさこそ、ないのか? 俺に、言いたいこと」

「あるよ。沢山あるに決まってるだろ」

「ッ」

 

 かずさの言葉に春希が身構える。

 けれど彼の期待したような言葉は掛けられずに――

 

「この意気地なし。臆病者。ヘタレ、弱虫。朴念仁。三年前は、あの頃はあたしがどんなに嫌がったって、幾ら突き放したってかまってくれたじゃないかっ。話しかけてくれたじゃないかっ! どうして……何も言ってくれないんだよぅ……」

「三年、経ったんだ。俺、変わったよ。より臆病になっちまったんだ」

「あたしは変わってない。あの頃のままだっ! なのにお前……馬鹿じゃないのか?」

「……馬鹿は本当のことだけど、酷いな。耳が、痛い……よ」

 

 本当に痛いのは耳じゃなく、心の中。

 その痛さをごまかす為に、春希はかずさと繋いだ手を強く握りしめた。

 

「酷いのは春希のほうだ。期待させて、そこから突き落として」

「そんなこと、俺、してない」 

「しようとしてるじゃないか。だから酷いって言ったんだ」

「もう、言うなっ」

「これでもまだあたしは言い足りないくらいなんだぞ? けどさ、春希泣いてるみたいだし……これくらいで簡便してやるよ」

「……え?」 

 

 強く握られていた手をかずさから振り解く。

 その空になった手を春希は呆然と眺め、その間にかずさは一歩彼から距離を取った。

 

「かずさ……?」

「春希。あたし、明日には帰るから」

「明日ッ!?」

「ウィーンに帰るから」

 

 かずさが切り札を口にする。

 当初の予定では曜子の演奏を聴いたら帰ることになっていた。けれどそれは“決定事項”ではない。かずさの思惑一つで時期をずらすことは可能なのだ。

 

「ぁ……くっ……」 

 

 期待を込めたかずさの声音、それに春希は応えられない。

 もし一度でもかずさを求めてしまったら、春希はきっと自分の欲望を止められなくなてしまう。

 冬馬かずさという欧州で順調に歩みだしたピアニストとしての存在を無視してでも、自分の感情を優先してしまう。

 それが嫌になるほどハッキリとわかっていたから。

 

「春希……」 

 

 かずさは握られた彼の拳を見て、彼の面差しを眺め、強く結ばれた唇を見つめて――それでも彼が言葉を紡がないことに落胆し、小さな溜息を吐いた。

 

「じゃあ、な。春希、短い間だったけど、会えて嬉しかったよ」

 

 最後に少しだけ本音を覗かせた彼女は、その台詞を境にして春希に背中を向けた。

 春希にはかずさの姿がまだ見える。けれど彼女の視界に春希の姿はない。

 その状態からかずさが一歩踏み出した。

 それが二歩になり、三歩になって――春希は遠ざかるかずさの姿を掴むように必死に手を伸ばす。

 けれどもう手が届く距離ではない。

 

「ぁ……かず……さ」

 

 靴音が響く度に二人の距離が離れ、彼女の姿が小さくなるにつれ、春希の心に凄まじい喪失感が溢れだした。

 胸が苦しくて、思ったように息ができない。とても大切なものが目の前から無くなる恐怖感から全身が震えだす。

 だから叫ぼうと思った。彼女の名を大声で叫ぼうとした。

 かずさ、かずさと彼女の名前を叫んで、この痛みを誤魔化そうとした。

 だけど、そんな魔法の言葉を紡ぐ前に、彼女がくるりと振り返ってきて――

 

「いいのか春希っ! あたし帰るんだぞ!? もう会えないんだぞ!? それでも……いいのかよぅ……!」

「……いいわけないだろっ! 離れたいわけないだろッ!」

 

 限界突破していた彼の我慢は、走り出すという形に変換された。

 離れてしまった数歩分の距離など無くしてやるとばかりに駆け出し、遂にかずさを正面から捉える。

 相手の肩から腕を回し、もう逃がさないと強く抱きしめた。

 

「馬鹿野郎……。帰るなんて言うなっ。もう会えないなんて言うなっ。悲しく、なるじゃないか」

「だってぇ……」

「ウィーンになんて帰らせない。ホテルにも戻らせない。俺の傍に……いろよ」

「春希……春希ぃ……」

「かずさ。今から俺の部屋に来い。黙って頷かないとこのままキスするぞ」

「……お前、あたしに頷いて欲しいのか、欲しくないのか、どっちなんだよぅ……」

「どっちもだ。けど今ので承諾したって、受け取ったからな」

 

 わからないほど小さな動作でかずさが頷く。でも彼女と接していた春希には確かに伝わった。

 離れていた手を再び繋ぎ、二人は春希の部屋へ向かっていった。

 

 

 

「入れよ。ちょっと散らかってるけど気にするな」

「散らかってるだって? この部屋のどこにそんな要素があるんだよ」

 

 春希の部屋に招かれる。その言葉の意味がわからないかずさではない。

 けれど深く考えれば考えるほど様々な感情がないまぜとなって溢れてきて、色々と制御不能に陥ってくる。

 嬉しさと恥ずかしさ。未知の場所へと赴く期待と不安。そしてどうしても気になってしまう一つの事柄。

 いつしか緊張は全身を支配していて、道中のタクシー内でどんな会話を交わしたのかほとんど覚えていなかった程である。

 けれど、一歩彼の部屋の中に入ってしまえば、そんな緊張状態が嘘のように飛んでいってしまった。

 彼のテリトリーの中に自分がいる。その幸福感が全てを上回ったのだ。

 

「いつもはもうちょい整頓してるんだけど、最近……忙しかったから」 

 

 忙しいとは真逆の生活――ここ数日は春希的にかなり怠惰な生活を送っていた為、散らかっていると認識していた室内だが、かずさの目には整理整頓されているようにしか映らない。

 

「綺麗だよ十分。でも、ここが春希の部屋かぁ。……うん。思ったより狭いな」

「お前んとこと比べるな。大学生の一人暮らしなんだぞ。狭くって当たり前だ」

「別に貶したわけじゃないぞ? 純粋なあたしによる感想だ」

「それが余計だって言ってんのっ」

 

 二人分の荷物とコートを部屋の隅に置いてから、春希はかずさに適当に座ってろと合図する。かずさに狭いと揶揄されてはいるが、大学生の一人暮らしにしては十分過ぎるほど豪華な部屋なのは確かだ。

 

「なにか飲むか? コーヒーくらいならすぐ淹れられるぞ」

「いらない。――あ、ミネラルウォーターがあれば欲しいかな」

「わかった。少し待っててくれ」

 

 来客用のカップを用意して、冷蔵庫から取り出したペットボトルから中身を注ぐ。それをかずさの前に差し出すと、彼女は美味しそうに喉を鳴らしながらそれを飲み干した。

 

「ありがと。けどさ春希、このカップ、男物だよな」

「来客用だよ。って言っても武也くらいしか来ないけどな。俺、あんまり部屋に人呼ばないからさ」

 

 正確には呼ぶ暇が無い。

 日々の時間の殆んどを学業とバイトに圧迫され、家に帰るのは寝る時だけ。そんな生活が三年余り続いていた。

 

「部長かぁ。なら水沢は来たりしないの?」

「あー、依緒もたまに。三人で夜通し飲んだりとかな。けど最近は俺の方が忙しくてご無沙汰だけど」

「……そっか。三人で、か」

「うん。三人で、だ」

 

 あと一人加わっていてもおかしくない。そのことを二人は重々承知していながら言葉を濁す。

 小木曽雪菜という名前を口にはしない。

 

「……」 

 

 それとは別に、和泉千晶という人間がこの部屋をよく訪れるようになっていたが、今の室内に彼女の痕跡は残ってはいなかった。

 

「…………」

 

 かずさが春希の部屋を隅々まで目を凝らし眺めている。

 ベッドやラック、テレビや電子レンジ。テーブルやその他の家具など、生活する上で必要最低限の品物しか目に入ってこない。

 かずさはそのことを不思議に思った。

 彼が生活している香りはする。けれどそこの他の人間、特に女性の影が見られないから。

 

「春希。この部屋って全然女っ気ないよな。どうしてだ?」

「どうしてって、そりゃ……決まってるだろ」

「決まってるのか?」

「俺がモテないからだよ。彼女なんかいなからだよ。そんな状態で女っ気なんて出るわけないだろ」

「っ!」

 

 彼女がいない。その春希の言葉がかずさの胸に響いてくる。

 トクン、と心臓が跳ねて、思いの丈を口にしたくなってくる。

 ――逃げちゃ駄目よ。しっかりと彼に甘えてきなさい。

 曜子の放った言葉がかずさの脳内を巡っていく。

 素直になりたいと、誰よりも当人であるかずさが強く願っていた。けれどその前に彼女にはどうしても確認しておきたい事柄があった。

 今まではどうしても口にできなかった名前。

 その名前を、今彼が放った言葉に勇気を貰って

 

「…………雪菜、は?」

 

 搾り出すようにして、やっと短い単語を口にした。

 

「彼女がいないって、雪菜はどうしたんだよ?」  

「………………………………フラれたんだ、俺」

「えっ?」

 

 再びかずさの心臓が強く跳ねた。

 全く想定していなかった彼の言葉に、一瞬歓喜の感情が沸きあがりかけて、それを必死に揉み消していく。

 

「雪菜、に? お前がフラれたって? 嘘だ……」

「嘘、じゃない。俺、拒絶されたんだよ」

「えっと……」 

 

 どう言葉をかけたらいいのか、かずさにはわからなかった。

 雪菜にフラれたというのなら、それまで二人はつき合っていたのだろうか。それとも三年前のあの日に破局したのか。そんな考えばかり頭の中に沸いてきて、思い切り自己嫌悪に陥っていく。

 目の前では春希が辛い表情を浮かべているのに、ある一点の事実にのみ目がいってしまい、喜んでしまいそうになる自分に嫌気が差していた。

 そんなかずさの思いは知らず、春希はただ“事実のみ”を重ねて喋っていく。

 

「お前と離れてからずっとさ、俺一人だった。三年間一人の彼女もできなかったし、作ろうとも思わなかった」

「え? ずっと? えぇ?」 

「忘れられなかった。だから新しい女を作ってやろうとか、彼女が欲しいとか全然思わなかった。雪菜すらも遠ざけてたんだ」

「……はる、き?」

「情けないだろ? 女々しいだろ? でも俺だって何度も忘れようとしたんだっ! ……けど駄目だった。声も聞けない、会えもしない女をずっと思い続けてさ……馬鹿、みたいだろ?」

「お、お前……それって」

「そんなだから雪菜にも愛想尽かされた。けどこればっかりは自分でどうしようもないんだっ」

 

 唇を噛み締めて、目尻に涙を溜め込んで、まるで子供みたいなベソを春希がかいている。

 そんな彼の姿がかずさの心を散々に乱す。

 胸が張り裂ける。そんな言葉では生ぬるいほどに。

 

「俺、自分に嘘つけなかった。かずさが好きだって、今でも大好きだって……その思いを偽れなかった……」

「あ、ああぁ……」

「けどさ、お前は違うんだろ? そんなに綺麗になって、美しくなってさ。モテるんだよな?」

「なに、言って――」 

「だって三年だぞ。男の一人くらいとっくに作ってるんだろ? 他の男放っておかないだろ?」

「ち、違う。春希、あたしの話を聞いて――」

「俺のことなんか、忘れて――」

「ふ……ふざけるなっ!」

 

 かずさの大声が春希の言葉を遮る。

 今が深夜だとか、他人の迷惑になるとか、そんなことはお構いなしに声を張り上げた。

 だって今すぐにでも、かずさは春希のたわごとを消し去りたかったから。

 

「あたしがモテるだろうって? ああそうだよ。何人も何人もあたしを口説いてきたさっ! 金持ちの男もいたし、才能があるアーティストもいた。でも誰もあたしを落とすことはできなかった」

「……え?」 

「誘われても全部袖にした。それがどうしてだかわかるか、春希!?」

「なんで……」

「ずっと恋していたからだよ。三年前からずっと、同じ男に焦がれていたからだよっ!」

「かず、さ……?」

「どうしてあたしの気持ちを勝手に決めるんだ? どうしてあたしの心をわかってくれないんだよ? あたしは……こんなにも、お前のことが好きなのに……!」

 

 かずさは自分が泣きじゃくっていることに気づいていなかった。

 そんなことよりも重要なこと――春希の勘違いを一秒でも早く正したかったから。

 

「春希、あたしはな、ずっとお前のこと思ってた。一人でピアノを弾きながら、お前のことだけを考えていたんだっ!」

「かずさ……」

 

 自分だけがそうだと思っていた。

 三年前の男を、女を忘れられず、ずっと引きずって、痛い男だと、痛い女だと、そう思っていた。

 

「――好きだ」

 

 かずさの声が春希に届く。

 

「大好きだよ。あたし、春希のことが大好きだなんだっ」

 

 声だけじゃなく、いつの間にか二人の距離は近づいていて。

 かずさがそっと春希の首筋に手を伸ばした。いつもは鍵盤を奏でているはずの彼女の指が、春希の首筋から頬へと撫でるように移動し、ついに彼の頭を固定する。

 あとは互いの唇を近づければ――

 

「愛してる……春希」

 

 けれど、ぎりぎりのところでかずさが躊躇する。

 あとほんの数ミリ近づけるだけで唇が重なるのに、自分からそれをすることができない。

 愛する言葉を囁いても、土壇場で怯んでしまう。

 

「うぅ……あぁ……あああぁぁ、春希ぃ……ひっぅ……」

 

 遂に決壊し、かずさが子供のように泣き出してしまう。 

 

「はる――ん、んんんっっぁ……!」

 

 そんな彼女を前にして我慢など出来るはずがない。

 最後の僅かに開いていた距離を、春希は自分の行動で超越させる。

 彼はかずさの頬に手を添えて、もう片方を頭側へ回すと、一気に自分の方へと引き寄せた。

 

「俺も、好きだ。かずさのこと……愛してる」

「んあ、あむっ……んん、んはぁ…あ、はぁ……んっ……はる、きぃ……」

 

 唇を重ねて、貪るように相手を求める。

 触れた肌が熱かった。重ねた手が熱くなる。

 三年ぶりに重ねたキスは、互いの心の中に溜まっていた澱を嘘のように溶かしていく。

 

「嬉、しいよ……春希、あたし……」

「かずさ。かずさ。かずさっ!」

「んっ、んあっ、はむっ……あむっ、あ、んぁ……あぁっ、はぁ、春希ぃ」 

 

 やけつくような熱さと、心を蕩かさせるような柔らかさを舌で感じながら、互いにキスに溺れていく。

 大好きな相手を身体を重ねられる幸せに、その身を焦がしていく。

 

「あ、はは。春希ぃ。あたし……」

「泣く、なよ。お前が泣いたら……」

「春希も泣いてるじゃないか。自分に出来ないことをあたしにさせようとするな」

「そんな生意気言う口は、俺が塞いでやるからな」

「あむっ……ん、はぁ……んんっ……」

 

 唾液塗れになって濡れるのも構わず、かずさは春希を、春希はかずさを求め続け

 

「かずさ、俺――」 

「いいよ、春希。あたしを求めてくれ。全部、お前の手で触ってくれ」

「っ……かずさっ!」

 

 もう二人を遮るものは何もない。

 春希はかずさをベッドまで誘うと、強引に組み強いて――

 三年ぶりの睦み合いは夜が明けるまで続いていった。

 

 

 

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