WHITE ALBUM2 Concert route   作:powder snow

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第十二話

 キッチンに立つ春希が煮立ってきた鍋の様子を確認している。中に入っているのは四角く切った豆腐とわかめ。後は弱火にして味噌を溶かし込めば簡単なお味噌汁の完成だ。

 春希はそれを軽く味見をしてからお椀によそい、二人分用意してテーブルへと運んでいく。他には卵焼きとウインナー、あとはボウルに盛られたサラダが置かれていて、お茶碗にご飯を盛り付ければ朝食の完成だ。

 

「今朝は日本食なんだな」

「かずさが食いたいかと思って。それともパン食のが良かったか?」

「どっちでもいいよ。ご飯でもパンでも」

「……なんとも作り甲斐のない答え方だな」

「じゃあ訂正。春希の作るものならなんでもいいよ、あたし」

「かずさ」

 

 炊飯器からお茶碗にご飯を盛り付けながら、かずさの言葉に感銘を受ける春希。料理が得意というわけではないが、やはり作り手としては美味しく食べてもらいたい。

 期待してもらっているなら尚更だ。

 けれど、そう思ったのも束の間、次の彼女の言葉によってその思いが砕かれていく。

 

「――ただ味には文句つけるけどな」

「つけるのかよっ! もう黙って食えっ」

 

 まったく我がままな奴だ、なんて呟きながら、春希がかずさの前にご飯を用意する。その間にかずさは、ペットボトルからお茶をグラスに注いで春希の前に差し出した。

 これで用意は全て整った。ならばとかずさは箸に手を伸ばし、早速卵焼きを食べようとしたところで――春希からの無言の圧力に気づき動きを止める。

 

「…………」

「なんだよ。そんなに睨むなよ」

「――か・ず・さっ」

「わかった。わかったから。本当厳しい奴だ。……いただきますっ」

「いただきます。うん。よし、食えっ」

 

 箸の位置を元に戻し、かずさが両手を合わせたのを確認してから春希が彼女のお預けを解いた。それを受けてかずさが、改めて卵焼きに箸を伸ばしていく。

 等分に切り分けられた黄金色の一欠片。それを口の中に放り込み、ゆっくりと咀嚼する。

 しかしどうしてか、彼女の眉根がきゅっと寄った。

 

「……春希。この卵焼き、全然甘くないぞ。砂糖入れ忘れたんじゃないか?」

「忘れるっていうか、普通卵焼きに砂糖は入れないだろ?」

「え? 入れるだろ。卵焼きっていったら甘いって相場が決まってる」

「別にスイーツじゃないんだけどな。ダシで薄く味つけてるし……ほら、そこに醤油があるから味に不満があるなら自分で調節しろ」

「どうせなら醤油じゃなくてケチャップがいいな。それなら何とか食べれそう」

「オムライスにでもするつもりかよ……」

 

 渋々といった調子ながら、冷蔵庫からケチャップを取り出す春希。けれどケチャップを受け取ったかずさが、真っ赤な色で卵焼きを染め上げるのを見て、軽く目を覆ってしまう。

 

「うん、うん。日本食もいけるな。――って、春希。そんなにサラダを大盛りにしないでくれ。とくにプチトマトは絶対にごめんだ」

「好き嫌いは良くないぞ。野菜ちゃんと取らないと。っていうかケチャップも元はトマトなんだけど……」

「ここまできたら全然別物だろ。トマトは苦い。ケチャップは甘い」

「苦い、甘いだけでの区別かよ。お前って味覚がお子様なままなのな」

「ち、違うっ。舌が繊細なだけだ」

「繊細ねぇ。なぁかずさ。お前って牡蠣とか食えるか?」

「柿? それって果物のか?」

「違う違う。海で採れるほうの牡蠣だよ」

「あー、駄目。苦くて全然美味しいとか感じないし。果物のほうなら好物だけどな」

「じゃあゴーヤとかピーマンとかはどうだ?」

「好んで食べたいと思ったことは一度たりともないね。だから意地悪して炒め物とかに入れないでくれよ、春希」 

「……やっぱりお子様じゃないか」

 

 小さく溜息を吐きつつ、春希はかずさ用によそったサラダからプチトマトを抜いて自分の皿へと移した。その作業に勤しみながら、赤く染まった卵焼きを美味しそうに頬張るかずさを盗み見る。

 こうして誰かと朝食をともにする感覚が、春希には少しこそばゆかった

 一人暮らしの現在はもちろん、実家にいた頃から朝食は一人で取ることの多かった彼には見慣れない風景だったから。

 友人が泊まりに来たこともあるし、大学のコンパで朝まで飲み明かすこともある。でも自分の部屋で誰かと寝起きして、それも続けて朝食を一緒に取るなんて想像すらしていなかった。

 自分が作ったご飯をテーブルに並べ、益体もない話をしながらつつきあう。

 それもかずさと一緒に。

 ――決して叶わない夢だと思っていた。

 いつもは味気ない朝食の時間が、彼女と一緒にいるだけでこんなにも楽しくなるのか。

 

「かずさ。口んとこ」

「ん?」

 

 春希が人差し指で唇の端辺りをちょんちょんと叩いている。 

 

「ほっぺにケチャップついてるぞ」

「え? ああ……ありがと。気づかなかった」

「ゆっくり食えって。慌てる必要なんてないんだから」

「……そうだな。うん。春希の不味い料理でもせっかく作ってくれたんだから、味わって食べないと」

「だから一言余計だってのっ!」 

「フフ、あははっ」 

 

 春希の反応がおかしかったのか、かずさが本当に楽しそうな笑い声をあげる。

 そんな彼女の笑顔が眩しくて、春希は自然と見惚れてしまって――二人はその後も、とりとめのない会話を交わしながら少し賑やかな朝食を進めていった。 

 

 

「俺、今日も遅くなるからさ、夕飯は適当に先食っててくれ。ああ、別に寝ちゃっててもいいぞ」

 

 朝食の後片付けを終え、出掛ける用意を済ませた春希が、玄関で靴を履いてから部屋の中を振り返る。

 すると当然のようにかずさが後についてきて、彼を見送る為に傍に控えていた。 

 

「ううん。春希が帰ってくるまで待ってる。だから寄り道せずにちゃんと帰ってくるんだぞ?」

「そりゃ真っ直ぐ帰るけどさ……お前、一日十時間練習するんだっけ? 腹減るし疲れるだろ?」

「大丈夫。あたしもそんなに早く戻って来れるわけじゃないしね。それに単純な労働時間なら春希のが長いじゃないか」

「だけどさ……」

「それに疲れてるからこそ、春希と一緒の時間を過ごしたいんだ。あたしの……癒しの時間だから」

「かずさ……」

 

 店のオープンからエンドまで働くことになる春希は、どうしてもかずさより先に出なくてはならない。かずさもピアノの練習に行くことになっているが、深夜零時を回って帰宅する春希よりも先に戻ってくることになる。

 お互い次の日も仕事と練習がある身だ。そうそう夜更かしもしていられない。

 それでもかずさは、例え僅かでも春希と一緒の空間で同じ時間を過ごすことを望んだ。

 

「わかった。なるべく早く帰ってくるようにするよ。戸締り、ちゃんと頼むな」

「うん。あたしも昼前には出るから。――そうだ。頼んでおいたプリン、忘れずに買ってきてくれよ?」

「なめらかプリンだろ? わかってるって。じゃあ行ってくる、かずさ」

「いってらっしゃい、春希」

 

 手を振る代わりに軽くキスを交わしてから、春希がドアノブに手を伸ばす。

 扉を押し開き、身体を部屋の外に出して、閉めゆく扉の隙間からかずさの姿を眺め、音をたてないように気を配りながらそっと扉を閉めた。

 かずさは彼が出ていった玄関をしばらく眺めていたが、やおら視線を切ると、テーブルまで戻りそこに置いてあった鍵を手に取る。

 

「春希の部屋の、鍵……あたしに、くれた……」

 

 彼に渡されたばかりの鍵を大事そうに握り込むかずさ。

 手の中にある硬い感触が、今の彼女にはとても頼もしいものに感じられた。だって春希に受け入れられたんだと、強く感じることができたから。

 

「あたし、ここにいてもいいんだよな……?」 

 

 部屋の中央に立ち、改めてかずさは春希の部屋を眺めてみた。

 生活する上で必要最低限の調度品しかない質素な室内。けれど小物に至るまできちんと整頓されていて、とても落ち着いた雰囲気を漂わせている。

 娯楽と呼べるような品はテレビとDVD、そして部屋の隅に置かれている一本のギターくらい。

 初めてこの部屋を訪れた時から、彼女はこのギターの存在に気づいていた。でも殊更触れるようなことはしなかったし、彼に話題を振るような真似もしていない。

 かつて二人を繋ぐ唯一の絆だったギターとピアノ。

 彼のギターを眺めているだけで、彼女の心の中にかつての記憶が鮮明に蘇ってくる。

 夕焼けに染まる校舎の中で一枚の壁を隔てたまま、二つの音を奏であっていたあの頃の。

 

「……」 

 

 かずさは彼のギターに近づくと、そっとケースの上から手を触れてみた。撫でるように指を滑らせ、安価なケースが伝えてくる雑な感触を楽しむ。

 そして一度触れてしまえば、微かに感じていた壁などあっという間に彼方へ消え去ってしまった。

 

「あいつ、今でも弾いてるのかな?」

 

 その場に座りこみ、ケースの中からギターを取り出す。それを構えてから指を沿え、軽く一本だけ弦を弾いてみた。

 室内に響き渡るアコースティックギターの鈍い音。

 その音を耳で拾いながら、かずさは全ての弦で同じ動作を繰り返していく。

 

「……なんだよ。チューニングが全然なってないじゃないか。あいつ、サボってやがったな」

 

 悪態を吐きながらも、かずさはギターを弄る手を止めようとしない。

 穏やかな表情を浮かべながら、軽やかな動作で指を滑らし、眠りについていたギターを楽器へと戻していく。

 

「んっと。こんなもんかな」 

 

 自身の耳だけでチューニングを合わせ、再びギターを抱えるかずさ。

 それから改めて指を添え、軽く慣らしをするように簡単な曲を弾きはじめた。

 実に三年ぶりの演奏。なのにかずさは苦もなく重厚な音を奏で続けている。もしこの場に春希がいたら、才能という壁を目の当たりにして落ち込んでいたかもしれない。

 

「ブランクあってもそこそこ弾けるじゃないか。覚えてるもんだなぁ」

 

 かずさにとってギターは専門ではないし、春希と別れてから一度も弾いたことがなかった。

 だからうまく弾けるかどうか実際に指を動かすまで若干の不安があった。でも一度身についた技術は簡単には無くならないらしい。 

 

「なんとなく、あの夏の日を――思い出してしまうな」

 

 脳裏に蘇る彼女にとっての特別な記憶。

 春希にギターを教える為に“一夜漬け”でギターを覚えて、彼のいる教室に向かった日のこと。

 彼に会いたくて、話をしたくて、どうしても我慢しきれなくなって。それでも会話の切欠が掴めずにいて。

 結局彼女のテリトリーである音楽を介することによって、初めて彼女から彼に話しかけることができた日のこと。

 

『――なんだよ。俺、今年から始めたばかりなんだ。少しくらい下手でも仕方ないだろ?』

 

 演奏をかずさにヘタクソと指摘され、春希が言い返す。

 半年間、ずっとギターを練習し続けたのだ。出来もしない奴に言われたくなかった。

 でも

 

『ならそのギター貸してみて』

 

 たった一晩徹夜で練習しただけで、春希の半年間をあっさりと越えてしまうかずさ。

 彼の目の前で、彼と同じ曲を弾き、そんなかずさの演奏を目の当たりにした春希は、思いっきり動揺して身体を震わせていた。

 実力差は明確。

 だから彼は気づかなかった。

 最後までトチらず演奏できたことに安堵しつつ、うまく演奏できたと背中でガッツポーズを決める彼女の姿に。 

 

「本当、ミスらなくて良かった。大見得切っといて失敗なんかしたら何を言われていたかわかったもんじゃない」 

 

 コンクールでピアノを演奏する時よりも緊張していた。徹夜で練習した眠気や疲れなんか彼を前にした途端吹っ飛んだ。

 それくらい必死だった。

 

「あの時もっと素直になっていたらどうなってたのかなぁ。……ま、今更だけどな」 

 

 あの夏の日にはまだ“二人”だった。

 彼のことを好きになる物好きなんて、世界中で自分くらいのものだ。

 そう思っていた頃の話。

 だからかずさが当時のことに思いを馳せると、決まって苦い記憶が付き纏ってくる。

 春希とこうして再会するまで何度後悔したことか。何度夢に視たことか。

 でも今は少しばかり事情が違っている。

 例えば昨夜の出来事を思い返すだけで……

 

『この部屋の合鍵って……いいのか、あたしがこれ受け取っても?』

『お前に閉ざす扉はないって言ったろ? それにさっきみたいに部屋の前で待ってられても俺が困る』

『そんな言い方するなよぅ……あたしだってなぁ、色々考えて……』

『ごめん。でも俺かずさに受け取って欲しいんだ。いつ来たっていいんだから。俺がいる時でもいない時でも、もうここはかずさの居場所なんだよ』

『は、春希ぃ……』

『なんならホテルに置いてある荷物とか全部持ってきたっていいんだぞ。着替えとか一々取りに戻るの面倒だろ?』

  

 彼との会話が彼女の心に平穏をもたらしてくれるのだ。

 

「荷物を全部持って来いなんて、わかってて言ってるのかあいつ。そういうの同棲って言うんだぞ?」

 

 手にしたギターに向かってかずさが一人ごちる。

 春希の部屋で寝起きして、外出してもここに戻ってくることが出来る。

 なんて、幸せなんだろう。

 

「日本に戻ってきて、良かった」

 

 それは心の底からの吐露。

 彼女の偽らざる本心からの言葉だった。

 

 

 

「なにしてるんだ、春希? さっきからずっとパソコンとにらめっこしてさ」

「資料とか簡単に纏めてるとこ。まあ、一応仕事、かな?」 

  

 近々久しぶりに開桜社に出勤することになっていた春希は、スムーズに仕事を運ぶための下準備の為にパソコンを立ち上げていた。

 別にしなくても問題ない作業なのだが、やっておくことで出勤してからの作業効率が違ってくる。かずさが風呂に入っている間に終わらせられる程度の作業なので今のうちに手を付けておこうと思ったのだ。

 しかし本格的にやり始めると作業に没頭してしまい、彼が元来持っている生真面目さと相まって大幅に予定時間をオーバーしてしまう。

 気づけばかずさが風呂から上がってきていて――相手してくれない春希に不満を持ったのか、彼女はパソコンに向かう春希の背中から腕を回し込み、しなだれかかってくる始末。

 これでは満足に作業ができない。

 かまってオーラを全身から出しまくるかずさを邪険にも出来ず、結局春希は自分が座っていた椅子を半分譲ることでこの形に決着をつけた。

 一つの椅子に二人で座る。もう完全密着状態である。

 

「へえ。ファミレスの仕事ってこんなことまでするのか。大変なんだな」

「それとは別のやつだよ。あっちは帰省してた学生も戻ってきて人手が足りてきたからさ、当分は大丈夫かな」

 

 正月三が日も終わり、グッディーズの忙しさにも翳りが見え始めていた。といってもあくまで正月よりはマシという程度なので、まだまだ忙しいのには変わらない。

 それでも臨時の手伝いとして春希が出勤しなければ店が回らないという状況は改善されていた。

 この先働きに出るにしても、朝から夜までオールでということにはならないだろう。

 

「そっか。なら少しはゆっくりできるな」

 

 春希の肩に頭を預けながら、マウスを握る彼の右手に自身の右手を重ねるかずさ。

 別に彼の作業を邪魔しようというのではなく、一緒の空間に身を置いておきたいという心の現れだ。

 

「手、離せよ。このままだとキーボード触れないだろ?」

「左手が空いてるじゃないか。これでも片手だけで我慢してやってるんだ」

「両手とも重ねられたら作業にならないって」

「ならこの状態で我慢すればいいじゃないか。あたしもしてるんだからお相子だ」

 

 まるで無くした三年間という時間を補うように、かずさは暇さえあれば春希の傍にいたがった。

 彼の隣に身を置いて、彼の身体に触れていたい。

 もっと近くで彼を感じていたいと。

   

「なあ春希。あたしってウザイかな? こういうの嫌か?」

「なんで?」

「だってさ、いくらなんでもベッタリしすぎかなって……」

「嫌だったらお前の好きにさせてないって。それにかずさ良い匂いするし、近くにいると俺も安らぐよ」

「それは単純に風呂あがりだからだろ?」

「そういうんじゃないんだけどな。ただちょっと意外だったってのはあるよ。お前がこんなにも……その、くっつきたがりだとは思わなかった」

 

 付属時代の春希がイメージしていた冬馬かずさは、孤高で格好いいというか、どちらかといえば凛とした女の子を想像していた。もし付き合えたとしても、こんなベタベタな関係にはならないんじゃないかって。

 けれど実際は全く逆の反応を彼女は示している。

 だから春希の中に単純に驚いたという気持ちはあった。

 

「幻滅したか? あたしがこんなでイメージ崩れたか?」

「別に。むしろもっと魅力的になったって思ってる。お前の色んなところが知れて嬉しいし、もっと知りたいって思った」

「春希……」

「三年間離れてたから勝手にイメージしてた部分はあるけど、そんなの関係なしに今のかずさが好きだ」

「お前、あたしを口説いてるのか? もっと惚れさせようって思ってるのか?」

「そうだよ。かずさにもっと惚れてもらいたい。俺から離れて欲しくないって思ってる」

「頼まれたってなぁ、離れてなんかやるもんか……」 

 

 春希がモニターからかずさへと視線を移した。すると当然彼の肩に頭を乗せているかずさとの距離が近づくわけで――どちらからともなく顔が近づき、自然と唇が重なる。

 

「んっ……。もう、終わり?」 

「一応仕事中だし。それに、これ以上続けると我慢できなくなる」

「いいじゃないか。そんなの後でも」

「駄目だって。やっと麻理さんも帰ってくるんだ。あの人厳しいから、きちんとやっとかないと……怒られ……る……?」

 

 春希が失言してしまったと気づいたのは、かずさが彼の肩から音もたてずに頭をもたげた時だった。

 さっきまでの甘えっぷりは何処へやら。彼女の全身から春希が引いてしまうくらい剣呑な雰囲気が醸し出されていた。

 

「あの、かず、さ……?」 

「また“麻理さん”か。懲りない奴だな、お前。そんなにあたしを怒らせたいのか?」

「ちょ、かずさ。痛いって……」

 

 マウスの上で重ねられていた春希の右手に鋭い痛みが走る。

 かずさがきゅっと爪を立てたのだ。

 

「痛くない。あたしはやさしく撫でてるだけだ」

「っ…………!」

「大体さぁ春希は麻理さん、麻理さん言いすぎなんだよ。やっと帰ってくるだって? それじゃあまるで会うのが楽しみだって公言しているように聞こえるぞ」

「いや、まあ……会えるのは楽しみなんだけど、決してそういうんじゃないからな!?」

「そういうんじゃないって、じゃあどういうんだよ? 相手、綺麗な女の人なんだろ?」

「否定はしない。でも麻理さんが綺麗だから会いたいってわけじゃないからな。あの人に本当に世話になってるんだよ、俺」

「……っ! わかった。もう春希は“麻理さん”禁止っ! 禁止だからっ!」

「禁止ってなんだよ!? わけわかんないってっ!」

 

 重ねた手も離し、つーんとそっぽを向いてしまうかずさ。そんな彼女の機嫌を取ろうと遅まきながら春希が必死に宥め始める。

 それでも背中を向けて振り向いてくれないので、最後の手段として猫なで声で縋ることにした。

 

「かずさぁ。拗ねてないでこっち向いてくれよ。俺が悪かったからさ」

「拗ねてないっ。怒ってないっ。春希の馬鹿っ!」

「馬鹿でもいいから、機嫌直してくれって」

「知らない。春希は麻理さん、麻理さん言ってればいいだろ?」

「さっきもう言うなって言わなかったか?」

「こんなときまで揚げ足取るなっ!」

「……」

 

 泣く子と拗ねたかずさには敵わない。そう理解して春希が溜息を吐いた。

 彼女に大事な話があったのに、このままでは一向に話を進めることが出来なさそうだと。仕方が無いので、春希はかずさの背中に向かって話しかけることにした。

   

「じゃあそのままでいいから聞いてくれ。俺、明日一日空いてるんだ。休み、取れたんだ」

「え?」

 

 休みというキーワードが琴線に触れたのか、かずさが首だけ巡らして振り返る。

 

「だから一緒にどこか出掛けよう? デートしよう、かずさ」

 

 

 

 

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