WHITE ALBUM2 Concert route   作:powder snow

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第十九話

「ん、うまい」

 

 綺麗に切り分けた肉の一欠けらを口の中に運び込んでから、かずさが満足そうな表情を浮かべる。

 その隣で春希は、彼女が器用にナイフとフォークを使って食事を勧める様を見て、しきりに頷いては一人で感心していた。普段二人で食事を取る際には箸を使っていることもあり、今までそういう場面をあまり目の当たりにしてこなかったのだ。

 慣れているというか、様になっている。

 それは対面に座る曜子も同じであり、二人がそれらの扱いを熟知していることにある種の優雅さのようなものさえ感じ取っていた。

 

「ん~。やっぱり春希の作る料理とは一味も二味も違うな。これぞプロの料理って感じだ」

「そんなの当たり前だろ。比べるなよ」

「前にも言ったけどレパートリーが少なすぎなんだよ、春希の料理は。お前、そんなに鍋が好きなのか?」

「……準備が楽なんだよ。それに一口に鍋って言っても都度趣向を変えるように努力してるんだから、それで満足してくれ、かずさ」

「趣向ねぇ。確か水炊きにすき焼き、湯豆腐に……おでん?」

「あと寄せ鍋とかちゃんこ鍋とかも作ったよな」

「そんなのは趣向を変えたって言わないんだぞ。だいたい具材とか似たり寄ったりで、ぶっちゃけ全部同じようなものじゃないか」

「……それ、鍋に対する冒涜だから」

 

 遠慮のない二人のやり取りに耳を傾けながら、曜子が楽しそうに目を細めている。

 既にコース料理はメインディッシュまで進んでいて、それまでの二時間、ほとんど曜子は聞き役に徹していた。

 お喋りな彼女にしては珍しいことだが、それくらい春希とかずさの会話を聴くことが楽しかったのだ。

 目前の二人を眺めながら、それを肴にちびちびとワインを進めていく。時折会話に茶々を入れては、返ってくる反応を楽む。

 彼女にとって本当に心地よい、ひととき。

 

「あたしを楽しませようって気はないのかってことだよ。米ばっかり食わすしさ。肉も少なめだし」

「ちゃんと朝はパン食も混ぜてるだろ。それに栄養バランスってものがあってだな――」

「知ってるか春希? 現代にはサプリメントっていう便利な代物があるんだ」

「ああ、不足しがちな栄養素を補うって意味では素晴らしいよな。だからって野菜を食わないって選択肢は無しだぞ」

「……春希は鬼だ。厳しすぎる」

「俺が鬼ならお前は天邪鬼だな」

 

 幾らかずさが反論しても、いつも春希が一歩先を行く。そのことがかずさは悔しくて、いつか言い負かしてやるんだと、密かに心の中に刻み込んでいた。

 そんな娘の胸中に気付いているのかいないのか、ここにきて曜子の“茶々”が入ってきた。 

 

「かずさ。そんなこと言ってていいの? あんまりギター君のことを苛めてるとあのことバラしちゃうから」

「な、なんだよ。あのことって……っていうか苛められてるのはあたしだろ?」

「んっふふふ」

 

 曜子はくつくつと笑いながら口元に掌を添えると、僅かに声を潜めて春希に“あのこと”を伝える。

 まるで内緒話を暴露するかのような仕草だが、それは意味を成さずかずさにも伝わってしまった。

 

「あのねぇギター君。今、かずさね、なぁんと料理の勉強をしてるのよ!」

「えぇ? かずさが……料理?」

「そう。手料理。愛妻弁当。真心こもった贈り物?」 

「わあああっ! な、なんてことを言うんだ、あんたはっ!」

 

 少し声のトーンを荒げて、かずさが二人の会話を邪魔しようと画策する。しかし曜子は娘のそんな様子には構わず、無情にも先を続けていった。

 

「ギター君が部屋を出て行った後でキッチンに立って、そこで作ったものを昼食にしてるらしいのよ。誰の為に練習してるかは言わなくてもわかると思うけど」

「わー! わー! わあああっ!」

「危ないからあまり包丁は使うなって言ってあるんだけど――いじらしいと思わない? 密かに料理の練習なんて」

「かずさが……」

「もっと腕を上げてから食べて欲しいそうよ。んもう、この果報者っ」

「な、なんでバラすんだよぅ母さん。絶対言わないって約束したじゃないかぁ……」

「だって、その方が面白いんだもん」

 

 涙目になって拗ねるかずさを尻目に、曜子は嬉々として笑い声を上げている。

 食事中に少し騒がしくなってしまったが、半個室ともいえるスペースに案内されていた為に他の客の迷惑にはなっていない。そのことがより曜子の暴走? に拍車をかけていた。

 

「……恨むからなぁ、母さん」

「恨んでる暇があるなら、彼氏を納得させるくらいのものを作れるくらい頑張りなさいな」

「うー」

 

 唇を尖らせながら、恐る恐るといった調子で春希の様子を窺うかずさ。

 その仕草はご主人様の機嫌を窺う忠犬のようで、見方によっては“くぅ~ん”と身体を擦りつけながら甘えているようにも取れてしまう。

 

「本当なのか、かずさ? そのさ、お前が料理作ってるって」

「……うん。春希って昼は外食だろ? だからお弁当作ってあげれたらなって、それで……」

「俺、嬉しいよ。かずさの手料理、食べてみたい」

「まだ駄目だ! まだヘタクソなんだっ。もうちょっと練習してからじゃないと……自信ない……」

「いいじゃん、下手でも。それでも食べてみたいんだ。なんなら弁当じゃなくっても明日の夕飯とかでもいいし」

「な、尚更無理だ!」

「俺の鍋に文句つけるんだから、期待してるぞ。ありていに言ってめっちゃ楽しみだ」 

「……うぅ」

 

 春希の強引な押しによって逃げ場を無くしたかずさが、唯一の味方である母親に助けを求めるべく視線で言葉を送る。しかし当の曜子は素知らぬ振りでワインを傾けるばかりだ。

 この状態を作り出した元凶なのに、困ったものである。

 

「さぁて、待望のデザートなにかしらねぇ」

「そんなのどうでもいいから、あたしを助けてくれよっ!」

「助けない。自分で何とかしなさい」

「そんなっ!?」 

「なあ、かずさ。どんなのが作れるんだ? レパートリーは? 包丁使って指とか怪我してないか? なんで隠してたんだよ水くさい。言ってくれれば色々と教えてやったのに」

「今度私にも作ってよねぇかずさ。――ああ、もちろんギター君の後でいいから」

「……知らない! あたしは何も知らないんだぁぁっ!」

 

 冷凍食品の解凍から始めたなんて言い出せない雰囲気に、かずさは顔を覆ってしまった。

 一応彼女の名誉の為に断っておくが、現在はもうほんの少しだけ料理の腕は向上していると記しておこう。

 

  

 

「ねえギター君。折り入ってお願いしたいことがあるんだけど。聞いてくれるかしら?」

 

 冬馬親子待望のデザートも終わり、各自の前に食後のコーヒーが用意された。その頃合でかずさが化粧室に立ち、図らずも曜子と春希が二人きりになってしまう。

 ここまでくると、さすがに曜子相手でも緊張するということは無くなっていたが、やはり隣にかずさがいないと少しばかり畏まった態度になってしまうのは春希の性格によるものなのか。

 ここでどういった話題を振るべきか。

 そう思案する春希を前にして、曜子が最初に口にしたのが冒頭の台詞だった。

 

「お願い、ですか?」

「ええ。あなたにしか頼めないことなの」

「それは他ならぬ曜子さんの頼みですから、俺に出来ることなら善処しますけど。……それで、お願いしたいことって?」

「……」 

 

 春希から前向きな返事を貰ったにも関わらず、曜子の表情が冴えない。

 彼女は一旦春希から目線を外すと、手元にあるカップを両方の指で挟みこみ、揺れる琥珀色の表面に視線を落とした。

 余程言い難い“お願い”なのか。

 あまり言葉を詰まらせることのない曜子が言い淀む姿に、春希の中で言いようのない不安が膨らんでいく。

 曜子はカップを手に取ると、舌を湿らせる程度に軽く口を付けてから僅かに眉根を寄せた。砂糖とクリームがたっぷりと投入されているはずのコーヒーはとても甘くて、苦くなどないはずなのに。

 

「……私ね、あの子に母親らしいこと何もしてやれてないのよ。かずさにはずっと寂しい思いをさせてきたって自覚があるわ」

「曜子さん?」

 

 そしてやっと口を開いたかと思えば、出てきたのはお願いではなく、独白に近い告白だった。

 

「知っての通りかずさは私生児よ。父親がいない分の愛情を私に求めていたのも知ってる。でもそんなかずさの思いを知っていながら蔑ろにしてきた」

「そんな、こと……ないです! 曜子さんはかずさに色々してあげてたじゃないですかっ。あいつが曲がりなりにも一人で生きてこられたのは、曜子さんの気遣いがあったからで――」

「住む家を与えて、生活費を渡して、家政婦に面倒をみさせて? かずさが求めていたのはそんな表面的なことじゃないことはギター君も知っているでしょう?」

「でも、大事なことです。とても大切なことです」

「……優しいのね、あなた」

 

 少しだけ表情の険を緩めて、曜子が寂しそうに微笑む。

 

「けれど娘を放ったらかしていた事実は消えないわ。あの子が求めている時期に一緒にいられなかった。――音楽家としての人生、ピアニストとしての私を優先させたと言えば聞こえがいいけれど、結局は私が我侭だっただけなのよ。一人の母親としては失格ね」

「そんなことあいつは思ってませんよ。……いえ、思ってたかもしれないですけど、今は違うはずです」

「そうね。娘と和解できたのもあなたのおかげだわ」

「俺なんてただあいつの傍にいたってだけで、特別何かしたわけじゃ……」

「それが娘の一番求めていたことなのよ。私に出来なかったことをあなたがしてくれた。そのことについては感謝しかないわね」

 

 言葉を交わす内に当初の重苦しい雰囲気が薄れていく。

 曜子が本来持っている明るさが垣間見えてきて、春希は感じた不安感が杞憂だったのだと思うことにした。

 

「でも数年ぶりに戻って来たかと思えば、愛する男との仲を引き裂いてウィーンへ連れてっちゃうし。ギター君も、さぞ私のこと恨んでるんでしょうね」

「っ……! そんなこと、は……」

 

 三年前のことに思いを馳せれば、恨む、恨まないというよりも、ただただ辛かったという記憶しか沸いてこない。身体を真っ二つに引き裂かれるような心の痛みしか蘇ってこない。

 そしてその原因は、曜子にでもかずさにでもなく、自分にあると春希は思っている。

 

「あなたを恨むなんて、そんなことないです。辛かったのは事実ですけど、結局はあの時の俺に勇気が無かっただけの話なんですよ。色々と間違えて、それでも突き進んで……云わば自業自得です」  

「なんだかかずさと同じようなことを口にするのね。あの子も自分が悪かった。非は自分にあるって、いつも泣いていたわ」

「かずさ、が……?」

「言葉にしたことはないけれど、あの子のピアノがそう語っていたのよ。悔恨っていうのかしらね。でもそれ以上にあなたへの想いに満ち溢れてた。ギター君を想って、あの子はいつも一人で旋律を奏でていたの」

「……っ」

 

 ――一日十時間。かずさは心の中でギター君に語りかけていたのよ。

 

 そう曜子が彼に告げる。

 その時間はかずさが毎日ピアノの練習に当てている時間と同じで、当然春希もそのことに気づいた。

 それは取りも直さず、離れていた間もかずさが春希に恋をしていたということであり――かずさ自身がそのことを口にしてはいたが――それを一番身近にいた人物に肯定されれば、さすがに胸に込み上げてくるものがある。

 

「かずさはピアノを愛している。でもそれはピアノと触れ合える時間こそが唯一あなたを感じられる時だったからよ」

「ッ……」 

「だからどんどん色ボケた音になっていっちゃって、それに比例するようにあの子のピアノは世間に認められていったわ。……本当に皮肉な話よね」

 

 現在のピアニスト冬馬かずさがあるのは、春希と別れ母と共にウィーンへ旅立ったからこそだ。

 彼と二度と会うことは叶わない。そう思い決め、そう思ってて、だからこそ自身に残った唯一無二のものとしてのピアノに没頭したおかげで、厳しい世界の中でも認められたのだ。

 才能はあったし、相応の努力もした。フリューゲルという優秀な師匠にも恵まれた。けれどウィーンという地へ渡らなければ、もしあの時に彼女が日本に残っていたら、ピアニストとしての高い評価は得られていなかっただろう。

 それがかずさにとって幸せなのかどうかは、また別の問題ではあるが。

 

「……後悔、してるんですか? 曜子さんは、その……」

「正直言っちゃうと半々かしらねぇ。かずさを一人にしてしまった悔いはあるし、あの子を悲しませてしまった責任もある。そのことについては弁明の余地もないわ。でもねギター君。きっとわたしは何度同じ場面に立ち会ったって、あの時と同じ選択をしてしまうのよ。だってそれが冬馬曜子の生き方なんですもの」

 

 今彼女が口にしたのは、かずさを一人日本に残して海外へ去ってしまったこと。

 そして次に語るのが、春希とかずさの仲を引き裂く形になった三年前のことについて。

 

「ウィーンへ連れてきたことについては……どうかしらね。失恋なんて通過儀礼みたいなものだし、私もまさか音信不通の状態でも、ずっと変わらず一人の男を想い続けるなんて思ってなかったもの。だってそうじゃない? 普通は新しい恋に目がいくものでしょう?」

「それ……はっ」

 

 曜子の言う“まさか”を春希は肯定できない。

 正に自分自身も音信不通の相手を、別れたきりのかずさのこが忘れられず、三年間ずっと思い続けていたのだ。

 彼女のことは忘れたと自他共に言い聞かせてきたが、それが真っ赤な嘘であることは春希自身が一番よくわかっている。けれど世間一般の常識に当て嵌めれば、それが普通でないことは理解できる。

 春希もかずさもそれが分かっていたからこそ、再会してもすぐに相手の心に踏む込むことが出来なかったのだ。

 

「だけどあの子は自分の側に誰も寄せ付けなかった。深く他人と関わろうとはしなかったわ。それが如何に自分の世界を狭めることかを知っていて、それでも変わろうとはしなかったの。良く言えば一途。悪く言えば頑なってことよね」

「……あいつ不器用だから。うまく立ち回るとか、要領よくとかできないんですよ。だから誰かが側にいてやらないと……」

「よくわかってるじゃない。確かにギター君の言う通りだわ。でもそのくせに側に寄らせる人間を極端に選り好みしちゃうのよねぇ。だからこそ今回の日本公演に無理やり同行させたんだけど――」

 

 そう口にしながら曜子が含むような笑みを浮かべ、対面にいる春希に意味ありげな視線を投げかけた。

 

「どうやら正解だったようね」

「……殆んどあなたがお膳立てしてくれたようなものですけどね」

 

 春希とかずさの仲を唯一取り持とうとしてくれた人物。それが冬馬曜子だ。

 かずさを無理やり日本に連れてきたのも曜子だし、編集部に連絡を取るように言ったのも曜子である。春希の為にコンサートのチケットを用意して、その裏では弱気になるかずさの心のケアまでしていた。

 

「だって顔さえ合わせればうまくいく自信があったもの。でも確信を得たのは、あなたが書いたアンサンブルの記事を読んだ時なんだけどね」

「読んで、くれたんですか?」

「あのね、一体誰が掲載の許可を出したと思ってるのよ」 

「……ですね。けどよくあれを書いたのが俺だってわかりましたね」 

「気付くに決まってるでしょ。目を通してすぐに“ああ、これはあの時のギター君が携わってるんだ”ってわかったわよ。ねぇアレってあの子へのラブレターよね?」

「…………あれを読んだ人間はみんなそう言うんですけど、そんなに分かりやすかったですか?」

「見る人が見れば一目瞭然よぉ。おかげで助かっちゃった。かずさの気持ちは知っていても、肝心のギター君の気持ちはわからなかったわけだし」

 

 幾ら曜子でも勝算の無い勝負へと娘を送り出したりはしない。

 脈があると思ったからこその今回の作戦だったのだ。

 

「私はあなとかずさがそうなってくれて良かったって思ってる。だってあの子のあんな幸せそうな顔見たことないもの。あんなに楽しそうな表情、私にも見せたことないのよ?」

「そんなに、ですか?」

「そりゃもう惚気る、惚気る。聞いているこっちが恥ずかしくなるくらいよ」

 

 あんな女の子な部分がかずさにもあったのねぇ。そう言葉を付け加えてから曜子がカップに手を伸ばしていく。その時の彼女の表情は、娘の変化を好ましく思っている母親そのものだった。

 春希はそんな曜子の表情を眺めながら、今まで口を付けていなかったコーヒーを味わうべくカップに指を伸ばしていった。

 高級に分類される豆を使用しているだろうコーヒーは、不思議と苦味より甘みを強く感じて、程よい熱加減が口を付けた春希の心を柔らかく包み込んでくれる。

 

「曜子さん」

「なに?」

「俺だって同じです。かずさが傍にいてくれることがこんなに幸せだなんて想像つきませんでした。あいつと一緒に生きていくことがこんなに充実したものだなんて、知らなかった」

「……ギター君」

「朝起きた時にあいつが傍にいて。一緒に飯食ったり、どこかに出掛けたり、色んなことを話したり。ただ一緒にいて毎日を過ごすってことが堪らなく嬉しいんですよ」

「……。あの子は、かずさはね、ピアノ以外に取り柄なんてない駄目な子なのよ。性格はキツ目だし、暗いし、我侭だし。意地っ張りで諦めが悪くて。しかもすぐに泣いちゃうような女の子なの」

 

 曜子の評するかずさは世間で知られている冬馬かずさではなく、春希の良く知る冬馬かずさであり――

  

「見てくれだけはいいから誰かしら寄ってくるんだけど、それもあの子が拒絶しちゃうからね。寂しがりやのくせに強がってばっかりで。そんな問題児でも私にとっては自慢の娘なのよ」

「……全部織り込み済みですよ。かずさの駄目なところも、良いところも知ってます。ありのままのあいつが――かずさが好きなんです。俺にとってかずさはそういう女性で……」

「なら、一生、添い遂げてくれる?」

「えっ!? それは――」

 

 それを口にするには“まだ”早い。

 

「フフ、冗談。ありがとう、ギター君。あなたに出会えてかずさは幸せよ。あなたがかずさを受け入れてくれて母親として嬉しかったわ。でも、だからこそ――」

 

 きゅっと唇を結んで言葉を切る曜子。ここにきて彼女の声のトーンが変化する。――いや、会話を始めた当初に戻ったと表現すべきなのか。

 彼女はそのまま口を開かずに、首を巡らせると視線を化粧室のある方向へと向けた。釣られて春希もそっちを見やるが、曜子が探しているだろう人物の姿は見えない。

 そうした春希の耳に、呟くような曜子の繰り言が飛び込んできた。

 

「今度こそ、あなたに軽蔑されるかもしれないわね」

「曜子さん……?」

「私はね、ギター君。かずさをウィーンへ連れて帰りたいって思ってるの」

 

 

 

「…………え?」

 

 曜子の放った言葉の意味が理解できず、春希は呆けたような表情を晒してしまった。

 だからそうやって相手に聞き返すのが精一杯で。

 

「ちょ、ちょっと待ってください、曜子さん。今、なんて……言いました?」

「かずさをウィーンへ連れて帰りたい。そう言ったのよ」

「そ、んな……」 

「ごめんなさい。あまりにも突然だったわよね。でもギリギリになってから伝えるよりはと思ってね」

「っ……」

 

 あくまでかずさはウィーンから日本に来ているだけで、いつかはオーストリアへ戻らなければならない身だ。そのことは春希も重々承知している。それでいて敢えて今まで触れずにきたのだ。

 漠然と“何とかなるんじゃないか”なんて思いもあったし、かずさと話し合えば彼女は日本に残ってくれるという希望的な観測も抱いていた。

 実際離れ離れになるなんて考えられないくらい二人は愛し合っているし、かずさの故郷はここ日本なのである。解決すべき事案はあれどそれは乗り越えられる程度のもの。

 今日の会食がその最初の一歩になる。

 そう春希は思っていたのに――

 

「ピアニストとしてはまだ発展途上なのよ、あの子。大切な時期と言い換えてもいい。かずさが今より高みに登るにはウィーンへの帰国が不可欠になる」

「ピアニスト……」

「今の状態で日本に残ってもあの子の目指す場所へは到達できない。基盤は欧州、ウィーンにあるわ。ピアノ自体を続けることが出来ても一流の演奏者にはなれないのよ」

 

 曜子の言う一流とは自分に並ぶ、或いは超えるピアニストになるという意味の言葉であり、それは取りも直さず世界で認められることを意味する。

 このまま日本に残って“そこそこ”のピアニストとして生きていくか、それとも世界を相手に戦えるだけの技量を求めてウィーンへ戻るか。

 今がその分水嶺なのだと曜子が語った。

 

「でも勘違いしないでね。別にあなた達の仲を反対してるわけじゃないの。このまま日本に残って二人で生きて行くっていう選択肢もあるわ。でもあの子は私よりピアノが好きじゃないくせに、私以上の才能があるのよ。それを埋もれさせてしまうのは、正直言って惜しいのよ」

「……俺が、かずさの重荷になってるって、そういうことですか?」

「違う、違う。勘ぐらないで。あなたの存在はあの子のプラスになりこそすれマイナスにはなり得ない。今話してるのは音楽家としての将来の話よ」 

 

 一旦間を作るために、曜子がほうっと軽く息を吐いた。

 それから改めて春希に視線を合わせてくる。

 

「……例え話なんだけれど、もし私があの子の側からいなくなってしまったら、かずさにはギター君しか残らない。そうなった時にもう一つくらい心の支えになるものがあっても良いと思わない?」

「どういう……意味ですか?」

「可能性の話よ。私が母親である限りかなり高い可能性のね」

「いなくなるとか、縁起でもないこと言わないでくださいっ! 折角わだかまりが無くなって元の親子に戻ったんじゃないですか」 

「だからこそ、かしらね。柄にも無く母親らしいことをしてあげたいって本気で思ってるのよ」

「それでもです。間違ってもかずさの前でそんなことを……曜子さんには口にして欲しくないです」

 

 口では邪険に扱っていても、かずさがどれ程母親を愛しているか。春希は分かっているつもりだ。 

 

「……了解。わかったから、そんな悲しい顔しないの」

「絶対、ですよ?」 

「…………。今の話を抜きにしてもね、かずさの抱いてきた夢を叶えてあげたいって思いもある。――言っている意味わかるかしら?」

「アーティストとして?」

「そう。アーティストとして。母親として。そしてかずさの一番近くにいたライバルとしてね」 

「……」 

 

 春希自身がかずさの記事を担当したのだ。彼女が新進気鋭の若手ピアニストとして如何に期待され、結果を残しているかはよく知っている。

 よりアーティストとしての高みを目指すならば、日本ではなく本場であるウィーンでというのも理解できる。指導者などの関係者の面から見ても、帰国するのがベストだろう。

 しかし、そう理解できても気持ちの面では納得できるはずがない。

 だってそれを認めてしまったら、また二人は別れなければならないのだ。

 三年前のように日本とウィーンで離れ離れになってしまう。

 ――そんなのは絶対にご免だと、春希の心が強く反抗する。

 かずさと一緒にいたいんだと、子供の我侭のように叫び出したい心境に駆られてしまう。

 

「……苦しいですよ」

「え?」

「曜子さんの思いを知ってしまったら、俺、悩むに決まってるじゃないですか。でも、それでもかずさと離れたくないんです。なのに、なんでそんな話を俺にするんですか……」

「あなたに事の決定権があるからよ。私にでもかずさにでもなくギター君に……いいえ、北原君だけにそれが決められる権利があるの」

「決定権って、そんな大袈裟な」

「ちっとも大袈裟じゃないわ。あなたが一緒にいたいと強く望めば、かずさは躊躇いもなくピアノを捨てることが出来る。捨ててしまえる。そうなった時に私には反対する術がないのよ」

「そん、な……こと……」

 

 絶対にありえないと、春希は言い切れなかった。

 そういう危うさがかずさの中に潜んでいることに春希は気付いていたから。 

 

「だったら何で曜子さんはあいつと俺が再会するように仕向けたんですかっ!? 別れることが前提なら――」

「会わなければ良かった?」

「……っ!」

 

 もし大晦日の夜にかずさと再会していなければ、頷いたかもしれない質問だった。

 けれど彼女と一緒にいる楽しさを。彼女の温もりを。かずさが好きだという気持ちを思いだしてしまった。

 故にこの質問だけには頷けない。

 

「だから最初にお願いがあるって言ったの。わたしに出来るのはあなたに赦してとお願いすることだけなんだもの」

「俺、は……」 

「時間を頂戴、ギター君。三年……いえ、二年あればかずさを日本を拠点にしても通用するピアニストにしてみせる。あなたの元に帰してみせる。だから――」

「酷い、酷いですよ曜子さん。俺からかずさの手を離せって言うんですか? またあいつを悲しませろって……」

「ギター君。私ね、来月の十四日に追加公演があるのよ」

「……え? 追加、公演?」

  

 話の流れを切るように、曜子が全く関係ないことを口にする。

 そのことに面食らう春希だったが――

 

「世間一般で言うところのバレンタインね。その時までに答えを出しておいてくれると嬉しいわ」

「バレンタイン……二月、十四日……!?」 

「あなたがどんな選択をしても恨んだり責めたりしない。だから真剣に考えてみて?」

 

 染み入るような曜子の声音に、春希の心は乱されるばかりだった。

 

    

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