WHITE ALBUM2 Concert route 作:powder snow
静寂というものは中々に厄介だ。
普段何気ない生活音に塗れていると気付き難いが、しんと静まり返った音のない世界というものは、そこにある人を不安にさせる効果を持っている。
例えば室内で物事に集中したい時などでは有用な面もある。けれどその部屋の面積が二倍に膨れ上がったとしたらどうだろうか。はたまたこれが四倍、八倍の面積になった場合、果たして“物事”に集中し続けることが出来るのか。
広い空間の中で音の無い世界に佇む。
言葉にすれば簡単だが、長時間その状態に置かれた時、やはり不安といった感情を抱くのは人として自然なことだろう。
そしてそういう類の感情は空間の面積が広ければ広いほど、場にいる人間の数が減れば減るほどに顕著になっていく。ましてや数百人規模の観客を迎えられるコンサートホールでなら尚更だ。
鏡のように磨きぬかれた舞台の床は宝石のように輝き、その中央付近に設えられたグランドピアノが奏者を招く。
演奏者――彼女はたった一人、その場に降りて、そっと鍵盤の上に自身の指を乗せた。
肩を上下させながら深呼吸する奏者。
大きく一回息を吸って、静かに吐いて。そして数秒の沈黙を経た後、彼女の指が鍵盤の上で踊り出し、流れるようなメロディーを奏で出した。
綺麗で、それでいて重厚で。波のように緩急のある響き。
グランドピアノから流れる旋律が、それまでの静寂を破り去る。
どれだけ腕の良い奏者がいようと、どでほど高価なピアノだろうと、揃わなければ生み出すこのと出来ない音の流れ。二つが合わさって初めて心にまで響く“魔法”を作り出すことが出来るのだ。
――冬馬曜子はその魔法を以って、世界に冠たるアーティストとして知られている。
けれどその指の動きを止めてしまえば、紡ぐ魔法も終わってしまう。
辺りには再び痛いくらいの静寂がやってくる。
広大なコンサートホールの中にいるのは一人だけ。静寂と共にその現象が顕著に浮き彫りにされていくが――曜子はその状況を良しとしている節があった。
というより、自ら人払いをしてこの状況を作り上げていたのだ。
理由は単純に邪魔だから。
彼女にとって“静寂”など集中力を乱す要因にすらならない。少なくともピアノを演奏している時は全く苦にはならないのだ。
普段は明るくて社交的で人当たりの良い彼女も、ステージに上がればプロの奏者なのだから。
「いい演奏だったよ、母さん。これならいつ本番がきても大丈夫だな」
「かずさ?」
パチパチという渇いた拍手の音に振り返ってみれば、彼女の娘がホールの脇からこちらを覗きこんでいた。人払いをしたといっても、実の娘は例外である。
かずさはそのままの足で、曜子の待つホール中央まで進み出た。
その手に小さな紙袋を提げながら。
「ああ、これ? 中身はプリンだよ。あたしのオススメのやつ買ってきた。結構並んだんだぞ? まあ、陣中見舞いってやつ」
「あら珍しい。お土産なんて、かずさにしては気が利くじゃないの」
「春希に持って行けって言われたんだよ。母さんを尋ねるなら労ってやれって」
曜子の視線から事情を察したかずさが、紙袋を掲げながら答える。
彼女の甘党は母親譲りだ。相手の好みには精通している。それにプリンなら幾つあっても困ることはない。
「あらら。本当によく気が回る子ねぇギター君。将来ハゲなきゃいいけど」
「それ、同じ台詞をあたしが言ったら“そうなったら原因は間違いなくお前だっ”って言われたよ」
「ええ、そうね。そうなったら間違いなく原因はかずさだわ」
クスクスと笑いながら、曜子がホール脇へと移動していく。そこから階段を下りて観客席に行こうというのだ。
「少し休憩するわ。かずさ、母さんに付きあいなさいな」
「いいよ。けどちょっとだけだぞ。この後で春希と会う約束があるんだから」
「母親より男を優先するなんて。どうしてこんな娘に育っちゃたのかしら」
「そりゃあたしが母さんの娘だからだろ?」
両手を広げたポーズで皮肉るかずさを見て、曜子が眩しそうに目を細めた。
その後で二人は客席まで下りて、最前列に並んで座る。
「で、調子はどうなんだ? 本番まであと一週間じゃないか」
「調子? さっきあなたが言ったようにバッチリよ。なんなら今すぐにでも開演できるくらい」
「なら良かった。ニューイヤーコンサートがまぐれだったって言われないように頑張ってくれ」
これはかずさなりの精一杯の励まし。
言葉は雑だが、そこには母親を心配する娘の愛情が込められている。もっとも曜子か春希くらいしか見抜けない絶妙な隠れ具合(ツンデレ?)ではあるが。
「もちろん頑張るわよ。まだまだこの席を他人に譲る気なんてないもの。冬馬の名も背負ってることだしね」
「へえ、譲らないって、それって娘にもか?」
「ええ。今は“まだ”ね。あなたの努力次第じゃ考えないでもないけれど」
「……」
軽い気持ちで叩いた言葉を真っ直ぐに返され、かずさは少し口篭った。
言外に相手が何を言っているか、気付いたからだ。
「――それで、決めたの、かずさ?」
「……決めたって、なにを?」
「惚けても駄目。彼から聞いてるんでしょう? 私は今回のコンサートが終わったらウィーンへ帰るわ。その時に一緒にあなたも連れて帰りたいのよ」
「……っ」
「言っとくけど、荷物を取りに帰るとか、挨拶しに帰るとか、そういう意味じゃないからね。本当に帰るのよ?」
「わかってる。けど日本でだってピアノは弾き続けられるだろ」
「まあ弾くだけならね。でも本気で私の席を奪うつもりなら今のあなたじゃ無理よ。一度ウィーンに戻って、修行して、確実な実績を身につけなきゃ」
「実績……」
「そそ。大事よ実績? それこそ一人でもやってけるレベルになってもらわないと」
ことピアノに関して曜子はかずさの先駆者だ。
彼女には自身で歩んできた確かな足跡があり、実績があり、切り開いてきた道がある。
その先達としての言葉は重い。
「なあ母さん。それ一ヶ月でどうにかならない?」
「冗談でしょ。どう見積もっても最低二年はかかるわ。あなたには良い師匠もついているけれど、どうやってもそれが最短」
「二年、か。……あたしが母さんみたいに天才だったら、問題解決なんだろうけどな」
「はぁ? 冗談言わないでちょうだい。私が天才なんだったら、あなたはなんだって言う話よ」
「なんだよ、それ?」
「天才って言葉はあなたにこそ相応しいってこと。あのね、かずさ。私があなたの年頃にはぶっ倒れるまでピアノを弾き続けたものよ。それも毎日、毎日、飽きもせずにね」
同じ年頃の曜子の練習量は現在のかずさのそれを上回る。しかし現時点でのかずさの実力に当時の曜子は及んでいなかった。
「同じピアニストとして嫉妬すら感じたわ。けどやっぱり娘ですからね。愛しいって部分のが優るわけよ」
「それ本気で言ってるの?」
「本気も本気、超本気よ」
「……めちゃくちゃ冗談っぽいんだけど……」
「冗談なものですか。ま、私が言いたいのはどんな決断でもあなたが出した答えなら尊重するってこと。これでもあなたの母親ですからね」
「母親ねぇ。放任主義すぎる部分をあたしは忘れてないからな」
「あらら。結構根に持つのね、あなた」
「それだけ寂しかったってことだよ。本当に反省してるのか?」
「……だから今まさに全力でかまってあげてるじゃないの」
寂しかった。そう素直に言えるようになった娘のことを曜子はどこか嬉しく感じていた。
少なくとも以前のかずさ――春希と再会するまでの彼女だったら、意地でもそんな言葉は口にしなかったはずだ。
「ねえ、かずさ。今、楽しい?」
「……うん。春希と一緒に寝て、起きて。そんな毎日だけど、とっても楽しいし、幸せだよ」
「そう。でも冬馬かずさっていう人間の周りには他にも素晴らしい世界が広がっている。それに気付けないのはあなたが手を伸ばしていないだけなのよ?」
「……いきなりなんだよ母さん。説教なら別にいらな――」
「一日十時間、あなたは頑張った。好きじゃなきゃ無理な話よね?」
「ぁ……」
一日十時間。それはかずさの日課としているピアノの練習時間と同じだ。
ウィーンにいる頃から欠かすことなく毎日行っていた。そこには春希と会話するという彼女なりの意味合いが多分に含まれていたが、好きでなければ続けられはしないだろう。
「十四日のコンサートには絶対来てね、かずさ。絶対、絶対だから」
「母さん?」
「最高のコンサートにしてみせる。私の演奏であなたの心を打ってみせるから。母さんみたいになりたい。いつか追い越したいって」
「……」
「それが今の私の目標かしらね」
そう言い切ってから静かに曜子が席を立った。もう休憩時間はお終いという意思表示だろう。
そんな母の姿をかずさがゆっくりと目線で追っていく。
小さな頃から大好きで、目標にしていた母の姿。
その背中が一歩分だけ遠ざかり、二歩遠ざかり。そこでふと曜子が立ち止まった。
彼女はかずさから貰った“陣中見舞い”を手に掲げたままの姿勢で振り返ると、柔らかい笑顔を浮かべながら
「あぁ、そうだ。かずさ。ギター君によろしく伝えておいて頂戴。君のおかげで娘が随分としおらしくなりましたって」
「なっ――」
「ふふふ、本当に良い表情をするようになったわね。良いことだわ」
強引にでもかずさを日本に連れてきて良かった。
曜子はかずさのころころと良く変わる表情を見ながら、心の底からそう思っていた。
「いやあ悪い、杉浦。付き合ってもらって。けどこれからバイトだったんじゃないのか?」
「今日はオフ。それよりも小木曽がわたしに頼み事なんて珍しいじゃない」
付属の近くにあるハンバーガーショップに一組の男女の姿があった。
一人は制服姿に身を包んだ杉浦小春だ。
彼女はカウンターで受け取ったポテトとドリンクをトレイに乗せて、連れの待っているテーブルへと着いたところである。
その彼女の前に陣取っているのが小木曽孝宏。
雪菜の実弟である。
彼はハンバーガーを頬張りながら、小春が席に着くのを待っていた。
「よく食べるわね」
「腹、減っちゃっててさ。弁当だけじゃ足りないっての。杉浦も食う?」
「わたしのことなら気にしないで。それより頼みたいことってなんなの?」
ストローに口をつけながら、小春が孝宏に視線を向ける。
同じ学校の同級生。しかも同じクラスとくれば遠慮なんていらない。
「あー、それなんだけど。俺、回りくどいのが嫌いだから率直に言うけどさ、学校内に部外者を入れることって出来ると思うか?」
「え?」
「だから部外者を学校のある施設に招きたいんだ」
あまりにも予想外な孝宏の“お願い”に小春が面食らう。思わずポテトに伸ばしかけた手を止める程に。けれど彼の口調や表情を見るに冗談の類ではないようだ。
「出来る出来ないで言えば出来ると思うけど……それがわたしに何の関係が?」
「えとさ、開かずの間……じゃなかった。うちに第二音楽室ってあるじゃん? あそこに姉ちゃんを入れたいんだ」
「姉さんって、ミス峰城大付属のあの小木曽先輩のこと?」
「そそ。でもあそこって普段鍵掛かってるだろ? それの奪取を杉浦に頼みたいと思ってさ」
「奪取って、要は借りて来いってことじゃない。そういうことなら“委員長”の小木曽のが適任でしょ?」
「だって事前処理とか事後の処理とか色々と面倒臭そうだし。教師受けは杉浦の方が絶対いいだろ。だからスムーズに事を運ぶなら頼んだ方がいいかなって」
「あのねぇ。わたしだって面倒臭いわよ……」
そう言いながらも、既にどういう手順で鍵を借りてこようかと考えているあたりは、頼まれたら断れない性格の小春らしい。
「でもどうして小木曽先輩を第二音楽室へ入れようなんて思ったわけ? 理由があるんでしょ?」
「姉ちゃんに頼まれたんだ。なんか北原さんとどうしても話したいことがあるとかで」
「北原……先輩に?」
「うん。どうしてもあそこじゃなきゃ駄目なんだって。最近姉ちゃん何となく元気無くってさ。俺に頼み事なんてのも珍しいし、出来れば叶えてやりたいんだよ。駄目か、杉浦?」
「……駄目じゃないけど、ちょっと待って」
孝宏を制して小春が考え込む。
まず彼女は混乱しかけた思考を落ち着けようと、与えられた情報を整理するところから始めた。
雪菜が春希に何か話したいことがあって、その場所として付属の第二音楽室を希望していること。
卒業生ではあるが、部外者なので委員長である孝宏の力を借りてそれを成そうとしていること。
それは実現可能だろうと小春は思う。
部外者と言っても同じ峰城の学生であり、雪菜は付属の卒業生でもある。そこに小春なり孝宏なりが手を貸せばすんなりと事が運ぶ公算は高い。
現に昨年秋には春希が取材という名目で第二音楽室に立ち入っている。
しかし小春にとって問題となってくるのは、雪菜がそこで何を話そうとしているかだ。
「……」
孝宏に頼られて、それに応えたいという思いもあった。でも引っかかりを覚えるのも事実。
「…………」
しかし、ここで断ってしまっても結局は孝宏が代わりに動くだけで、事態は変わらないのではないか。
なら情報を得る位置にいるためにも自分が動いたほうが――
好奇心旺盛な小春の性格故か、関わる方向へと傾いていく。だがそんな思索を打ち切るように、突然彼等の頭上から声がかけられた。
「ねえ」
誰かが二人のテーブルの前で足を止め、声をかけてきた。
靴音は聞こえていたし、気配は感じられた。だから小春は店員が来たのかと顔をあげてみるが――
「あ、れ? あなたは……確か……!?」
「ん? 杉浦の知り合い?」
孝宏には見覚えがなくても小春には見覚えがあった。
気さくで明るい雰囲気の若い女性。
「今の会話の内容にちょっち興味があるんだけど、お姉さんにも話してくれないかなぁ?」
腰に手を当てたポーズで立っていたのは和泉千晶。
彼女は二人の警戒心を解くように、慣れた仕草で可愛くウインクをしてみせた。