WHITE ALBUM2 Concert route 作:powder snow
「ねえ春希くん。うちの商学部にいる長瀬昌子って人、知ってるかな?」
「え? 商学部?」
「そう。春希くんって学内でも結構顔が広いじゃない? それで知ってるかなと思って」
峰城大学付属高校。
かつて春希が、かずさが、そして雪菜が共に通っていた学校の名前である。ここで三人は出会い、同じ軽音楽同好会に入ってステージで演奏することになり、臨んだ学園祭で大成功を収めることになった。
だがそのステージの終わりが三人にとっての重要な分岐点となり、結果、一つの悲劇を生むこととなる。
三者の思いが――相手を想う気持ちが複雑に絡み合ってしまった結果の出来事。
結局は春希の出した一つの選択によって、誰もが傷つくという終わりを迎えてしまうのだが、その影響は未だに彼等の心を強く縛っている状態だ。
その舞台となった学園の廊下を、今、春希と雪菜が肩を並べて歩いている。
「長瀬昌子……ごめん。悪いけど聞いたこともない名前だよ」
「そっかぁ。春希くんなら知ってるかと思ったんだけど、ちょっと残念」
茜色に染まる廊下を歩きながら、雪菜が上目遣いに春希に視線を向ける。その仕草の最中で、彼女の長い髪がゆるやかに揺れた。
ふわり、とその毛先が春希の手の甲を緩やかに撫で上げる。
そのくらい二人の距離が近かった。
「……雪菜。その長瀬って人がどうかしたの?」
長瀬昌子――これまた和泉千晶の別名の一つなのだが、千晶はその名を使って雪菜と接触を持っていた。
「外で知り合ったんだけどね。連絡先を交換してなかったから。学内を探してみたんだけど、結局見つけられなくて……」
「もしかして、その人に急用?」
「あ、そういう訳じゃないの。色々な話を聞いてくれてね。意気投合っていうのかな? 結構うまが合ったからまた話したいなって。それだけ」
「そうなんだ。じゃあ俺も気にかけてみるよ」
「うん、ありがと」
先日かずさに似たような質問をされたことを覚えていた春希は、雪菜の思惑が気になって少しだけ切り込んでみることにした。しかし複雑な事情が絡んでいるとかではなく、純粋な興味から出た質問だったようだ。
きっと“間”を持たせる会話として選んだ話題だったのだろう。そう春希は自分の中で結論付けた。
だって緊張するなと言うほうが無理なくらい、二人の目指している場所が“特別”だったから。
「……」
間を持たせるために、春希が視線を巡らせていく。
彼にとってはちょっと久しぶり。そして雪菜にとっては三年ぶりとなる付属の校舎。
沢山の思い出が詰まった学び舎は、時間の経過を感じさせるほど当時と変わった印象は抱けなかった。きっと沢山の人が現在もそこで活動している証なのだろう。
彼等が卒業しても次の世代が、そしてまた次の世代が変わらずに使用していく。細かな傷や痛みは生まれても、人の息吹が宿る建物は長持ちするものだ。
「そこの角を曲がれば、もうすぐ第二音楽室ですよ。わたし達の間では開かずの間なんて呼ばれたりしてますけど」
春希達よりも数歩前から弾んだ声音が投げかけられた。
案内役として当てられた杉浦小春である。
彼女は場の空気を読んだように一定の距離を保ちつつ、部外者を導くという自身の役割をこなしていた。
「……って、先輩たちには必要のない説明でしたね」
少し照れたように微笑みながら、小春が少しだけ足を速めた。
第二音楽室――通称は開かずの間。
かつて“ある生徒”専用の音楽室として使用された頃の名残が、現在も生徒達の間で定着してしまったのだ。
「お待たせしました。ここが第二音楽室です」
突き当たりの角を曲がり、また少しだけ進んで。
幾つかの教室を横目に歩いて、その先の終着点に目指す扉が現れる。
木目を基調とした重厚な両開きの扉。その前に立った小春が視線を上げて見出しを確認する。
書かれている文字は「第二音楽室」で間違いない。
大きく一度頷いた小春が、その場でくるりとターンする。
「北原先輩。十八時までの使用許可は貰っています。その間の一般生徒の立ち入りは禁止になっていますから、ゆっくりと“取材”しちゃってください」
「ありがとう、杉浦。色々と面倒をかけたな」
「いえいえ。これも役目ですから」
名目上の理由はあくまで取材。かつて一度使った手ではあるが、冬馬曜子の追加コンサートが迫っている時期なら特に疑われることなく許可を取ることが出来た。
だから今日の小春の仕事は二人をここに案内することだけ。
役目が終わった彼女はこの場を去らなければならない。
それは分かっていますよとばかりに、小春はゆっくりとした足取りで春希達に向かって歩き出した。
「……小木曽先輩。これ音楽室の鍵です。職員室に諏訪先生がいますから、終わったら渡してあげてください」
「ありがとう、杉浦さん。はい。確かに預かりました」
「ではわたしはここで。失礼します」
雪菜へ直接鍵を手渡した小春が、二人に向かってペコリと頭を下げた。
顔を上げてからの目線の先は春希へ。しかしそれも一瞬のことで、小春は足早にその場を後にしていく。
去り行く彼女の背中を見つめる春希と雪菜。けれど角を曲がればその姿もすぐに見えなくなってしまう。
場に残されたのは“二人”だけ。
「それじゃあ、開けるね」
目線で春希に問い掛けてから、雪菜が鍵を鍵穴に差し込んでいく。そして彼が頷いたのを確認してから、ゆっくりと指に力を込めていった。
瞬間カチャリと、運命の回る音が響く。
「…………っ」
重厚な扉を押し開き――その先に広がる光景を見て、雪菜が静かに息を飲んだ。
声は零れていなくとも、大仰な動作が伴わなくても、彼女が感嘆しているのが春希には分かった。
「ここも、変わってないな」
彼にとっても特別な思い出のある場所。
瞳の中に飛び込んでくる光景は、なんの変哲もない音楽室に映った。
教卓の前に並んだ机と椅子。乱雑に置かれている幾つかの楽器。
窓の外から届いてくる声は部活に勤しんでいる生徒達の声だろうか。その響きがここが学園の敷地内なのだと春希達に教えてくれていた。
けれどここで一番目を引くのは、片隅に置かれているグランドピアノの存在だろう。
冬馬曜子が娘の為に寄贈したそれは、かつてかずさ専用のピアノとして演奏され続けていた。
放課後だろうが、授業中だろうが。
いつも変わらず彼女はその場に居座り続けていて――春希も雪菜も、定位置に陣取って仏頂面を晒しながらピアノを弾いている彼女の姿を幻視した程だ。
「なんだが懐かしいね。まだ三年しか経ってないのに」
雪菜が両手を添えた状態で、丁寧に扉を閉じていく。
扉が閉じられてしまえば、この場は完全な密室となる。
しかも音楽室である。少なからず防音処理も施されているだろう。音漏れの心配もないし、窓から侵入しようと試みるような酔狂な人間が現れない限り、春希と雪菜の二人だけの空間が作られるわけだ。
「三年も経った、の間違いだろ?」
少し自重気味に呟きながら、春希が室内中央まで進み出た。その後に雪菜も続き、改めて二人はこの思い出の沢山詰まっている室内を見回してみることにする。
三人で過ごした時間を顧みるように。
だからだろうか。
そんな行為に意識を取られていた春希は、隣で雪菜がその台詞を放った時、彼女の表情を見逃してしまった。
「――――ここがあの女のハウスね」
「え……?」
耳に届いた呟きを頼りに春希が振り仰ぐ。
そこには後ろ手に腕を組みつつ、笑みを浮かべる雪菜が待ち受けていた。
「覚えてるかな、春希くん。今のわたしの台詞」
「……合言葉は、だろ。もちろん覚えてるさ」
「ふふ、嬉しい」
はにかんでみせた雪菜が、組んでいた両腕を解いていく。
それから腕を真横に手を広げると、その場でくるりと身体を一回転させた。
「あれから色んなことがあったよねぇ。かずさとわたしと春希くんと。三人で――色々なことが」
「そう、だな」
「嬉しいことや楽しいこと。辛いことや悲しいこともあったけど、全部わたしにとっては忘れられない大切な出来事だよ」
「……っ」
「春希くんはどうかな? 辛いこととかやっぱり忘れちゃいたいって思ったりした?」
「そんなこと……」
今日、春希がここへ来たのは雪菜と話をするためだ。
先程小春が言った取材という言葉は勿論ただの方便で、この場所で話したいことがあるという雪菜の求めに春希が応じた形になる。
彼も雪菜と二人きりで会う必要があると思っていたので、この申し出は渡りに船だった。
しかし場所が因縁ある付属の第二音楽室。
当然それなりに覚悟を決めていた春希だったが、思いの他に雪菜の表情が明るいので面食らっている部分もあった。
ありていに言って雪菜の考えが読めないのだ。
だから春希は自分から切り出すことにした。まさかこの場所まで来て、思い出話に花を咲かせるのが目的だとは言わないだろうから。
「雪菜。俺に話したいことってなに? 大切な用件があるんだろ?」
「……うん。あるよ。でもその前にあなたに一つだけ確認したいことがあるんだ」
「え?」
「そのためにわざわざここまで春希くんを連れて来たんだから」
後ろ歩きの要領で、雪菜が彼から二歩だけ遠ざかる。
それから春希を中心にして円を描くように歩みを進めていった。半時計回りに半週。そして彼の正面まで移動すると、改めて春希の顔を見つめていく。
「わたしのファーストキスはね、この場所だったんだよ。学園祭の後で、ここであなたにキスをした」
「そんなの、俺だって、同じだよ……」
「すっごく緊張したなぁ、あの時。必死に誤魔化してたけど手なんかぷるぷる震えちゃって。初めてだからやり方わかんなくってね。見よう見真似で頑張ってみたの」
「……」
「それがわたしの人生で最初のキス。一生忘れ得ない大切な思い出。でもね、春希くんは違うんだ」
「……え?」
雪菜からの爆弾発言を受けた彼は、ただ呆けたように立ち尽くすことしかできなかった。
「………………雪菜。今、なんて……」
「だから春希くんのファーストキスの相手。わたしじゃないんだよ」
耳を疑うという言葉がある。
信じられない出来事に直面した時に、聞き違いなんじゃないかと疑ってかかることだ。
今の春希がまさにその状態で、あまりにも想定外の話を聞かされた影響で、床に縫いつけられたかのように固まってしまったほどである。
「嘘……だ……」
ここで雪菜にキスされて。ここで彼女に告白されて。それで二人は恋人同士になった。
何年経とうが、決して忘れるような出来事ではない。
「嘘じゃないよ」
「絶対に違う。だって俺、あの時までキスなんかしたこと無かったっ! 雪菜が俺の初めての相手だよ……」
なんでこんなことを言い出すんだって、春希は思った。
だって彼の記憶に刻まれているのは、この第二音楽室で彼女に唇を重ねられた事実だけだ。他ならぬ自分自身のことを間違えるはずがない。
なのに雪菜は、それが彼女にとって残酷な事実なのに、真実を証明するための言葉を重ねていく。
「あの日、学園祭のステージが終わってから、春希くんこの部屋にいたよね?」
「……いた。確かに、いたよ」
「それでちょうどそのあたりで、椅子に座ったまま眠っちゃったんだ」
「そうだけど……わからない。雪菜が何を言いたいのか、全然分からないよっ。確かにあの時の俺は、徹夜の影響もあって知らない間に寝落ちしてちゃったけど、そんなの雪菜も知っていることじゃないか」
彼が目を覚ました時、目の前にいたのは彼女だ。なら当然その前から雪菜はここに居たことになる。
今更確認するような出来事ではないはずだ。
「ならもう一つ思い出して。あの時部屋にいたのは――春希くんだけじゃないよね?」
「…………ぁ」
「かずさが、いたんだ」
当時の春希は、耳に届いたピアノが奏でられる音を頼りにこの場に押しかけた。
そこに一番会いたかった奴が、かずさがいるだろうって思ったから。
「あ……ああ……っ!?」
――ああ、もう。なんで北原はそんなに一々細かいんだ?
夕暮れ色に染まる教室の中で、いつものやり取りを交わす二人。
なんでもいい。彼はかずさと言葉を重ねたかった。
――そのおかげで冬馬と一緒にいられるようになったんだから、俺は間違ってない。だろ?
当時はただの友達同士で、だから当然甘い話になんて発展しなかった。かずさに邪険にあしらわれていたと言ってもいい。
それでも、彼はかずさと話すことが楽しかったし、一緒にいる時間を掛け替えのないものとして扱っていた。
届かないと思いながらも、彼女のことが好きだったから。
「俺……ッ」
ここに至って春希は、雪菜が何を言いたいのか、理解した。
右手を持ち上げ、そっと唇を人差し指で撫でてみる。
「わたし、見たんだ。かずさが春希くんにキスしてるところ。だからわたしは――その日のうちにあなたに告白したの」
「なんでっ……今更っ……そんなことっ……!?」
「仕切り直したかったからだよっ。一度ゼロに戻したかった――ううん、もう戻れないのは分かってる。でもこれがわたしなりのケジメのつけ方なんだよっ!」
「雪……菜」
「春希くん。わたしはあなたのことが好き。ずっと、ずっと好きだったっ!」
雪菜は春希を正面から見据えて――いや、彼だけを視界の中に捉えたまま、その想いを口にする。
「北原春希くん。改めて、わたしと付き合ってください」