WHITE ALBUM2 Concert route 作:powder snow
真摯に告げられた雪菜の言葉が、春希の心の中に染み渡っていく。彼女の偽りのない思いの丈が、身体を包み込むような錯覚さえ覚えたほどだ。
「……」
彼女を前にして、胸中に蘇ってくる様々な思いや出来事。
雪菜と出会った頃、彼はまだ付属の学生だった。対する彼女はミス峰城大付属に選ばれるくらいの学園のアイドルで。それでも彼女の意外な秘密を知った時は随分驚いたものだ。
軽音楽同好会に入り、そして運命とも言える学園祭の日を迎え、駆け抜けるように過ぎて行った日々は、春希の中で決して色褪せることのない物語として刻まれている。
「――」
奇しくも、あの時に雪菜から告白されたのは彼が今も立っているこの場所。
彼女から唇を重ねられて、そして恋人同士になって。そんな二人と、もう一人を加えて紡いでいった日々は忘れようとしても忘れられるものじゃない。
かずさも含めて三人で温泉旅行に出掛けたこともある。道中、車内での会話はなんか今でも鮮明に思い返せるし、旅館で振舞われた美味しい料理も覚えている。
三人で入った温泉。そして雪合戦。
雪菜と触れ合った確かな感触。
彼は、小木曽雪菜のことが好きだった。なのに雪が舞い散るあの日に、こともあろうに雪菜の誕生日に、春希は彼女を裏切ったのだ。
「……」
進学してからはすれ違いの連続で。なのに久しぶりに電話した時の雪菜のはしゃぎようは凄くて、聞いている春希が戸惑ったほどだ。
雪菜を探して、小春と二人で夜の街を駈けずり回ったこともあった。見つからない彼女の姿を求め、使える手段は全て行使して、雪菜を求めた。
そして迎えた去年のクリスマス。
今度こそ雪菜と一緒に歩んで行こう。全てをリセットして一からやり直そう。そう望んだのに、彼女のために纏った春希の嘘は、彼女に看破されてしまう。
「…………」
雪菜はともすれば崩れそうになる身体を両手で支えながら、春希からの答えを待っている。
握り込んだ拳が小刻みに揺れているのは、小さく震えているからだろうか。きつく結ばれた唇は、彼女の心境を表しているのかもしれない。
「雪菜」
春希が彼女の名前を呼んだ時、雪菜の震えが一瞬だけ止まった。
「……春希、くん」
「俺……」
今でも小木曽雪菜のことが好きかと問われれば、春希はYESと答えるだろう。大切な存在かと問われれば、即座に頷いてしまう。もう一度雪菜とやり直すという意味では、これが最後のチャンスになるのかもしれない。
でも、だからこそ、この申し出だけは絶対に受けるわけにはいかなかった。
だって、今度は間違えないって決めたから。
同じ過ちは繰り返さないって、決めたから。
「俺さ……」
だから春希は、誰よりも愛している人の名前を、真っ直ぐな思いとともに彼女に伝えることにした。
「かずさのことが好きなんだ」
「……っ」
「強情で意地っ張りで、だらしなくて我がままで。おまけに不器用で。本当、雪菜に比べたら全然駄目な奴なのかもしれない。でも、そういうあいつのことが好きなんだよ」
「は……る……」
「あいつが笑うと嬉しいよ。あいつが傍にいるだけで幸せな気分になる。今言った駄目な部分も、俺にとっては愛おしく感じる部分で……だから、雪菜の気持ちには応えられない」
「っ!」
「……ごめん」
室内に沈黙が降りたのは一瞬だけ。その後で、彼の答えを聞いた雪菜の唇が急速にへの字へと折り曲がっていく。そうやって変化していく表情を見られまいとしてか、彼女がさっと俯いた。
すすり泣くような声ととも漏れる小さな吐息。視線の先にある床には、ぽたぽたと涙が零れ落ちていく。
「……うん」
「雪……菜?」
「……知ってた」
雪菜は後から後から溢れてくる涙を強引に掌で拭うと、必死の思いで顔を上げた。
「わたし、春希くんがかずさのこと好きなの、ずっと前から知ってた」
一度は拭った涙が、再びぽろぽろと溢れてくる。そんな状態にあっても、雪菜は春希に向かって柔和な笑顔を浮かべたのだった。
「だからこうなるってわかってたんだよ。覚悟、して、来たのに……どうしてだろ。涙、止まんない……」
袖口で目元を拭いながら、雪菜がしきりにしゃくり上げている。
泣いちゃ駄目。そう思っても後から後から溢れてくる雫が、彼女の心を動揺させる。
「……あはは。わかってたのに、なぁ……」
贖罪という意味も少しはあったのかもしれない。けれど本当の目的は今よりも前に進みたかったから。そのためにこうする意外の方法を彼女は選べなかった。
だけど、もしかしたら。そんな気持ちも確かに抱いていたのも事実で。
だって、彼のことが本当に大好きだから。
触れ合いたいって。もう一度心を重ねあいたいって。そう思ってしまったから。
「……春希くん。正直に答えてくれてありがとう」
「雪菜……」
「あと、ごめんなさい。わたしから呼びだしておいてあれなんだけど……帰る、ね」
「……あ」
春希が声をかけるよりも先に雪菜が動き出す。
彼女はその場で踵を返すと出口に向かって駆け出して行った。そして外へと通じる扉に手を添えた時に、驚いたようにはたと動きを止めてしまう。
「え……?」
指先から伝わる感触が心許ない。それもそのはずで、確かに閉めたはずの扉がほんの少しだけ開いていたのだ。
「か……ずさ?」
「雪……菜」
驚きの声をあげながらも、雪菜の視線は、開いた扉の先で立ち尽くしている人物に注がれている。
その人物――冬馬かずさは、長い黒髪をコームで結わえ、眼鏡と帽子を着用していたので、普段の印象とはかなり違って見えた。だから雪菜は一瞬人違いをしたのかと思ったが、彼女が発した声を聞いてすぐにその人物が自身もよく知るかずさで間違いないと認識する。
「え? かずさ!? お前、なんで――」
そんな彼女の登場は春希をしても想定外だったようで、踏み出しかけていた足を止めてしまう。
「春希と雪菜が会うって教えてもらって、それで……」
「お、教えてもらったって、誰から……」
「ほら、この前話しただろ。瀬之内晶だよ。今朝、彼女がまた尋ねてきてさ。それで二人が会うからって」
「いや、お前の言ってる意味が、よくわからない」
「あたしだってそうだ。どうしてそんなことを知ってるんだとか、なんであたしに教えてくれるんだって思ったけど、でもさ、それを聞いたら気になって……しまって」
「……」
「だから春希の助手だってことにして、ここまで来たんだ」
話しながらかずさが結わえた髪を解き、眼鏡と帽子を取り去った。
これでいつもの冬馬かずさが、春希と雪菜の前に現れる。
「助手って、お前な……」
「遅れて到着したカメラマンってことにしておいた。……諏訪の奴、まだこの学園にいたんだな。あたしだって気付かなかったみたいだけど」
「けどさ俺、お前に言っておいたよな。今日は雪菜と会って話をするからって」
「ここで会うとか、聞いてないっ!」
少しだけ語気を荒げたかずさが一歩だけ室内へと足を踏み入れた。
「ここは誰にとっても特別すぎる場所だろ。あたしだけじゃなくて、春希にとっても。そして――」
そこで一旦言葉を区切ったかずさが、戸口で立ち止まったままの雪菜へと視線を向ける。
「雪菜にとっても」
「……」
「三人にとっての特別な場所じゃないか。そんなところでおまえたちが会うって聞いたら、じっとなんてしていられないよ」
会話の流れの中でそうなっただけだが、自ら“三人”と口にしたことで、かずさの心が一気に三年前へと立ち返っていく。場所がここなのも影響したのだろう。
それは春希も雪菜も同じで、三人が空中で視線を合わせていく。
「……」
第二音楽室。通称は開かずの間。
ここはかずさにとってこの学園で一番馴染みのある場所である。学生時代は、実際に教室にいた時間よりもここでピアノを弾いていた時間のほうが長いくらいだ。
曜子が娘のために寄贈したグランドピアノそれは、当時と変わらず部屋の片隅に今も置かれていて――
「ッ!」
「ま、待ってくれ、雪菜っ!」
ふと、かずさがピアノのほうへと視線を向けた時、近くにいた雪菜が動き出した。それを慌てて彼女の腕を掴むことで阻止する。
「かずさ?」
「あ、いや……」
どうしてそんなことをしたのか、かずさは言葉にすることが出来なかった。ただこのまま雪菜を行かせてしまったら駄目なんじゃないかって、そう思ってしまっただけで。
「……」
「…………あたし、馬鹿だからさ。うまく言葉にできないんだけど」
かずさが喋り始めたことを受けて、強張っていた雪菜の身体から少しだけ力が抜けた。それを確認してから、かずさが彼女の手をそっと離す。
雪菜が話を聞く態勢になってくれたと思ったからだ。
「……っ」
「……かずさ?」
「………………っ!」
「……もしかしてかずさ、わたしのこと怒ってる?」
「え?」
「その、聞こえてたよね、さっきの春希くんとの会話……」
「べ、別に立ち聞きしようとしたわけじゃない。偶然タイミングが合ってしまったというか……」
「わたし、かずさの秘密、バラしちゃったもんね。それとも、彼に告白したこと、怒って――」
「そうじゃない。そういうんじゃないんだ、雪菜」
雪菜が扉に手を添えた時、そこは少しだけ開いていた。もしかずさが扉の向こうに佇んでいたのなら、先ほどのやり取りが聞こえていてもおかしくはない。
事実、かずさは二人の会話の内容を把握していたが――そのことについて雪菜を責めようなんて気持ちは微塵も抱いていなかった。
もし逆の立場だったとしたら、自分だって春希への気持ちを抑えられるとは思っていないし、駄目だとわかっていても相手に想いを伝えてしまうことも十分にあり得る。
春希が雪菜のことを受け入れたという展開なら落ち着いてはいられないだろうが、彼はきっぱりとかずさを選ぶという意思を示してくれた。
ここで二人が会うと知った時に彼女が抱いた不安を、杞憂に終わらせてくれた。
「わだかまりがないなんて言ったら嘘になるよ。けど今は優先したいことがあるっていうか……」
秘密をバラされたことについて言いたいことはある。彼に知られるにしても、自分で言葉にしたかったから。だけど今かずさが口にしたようにそのことで言い争う場面じゃないとは感じているし、雪菜にも余裕はないだろう。
そんな二人の様子を見ていた春希が、ここで初めて口を開いた。
「なあ、かずさ」
「春希?」
「いいよ。思ったことをそのまま口にして」
「……え?」
実は春希自身も、雪菜から告白されて、次いでかずさが登場してと、どんどん状況が変化していくことに混乱しかけていたが、彼女が困っているのだけは見て取れた。
そういう時、自分よりもかずさのことを優先してしまうのが彼という人間の本質である。
「きっと伝わるって。それに無茶な論理でも俺が訳してやるから」
「……なんだよ、それ。春希はあたしの翻訳機かなにかなのか?」
「そういうんじゃないけど、これでもお前の一番の理解者だと思ってるんだけどな」
だってお前の彼氏だし。そう言いかけた言葉を、春希は咄嗟に飲み込む。
さすがにそれをここで口にするのは憚れたのだ。
「……わかったよ。っていうか、ありがとう春希」
「まだなんにもしてないって」
「あたしがお礼を言いたかっただけだ」
そう言ったかずさが、改めて室内を見回す。
あれから三年の時を経ても、当時とほとんど変わらない景色。ピアノ以外にも幾つかの楽器が目に飛び込んでくるのは、ここが音楽室たる所以か。
彼女はひとしきり室内に視線を走らせてから、二人に向かってこう言葉を告げた。
「なあ、三人でもう一度、セッションしてみないか」