WHITE ALBUM2 Concert route 作:powder snow
「……かずさ。セッションって、今ここでか?」
「うん。せっかくこの場所で三人揃ったんだし、一曲だけでもと思って」
春希にそう答えたかずさが、ゆっくりとした足取りでピアノの近くまで歩いて行く。そしてどこか懐かしむような表情を浮かべたまま、そっと筐体に指を伸ばした。
指先を通じて伝わるひんやりとした触感。彼女は少しの間その感触を楽しんでから、改めて春希のほうへと向き直った。
「あたしがピアノで春希がギター。そして雪菜が――ボーカルを」
次いでかずさは雪菜へと視線を向けると、彼女に歌って欲しいという意思を伝える。その雪菜は状況の推移を見守っていた感じで、未だに扉口付近に佇んでいた。
「……」
「春希から聞いたよ。雪菜が歌えなくなったって。でもあたしと春希が一緒ならさ……あの時みたいに三人一緒なら、もしかして歌えるんじゃないかって、そう思ったんだ」
雪菜が歌えなくなったと春希から聞かされた時、大きな衝撃を受けたことをかずさは覚えていた。どう考えても原因の一旦は三年前の自分にあると思ったからだ。
以前までの彼女なら、きっとそこで停滞してしまっていたのだろう。心を強く痛めながらも、前に進むことを怖がってしまって。けれど春希と再会し、彼に自分自身が受け入れられ、恋人同士になってから紡いだ日々が、ほんの少しだけかずさを強くしていたのだ。
雪菜と本音を語り合ったことで、心の壁が幾分取り除かれたという経緯もある。
しかし一番大きな理由は、彼女と友達でいたかったから。
――不倶戴天の敵か、それとも一生涯の友か。
もしかしたら、これは傲慢な考え方なのかもしれない。それでも選べるのなら、自分自身に選択権があるというのなら、かずさは雪菜と友達でいたいと思ったのだ。
「雪菜。もう一度、あたしとさ……」
「かずさ……」
もう一度とかずさが言葉にしてみせる。
それはセッションして音を重ねたいという直接的な意味と、もう一度手を繋ぎ合える関係になりたいという、二つの意味が込められた問い掛けだった。
互いに恋敵でありながら、その相手を憎みきれない。それどころか大切な存在だと思い合っている。そんな二人の視線が空中でぶつかり、交わり合う。
その邂逅の中で、先に視線を反らせたのは雪菜だった。
彼女は少しだけ眉根を寄せると、僅かに首を動かして目線を切った。
「ごめん、かずさ。嬉しいけど、さすがに今は歌えない……よ」
「せつ……な」
「でも、でもね……」
胸の前で拳をきゅっと握り込んでから、雪菜が顔を上げる。その時の表情は、先ほどよりも少しだけ笑顔に近くなっていて。
「次なら歌えるかもって、思うんだ」
「……次?」
「うん。だから今は、ありがとうって、それだけ伝えとくね」
そうかずさに答えた雪菜が、一歩ずつ踏みしめるような足取りで彼女の前まで歩いて行く。それから無造作にポケットに手を入れると、中からひとつの鍵を取り出した。
「えっと、これをね、帰る時に諏訪先生に渡しておいて欲しいんだ。わたしは……渡せなくなっちゃったから」
「これって、もしかして」
「うん。この部屋の鍵だよ。杉浦さん……って言ってもかずさはわからないか。わたしたちの後輩に当たる女の子で、預かってたの」
かずさの手を取った雪菜が、彼女にそっと鍵を握らせる。
「お願いね、かずさ」
「あ、うん。わかったよ」
「ありがとう。それじゃ……またね」
お別れの挨拶にと手を振る雪菜。けれどそれは再会を約束した挨拶だった。
「春希くんも」
「……雪菜」
「……。ばいばい」
一瞬だけ躊躇してから、雪菜が春希に向けて手を振った。
彼に告白し、玉砕したという事実を受け止めるにはまだ時間がかかるだろう。それでも真摯に想いは伝えたのだ。彼女なりに出来ることはやった結果なのである。
もちろん辛くないなんて言ったら嘘になるし、家に帰れば泣いてしまうのはまちがいない。それこそ今は、心が砕けそうになるほどの痛を感じている。でもこの痛みは、本来三年前に経験するべきものだったのだ。
春希とかずさの間に割って入った自分に、三年越しにやってきた――罰。
実際は雪菜だけが間違ったわけじゃなく、三人それぞれに咎があり、ボタンを掛け違ったように少しづつ歯車が狂っていった結果なのだが、そう考えてしまうのが小木曽雪菜という女の子だった。
「――」
雪菜が部屋を出て、そっと扉を閉める。
もしも春希が冬馬曜子のコンサートに行くという選択をしなければ、彼女にとって違う未来が待っていたのかもしれない。彼と一緒に歩めるような世界があったのかもしれない。
けれどそうはならなかった。
雪の降る夜に、春希とかずさは再会した。
そうなってしまえば、二人が止まれないのは、ずっと昔から彼女はわかっていたのだ。
「あ……れ? 着信、入ってる……」
何の気なしに取り出した携帯を見て、雪菜が目を丸くする。マナーモードにしていたので、着信に気付かなかったのだ。
「……」
少しだけ悩んでから、雪菜は着信相手にコールバックして、それから携帯を自身の耳元に当てた。
『……あ、わたし。うん、終わったよ』
廊下を進みながら会話する雪菜。電話の相手は水沢依緒である。
彼女も雪菜のことが気になって連絡してきたのだろう。
『……うん。あのね。わたし、春希くんに……フラれちゃった。……あはは、泣くのはこれからだよ』
事実を口にすることで、さっきまでの慟哭が蘇ってくる。それでも誤魔化すようなことはしない。
『大丈夫……じゃないけど、大丈夫。……え? うん。いいよ。今夜はとことんつきあってもらうんだから』
依緒から飲みに誘われて、それに雪菜が応える。
相手の気遣いが、彼女の心をほんのちょっとだけ癒してくれる。
『うん。ありがとう、依緒』
依緒を始めとした友人たち。そして暖かな家族。
そんな彼女の周りにある優しい世界が、きっとこの先で雪菜の助けになってくれることだろう。
雪菜を見送った部屋の中で二人が佇んでいる。その中で最初に口を開いたのはかずさだった。
「なあ春希。雪菜、次って言ってたよな?」
「……うん」
「またって言ったよな?」
「ああ」
「そっか。もう一度、歌えるようになってくれたら嬉しいな」
春希にとってもかずさにとっても大切な存在である雪菜。だがどうしても譲れない想い、そして願いが二人にはある。
彼にとっての一番はかずさであり、またかずさにとっての一番が春希である限り、雪菜のもっとも求める結果には応えられないのだ。どうしても袂を分かつ結果になってしまう。
しかしその上で、まだ彼女と繋がりが持てるというのなら、二人にとってこんなに心安らぐ出来事はないだろう。越えるべきハードルはあっても、その先に道が続いているのなら、いつか辿り着くこともできるはずだから。
「……どうするかずさ。俺たちも帰る、か」
多少イレギュラーな事態はあったにせよ、ここを訪れた目的は既に達成している。ならこの後どうするのか。そう思った春希がピアノの近くで立っているかずさに問いかけた。
「そうだな。どうしよっか」
「……やっぱり色々と思い出しちまうか、ここに来ると」
生返事を返しながら、所在なげに室内を見回しているかずさの様子から、春希は彼女が郷愁に浸っているのだと当たりをつけた。
「付属の三年間、お前が一番長く過ごしてた場所だもんな」
「そうだな。いつまで経ってもあたしのピアノに合わせられない、ヘタクソなギターのことを思いだしてたよ」
「……悪かったな、ヘタクソで」
「ふふっ。まあ実際教室にいた時間よりも、ここでピアノ弾いてた時間のが長かったと思うよ」
そう答えたかずさが、再びピアノへと視線を落とした。
「生まれた時から傍にあって、ずっと一緒に過ごしてきた。お前と離れてた三年間も、こいつだけは隣にあったんだ」
かずさがそっと椅子を引いて、そこに腰を落ち着ける。そうするだけで――彼女がピアノを弾く体勢に入るだけで、ピアニスト冬馬かずさが場に現れることに、春希はちょっとした感動すら覚えた。
「母さんはさ、あたしがピアノが好きだから続けられたんだろうって言ったけど、お前はどう思う?」
「そんなの、俺にわかるわけないだろ。でも好きだから続けられたっていうのは、至って普通のことじゃないのか?」
「だよな。でもあたしは普通じゃないからなぁ」
「……それ、自分で言うなよ」
かずさが普通じゃないなんてのは春希にはよくわかっていることだ。だって普通の人は国際コンクールで準優勝したりしないし、音楽雑誌の表紙を飾ったりしない。冬馬曜子に音楽の才能を認められたりもしないのだ。
彼女がそういう意味で言ったんじゃないと知りながらも、そんな方面でも物事を考えてしまう。
今という時期ならば尚更だ。
「でも一つだけ絶対に約束できることがあるよ、春希」
「ん?」
「もしピアノか春希か。どっちかしか選べないなんて時が来たら、あたしは迷わず春希を選ぶから」
「……いきなり物騒なこと言うなって」
「確か前にも似たようなこと言ったろ? だからいきなりじゃない」
「お前な……」
「ただ今のはあたしなりの決意の現れっていうか、意思の表明っていうか、そういうのだから。春希は覚えててくれるだけでいいよ」
二者択一どころか、全てを捨ててでも春希を選べてしまうのが、冬馬かずさという人間の本質だ。けれど現状は捨てるどころか、複数のものを手の中に収めてしまえる状態にあり、そういうあり得ないような状況に彼女自身も戸惑っているのかもしれない。
少し前までは、夢の中でさえ実現できなかった光景だったから。
願っても手は届かない世界だったから。
「……」
「なあ、春希」
「……かずさ?」
「えっと、二人になっちゃったけどさ、やっぱり少しだけでもセッションしていかないか?」
「え?」
「久しぶりに聴きたいんだ、お前のギター」
そう言ったかずさが、椅子に腰掛けた姿勢のまま、部屋の片隅に置かれているギターケースへと視線を送った。
「折角この場所に戻ってきたんだ。帰る前に弾いてみせてくれよ」
「でも俺ずっと練習とかしてなかったから、うまく弾けるかわからないぞ」
「それは知ってる。お前の部屋にあるギターを見せてもらったからね。サボってたのまるわかりだった」
「……そっか」
「それでも春希の奏でる音が聴きたいんだ」
「……」
「下手でもいいよ。トチっても構わない。昔のようにもう一度……さ」
「本当に……下手でもいいのか?」
「もちろんっ」
「わかったよ。けどおまえが合わせてくれないとまともに弾けないかもしれないぞ」
春希の答えを聞いて、かずさがぱっと表情を輝かせる。
「それは任せて。春希の弾く曲にならどんなものにでも合わせてやるよ。なんたってあたしはお前の師匠だし」
「そう、だったな。それもとびっきりに厳しいお師匠様だったよ」
苦笑いを浮かべながら、春希がギターケースの元まで歩いて行く。そして一瞬だけ躊躇してから、そっとそれに手を伸ばした。
ケースから取り出されたそれは、かずさが今触れているピアノとは比べものにならないくらい安物のアコースティックギターだった。
「よっと。覚えてるかなぁ」
両手で抱えて軽く音を鳴らしてみる。それだけなのに、不思議と昔の感覚が戻ってくるような気がしたことに、春希は軽い驚きを覚えた。
場所がここだというのも影響したのだろう。
隣にかずさがいるというのも。
三年前、ギターが上達したくて、うまく弾けるようになりたくて、毎日必死に練習してたあの頃を思い出してしまう。
「……」
「懐かしいか、春希?」
「まあな。ギターは部屋にもあるけど、ここでってのはやっぱ特別だよ」
春希が弾く体勢に入ったのを見て、かずさが鍵盤へと向き直る。しかし唐突に思いだしたとばかりに目をぱちくりとさせると、再び彼の方向へと身体の向きを変えた。
「そうだ春希。始める前にさ、ちょっとだけ聞いてもいいか?」
「なにか注文でもあるのか?」
「いや、そういうんじゃないんだけど。疑問に思ってたことがあって」
「疑問?」
「うん」
演奏前になにか文句でもつけてくるのかと思ったが、彼女の反応を見るにどうやら違うらしい。だから春希も彼女の話を聞く態勢に戻っていく。
「なんだよ、疑問って」
「いや、春希がどうしてギターを始めたのかなって」
「え?」
「春希って大抵のことはそつなくこなせるのに、ギターだけは中々上達しなかったよな。言っちゃ悪いけど、センスが壊滅的になかったから」
「……悪かったな、センスが無くて」
「それなのに、めげずにずっと続けてたじゃないか。それが不思議だなって」
「向いてないって自覚はあったよ。けど目的があったから頑張ったんだ。努力したんだ」
「だからそれはどうして?」
「……。別にいいじゃないか、そんなこと。それより早くセッションしようぜ」
「あたしの言ったこと、気に障ったのか?」
「そんなことないけど……」
「なら、教えてくれよ」
春希が物事を途中で投げ出すような人間じゃないのはかずさも良くわかっている。けれどそういう意味合いを越えたくらいのレベルで、ギターに拘ってるように見えたのも確かだ。
興味本位で始めた程度なら、もっとはやく諦めてもおかしくなかったのにと。
「なあなあ、春希ぃ」
「そんな猫なで声出しても駄目だからな。というか、かずさには教えたくない」
「はぁ? なんだよそれ」
「だって言ったらお前、笑うだろ」
「そんなの、聞いてみないとわからないじゃないか」
「いいや。絶対笑う。だから嫌だ」
「ならさ、笑わないって約束したら教えてくれるか?」
「……そんなに聞きたいのかよ」
「うん」
春希の態度が頑ななので、彼女の好奇心に火が点いてしまった。
「絶対笑わないからさ、春希」
「別に壮大な理由とか、そういうの全然無いぞ? 始めたのって俺の身勝手な理由だし……」
「それでも構わない。教えてくれよ」
「……」
「春希っ」
「……あーもう。わかったって。でも一回しか言わないからなっ」
どう断わってもかずさが引き下がらないと理解した春希は、溜息を吐きながら手を上げて相手に降参の意思を示す。それからかずさから目線を逸らすと、ぽつりと小さな声で告白した。
「お前の気を引きたかったからだよ」
「………………え?」
視線を合わせなかったのは、恥ずかしかったから。
「今、なんて――」
「だから、かずさの気を引きたかったんだって。お前に興味持ってもらいたかったんだよっ!」
「……え、あ……」
「そうじゃなきゃバンドなんか入らないって!」
生真面目で口うるさい委員長が、場違いなギターに挑戦したのは、好きな女の子に振り向いて欲しかったから。
崇高な目的なんて何処にもない。けど男の子なら誰でも一番になり得るだろう、そんな単純な理由。
「あの頃のお前さ、いつも態度がつっけんどんだったじゃん。俺が幾ら話しかけても突き放してくるし」
「それは……あたしだって色々あって……」
「今はわかってるよ。けどあの頃の俺はそんなのわかんないし。けどちょっとだけ脈ありそうだなって思ったから、ギター頑張ったんじゃんか」
「……それって、それってさ、春希、かなり前からあたしのこと、好きだったって――」
「そうだよ! 初めて見た時から、かずさのこと気になってた!」
「っ!?」
半ばヤケクソ気味に声を張り上げる彼を見て、かずさの表情が綻ぶ。
彼の言葉を聞いて、自然と破顔してしまう。
「お前、そんなに始めから、あたしのこと女の子として、見てたのか……?」
「正直、一目惚れだった。格好いいな、綺麗だなって……」
「……!」
「笑う、なよ」
「あ、はは……。そんなの聞いたらなぁ、笑うに、決まってるじゃないか……」
そして、笑いながらも、嬉しくて泣いてしまうのだ。
かずさは目尻に涙を溜めながら、今彼に伝えるべき言葉だけを舌の上に乗せた。
「春希」
「……なんだよ」
「愛してる」
「……っ」
「大好きだ」
真実を言ったらからかわれるかもしれない。そう春希は思っていたのに、こうもストレートに愛情をぶつけられると照れてしまう。困ってしまう。だから照れ隠しにギターを一回だけかき鳴らして、この話題は終わりだとかずさに伝えた。
「……。もうセッション開始するからな!」
「ああっ、待ってくれ。一人で始めようとするなっ」
こうして三年ぶりに彼のギターと彼女のピアノが合わせられる。
もちろん曲目は『WHITE ALBUM』。二人が始めてセッションした曲だった。