WHITE ALBUM2 Concert route   作:powder snow

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第七話

 白い雪がひらひらと舞い落ちている。

 夜の帳は既に降りていて、街灯の薄明かりが雪と彼女とを暗闇の中で浮かび上がらせていた。

 

「あっ…………ッ」 

 

 冷たい風が雪を攫う中で、春希は全身が硬直していくのを感じていた。

 寒いからじゃない。驚きからでもない。

 まるで金縛りにあったように動けなくなってしまったのは、目の前の女性に視線が吸い寄せられているのは、全部込み上げてくる嬉しさの所為だった。

 先程までの慟哭も、胸を貫いていた痛みも全て嘘のように消えていて、ただ彼の胸中を喜びだけが満たしていく。

 だって三年間ずっと夢見ていた、片時も忘れることのなかった女性が目の前に現れたのだから。

 

「か……ず……」

 

 手を伸ばしたかったが動いてくれない。名前を呼びたかったけど途中で掠れて消えてしまった。

 離れた二人の距離は二メートル。

 今までのことを思えば信じられないほどの近距離ではある。なのに春希はそのたった二メートルの距離をもどかしく感じていた。

 すぐにでもこんな些細な距離を渡ってしまって彼女と近づきたかった。

 寂しかったと。会いたかったと耳元で囁き、きつく自分の腕の中で抱き締めたかった。

 どんなに辛かったかと切々と訴え、どんなに彼女のことが恋しかったかと喚き、かずさと唇を重ねたかった。

 

「ッ……!」

 

 だけど小さな恐怖が足かせとなって春希の前進を阻んでしまう。

 三年間離れていた。ただの一度も連絡は取らず、声さえも聞かず、二度と会うことは叶わないと思っていた。

 春希がずっとかずさのことを思っていたからって、彼女もそうだとは限らない。

 人を忘れるには十分な時間。思い出にしてしまうには有り余るだけの時が二人の間には流れたのだ。

 

「っっ……ッ!」

 

 それでも春希は一歩だけ彼女との距離を詰めた。

 さっきかずさは“春希”と彼の名前を呼んでくれた。その僅かな手綱を頼りにして――歯を食い縛って、拳をぎゅっと握り込み、意思を総動員してやっとだけど――かずさとの距離を近づけることに成功した。

 彼女は相変わらず呆けたように視線を彼に固定したまま動かない。

 そのことに僅かに安堵する。

 もし逃げ出されたらと気が気じゃ無かったから。 

 

「……なあ、電話中……なのか?」

「え?」

 

 思いもよらないかずさからの呼びかけ。

 彼女の視線が春希のこめかみ辺りで揺れている。それを受けて初めて、春希は自分が携帯を耳元に押し当てていたのを思いだした。

 雪菜から着信があり、それを受けようとしていたのを。

 春希は目線を動かし右手に持ったままの携帯へと視線を走らせる。コールする音が途切れていたので予想は出来ていたが、やはり既に雪菜からの着信は途切れていた。

 一体何コール放置しただろう。

 かずさを視界に収めた瞬間からの記憶が曖昧な為、春希にはそれが判断できない。それを誤魔化すようにそっと腕を下ろすと、彼は無造作にコートのポケットへと携帯を仕舞い込んだ。

 そして小さく息を吐いてからかずさに向き合う。零れた吐息は白い靄となって空へと上っていった。

 

「……もう、終わったんだ。だから今は電話中じゃないよ」

「そっか」

 

 素っ気無い答えだけを返し、かずさが黙り込む。

 それきり彼女は口を開こうとしなかった。

 そんな彼女の態度に小さな壁を感じてしまい、春希も声を掛けるタイミングを逸してしまう。

 手を伸ばせば届く距離に相手がいるのに、沈黙が障壁となってそれを阻んでいる。一度は身体を重ねた相手との心の距離が推し量れない。

 だから二人は、相手を視界に収めたまま口を噤むことしか選択できないでいた。

 

「……」

「……」 

 

 求め続けた相手が目の前にいるのに、満足に声もかけられないもどかしさに春希が臍を噛む。

 何か話したい。話さなきゃいけないと考えれば考えるほど言葉が口に上ってこないのだ。下手なことを口にして彼女の機嫌を損ねてしまえば、かずさを失ってしまうかもしれない。

 今の彼と彼女は偶然道端で出会っただけ。三年前のようにまた明日という訳にはいかないのだ。

 

「――――」 

 

 かずさの表情から彼女の感情が読み取れない。

 泣きそうになっている気もするし、春希を疎ましく思っているようにも見える。言葉がないのだから推し量るしかないのに、二人とも相手の表情から思いが読めないのだ。

 三年という月日がそれほど二人の心を引き離してしまったのか。

 それを認めたくなくて――少なくとも春希は今でもかずさのことを思っていたから、このまま別れてしまうのは嫌だと、喉の奥から声を必死に絞り出す。

 届けと願いながら、たった一言だけ、やっとの思いで口にした。

 

「…………っ。……ッ……なあ」

「なに!」

 

 だけど短い春希の呼びかけに対し、かずさは即答した。

 まるでずっと彼から声を掛けられるのを待っていたかのようなタイミングで。

 春希はそんなかずさの反応が嬉しくて、だから少しだけ踏み込んだ提案をしてみることにした。

 

「あのさ、その……“かずさ”って呼んでもいいか?」

「え? あ……うん。いいよ“春希”」

 

 春希はずっと彼女のことを冬馬と。かずさはずっと彼のことを北原と呼んでいた。

 それが翻ったのは二人にとっての最後の一日だけ。

 だから春希はそう提案することで、あの日から続いているのかを確認したかった。幾ら三年間心の中で彼女をそう呼んでいたとしても、相手からの承認が得られなければ意味はない。

 かずさも幾らそう春希に呼んで欲しくても、相手にその気が無ければ叶わないのだ。

 そんな儀式めいた問い掛けを改めて行わなければならないくらい、二人とも相手の思いに対して臆病になっていた。

 けれどその儀式も無事に終わり、二人はやっと普通に会話する免罪符を得ることができた。

 

「……久しぶり、だな。かずさ、日本に来てたんだ」

「ああ。母さんのコンサートを聴きにきたんだよ。冬馬曜子ニューイヤーコンサート、知ってるか?」

「うん。知ってる。今ちょうどやってるころだよな」

 

 そう言って春希が首を巡らせコンサートホールに目をやった。

 思い馳せるだけで、数千人は収容できるホールが観客で満員になっている姿が想像出来る。その大勢の列席者は例外なく冬馬曜子の演奏を聴きに来ていて――本来なら春希もそこにいたはずなのだ。

 チケットを手に客席に行き、そこで運命的な再会をしていたはずなのだ。

 それが“行かない”と逃げを決めた途端、ホールの外で彼女と出会えるなんて、もはや運命の女神の悪戯と言う他はない。

 

「こっちでも随分と宣伝してた。海外を拠点にしててもやっぱり曜子さん日本人だし、ニュースでも報じてたくらいだ」

「……悔しいけどあの人の実力は本物だからな。幾らこっちが伸びても追いつきゃしない」

「かずさだって凄いじゃないか。トラスティで準優勝したんだろ?」

「母さんと同じ順位だけどな。しかも権威の落ちた大会でと馬鹿にされたよ」

「それでも十分凄いって。……俺なんかとは比べ物にならないくらい、凄いよ」

「お前だって――」

 

 あんな凄い記事書いたじゃないか。日本にあたしのこと知らしめたの春希だろ? そう喉まで出かかった言葉をかずさは咄嗟に飲み込んだ。

 今はまだそれを口にはできなはしないと。してしまったら止まらなくなりそうだからと自重したのだ。

 だから彼女は少し違ったニュアンスでもって会話を続ける。

 

「良く、知ってるじゃないか。トラスティのこととかニュースで見たのか?」

「まあ、な」

「……こっち来て、日本であたしのことが話題にされてて驚いたよ。まだ駆け出しもいいとこなのにさ」

「お前って画面映えするからな。日本ってそういう外見的な要素も人気が出る秘訣になっちまうんだよ」

「なんだよ、それ。あたしの外面だけ見てどうのこうの言ってるってのか? 失礼じゃないか」

「マスコミってのはそういうもんなんだよ。曜子さんとかそういうのうまく利用してるだろ?」

「ああ、うざったいくらいにな。けどそういう外から見た情報だけで全て判断されるのって昔も今も変わらないか」

「……かずさ」

 

 学生時代のかずさはそういう風に不良のレッテルを貼られてしまい、結局ほぼ三年間その評価を覆すことが叶わなかった。

 彼女自身にも戒める部分はあったが、それでも全てが万事彼女の責任という訳でもない。そんなレッテルに騙されず彼女に構い続けた人物なんて、一人しか現れなかった。

 

「春希。――雪だ。今年も多いな」

「うん」

「冷たい、な」 

  

 かずさが視線を上げ、降りてくる雪を捉える。それに春希も追従して二人で同じ空を見上げた。

 春希とかずさが一緒にいる時、常に雪が傍らにあるような、そんな錯覚を二人とも抱いていたから。

 初めて雪菜を裏切った時も、二人が別れる前日の夜も、そして身体を重ねた時も。

 常に雪が舞っていた。

 

「今頃母さん、演奏の真っ最中だろうな」

「そうだな」 

 

 春希は時計で時刻を確認して――そこで彼はかずさが今ここにいることの矛盾に気づいてしまった。

 先程の彼女の言葉が真実であるなら、二人がこの場所で再会するはずがないのだと。

 

「って、ちょっと待てかずさ。お前さっき曜子さんのコンサート聴きに来たって言ったよな? ならどうしてこんなところにいるんだ?」

「……? 何か問題あるか?」

「大ありだろ。もうコンサート始まっちゃてるぞ」

「別にいいだろ。母さんの演奏なんていつだって聴けるんだし」

「いや、それ滅茶苦茶矛盾してるから」

 

 今のかずさの態度を見ると、まるでコンサートを聴きに来たというのが建前で、本音が別にあるみたいに聞こえてしまう。

 彼女が日本を訪れる理由が他に思いつかない春希は、そのことで軽い混乱状態に陥ってしまった。

 母親と喧嘩したとか、体調が悪いとか、交通事情で遅れてしまったとか、そういったことをまるで考慮せず、本当はかずさが自分に会いに来てくれたんじゃないかって、あり得ないくらい都合の良い妄想を抱いてしまうくらいに。

 

「もしかして道に迷ったのか? ほら、コンサートホールならすぐそこに――」

「知ってる。あたしはそこから出てきたんだ。第一ここまで来て迷うはずないだろ?」

 

 馬鹿だな春希は、とばかりにかずさが億劫そうに両腕を広げた。

 コンサートホールから出てきた――正確には春希が来ないのに耐え切れず彼女はそこから逃げてきたのだが、それを彼が推し量れるはずもない。

 

「で、出てきたって、なんで? お前さっき曜子さんの演奏を聴きにきたって言ったじゃないか?」

「だから母さんの演奏ならいつでも聴けるって――」

「そういうこと言ってんじゃないだろ」

「うるさいなぁ。そういうところ全然変わってないよな、お前。さっきだって遠目から見ても春希だってすぐ分かったくらいだし」

「……遠目から見たって? かずさ、お前もしかしてわざわざ俺のこと追いかけてきてくれたのか?」

「はぁ!? ち、違うっ! 別にお前を追いかけて来たわけじゃない。たまたま、進行方向が同じだっただけだ!」

「それ偶々って言うか? 走らないと追いつけないだろ?」

「走ってない! それにお前電話して立ち止まってたじゃないかっ。仮にあたしが春希を見つけたとしても走る必要なんて……」 

 

 開演のブザーが鳴るまでに彼が来てくれなかったら。

 そう考えただけでかずさの精神は散々に乱れ、消耗していった。結局その事実を見届ける勇気が沸いてこなくて、こうして会場の外まで逃げてきた訳だが。

 まさかそこで偶然彼の姿を見つけ、必死になって後を追うことになろうとは思いもしなかった。

 

「春希。よくそういう自分に都合の良い妄想に浸れるよな。第一あたしがお前を追いかける理由なんて何もないだろ?」

「ッ! そうかよっ。けど俺だったらお前を見つけたら絶対追いかけるのに」

「……え?」

「というか、実際追いかけたし。かずさ、お前さイブの夜には日本にいたろ? 具体的に言うと終電直後あたりの御宿にさ」

「なん、で……」

 

 問い返しの意味は、なんで知っているの? 

 ではなく、なんで追いかけてくれたの?

 

「遠目からだったけど、俺がお前を見間違えるとか、ない。旅行鞄持ってタクシー乗り場に並んでた。違うか?」

「う、うん。あの日は日本に到着したばかりで母さんのいるホテルに向かってたんだ。でも……」 

 

 再会とも呼べない邂逅。

 あの日見た彼女の姿を幻だと春希は必死に自分に言い聞かせていた。それが嘘なんだって分かっていたけど、あの時点ではそうする他に選択肢が無かった。

 でもこうして本人を前にした今、もう偽る必要性はない。

 

「ほら見ろ。俺は追いかけたぞ」 

「あ、あたしだって――」

「なんだよ?」

「あ……ぅ……」

「けどさ、さっきお前は俺が変わってないって言ったけど、お前は変わったよな」

「……え?」

「三年前より、ずっと綺麗になった」

「っッ!?」

 

 綺麗になった。そう春希に褒められたかずさは身体を奮わせながらきゅっと目を閉じた。

 まるでずっと待っていた飼い主に、優しく頭を撫でられた子犬のような仕草で。

 

「昔だって綺麗だったけど、あれ以上があるなんて想像すらしてなかったけど、今のお前を見て正直震えた」

「おまえ、な……」

 

 三年前で完成されていたと思っていた冬馬かずさの美貌は、時を経た分上乗せされて更にレベルがあがっていた。

 少なくともずっと彼女を見つめ続けていた春希がそう断言するくらい、美しくなっている。

 春希はそのことが素直に嬉しくて、同時に少し悲しくなった。

 かずさが“誰かの為”に女を磨いたんじゃないかって。こんな綺麗な女性を他の男が放っておくはずがないって思ったから。

 

「春希ぃ。お前、あたしを苛めて楽しいのかよ……」

「別に苛めてなんてないだろ。俺は率直に思ったことを口にしただけだ」

「からかうなっ。あたしが綺麗だなんて、冗談に決まってる」

 

 春希から視線を外し、地面を見つめるかずさの頬が紅く染まっているのは寒いからじゃない。

 だけどくるりと背中を向けられてしまえば、それを春希が確認する術は無く、純粋に拒絶されたように感じるだけで。

 

「……ごめん。からかった訳じゃないけど悪かった。だから機嫌直せって」

「謝るなよ、馬鹿……」 

 

 背中を向けたまま呟かれた彼女の言葉は、小さすぎて彼には届かなかった。

 だから彼は今までの話題を変えてかずさの機嫌を取ろうとした。

 折角こうして会えたのに、このままさよならなんて絶対嫌だったから。彼女が春希に幻滅して帰るなんて言い出さない内に多少強引にでも次の話題に持っていこうとしたのだ。

 

「そうだ。なあかずさ。今ちょっと時間あるか?」

「時間?」

「予定って言うか、もし本当に曜子さんのコンサート行かないんだったら、ちょっとだけ一緒に歩かないか?」

「えっと、それってあたしと話をしようってこと?」

「うん。駄目か?」

「駄目じゃない。けど……」

 

 話題に食いついて春希に向き直ってくれたものの、かずさの態度が煮え切らない。

 やっぱりコンサートに行きたいのか? そう春希は思ったが、彼女を悩ませていたのは別の原因だった。

 

「さっきの電話、いいのかよ……?」

「電話って……ああ、アレか」

 

 春希が綺麗になったかずさを見て嫉妬していたように、かずさも春希が電話していた相手に嫉妬していた。

 大晦日に電話する相手。それは女の子なんじゃないかって。 

 

「実は武也がさ、飲みに行こうって誘ってくれたんだけど、大晦日だし何処も予約で一杯で入れそうにないからって流れたところ。そんだけだから」

「ほんとう?」

「なんだよ、信じてくれないのか?」 

「そういうわけじゃないけど……」

 

 嘘は言っていない。

 だから春希は殊更深く説明しようとはしなかった。

  

「今から行こうとか思わないのか?」 

「だから店一杯だって」

「そっか。部長かぁ。ちょっと懐かしいな。けどまだ続いてるんだな、春希と部長」

「腐れ縁だけど、な。変わんないよ、あいつも。本命がいるのに別の女の子にちょっかい出してばっかりで。遠回りしてる」

「ふぅん。部長も水沢も“まだ”なんだな」

 

 武也のことを部長と呼んだのはかずさだけだった。その懐かしい響きが少しだけ二人を三年前に経ち帰らせる。

 まだ何の罪も犯していなかったあの頃に。

 

「だからさ、俺いま暇なんだよ。――曜子さんのコンサートが終わるまででもいい。かずさ、少しだけ俺に付き合ってくれないか?」

 

 そういう雰囲気に絆されたわけじゃないだろうが、かずさは春希の申し出に対して素直にコクンと頷いていた。

 

 

 

 

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