「……動くんじゃねぇぞ。そうだ、そのまま」
目の前で談笑を繰り広げる獲物に小さく呟いた。口角が釣りあがるのがはっきりと分かる。視界に広がる十字のラインが獲物に触れては離れ、それを幾度か繰り返していた。僅かな呼吸と寒さによる震えが照準を鈍らせていた。
うつ伏せに寝そべっているせいで身体の前面は酷く冷たい。いい加減に仕事を引き上げたい衝動に駆られるが、"狩り"のチャンスは今日を逃して他には無い。
覗くスコープの向こうでは見た目、三十代ぐらいの男と若い女――十代か二十代前半の女が仲睦まじく営みを繰り広げていた。
「……全く、オレとは偉く温度差が違うな。畜生め」
思わず舌打ちが漏れた。
こっちは凍えるような寒さの中で仕事中だというのに、奴らときたら熱々な様子で笑っていやがる。やってらんねーっての。などと、心中で悪態を漏らしながらスコープを覗いていると、不意に耳元でノイズ交じりの声が響いた。
『"
電波状況が悪いせいか聞き取りづらいが、発音が可笑しい日本語を話す男の知り合いは一人しか思い当たらなかった。
スコープから目を離さないように頬で、肩に乗せたインカムの通話ボタンを押す。
『イージオか……どうした、飯の知らせか?』
『Yes! やっこさん狼の前に尻尾を置いて行きやがったゼ』
イヤホンから聞こえるイージオの声は大きく、半ば自棄になっているように聞こえた。確かにやってられない気分だ。一ヶ月掛けて来た仕事の末に、失敗するなんざ報われない。主にオレが報われねぇ。
『まさか義に熱いヴィーゾの奴が息子を切り捨てるとハな……クライアントもそこまでは読めなかったらしいナ』
『まぁ……上の人間としては"出来る"方なんだろうな、ヴィーゾって奴は』
『アア、だが人としては最低だナ』
『ククッ……オレ達が言えたことじゃねぇけどな』
『全くだ』
スコープの中に意識を戻せばヴィーゾに見捨てられた哀れな男が愉しそうに笑っていた。自分の置かれた状況を正しく理解せず、知らされもせずに売られた事にも気が付かない。本当に報われないのはこいつかも知れないな。
だが、しかし――仕事は仕事だ。生まれ直してからの半生でイヤと言うほど学んだ。
『じゃあ、約束は約束だ。撃ち損じるなヨ? まぁ、"Angel Girl"なら在り得ない話だと思うけどナ』
イージオが低い声で言う。こいつがこんな声を出す時はマジな時だけだ。つまるところはクライアントからGOサインが降りたって訳だ。
『当たり前だっての。っーかそのこっ恥ずかしい呼び方をいい加減やめろ』
『断る。お前の名前ナ、発音しニクいんだ』
ブツリ、と音が途切れた。どうやらイージオの奴がラインを切った様だ。いつもながら中途半端な男だ。まともに切りのいい所まで会話をした例がない。
「……まぁ、いいけどさ」
照準を哀れな男に合わせる。息を止め意識を集中させる。視界内の十字はゆっくりと男の米神辺りへと定まっていく。
息を極限まで小さく抑えたせいで、体中が火照り上がり物凄く熱い。照準が定まった男の姿を見るだけで体中の毛穴が開いて行くのが分かる。既にオレにはスコープの中に住む、この哀れな男しか見ることが出来ないでいた。遠い昔の記憶ではあるが、この感情が恋であるとオレは知っている。それも、初恋。叶う事の無いはかない恋だ。
夜の空気で凍てついた引き金に人差し指を乗せる。ひんやりとした指触りが全身に沁みた。熱と冷気が混ざり合って温度の境界が分からなくなっていく。
思いを告げたい一心で指に力を込めたくなってしまったが、まだ時ではない。視界の中の男には女がその身を寄せている。あくまで獲物は男一人。それ以外は眼中に入れてはならない――それがオレのポリシーでもあった。
女が男に軽く口付けをした。小さく口を動かしているが、愛の言葉でも囁いているのだろう。自然に手に力がこもった。愛した男を奪われる女の気持ちって言うのはこう言う物なのだろうか。もうすぐだ。もうすぐでお前と遭える。
女がその身を離した。男は名残惜しそうに手を彼女に伸ばした。だが、残念ながらお前はオレのモノだ。引鉄に置いた指をゆっくりと引き絞る。キリキリと鉄が擦れる音が耳の奥まで染みこむ様に伝播される。自然と息が止まり、視界が透き通っていく。
あと少しで、引鉄はその稼動域を失う。
3――
2――
――1
何時もの相棒とは違う、タンッ、と乾いた音が響いた。夜の街では決して目立たない其れは音を置き去りにして男の耳を鼓膜ごと刺し貫いた。視界の中で女が酷く取り乱しているのが見える。男は真っ白なシーツに倒れ、赤い世界地図を描いていた。ご丁寧に立体で島ままで描いてくれていた。
海が潮を引いていくように、先ほどからオレを支配していた熱病のような感情は跡形も無く消え失せていた。これで幾度目にもなる"初恋"が終わりを告げたのだ。
インカムの電源を再度入れ、イージオに連絡をする。
『……つつがなく終わったぞ。車を回してくれ』
『oh……さすがだぜ。待ってナ、すぐソッチニ回すからよ』
『早くしろよ、鼻水で氷柱が出来そうだ』
『"
『潰すぞ』
いつも通りイージオと無駄口を叩きながら、男が居た部屋に視線を送る。裸眼で見ている今はもう、小さい点でしかない。だが、確かにそこには男が倒れているのが見えていた。
「ようこそ。"
呟いた言葉は、男に届いただろうか。其れはオレにも分からなかった。
prologue――end