推定年齢二十歳の青年は西木野病院の芝生の上で大の字になって空を仰いでいた。
その日は雲一つない空で、十月初旬の柔らかい日差しが降り注いでいた。吹く風は木々の木の葉を揺らして、金木犀の甘い香りを運んで青年の鼻をくすぐった。
青年は甘い味がするのではないだろうかと期待して風を舐めてみた。しかし味はしなかった。
それでも記憶を失くした青年としては、目で見たモノ、耳で聞いたモノ、何もかもが初めて経験したことのように新鮮だった。こんな新鮮な経験や刺激を得られるなら毎日記憶喪失になってもいいと思う。いいや、むしろそうなりたい。どうしたら毎日記憶喪失になれるのだろうか。そんなことを頭の中で考えていると自分の名前を呼ぶ声がした。
上半身を起こして後ろを振り向くと紫色の服の上から白衣を纏った女性がパンプスのヒールをコツコツとならしながら歩いてくる。青年は笑顔で挨拶した。
「おはようございます、西木野先生」
「おはよう。聞いたわよ、随分元気になったそうじゃない」
言いながら西木野女医は優しい眼差しを青年に向けた。
「はい、おかげさまで」
青年が今いるのは病院の中庭だった。昨日は屋上で洗濯物の白いシーツが乾くのをベンチに座って一日中眺めていたし、一昨日は待合室で知らないお爺さんとずっと話し込んでいた。明日は病室の窓外に広がるトマト畑に行ってみようと思っている。
「驚くべき立ち直りの早さね。普通記憶をなくした人間はもっと思い悩むものなのよ。空っぽな自分自身をどう扱っていいのかわからずにね」
青年はおもむろに空を見上げた。
「あんまりにも天気が良かったから……朝目が覚めたら空が凄く綺麗で、何だか嬉しくなっちゃって」
西木野女医もつられて空を見上げた。澄み切った秋の空が美しい。
青年の言葉は他の人間が聞けば理解しにくいと感じるだろうが、西木野女医はそうは思わなかった。むしろ空の美しさを味方にできる青年の感性を頼もしく思った。
「ところで」
青年の隣に腰を下ろして西木野女医が訊ねる。
「前に話した件なんだけど、気持ちは固まった?」
「先生の家で暮らす、って話しですよね?」
私の家で居候しないかと、青年は西木野女医から提案されていたのだ。病院の外で生活することで何か思い出すことがあるかもしれないからと。
西木野女医は強要せずに穏やかな口調で告げる。
「我が家に来ない? 娘が一人いるけど何も遠慮することはないわ。夫も賛成しているし。それに前まで家にいた家政婦さんが辞めてしまってね、貴方が家のことをやってくれると私としても助かるの」
青年は西木野女医に温かいものを感じていた。きっとこの人が住んでいる家も同じくらい温かいのだろう。この前病室のベッドでそんなことを考えていたら看護婦から、何かいいことでもあったんですか? と聞かれたのを思い出す。
とても幸せそうな顔をしていたらしい。だから返事は決まっていた。
「お世話になります」
言って頭を下げた。
西木野女医は嬉しそうに頷いて青年の手を取り握手を交わした。
「それでね、君の名前なんだけど……」
「俺の名前……賀上昇一、ですか?」
賀上昇一。
ある日青年は西木野女医にそう名付けられた。病院内で便宜的に使うということだった。
西木野女医は、病院を出てもその名前を使い続けるかどうか訊ねてくる。
「俺、もう『昇一』って呼ばれるのに慣れちゃいました」
便宜的にとは言え名前を貰ったとき、青年はさっそく自分のマグカップに『賀上昇一』とマジックで書いてじっくりと眺めてみた。満更でもないと思った。とくに『昇』の字はどこまでも高いところへ行ける気がしていい感じがした。青年から今の名前を気に入っていることを聞かされて西木野女医は安堵した。
「そう、なら少し早いけど退院祝いよ。何でも好きな物を奢ってあげる。お寿司? 焼肉?言ってみて」
「う~~~~ん……」
暫く考えてから青年ははにかんで答えた。
「すいません、俺、好物も忘れちゃったみたいなんで、全部いただきます」
いかがだったでしょうか。